第12章 運命の影①

12.1 病気の発覚

12.1.1 体調の異変と病院での診断

 夜のリビングに、キーボードを叩く音が静かに響く。時計の針は深夜2時を回っていた。

 画面には、新作のプロット。幾度も書いては消し、納得できずにまた書き直す。思うように筆が進まないまま、時間だけが過ぎていく。

 彩乃はふと、手を止めた。額に触れると、じんわりと汗が滲んでいる。背筋に寒気が走り、身体が妙に重く感じられた。

(また……)

 最近、ずっとこうだ。頭痛、倦怠感、食欲不振——それでも、ただの疲れだと自分に言い聞かせてきた。仕事のこと、家族のこと、考えるべきことはいくらでもある。立ち止まるわけにはいかない。

 「……少し休もう」

 パソコンを閉じ、ソファに身を預ける。しかし、目を閉じた瞬間、強いめまいが襲ってきた。

 「っ……!」

 視界が揺れ、胃の奥からこみ上げるような吐き気に襲われる。彩乃は慌てて洗面所に駆け込んだ。

 翌朝、食卓には温かいトーストとスクランブルエッグが並んでいた。智輝が頬張る姿を眺めながら、彩乃はそっとコーヒーを口に運ぶ。しかし、一口飲んだ瞬間、苦味がいつもより強く感じられ、思わず顔をしかめた。

 「ママ、ごはん食べないの?」

 智輝が不思議そうに見上げる。

 「うん……ちょっと食欲なくて」

 そう答えると、迅が箸を置き、じっと彩乃を見つめた。

 「最近、顔色悪いぞ。大丈夫か?」

 「大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ」

 努めて明るく言うと、迅は微かに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。

 だが、その日の午後。智輝を迎えに行こうと玄関に向かったとき、突然、足元がふらついた。視界がぼやけ、立っていられなくなる。

 「……っ!」

 壁にもたれかかり、息を整えようとするが、胃の奥からこみ上げる吐き気が抑えられない。

 「……彩乃? 大丈夫か?」

 仕事から帰ってきたばかりの迅が、駆け寄る。彩乃はなんとか頷こうとしたが、そのまま膝をついた。

 「病院に行くぞ」

 迅の強い口調に、彩乃は抵抗する余裕もなく、ただ頷いた。

***

 検査の結果が出たのは、それから数日後だった。

 「……進行性の癌です」

 医師の言葉が、静かな診察室に響いた。

 瞬間、彩乃の耳鳴りが強くなった。

(癌……?)

 現実感がないまま、ぼんやりと医師の説明を聞き流す。

 「すでに転移が見られます。治療については——」

 言葉が頭の中を素通りしていく。

(まだやることがあるのに……)

 そう思った瞬間、彩乃の指先が小さく震えた。


12.1.2 家族への報告と動揺

 診察室を出た後も、迅は一言も発しなかった。足早に歩く彼の背中はどこか硬く、握りしめた拳が小さく震えているのがわかった。

 「……迅」

 彩乃が呼びかけると、彼は足を止め、ゆっくりと振り返った。

 「……進行性って、どういうことなんだ?」

 その声には明らかな動揺が滲んでいた。

 「早期発見じゃなかったのか? だって、そんなに前から具合が悪かったわけじゃ——」

 「まだ初期のはずよ」

 彩乃は努めて落ち着いた声で言った。

 「今なら治療もできるし、手を尽くせば——」

 「でも、転移してるって……」

 迅は言葉を詰まらせ、額に手を当てた。その仕草が、彼がどれほど混乱しているかを物語っていた。

 「大丈夫。私は大丈夫だから」

 そう言いながらも、彩乃は自分に言い聞かせるように何度も呟いた。

***

 夕飯の時間、智輝はいつもと変わらず元気だった。

 「ママ、今日はね、学校で百人一首やったんだよ!」

 「へえ、そうなの? どの句が好きだった?」

 「うーん……『ちはやぶる』のやつ!」

 智輝が嬉しそうに話すのを聞きながら、彩乃はその笑顔をじっと見つめた。

 (この子の未来を、ちゃんと見届けられるんだろうか……)

