第4話

その日は眠れなかった。切りつけた腕のじんじんとした痛みが暗闇の中、意識をはっきりさせる。

”俺は何を”

はっきり意識があるわりには頭の中の情報が完結しない。頭が、空虚な気持ちが、先ほどの溺楽を心に焼き付けるように強調される。精液のむせ返るほど濃密で雄雄しい匂いが立つ。久しぶりだがここまで濃淡が明瞭な状態の精子の香りは今までしたことない。ここの空間は全てが俺がやったことを仕方ないと受容する。精漿の匂いがどんどん濃くなる。俺はさっきのことが無かったことにしたいように放心状態から徐々に匂いのことが気になり、床に散った可哀想な子種を無視するようにティッシュで拭き取った。しかし、これはおそらく匂いが残るだろう。と思った俺は以前買った特別清掃員が業務につかう強力な消臭剤を散布した。切り傷の痛みがより酷になってきた。ようやく情報が完結してきた。罪悪感が蛇のごどく、身体を巻きつく。このままでは、飲み込まれるような感覚さえした。

”俺が…”

大きく道を外した。脳がそう言っている気がする。しかし、心が歓喜しているのを感じている。普通は相反する気持ちだが、今はこの二つの感情が溶け合う、水と油が。記憶とは残酷なものだ。遠い記憶はフェードアウトしていくものだが、直近の記憶はどのような状態でもはっきりと写るものだ。歓喜の理由はおそらく初めて、女の人に手をつないでもらったことだ。分かっている。こんな中学生みたいな感性はさっさと捨てた方がいいことは。だが、俺を生んですぐに俺を捨てた母親すらにも手をつないでもらったことがない。彼女とつないだ手は冬の寒い空気も相まって、より暖かさを感じた。非常にやわらかく、まるで絹を触るかのように艶やかだった。彼女は、優しかった。それだけでも俺に対して価値を見出してくれている。いや、違う彼女は誰でも優しいことは知っている。彼女が働いている姿を見ていると非常に慈悲深く、どこもまでも人に情を湧くようなことは分かる。そのような人が泣いた姿もこっちからすれば、非常に愛おしく思う。

”もし、彼女が俺のためにあの顔を涙で腫らしてくれたら…”

彼女が俺だけに見せる顔だ。いつの間にか先ほどの罪悪感も歓喜も忘れるほど、夢想を重ねた。

”そうだ、ここに連れ込めば”

そうここは、俺のやったことを全て承認してくれるところだ。彼女のあの顔はここにあったとしても、問題はない。寧ろ、もっと華がある。俺はこのいきようもないどす黒い願望を肯定してくれるこの部屋に、まるで、中学生がロックにハマりたてで好きなバンドのジャケットを貼ることだ。そして、神がくれた賜物と噛み締めることを決めた。

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夕暮れ時 @ayumi593

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