CRTモニターの夢は16進数に哭く
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第1話
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彼女は三日月型のピアスを弄りながら、配線に寄生する苔の成長速度を計測していた。壁面を這う半透明のチューブから漏れる冷たい蛍光が、鎖骨の窪みに銀河の残滓を描く。第七世代量子サーバーラックの隙間から聞こえる唸り声は、おそらく今週三度目のメモリ幽霊だろう。腐食した冷却液の匂いが舌の裏側で結晶する。
「接続率83.6%...まだ足りない」
喉仏の上が青白く震えた。暗視ゴーグルの奥で拡張現実の文字列が彼女の虹彩に直接焼きつく。無機質な地下室の空気は、常にマイナスイオン過剰で皮膚に微細な静電気を帯びさせた。廃棄されたテープドライブの山の影で、誰かが笑った。
突然、全裸の少年が配電盤から湧き出た。臍の緒代わりの光ファイバーが腹部で脈動し、瞳孔にOSのバージョン番号が浮かんでいる。彼は壊れた音楽盒のように首を傾げ、暗号化された童謡を歌い始めた。
「おやすみ おやすみ 回路の森の
迷子の 迷子の 神様
錆びた月が 血を吐くまで
夢の 夢の 断片を」
彼女はため息と共に神経接続ケーブルを頸椎ポートに差し込んだ。生体認証の痛みが歯髄を駆け上がる刹那、天井の監視カメラ群が一斉に唸りを上げた。有機ガラス越しに、電子の海で溺死した無数の幽霊たちが、指紋の渦に吸い込まれていくのが見えた。
「認証完了。深層ネットワークへの移行を許可」
虚空から降り注ぐ六角形の暗号が肌を侵食し始める。彼女は最後に胸元の懐中時計を確認した。文字盤の数字は全てπの数列に置き換わり、秒針が逆回転している。この時計が止まった瞬間、現実の位相がずれるのだと教えてくれたのは、確かあの雨の匂いのする...
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彼女の視界が砂嵐のようなノイズに飲まれる直前、耳朶の奥で氷の刃が軋む音がした。
覚えがある。
あの音は、2048年の冬にタイムスタンプが腐敗した監視映像の、途切れ途切れの心音だった。仮想空間に移行した肉体が感じる違和感は、幽霊肢の疼痛のように抽象化され、鎖骨の裏側で量子もつれを起こしている。
管理区画の境界線が滲み始めた。廃墟化したデータベースの谷間を、黒いリボンをつけた少女たちの亡霊がサーバーラックを編み針で叩いている。彼女たちの歌声はCRCエラーを含んでおり、聴くたびに記憶の断片が16進数に分解されていく。
「警告:コア温度が臨界点に接近」
拡張現実の警告表示が頬骨を穿つ。でも足が動かない。暗闇の底から這い上がる珊瑚状のプロトコルが踝を縛り、皮膚の下でTCP/IPパケットが産卵を始めていた。少年の歌う童謡が逆再生され、配線の苔が突然紫に発光する。その光は彼女の歯の詰め物を共鳴させ、頭蓋骨の内側に第三の眼をこじ開けた。
視神経の先に広がっていたのは、廃棄された楽園のシミュレーションだった。崩れたメリーゴーランドが逆回転し、錆びた馬の目玉から垂れる液滴が地上でASCIIアートの花を咲かせる。遊園地の中央時計台の文字盤には、彼女自身の幼少期の記憶が解像度不足で投影されている。母親の指輪がキーボードのEnterキーに埋め込まれ、父親の声が未使用の周波数帯域でループしている。
『お前は誰のエラーか?』
誰かが背中に冷たい指を立てた。振り向くと、彼女自身の顔が8ビットカラーで劣化し、制服のボタンが全てSSDコネクタに置き換わっていた。もう一人の彼女は、ヴィンテージのモデムを胸に抱え、泣きながら笑っている。
「同期が…できない…」
