第12章 運命の影②

12.2 その後の生活と家族との時間

12.2.1 変化する日常と家族の支え

 抗がん剤治療が始まると、彩乃の体調は少しずつ変化していった。最初のうちは「なんとかなる」と思っていたが、治療を重ねるごとに倦怠感や吐き気が増し、日常のちょっとした動作さえも負担に感じるようになる。それでも、彩乃はできるだけ普段通りの生活を送ろうとした。

朝、智輝を起こし、朝食を準備する。迅が「俺がやるから」と声をかけても、「大丈夫」と笑ってみせる。だが、卵を割る手がわずかに震え、立ちくらみを感じることもあった。それでも、智輝の「ママ、今日も一緒に遊べる?」という無邪気な声に、彩乃は「もちろん」と答えずにはいられなかった。

智輝との時間は、彩乃にとって何よりの癒しだった。彼の小さな手が絵本のページをめくるたびに、彩乃はその瞬間が愛おしくてたまらなくなる。けれど、読み聞かせの途中で声がかすれたり、横にならずにはいられないほどの倦怠感に襲われることも増えていった。以前なら何時間でも遊び相手になれたのに、今はすぐに疲れてしまう。それが申し訳なくて、智輝が寂しそうな顔をすると、心の奥がチクリと痛んだ。

そんな彩乃の変化を、迅は敏感に感じ取っていた。彼はできるだけ家にいる時間を増やし、家事や育児を率先して担うようになった。今までは仕事が忙しいことを理由に、どうしても彩乃に頼りがちだった育児——お風呂に入れること、寝かしつけること、学校での話を聴くこと——すべてを、迅は自分の役割として受け止め始めていた。

それでも、智輝の「どうしてママはすぐに寝ちゃうの?」という言葉には、うまく答えられなかった。「ママ、病気なんでしょ?」と真っ直ぐな瞳で尋ねられたときも、「そうだよ。でも、ママは頑張ってるからね」としか言えなかった。どこまで伝えるべきか。どんなふうに向き合うべきか。迅は何度も悩んだ。

そんな中、咲希も頻繁に彩乃の家を訪れるようになった。姉の体調が日に日に変わっていくのを目の当たりにしながらも、咲希は気丈に振る舞った。「お姉ちゃん、ちょっと休んでて。ご飯作るから」とキッチンに立つたびに、「昔は私がやってもらってばかりだったのにね」と冗談めかして笑う。けれど、その笑顔の奥にある複雑な思いは、彩乃にも伝わっていた。

「私は大丈夫だよ」

そう言う彩乃の声は、どこか優しく、それでいてかすかに震えていた。


12.2.2 健康の変化と無理を重ねる彩乃

 治療が進むにつれ、彩乃の体力は明らかに落ちていった。朝起き上がるだけで全身が重く、少し歩くだけで息が切れる。家の中を移動するだけでも、ふとした瞬間にめまいや倦怠感が襲ってくる。それでも彩乃は「大丈夫」と言い張り、これまで通りの生活を続けようとした。

「無理しないで」

迅や咲希は口をそろえてそう言った。だが、彩乃は「できるうちにやっておきたいの」と譲らなかった。

「今を大切にしたい。」

その想いだけが、彩乃を突き動かしていた。智輝の成長を一日でも多く見届けたい。家族との時間を少しでも長く過ごしたい。その気持ちが強くなるほど、体の限界を無視することが増えていった。

ある日、智輝とリビングで遊んでいたときのことだった。

「ママ、これ見て!」

智輝がブロックで作ったロボットを嬉しそうに見せる。彩乃は「すごいね!」と笑いながら立ち上がろうとした——その瞬間、足元がぐらつき、視界が一気に揺らいだ。

「——っ」

膝が崩れ、床に座り込んでしまう。

「ママ?」

智輝の不安そうな声が耳に届く。必死で笑顔を作り、「ごめんね、大丈夫だから」と言ったものの、自分でもその言葉がどこまで本当なのか分からなかった。

その夜、迅が静かに言った。

「もっと自分の体を大事にしてくれ。」

その声には、抑えきれない不安と苛立ちがにじんでいた。

彩乃はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。

「でも、今を大切にしたいの。」

迅はそれ以上、強く言えなかった。無理をするなと説得したい気持ちと、彩乃の願いを否定できない思いがせめぎ合う。結局、彼にできることはただひとつだった。

——彩乃を、支えること。

それだけが、今の彼に許された役割だった。


12.3 真奈への告白

12.3.1 病気の告白と真奈の涙

 数ヶ月が過ぎたが、彩乃は未だ真奈に自分の病気のことを告げられずにいた。治療が続く日々の中、彩乃はどうしてもこの事実を伝えるべきだという思いが強くなっていった。しかし、病気の話をすることがどうしても怖く、心の中で何度も言い訳をしていた。今までずっと支えてきてくれた真奈に、こんなつらい現実を伝えるのが恐ろしかったのだ。