 ふと、胸が締めつけられるような感覚が襲う。

 ——智輝が成長していく姿を、どこまで見届けられるのか。

 ——入学式や卒業式、成人の日……その瞬間に、私はちゃんとそばにいられるのか。

 そんな考えが頭をよぎるたび、どうしようもない不安が押し寄せてくる。

 「ママ?」

 智輝の声で、彩乃ははっと我に返った。

 「ううん、なんでもない。百人一首、今度ママにも教えてね」

 そう言うと、智輝は嬉しそうに「うん!」と頷いた。

***

 夜、寝室で迅が静かに口を開いた。

 「……治療に専念しよう」

 真剣な声だった。

 「家のことと仕事のことは、俺がなんとかする。だから、彩乃は自分の体を——」

 「迅」

 遮るように、彩乃はゆっくりと言葉を選んだ。

 「私は私のやるべきことをする」

 「でも——」

 「仕事もあるし、まだやりたいことがあるの」

 迅は強く息を吐き、苦しげに目を伏せた。

 「……そんなこと言ってる場合じゃないだろ」

 「そんなことじゃないよ」

 彩乃は静かに微笑んだ。

 「私の人生は、まだ終わったわけじゃないんだから」

 その言葉は、自分自身への誓いのようでもあった。


12.1.3 彩乃の葛藤と決意

 深夜、家の中は静まり返っていた。

 智輝は眠りについている。隣の寝室では、迅の寝息が微かに聞こえた。

 彩乃はベッドの端に腰掛け、ぼんやりとスマホを握りしめていた。部屋の明かりは落としていたが、画面の青白い光が顔を照らしている。

 「まだ書きたいことがある」

 そう自分に言い聞かせる。

 これまでの人生を振り返ると、決して後悔ばかりではなかった。好きな仕事に就き、家族を持ち、数えきれないほどの物語を紡いできた。でも——

 (このまま、何もできずに終わるなんて、絶対に嫌だ)

 終わりを決めるのは自分じゃない。まだ時間はある。まだ書ける。

 けれど——

 彩乃はふと、検索バーに指を走らせた。

 「癌 進行」「転移 余命」「治療 効果」

 次々と出てくる記事。そこに書かれている現実は、想像以上に厳しいものだった。

 「……」

 スクロールする指が止まる。

 (……私は、あとどれくらい生きられるんだろう)

 画面の文字が滲んで見えた。今まで押し殺していた恐怖が、じわじわと心を蝕んでいく。

 それでも、最後に見つけた一文だけは、なぜか彩乃の胸に強く残った。

 ——「生き方を決めるのは、病気ではない」

***

 翌日、再び病院を訪れた。

 医師は穏やかな口調で、今後の治療方針について説明を始める。

 「抗がん剤を使う場合、副作用として倦怠感や吐き気、脱毛などが見られることがあります。また、集中力の低下も起こる可能性があるため——」

 そこで、彩乃は思わず息をのんだ。

 「……集中力の低下?」

 「はい。個人差はありますが、仕事をされている方の中には、長時間の作業が難しくなる方もいらっしゃいます」

 その言葉に、迷いが生じる。

 (もし、書けなくなったら……?)

 彩乃にとって、書くことは生きることだった。それができなくなるというのは——

 「……それでも、治療は必要なんですよね」

 「ええ。ただ、患者さんご自身の意向も大切です。治療と生活のバランスを考えながら、無理のない選択を——」

 「私は、最後まで書きます」

 医師の言葉を遮るように、彩乃ははっきりとそう告げた。

 「どんなに時間がかかっても、どんなに辛くても、私は書くことを諦めません」

 静かな部屋の中で、その決意だけが確かなものとして響いた。

***

 帰宅後、迅がすぐに声をかけてきた。

 「……治療は?」

 「始めることにしたよ」

 迅はホッとしたように息をついたが、すぐに真剣な表情に戻る。

 「でも、無理はするなよ」

 「うん」

 彩乃は笑ってみせた。

 「私にはまだ時間があるから」

 その言葉に、迅は何かを言いかけたが、結局何も言えなかった。

 その笑顔の奥にある覚悟と恐れに、彼は気づいていたから——。

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