第10章 新しい道を歩むとき②

10.3 咲希の選択

10.3.1 フルタイム復帰と戸惑い

 朝のオフィスは、慌ただしい空気に包まれていた。電話のコール音、キーボードを打つ音、そして上司が部下に指示を飛ばす声。その中に混ざりながら、咲希はデスクの前に座っていた。

「咲希さん、おかえりなさい!いよいよ本格復帰ですね!」

 同僚の佐伯が笑顔で声をかけてくる。咲希も微笑みを返した。

「ありがとう。久しぶりのフルタイムだから、また感覚を取り戻さなきゃね。」

「咲希さんなら大丈夫ですよ。前みたいにバリバリ営業やっちゃってください!」

 佐伯の明るい言葉に、咲希は苦笑する。フルタイム復帰初日、事故前にも時短勤務で復帰してからも着ていたはずのスーツに袖を通した今日の自分を鏡で見たとき、少し前とは違う気がした。以前は何の違和感もなくこなしていた仕事が、今日はどこか重く感じる。

 営業職として外回りの仕事が中心だった咲希は、時短勤務の間は内勤業務がメインだった。しかし、今日からは再び取引先を回る日々が戻ってくる。スケジュールを見ると、朝から夕方までアポイントがびっしりと埋まっていた。

 昼過ぎ、商談を終えた咲希は、都内のオフィス街を歩いていた。ビルのガラスに映る自分の姿を見つめる。長時間の外回りは、思った以上に体にこたえた。事故の影響はほとんど回復したと思っていたが、以前のように軽やかには動けない。

「……はぁ。」

 ふと、ため息が漏れた。

 戻ってきたかった仕事なのに、心がついていかない。

 以前の職場は、もっと和やかで社員同士の助け合いも多かった。しかし、時短勤務の間に会社の方針が変わり、より成果主義が強くなった。上司の口癖は「結果を出せる人間が評価される」。数字を重視する営業の世界で、それは当然のことかもしれない。だが、咲希の中でその言葉が重く響いた。

「咲希さん、今月の目標、意識できてる?」

 帰社すると、チームリーダーの藤本が声をかけてきた。

「はい、意識しています。ただ、フルタイム復帰したばかりなので、まずはペースを掴もうと思って……」

「いやいや、復帰したばかりだからって甘えてちゃダメだよ。お客さんは待ってくれないんだからさ。」

 藤本の言葉に、咲希は言葉を飲み込んだ。

 ──本当に、このままでいいのだろうか?

 事故のあと、咲希は「自分の人生をもっと大切にしよう」と思ったはずだった。それなのに、いつの間にかまた、ただ流されるように日々を過ごしている気がする。

 自分は何のために働いているのか──。

 その答えを見つけるために、咲希は少しずつ、考え始めていた。


10.3.2 彩乃と真奈の変化に刺激を受ける

 疲れた体を引きずるようにして、咲希は姉の家のインターホンを押した。

「咲希? どうしたの、急に」

 ドアを開けた彩乃は、少し驚いたような顔をしたが、すぐに咲希を家の中へ招き入れた。

「ごめんね、突然。でも、ちょっと話したくて……」

「もちろん。ちょうどお茶を淹れたところだったし、座ってゆっくりしなよ。」

 リビングには、智輝の遊んだ形跡が残っていた。床に転がるカラフルな積み木を見ながら、咲希は少しだけ気持ちが和らぐのを感じた。

「仕事、大変?」

 彩乃がそう尋ねると、咲希は苦笑しながら頷いた。

「うん。フルタイムに戻ったんだけど、なんか……思ってたよりしんどい。前と同じ仕事のはずなのに、会社の雰囲気も変わってるし、自分の中でも何かが違ってて……。」

「事故のあと、価値観が変わったのかもね。」

 彩乃の言葉に、咲希ははっとした。

「……そうなのかな。でも、どうすればいいのかわからなくて。」

 彩乃は少し考え込むようにしてから、ゆっくりと口を開いた。

「ねえ、咲希は自分が本当にやりたいことを考えたことある?」

 咲希は、答えられなかった。

 考えたことがなかったわけではない。けれど、今の仕事に復帰することだけを目標にしてきたせいで、「その先」を考える余裕がなかったのかもしれない。

「……わかんない。そもそも、私にそんな大層なことできるのかな。」

「そんなこと言ったら、私だってそうだったよ。でもね、迅が指導の仕事を始めて、私ももっと書くことを頑張りたいって思えた。真奈も、新しい分野に挑戦してるみたいだし。」

「真奈さんも?」

「うん。最近、職場で新しいプロジェクトを任されるようになったんだって。もっと多くの人に心理支援が届くようにするための取り組みらしいよ。」

 咲希は、真奈の姿を思い浮かべた。

 大学時代からずっと、真奈は人を支える仕事を選んできた。その努力が実を結んで、今も成長し続けている。彩乃も、自分の道を前に進めようとしている。

 ──それに比べて、私は?