今日は、その思いを振り切ろうと決めた。いつも通りのカフェで、二人は向かい合わせに座っていた。普通の会話をしながら、彩乃は何度も心の中で言葉を整えた。しかし、言葉が口に出るのは思っていたよりもずっと難しかった。

「ねえ、真奈。実は、私、癌になったんだ。」

その瞬間、言葉が部屋の空気を変えた。真奈は一瞬、動きを止め、まるでその意味を理解するのに時間がかかっているかのように沈黙が流れた。顔色が急激に変わり、瞬間的に涙が溢れた。驚きと悲しみ、そして心の中で彩乃の強がりを理解した真奈の気持ちが交錯する。

「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」

真奈の声は震えていた。怒りと悲しみが入り混じったその言葉に、彩乃は何も言えなくなった。真奈の問いかけは、胸に重く響いた。今まで一緒に歩んできた中で、どうしてこの大事なことを隠していたのか、自分でもわからなかった。

彩乃は深く息を吸い、視線を真奈に向けた。心の中では、何度も何度もこの言葉を発しようと思った。でも、実際に口にするとなると、それがどれだけ恐ろしいことか、改めて感じてしまう。

「言葉にすると、本当に現実になる気がして怖かった。」彩乃はしばらく黙ってから、ゆっくりと話し始めた。「だから、ずっと言えなかった。でも、真奈には伝えないといけないって、ずっと思ってたんだ。」

真奈は、涙を拭いながらも、無言でただ彩乃の手を握った。その手に感じる温もりに、彩乃は少しだけ安心したが、それでも心の中で引き裂かれるような痛みを感じていた。


12.3.2 真奈の決意と支え

 真奈は涙を拭いながら、しばらく黙っていた。彩乃が告げた言葉が頭の中で繰り返し響いていた。病気という現実が、いくら考えても信じられなかった。けれど、目の前に座っている彩乃がそれを口にしたことで、ようやくその現実を受け入れなくてはならないことがわかった。

「これからどうするの?」真奈は少し震える声で尋ねた。彩乃は少し考えてから、静かに答えた。

「治療を続けながら、できるだけ普通に過ごしたい。」彩乃の言葉には、どこか強さが感じられたが、その裏に隠された不安もわずかに滲んでいた。真奈はしばらく黙って考え込み、そして顔を上げた。

「私、彩乃を支えるためにできることは何でもする。」真奈は力強く言った。その言葉に込められた決意と、今まで支え合ってきた絆が確かなものとして彩乃の胸に響いた。これまでの二人の時間が、一瞬で蘇ってきた。どんな困難も共に乗り越えてきたのだと、改めて感じた。

真奈の言葉に彩乃は心の中で安堵の気持ちが広がった。これで自分は一人じゃない、という安心感を覚えた。しかしその一方で、まだ少し胸に引っかかるものがあった。

「でも、これ以上、心配はかけたくない。」彩乃は小さくつぶやいた。真奈にできる限り負担をかけたくないという気持ちが、少しだけ強くなった。しかし、真奈の力強い言葉が心に響いて、彩乃はその気持ちを少しずつ受け入れていった。

「大丈夫だよ、私には彩乃がいるんだから。」真奈は笑顔を見せ、彩乃の手を握りしめた。その笑顔は、以前と変わらず温かく、今までの友情と絆を再確認させるものだった。

二人の間に、言葉にできない絆が再び深まる瞬間が訪れた。どんなに辛い現実でも、支え合うことができるという信頼が、ますます強くなった。


12.4 執筆活動の集大成

12.4.1 深まるテーマと創作意欲

 病気と向き合いながらも、彩乃は一歩一歩、ペンを走らせていた。彼女の心の中に広がるテーマは、どんなに時間が経っても色あせることのない、真奈との深い絆だった。二人が共に過ごしてきた日々や、それぞれの人生の転機で支え合った瞬間が鮮明に浮かび上がり、それらが作品の基盤となった。

「私の経験をどう表現するか?」という問いを胸に、彩乃は一字一句に慎重に思いを込めていった。どんな言葉が誰かの心に届くのか、それを考えるたびに胸が締め付けられ、手が震えることもあった。しかし、その震えを抱えながらも、彼女は一つひとつの言葉を大切に紡ぎ出していった。

