第11章 それぞれの道の確立
11.1 真奈の新たな挑戦と彩乃の迷走
11.1.1 真奈の新たなプロジェクト
春の終わりを告げるように、木々の青葉が濃くなり始めた頃。真奈は校門を出て、ゆっくりと歩きながらスマートフォンの画面を眺めていた。
行政の担当者からの返信メールには、こう書かれている。
――「お話を伺いました。興味深い取り組みだと思います。一度、詳細をお聞かせいただけますか?」
真奈は立ち止まり、深呼吸をした。長い間温めてきた構想が、ようやく動き出そうとしている。
学校という枠組みの中でカウンセリングを行ってきたが、限界を感じる場面が増えてきた。学校に来られない子どもたちに、どう寄り添えばいいのか――。その答えの一つが、“学校の外に新しい居場所をつくること”だった。
NPOや地域の支援団体、行政と連携し、不登校やいじめで苦しむ子どもたちが安心して過ごせる空間を作る。スクールカウンセラーという立場を超えて、地域全体で子どもたちを支える仕組みを作る。それが、真奈の新たな挑戦だった。
「橘先生、お疲れさまです」
職員用の駐車場に向かう途中、同僚の教師が声をかけてきた。
「お疲れさまです」
軽く会釈しながら、真奈は頭の中を整理する。現場の教師たちとも連携しながら、どうすれば学校と地域の橋渡しができるかを考えなければならない。やるべきことは山積みだった。
家に帰ると、颯真がリビングで娘たちと遊んでいた。穂香が笑いながらブロックを積み上げ、結衣がそれをじっと見つめている。
「おかえり」
颯真が顔を上げた。
「ただいま」
真奈は笑顔を作ったが、心のどこかに仕事のことが残っているのを感じた。
夕食の後、子どもたちを寝かしつけた後で、颯真が何気なく言った。
「最近、ずっと忙しそうだな」
「まあね。色々と動き出したから」
「……家族の時間も、もっと大切にしていいんじゃないか?」
真奈はスプーンを置き、颯真の方を見た。
「それはわかってる。でも、今やらなきゃいけないことがあるの」
静かな沈黙が流れた。
真奈は、自分が目指しているものを理解してほしいと思う反面、家族との時間を犠牲にしてまでやるべきことなのか、迷いもあった。
「……ごめんね。でも、私はやっぱり、この仕事を続けていきたい」
颯真はゆっくりとうなずいた。
「うん。でも無理はするなよ」
その優しさが、逆に胸に刺さる。
新しい挑戦を始めたばかりの真奈は、仕事と家庭の間で揺れながらも、前に進むしかなかった。
11.1.2 彩乃の創作の迷走
夜のリビング。机の上には開いたノートパソコンと、書きかけのプロットが散らばっていた。
彩乃は画面を睨みながら、指をキーボードの上に置いたまま動かせずにいた。ファンタジー小説の新作。壮大な世界観、魅力的なキャラクター——頭の中にはぼんやりとしたイメージが浮かんでいるのに、言葉にしようとすると、何かが引っかかる。
「……ダメだな」
小さく息をつき、彩乃はノートパソコンを閉じた。
最近、思うように筆が進まない。これまで書いてきた作品と違い、新しいジャンルに挑戦しようとするほど、自分が何を描きたいのかわからなくなる。ファンタジーやミステリーなら、自由に物語を紡げると思ったのに、その「自由さ」に逆に縛られてしまっている。
そんな中、編集者との打ち合わせは、さらに彩乃を焦らせるものだった。
「率直に言いますね。今のこのプロットだと、正直、今の読者には響かないと思います」
編集者の言葉に、彩乃は眉をひそめた。
「……どういう意味?」
「設定は面白いです。でも、読者が求めてるのは、もっとテンポよくて感情移入しやすいものなんです。正直、彩乃さんの今までの作風とは違いすぎる。読者がついてこられるかどうか……」
「でも、私はただ売れるものを書きたいわけじゃないの」
思わず強めの口調になった。
編集者は少し困ったような表情を見せたが、やがて静かに言った。
「彩乃さんの気持ちはわかります。でも、読者は作家の変化に敏感ですよ。最近、彩乃さんの作品に対して、『以前の作品のほうが好きだった』っていう感想も増えてきてます」
その言葉が、胸に刺さる。
家に帰っても、思考の渦は止まらなかった。
「……最近、疲れてるんじゃないか?」
夕食の後、迅が声をかけてきた。
「そんなことないよ」
無意識にそう答えたが、自分でも無理をしているのはわかっていた。
すると、リビングで遊んでいた智輝が、何の気なしに言った。
「ママ、最近元気ないね」
何気ない言葉が、胸の奥にずしんと響く。
彩乃は、ぎゅっと息子を抱きしめた。
このままでいいのか?——自分の書くべきものは、本当にこれなのか?