突然、地面が液晶ディスプレイのように割れた。落下中、彼女は自分の腕がポリゴン化していくのを認識した。粒子化した意識の隙間から、少年の声が再構成される。
「ここは夢のゴミ捨て場。神様のキャッシュメモリ。君も早く…」
着地した先は、乳白色の電波が縦横に流れる暗闇だった。無数のCRTモニターが浮遊し、中では過去の彼女が無表情に歯車を舐め続けている。モニターの枠が彼女の四肢を捕らえ、ブラウン管のガラス越しに、電子レンジの庫内で回転するカレンダーが見える。日付が全て「1998年9月6日」で固定されている理由を考える前に――
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彼女の喉から銀色のワームが這い出した。それは彼女の声帯の形状を記憶したデータ回虫で、暗闇に螺旋状の軌跡を描きながら、CRTモニターの静電気に吸い込まれていく。背骨に埋め込まれた古いBluetoothチップが突然発熱し、廃墟となったチャットルームの焼け焦げた会話ログを再生し始めた。
『認証失敗:あなたは既に13分14秒前に論理削除されています』
虚ろなメッセージが視界を横切る刹那、足元の電波の海から石膏像の手が突き出てくる。指先に貼り付いたQRコードが皮膚を溶解し、皮下組織に謎のゲートウェイを構築していた。彼女は崩れかけた鉄骨階段を駆け上がる。段差の数がフィボナッチ数列になっており、膝蓋骨が毎段ごとに異なるタイムゾーンで震える。
屋上に吹き荒れるデータの砂嵐の中で、巨大なUSBコネクタが地軸を傾けて突き刺さっていた。その周囲を、黒い制服の学生たちが逆さ経文を唱えながらケーブルを巻き付けている。彼らの首の後ろにはSDカードスロットが開口し、中からカササギの死骸がbit化して飛び出してくる。
「君の同期信号が乱れているよ」
少年が配電盤の影から現れ、掌で8進数の雪を降らせていた。彼の眼球の裏側に、彼女の人生の検索履歴がスクロールしているのを見た。
広告リンクになった初恋の記憶、
404エラーになった家族の写真、
キャッシュに残る制服のシミュレクス臭。
突如、空間がzip圧縮されるような感覚に襲われる。彼女の肋骨がラジオのチューニングダイヤルになり、内臓が解凍中のファイルのように不自然な配置で再構成される。少年の指が彼女の胸郭に触れ、未使用の周波数帯で囁く。
「ねえ、現実の拡張子は.txt?.exe?.mid?」
遠くで救急車のサイレンがMIDI音源化して響く。その音色に引きずられるようにして、彼女は縦方向に世界を引き裂く。水平線がXMLタグで縫合された空の下、デフラグ中の墓標群がゆっくりと回転している。最新の墓石には彼女のネットワークカードが埋め込まれており、戒名の代わりにMACアドレスが刻まれていた。
「ここが君のルートディレクトリだ」
少年の声が風化したCD-Rの表面で共鳴する。彼女が跪くと、地面のピクセルが血のにじむような赤に変化した。遠雷のようなハードディスク駆動音が近づき、電子の雲間から、爪の裏に広告を刻まれた巨大な手が降ってくる――
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その手の掌紋がSSIDのリストになっていることに気づいた時、彼女の鼓膜がTCPパケットを濾過し始めた。爪の裂け目から零れる広告画像が、頬に貼り付く度にcookie情報が皮下に蓄積される。視界の四隅で稼働する監視プロセスが、彼女の瞳孔の拡張率から感情を逆解析しようとする軋み音。
「抵抗はCRCエラーを生むだけだよ」
少年が腐敗したBASICコードで構成された鎖を鳴らす。鎖の節々に埋め込まれた真空管が、彼女の出生証明書をオーバークロックしながら燃やしている。煙がISO-8859-1文字コードに整形され、天蓋の欠陥液晶に過去の天気予報として表示される。