特に真奈との絆を描く部分は、彼女の中で一番強い感情がこもっていた。真奈との出会い、そしてその後の深い関係が今の自分を作り上げている。そのことを心から感じる瞬間が何度もあり、その度にペンを止めては、自分自身の中に眠る感謝の気持ちを再確認していた。

「もし、この作品が誰かの心に残るのなら、それでいい」と、彩乃はしばしば思うようになった。それは、もはや大きな野望を抱くことよりも、どこか静かな安心感を求める気持ちに近かった。作品を通じて、誰かに自分の心が届き、何かを感じてもらえるのなら、それが彩乃にとっての最大の喜びであり、彼女が最後に残せるものだと信じていた。

その想いが強くなるにつれて、文字にすることが少しずつ苦しくなった。体調は日に日に悪化していくが、それでも彼女の中で創作への情熱は消えることなく、むしろますます強くなった。これが彼女がこの先に遺せる唯一の足跡だと感じていたからだ。


12.4.2 病状と執筆の限界

 彩乃は日々、体調の悪化と戦いながらも、創作を続けようと必死だった。しかし、次第にその体力の限界を痛感するようになっていた。長時間座っていることすらつらくなり、集中力が途切れる瞬間が増えていく。文字を紡ぐ手が重く、心が思うように言葉を捉えられないことが増えた。

「もう少しだけ、書きたい」という強い思いは、彩乃の中で消えることがなかった。けれど、その思いに体がついてこない現実が、次第に彼女を苛んでいった。心は焦り、筆は進まなくなり、時間が経つごとに、彩乃はその無力感に包まれていった。

彼女は、まるで絵を描くように、一語一語にこだわりながら、少しずつでも物語を前に進めようと努めた。しかし、何度も書き直し、消してはまた書くという作業が続くうちに、その速度はどんどん遅くなり、満足できるページが埋まることはなかった。

「これが最後の作品だと思いたくない」と思いながらも、体は限界を迎えていた。病状が進行していくにつれ、体力の低下が目に見えて感じられ、無理をしてでも書き続けることが、次第に苦痛となっていった。それでも、彩乃はその筆を止めることができなかった。自分が抱える言葉を、どうしても誰かに伝えたかった。


12.4.3 最後の一歩と心の葛藤

 彩乃は、「最後に一つでも形にしよう」と心に誓った。病状が日々進行していく中、体調の限界が一層迫るのを感じていた。治療の副作用が彼女の心身を容赦なく蝕み、吐き気や倦怠感に悩まされる毎日。しかし、それでも彩乃は執筆を続けることを選んだ。長時間座っているのもつらい中、机に向かい、文字を打つ手が震えることもあったが、心の中では「何としても書き上げなければ」という思いが強く、手を止めることができなかった。

無力感や焦りが何度も押し寄せてきた。自分の体力がどんどん落ちていくのを感じながらも、何度も心の中で言い聞かせた。「これは、私が最後にできること」と。それが彩乃の唯一の支えだった。毎日のように弱気になりそうになる自分を励ますために、彼女はしばしば真奈との友情や家族との時間を思い出した。彼女たちとの思い出が心の中で力強い灯火となり、彩乃を支えた。

「私がこれまで大切にしてきたものが、ちゃんと形になるなら、それでいい」—その思いが徐々に強くなり、作品に込める想いがさらに深まった。最も大切なのは、ただ自分の心を表現することではなく、今まで支えてくれた真奈や家族への感謝を形にすることだと再認識する。そして、彩乃は心の葛藤を抱えながらも、最後の力を振り絞ってペンを進める決意を固めた。


12.5 二人の時間の密度

12.5.1 再会と思い出作り

 彩乃の体調は日に日に不安定になっていたが、彼女はそれでも前を向こうと必死だった。病気が進行していることを感じるたびに、心の中で深い不安がよぎった。それでも、真奈との時間を作り出すことが、彼女の支えの一つだった。限られた日々の中で、できるだけ大切な人たちと過ごし、過去の思い出を振り返ることで心を満たしたいと思っていた。

「今日は、あのカフェに行こうか?」

彩乃が穏やかな声で提案する。大学の近くにあった、二人のお気に入りのカフェだ。学生時代に何度も通った場所で、あの頃と変わらぬ温かい雰囲気が心地よかった。真奈はすぐに頷いた。

「いいね、久しぶりだね。」

カフェに向かう途中、二人は歩きながら、昔のことを懐かしんで話し始めた。卒業式の後、サプライズで行ったカフェのランチ、真奈が初めて試した苦いコーヒー、彩乃がその後「コーヒーの楽しみ方」を教えてくれたこと…。すべてが鮮やかな思い出となって、今もなお胸を温かくする。