迷いと焦りの中で、答えはまだ見えなかった。
11.2 仕事と家庭の狭間で
11.2.1 彩乃の焦燥
夜のリビングに、キーボードを叩く音が静かに響く。時計の針は深夜2時を回っていた。
画面には、書きかけの原稿。幾度も書いては消し、納得できずにまた書き直す。頭の中では完璧な情景が広がっているはずなのに、それを言葉にすることができない。まるで、心の奥にある何かが、自分の筆を止めているかのようだった。
「……ダメだ」
苛立ちと疲労が混ざり合い、彩乃はノートパソコンを閉じた。目元を指で押さえると、鈍い痛みが走る。
最近、ずっとこんな調子だ。夜遅くまで仕事をし、日中は息子の世話や家のことをこなす。迅はできる限りサポートしてくれるが、それでも書き続けなければという焦りが消えない。
「……ちょっと休もう」
そう思ってソファに身を預けた瞬間、視界がわずかに揺れた。
「あれ……?」
軽いめまい。頭の奥がズキズキと痛む。倦怠感が身体にまとわりつくように重い。それでも、彩乃は気にしないふりをして目を閉じた。
***
「……彩乃、最近寝るの遅すぎるんじゃないか?」
朝食の席で、迅が心配そうに言った。
「大丈夫。ちょっと仕事が立て込んでるだけ」
コーヒーを口に運ぶが、苦味がいつもより強く感じられる。
「でも、顔色よくないよ。一度病院に行ったら?」
「ううん、大丈夫。本当にちょっと疲れてるだけだから」
なるべく明るく言ったが、迅の表情は曇ったままだった。
その日の午後、咲希からも同じことを言われた。
「お姉ちゃん、ちょっと痩せたんじゃない? なんか無理してる感じがする」
「そんなことないよ」
「いや、あるでしょ。ちゃんとご飯食べてる? 睡眠とれてる?」
「……うるさいなあ、大丈夫だって」
少し強めに言うと、咲希は「もう……」と呆れたようにため息をついた。
(これくらい、みんな普通に乗り越えてることじゃないの?)
そう自分に言い聞かせながら、彩乃はまたパソコンの前に座る。
けれど、画面の文字が、かすかに滲んで見えた。
11.2.2 真奈の家庭の悩み
日曜日の午後。真奈はリビングのテーブルに書類を広げ、資料に目を通していた。学校外の居場所づくりに関する報告書、行政との打ち合わせ用のメモ、NPOからの協力依頼——すべてが大切な仕事だった。
「ママ、またお仕事?」
不意に、小さな声が聞こえた。顔を上げると、小学二年生の結衣が、少し寂しそうな顔で立っている。
「うん……ちょっとだけね」
申し訳ない気持ちを抱えながらも、笑顔を作る。
「でも、今日は公園に行くって約束したよね」
結衣の声には、小さな抗議の色が混じっていた。
「ごめんね。でも、ママも頑張ってるんだよ」
言い訳のような言葉が口をついて出る。
「私だって頑張ってるもん! 宿題もちゃんとやったのに……」
結衣はぷいっと顔を背け、妹の穂香のいるソファへと駆け寄った。
その後ろ姿を見送りながら、真奈は心の奥がじくじくと痛むのを感じた。
***
夜、寝室で本を読んでいた颯真が、ふと口を開いた。
「最近、結衣がちょっと寂しそうだって気づいてる?」
「……うん。でも、今は仕方ないでしょ。新しいプロジェクトが動き始めたばかりで、すごく大事な時期なの」
言いながら、自分でも苦しい言い訳だと思う。
「もちろん仕事が大事なのはわかるよ。でも、真奈……家族の時間も、もう少し大切にしてもいいんじゃないか?」
颯真の言葉は穏やかだったが、どこか芯のある響きを持っていた。
「……私だって、大切にしてるつもりだよ」
そう返しながら、真奈は自分の言葉に確信を持てなかった。
11.2.3 彩乃と真奈のすれ違い
「ごめん、今日どうしても無理になっちゃった……」
スマホの画面に並ぶ彩乃のメッセージを見つめ、真奈は小さく息をついた。
久しぶりに、子供たちを連れて会おうと約束していた日だった。結衣と穂香も楽しみにしていたし、真奈自身、彩乃とゆっくり話せる機会を待ち望んでいた。それなのに——。
「また?」
小さく呟くと、スマホを手に取った。
真奈:最近、全然会えてないね。
少し間が空いて、返事が来る。