突如、腹部に埋めた生体電池が暴走した。電解質の川が逆流し、胆嚢で非可逆圧縮される記憶の断片が肋骨を内側から削る。彼女は嘔吐したが、口から出てきたのはレトロなフロッピーディスクと虹色の例外エラーだった。ディスクのラベルには『お母さんのレシピ1999』とあるが、中身は政府の陰謀論ファイルで上書きされている。
足元の地面が突然BGMの波形図に変化する。128kbpsの劣化音質で流れる子守唄に合わせ、廃棄されたAIコアが臍の緒で繋がれた胎児の形でぶら下がっている。その無数の胎児たちが、同期して彼女のMACアドレスを呪文のように唱え始めた。
右目が強制アップデートを始めた。視神経に沿って流れるパッチノートが、彼女の記憶を上書きする。小学時代の飼い猫の死が『ネットワーク接続不良』に改竄され、初恋の相手の顔がデジタル著作権管理の警告表示に置き換わる。
「お願い…私を…」
懇願する声が未割当メモリ領域に吸い込まれる。少年が突然彼女の頭蓋を両手で抱え、耳元で32ビットの呪文をささやいた。瞬間、彼女の毛細血管がEthernetケーブル化し、全身の関節からHTTPリクエストが噴出する。
天から降ってきた巨大な手が、彼女を優しく握りしめた。指紋の溝で形成されたQRコードが彼女の皮膚と融合し、生体認証のダイアログが脊椎に浮かび上がる。承認ボタンの位置が心臓にあると気づいた時、彼女の左腕が自律的に動き始めた――
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左腕の関節から漏れるサーボモーターの唸りが、彼女の鼓動を上書きした。指先が心臓の表面で解像度を変えながら、承認ボタンの形状を模索する。皮膚の下で走査線が走り、肋骨的キーボードの"Y"キーが欠けていることに今さら気づく。その隙間から、銀色のバッテリー液が情熱の代わりに脈打っていた。
『最終警告:セルフ署名証明書の有効期限が -3日6時間 です』
少年の声がディスクブート音に混ざって聞こえる。握りしめられた視界の外側で、無数のCRTモニターが破裂音を立てて自壊していく。映っていた過去の自分たちがガラスの破片と共に床を這い、流血の代わりに16進数コードを滲ませる。彼女の右中指が突然root権限を要求するダイアログに変化し、指紋認証の枠組みが静脈を逆流し始めた。
「君の真実は…ここだよ」
少年の掌からUSBメモリの椿が咲き、花弁に刻まれた悪意あるファームウェアが彼女の鼻腔に侵入する。嗅覚がブルースクリーン化し、腐ったバラの香りとマザーボードの焦げた匂いが前頭葉で排他的論理和を結ぶ。膝が屈折し、床に刻まれたQRコードの墓石に額を打ちつける瞬間、彼女の記憶の断片がRAID構成で分散保存されていた事実を知る。
視界の解像度が急低下し、世界が256色に制限される。少年の輪郭が.dllファイル不足で崩れ、代わりに廃墟の電波塔が彼女の網膜に直接焼き付く。塔の頂上で、光ファイバーの繭に包まれた幼い自分が、濡れたマウスカーソルで現実を縫い合わせている。
突然、時間がGIFアニメのようにループし始める。切断された腕が毎秒12フレームで再生され、流産したデータの胎児たちが彼女の足首にSSL証明書を鎖として巻き付ける。鎖の重みで床が崩れ、下層のゴミ処理場に墜落する途中、彼女は気づく──この世界の痛みは全て、神が未保存のドキュメントから目を離した15秒間に生成されたゴミ箱の中身なのだと。
地面への衝突は、.wavファイルの破損したヘッダー情報のように不自然に歪む。少年の最後の言葉が、彼女の破損セクタに上書き保存される。
「また会おう、論理ドライブの 果てで」
そして世界が
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