カフェに到着すると、空気が静かで、心地よい香りが漂っていた。注文をしながら、二人は互いに微笑み合う。少しの間、言葉はなかったが、どこかお互いの存在を確認し合うような、穏やかな空気が流れた。

「これ、覚えてる?」

彩乃がカフェの窓から見える風景を指差す。そこには、昔一緒に座った席があった。真奈はその場所を見て、懐かしさとともに少し切ない気持ちが込み上げてきた。

「うん、覚えてるよ。あのとき、彩乃は何を考えてたんだろうね?」

「私? ただ、こんな時間がずっと続けばいいなと思ってた。」

彩乃は静かに答える。

「でも、こうしてまたここに来ることができて、よかった。」

その後、二人は他の思い出の場所を訪れることにした。大学近くの公園、よく歩いた並木道…。どこに行っても、あたたかい時間が流れていた。過去と現在が交差し、二人は自然に手を繋ぎながら、歩き続けた。

「ねえ、これからもずっと、こんな風に思い出を作っていけたらいいね。」

真奈がふと口にする。

「もちろん。できるだけ、一緒にいられる時間を大切にしよう。」

彩乃は穏やかに答え、やがてその視線は遠くの風景に向けられた。

二人はお互いに、限られた時間をどう生きるかを考えていた。未来への不安もあったが、それでも今一緒にいることが何よりも大切だと感じていた。思い出の場所で過ごすその一瞬一瞬が、どんなに貴重なものか、心から実感しながら。


12.5.2 「最後にやりたいことリスト」

 彩乃はある日、ふとした瞬間に言った。

「私、やりたいことがいっぱいあるんだ。限られた時間の中で、できるだけやりたいことを叶えていこうと思って。」

真奈は少し驚いたが、すぐに彩乃の言葉を真剣に受け止めた。

「どんなこと?」

彩乃は静かに微笑んだ。

「小さなこと、大きなこと。すぐにできることもあれば、時間がかかることもあるけど…。たとえば、ずっと行きたかった場所に行ったり、もう一度、あのカフェに行ったり、何かを作ったり…。そういうことが、私には大事なんだ。」

その日から、彩乃は「最後にやりたいことリスト」を作り始めた。リストには、些細なことから少し大胆な夢までが並んでいた。真奈はそのリストを見て、心から応援したい気持ちが湧き上がると同時に、どこか切ない気持ちも感じた。だけど、彩乃が望むなら、どんなことでも二人でやり遂げたいと思った。

最初の「やりたいこと」は、彩乃がずっと行きたかった美術館だった。小さなギャラリーのようなその場所は、彩乃が大学時代から憧れていたもので、長年温めていた場所でもあった。真奈と二人で、ゆっくりと時間をかけて絵を見て回り、何度も彩乃が「これ、素敵だね」とつぶやいた。小さな喜びが二人の間に広がり、彩乃の笑顔が真奈にとっては何よりの宝物のように感じられた。

次に実現したのは、彩乃が昔から食べたかったという、特別なレシピの料理を作ることだった。真奈と一緒に買い物に出かけ、材料を揃え、初めてのレシピに挑戦した。台所で笑いながら、何度も失敗しながらも、完成した料理を囲んで食べるその瞬間が、真奈には何よりも輝いて見えた。

「思ったより、上手にできたね!」

彩乃は嬉しそうに言った。

「うん、でももっと練習しないとね。」

真奈はそう言って笑うと、彩乃も満足げに頷いた。

そんな小さな出来事が続く中で、彩乃は徐々にそのリストの他の項目も実行に移していった。それぞれの「やりたいこと」を二人で一緒に叶えていく過程は、どれも意味があるものになった。そして、次第に彩乃は自分の「物語」を生ききる決意を固めていった。病気に立ち向かいながらも、目の前の瞬間を大切にして生きることが、彼女の生きる力となっていった。

一つ一つの実現が、彩乃にとってどれも大きな意味を持っていた。だが、それ以上に、真奈との時間を重ねることが何より大切だと感じていた。最後にやりたいことリストの項目は、彩乃にとって「生きる証」でもあり、真奈と共に過ごす時間こそが、その証を深く刻んでいくものだった。

「ねぇ、真奈。私、もう悔いはないよ。こうして過ごせる時間が、こんなに幸せだって思える。あなたと一緒に、私の物語を最後まで生きることができる。」

彩乃は静かに語り、真奈はその言葉を胸に刻んだ。

「私もだよ、彩乃。ずっとそばにいるから、ね。」

二人は再び手を握り合い、ゆっくりと過ごすその瞬間を心から大切にしていた。限られた時間をどう生きるかを、真奈は全身で感じていた。そして、彩乃の笑顔と共に、小さな喜びを胸に刻んでいった。