 事故を経験して、「生きること」について深く考えたはずだった。それなのに、気がつけばただ以前の生活に戻ることだけを考えていた。でも、本当にそれでよかったのだろうか?

 咲希は、自分の中に生まれつつある感情に気づき始めていた。

「……もっと、人の役に立つ仕事がしたいのかも。」

 ふと、自分の口からそんな言葉がこぼれた。

 彩乃が驚いたように咲希を見る。

「どういうこと?」

「旅行会社の仕事って、ただツアーを売るだけじゃなくて、旅を通して人の人生に何かを届けることだと思うの。事故に遭ったあと、私自身も『どこかに行きたい』『何かを感じたい』って思ったし……。もしかしたら、私が本当にやりたいのは、そういうことなのかもしれない。」

 言葉にしながら、咲希は自分の中で何かがはっきりとしていくのを感じた。

 ──もっと、旅行の持つ本当の価値を伝えたい。

 そんな思いが、ゆっくりと形を取り始めていた。


10.3.3 新しい道を模索する

 咲希は、コーヒーを片手にパソコンの画面を見つめていた。

 「旅行企画」「観光業界 キャリアチェンジ」「教育旅行」──検索窓に打ち込んだ単語が、次々と関連情報を引き出していく。

 ──これまでの営業職ではなく、違う形で旅行業界に関われる道があるかもしれない。

 そんな考えが、ここ数日間、頭の中を巡っていた。

 営業の仕事は嫌いではない。でも、ただツアーを売るのではなく、「旅行が持つ本当の価値を伝える仕事」をしたい。

 事故を経験し、いろいろなことを考えた。もしもあの時、人生が終わっていたとしたら──。

 生き延びたからこそ、自分が届けられるものがあるのではないか。

「旅行は、ただのレジャーじゃない。もっと、人の人生を変える力がある。」

 それが、最近強く思うようになったことだった。

 そんな話を彩乃にすると、姉は「いいじゃん、それ」と笑ってくれた。

「今の会社でそういう方向の仕事はできないの?」

「うーん……すぐには難しいかな。でも、教育旅行の企画をやってる部署があるし、異動願いを出すのはアリかも。」

「じゃあ、まずはそこに向けて動いてみれば?」

「うん。それに、他にもできることを探してみようと思ってる。副業的に企画の勉強をしたり、新しいプロジェクトに関わってみたり……。」

「咲希らしいね。」

「そうかな?」

「うん。考えすぎて動けなくなるより、まずはやってみる。いいことだと思うよ。」

 彩乃にそう言われて、咲希は少し気が楽になった。

 すぐに答えが出なくてもいい。今まで通りの働き方に違和感を覚えたなら、それを無視しないで、何かを変えてみればいい。

 ──まだ答えは出ていないけど、一歩踏み出してみよう。

 コーヒーを一口飲みながら、咲希は自分の中に芽生えた新しい決意を噛みしめた。


10.4 復帰の現実

10.4.1 期待と現実のギャップ

 久しぶりの朝のラッシュアワーは、想像以上に体にこたえた。ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られながら、真奈は無意識に左手でカバンのストラップを握りしめる。右手には、結衣と穂香の小さな手の感触がまだ残っているような気がした。

 「いってらっしゃい」

 今朝、結衣と穂香を保育園に預けたときの光景が、頭の中を何度もよぎる。結衣も穂香は無邪気に笑っていたけれど、復帰前の数日、真奈が少しずつ家を空ける時間を増やしていくと、穂香の夜泣きが増えた。きっと、母親がまた毎日家を出るようになることを、本能的に察しているのだろう。

 (でも、ちゃんとやれる)

 職場に着くころには、真奈の中で気持ちが切り替わっていた。復帰後に待っているのは、新しいプロジェクト。より多くの人に心理支援が届くような仕組みを作る、大規模な取り組みだ。産休前に上司と話したとき、復帰後はその中心メンバーとして関わる予定だと聞かされていた。仕事を続けるうえでのモチベーションにもなっていたし、自分のキャリアをさらに広げるチャンスでもある。

 ——だが、その期待は、会議室の扉を開けた瞬間に崩れた。

 「じゃあ、今回のプロジェクトの中心メンバーはこの三人で進めるとして……」

 ホワイトボードに名前を書き込む上司の手が止まり、真奈のほうを向いた。

 「橘さんは、そのサポートに回ってもらう形でいいかな?」

 一瞬、耳を疑った。

 「……サポート、ですか?」

 「うん。プロジェクトの運営自体は彼らが進めることになるから、島崎さんは補佐的な業務をお願いしたい。例えば、資料作成やクライアントとの調整とか。復帰したばかりだし、無理のない範囲でね」