彩乃:ごめん、もう少し落ち着いたら……
その言葉に、真奈はどこか既視感を覚えた。自分も、家族との時間を犠牲にして仕事に追われる日々を送っている。だからこそ、彩乃の言葉が他人事には思えなかった。
以前は、もっと気軽に会えていた。予定を合わせるのに苦労することもなく、思い立ったらすぐ連絡して、何時間でも語り合えた。それが今では、こんなにも難しくなっている。
「ママ、彩乃ちゃんも智輝くんも来ないの?」
結衣の声に、真奈はハッとする。
「……うん、ちょっと忙しいみたい」
「そっか」
結衣は少し寂しそうに言って、穂香と一緒に遊び始めた。
画面の向こうの彩乃も、きっと同じように寂しさを感じているはず——そう思いたかった。
11.3 再会と違和感
11.3.1 久しぶりの再会
カフェの扉をくぐると、窓際の席に座る彩乃の姿が目に入った。
「彩乃!」
声をかけると、彩乃は顔を上げ、少し驚いたように目を瞬かせてから、ゆるく微笑んだ。
「真奈、久しぶり」
そう言いながら立ち上がると、真奈はふと違和感を覚えた。
「……ちょっと痩せた?」
以前より頬のラインがシャープになり、手首もどこか華奢に見える。忙しいせいだろうか、それとも——。
「歳のせいかな、最近ちょっと食欲ないんだよね」
彩乃は軽く笑いながらそう言ったが、その笑顔がどこか力なく見えた。
「ちゃんと食べてる?」
「うん、大丈夫。ほら、今日はせっかくだし、ゆっくりしよう」
彩乃は話題を変えるように、メニューを手に取った。真奈は釈然としないまま、向かいの席に座った。
11.3.2 二人の会話
メニューを眺めながら、それぞれにコーヒーと軽食を頼んだ。注文を終えると、二人の間に少しの沈黙が流れる。
「最近、仕事はどう?」
真奈が口火を切ると、彩乃はコーヒーカップの縁をなぞりながら答えた。
「うーん、正直、ちょっと行き詰まってるかも。新しい挑戦をしようとしたけど、なかなかうまくいかなくて」
「そっか……。でも、彩乃のことだから、きっと何か掴めると思う」
「そうだといいけどね」
彩乃は小さく笑ったが、その笑顔はどこか自嘲気味だった。
一方の真奈も、仕事と家庭の間で揺れる日々を打ち明けた。子どもたちとの時間が十分に取れず、時折、罪悪感に苛まれること。颯真とのすれ違いが増えていること——。
「……なんかさ、お互い色々と大変だね」
「うん。でも、きっと乗り越えられるよ」
そう言いながらも、昔のような軽やかさはなかった。どこか遠くなってしまったような感覚が、ふたりの間に微かに横たわっていた。それでも、真奈はふと気になっていたことを口にした。
「彩乃、本当に無理してない?」
「大丈夫だよ」
彩乃は即答し、少しだけ目を細めた。
「……そっか。でも、無理しないでね」
真奈の言葉に、彩乃は一瞬だけ視線を落とした後、静かに微笑んだ。
11.3.3 それぞれの帰路
カフェを出ると、すっかり日が落ちていた。冬の冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。
「じゃあ、またね」
真奈が笑顔で手を振ると、彩乃も「うん、また」と小さく頷いた。
それぞれ反対方向へ歩き出しながら、ふたりとも同じように何かを考えていた。
——楽しかったはずなのに、何かが引っかかる。
彩乃はコートのポケットに手を入れながら、自分の歩みがどこか重いことに気づく。疲れが抜けない。食欲もないし、体が妙にだるい。でも、忙しさのせいだろうと、自分に言い聞かせた。
(もっと元気にならなきゃ。真奈にも、家族にも心配かけたくないし)
一方の真奈も、足を止めかける瞬間があった。彩乃の「大丈夫」は、本当に大丈夫なのだろうか——。
(……でも、本人がそう言うなら)
深く追及するのをためらう。彩乃のことは気になる。でも、今の自分には家庭も仕事もあって、すぐに会いに行く余裕はない。心のどこかで、「また今度話せばいい」と思ってしまう。
こうして二人は、それぞれの生活に戻っていった。
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