12.5.3 真奈の心情

 彩乃との時間が限られていることが、真奈の胸を締めつけていた。日々、彩乃の体調の変化に気を配りながら、彼女ができる限り快適に過ごせるように支えていこうとする。しかし、その一方で、彩乃が病気と闘っている現実が、心の中に重くのしかかっていた。

「もう少しだけ、一緒にいられる時間が欲しい。」

真奈はしばしば心の中で呟いていた。家庭や仕事、子供たちへの責任を感じつつも、彩乃との時間を最優先にしたいという気持ちが強くなる。毎日が過ぎていく中で、彼女との再会は真奈にとって何よりも大切なものになっていた。どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、彩乃と過ごすその時間だけは特別だった。

仕事では、真奈はいじめや不登校に悩むせ子供たちや保護者との関わりを大切にしながらも、彩乃に対する思いが心の中でいつも息づいていた。時折、あカウンセリングが終わると、無意識に彩乃との約束を思い出し、急いで帰ることを決めることもあった。その顔を見ただけで心が落ち着き、共に過ごすひとときがどれほど貴重なものかを再確認する。家庭では、颯真や子供たちとの時間を大切にしつつも、彩乃が一番の中心にいるように感じていた。

そして、彩乃との絆が深まっていくことを、真奈は心から誇りに思っていた。過去には何度もぶつかり合い、すれ違うこともあったが、今ではそれがどれも大切な思い出であり、二人を強く結びつける力になっていると感じるようになった。彩乃が笑った瞬間、真奈も心から笑い、その笑顔が何よりの力となっていた。

「こんな時間がずっと続けばいいのに。」

その願いが心の奥底にありながらも、真奈はその言葉を口にすることはなかった。彩乃のために、今できる限りの時間を支え、共に過ごしていきたかったから。限られた時間の中で、真奈は一つでも多くの思い出を作ろうと心に誓っていた。

「私たち、もっとたくさんの瞬間を一緒に重ねよう。」

真奈はその決意を強く持ちながら、彩乃との時間を一日一日、大切に過ごしていった。無理に明るくしようとするのではなく、ありのままの彩乃を受け入れ、共に笑い、共に泣き、共に思い出を作っていく。その一つ一つが、二人にとってかけがえのないものになっていった。

真奈は、今この瞬間が、未来のどこかで二人の絆をつなぐ大切な土台になることを感じていた。そして、その絆がどんなに深くても、彩乃との時間が限られていることを理解していた。だからこそ、真奈は一歩一歩、その残された時間を大切にし、彩乃のために、そして自分自身のためにも、精一杯の愛を注いでいく決意を固めていた。


12.5.4 三人で訪れる思い出の地

 彩乃の体調は日に日に変動していたが、それでも「最後にやりたいことリスト」を実行に移すため、少しずつ彩乃が望んでいたことを叶え始めた。中でも、「旅行に行くこと」という項目は、彼女が心から楽しみにしていたもののひとつだった。

咲希が観光旅行の企画に携わっていたおかげで、卒業旅行の行き先に再訪することが決まったのは、偶然ではなかった。卒業してから時間が経っても変わらず大切に思える場所。あのときの私たちが集まり、再び訪れることができるなんて、彩乃にとっては特別な意味があった。

温泉地に着いた瞬間、懐かしさが広がる風景に心が温かくなった。静かな町並み、そよ風、川のせせらぎ──すべてが昔の記憶を呼び覚ました。少しずつ体調が衰えている彩乃は、車を降りてから少し息を整えながらも、「わぁ、変わらないね」と言って笑顔を見せた。

「本当に、ずっとこうしていたかったな」と彩乃が小さくつぶやいた言葉を真奈は胸に刻みながら、彼女を支えて歩いた。

宿に到着し、温泉に入ることにした。露天風呂で彩乃が「ここ、最高だね」と目を輝かせ、真奈も微笑んだ。温泉の湯気が立ち込める中、彩乃はしばらく黙って湯に浸かっていた。顔を上げ、空を見上げると、春の初めの澄んだ空が広がっていた。「ここに来ることができて、よかった」と彩乃がしみじみと呟く。

「ねえ、真奈。この場所、また来れるといいね」

その言葉は、彩乃の心からの希望が込められていた。真奈は静かに頷き、その言葉を胸に深く刻んだ。

「うん、また来よう。絶対に」

真奈の声はしっかりとしていた。彼女は心の中で、彩乃との約束を固く誓っていた。

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