 穏やかに言われたその言葉に、違和感がじわりと広がる。無理のない範囲で——それはつまり、「母親だから負担の少ない仕事を任せる」という意味なのではないか。

 「……以前、お話ししていた内容とは違うように思うのですが」

 勇気を出して口にすると、上司は少し困ったような表情を見せた。

 「もちろん、君の能力を評価していないわけじゃない。ただ、今はチーム全体のバランスを考えたうえで、最適な形をとる必要があるんだよ」

 その「最適な形」に、自分が含まれていないのだということを、真奈は理解した。

 会議が終わり、席に戻ると、同僚の何人かが「久しぶりだね」と笑顔を向けてくれた。その気遣い自体は嬉しい。けれど、どこか腫れ物に触るような雰囲気があるのも確かだった。

 (本当に、ただの配慮なの?)

 復帰前は、もっと手応えのある仕事をするつもりだった。母親になったからといって、能力が下がったわけではない。それなのに、何かを「察する」べきなのだろうか。

 昼休み、デスクに置いたスマホの画面をぼんやりと見つめる。颯真とのメッセージのやりとりが未読のままだ。

 「このままでいいのかな……」

 小さく呟いた声は、誰にも届かないまま、オフィスの喧騒に消えていった。


10.4.2「母だから」という壁

 職場での扱いに悩んでいる真奈は、昼休みにスマホを手に取り、颯真と彩乃に連絡を送った。

 「今日は少しだけ愚痴を聞いてほしい」

 数分後、颯真からの返信が届く。

 「もちろん、何かあったの?」

 そのメッセージに、真奈は少しホッとした気持ちになる。颯真には、どんな時でも自分の気持ちを素直に伝えられる。

 すぐに電話をかけると、颯真の柔らかな声が電話越しに聞こえた。

 「どうしたの? 仕事が大変?」

 「うん、なんか、思ってたのと違ってて……」

 真奈は、自分が抱えている不安と違和感を、颯真に言葉にして伝える。職場での自分の立ち位置が変わり、どうしても「母親だから」という理由で制限されているように感じてしまうのだ。復帰後はもっと活躍できると思っていたのに、結局はサポート役に回されることが多い。

 颯真は、少し考えた後に優しく言った。

 「今は無理せず、仕事と家庭のバランスを取るのも大事だよ。無理に自分のペースを崩さずに、子どもとの時間も大切にして」

 颯真の言葉に、真奈は一瞬安堵した。確かに、今は穂香の育児にもしっかり向き合わなければならないし、無理をして体調を崩すわけにはいかない。しかし、心の中で何かが引っかかる。

 「でも、それだけでいいのかな? もっと自分のキャリアを活かす方法があるんじゃないかって……」

 颯真は少し黙ってから、穏やかに答える。

 「自分の気持ちを大切にすることはもちろん大事だよ。でも、母親としての役割も重要だし、その両立をどうするかは、正直言って難しいところだよね」

 その言葉は、真奈にとって一つの真実だと感じた。だが、同時に心の中で何かが納得できない。

 その後、真奈は彩乃にも話すことにした。午後の休憩時間、二人は電話で話をすることにした。

 「どうしたの? 何かあった?」

 彩乃の声に、真奈は少しだけ重い口調で話し始める。

 「実は、復帰後に配属されたポジションが、思ってたのと違ってて……。前は自分の能力を活かせる場所にいたのに、今はサポート的な仕事ばかりで」

 彩乃はしばらく黙って聞いていたが、真奈が「母親だから」と扱われることに対する不満を述べると、すぐに反応した。

 「それって、本当におかしいよね。仕事ができるのに、母親だからって理由で制限されるなんて。私もそれ、すごく感じるよ」

 その言葉に、真奈は驚きと共に心が軽くなるのを感じた。

 「でも、育児と仕事のバランスって難しいよね。私も最近、結婚してから自分の時間が減った気がするし……」

 彩乃の言葉は、真奈にとって一種の慰めだった。彩乃も、母親としての役割と自分のキャリアの両立に悩んでいたのだ。それでも、彩乃はそれを乗り越えようと日々頑張っている。

 「でも、やっぱり私も、自分がどうしたいのか、もっと考えてみたい。今のままじゃ、何か物足りない気がして」

 真奈の言葉に、彩乃は少し考えてから、静かに言った。

 「母親であることと、仕事をすることが両立するのは確かに難しいけど、だからといって諦める必要はないと思う。自分の力を活かす方法を見つけるのが大切だよ」

 その言葉が、真奈の心に強く響いた。


10.4.3「このままでいいのか」

 真奈は、仕事へのモチベーションが徐々に揺らぎ始めていた。毎日の業務をこなす中で、何か物足りない感覚を抱えていた。自分が本来やりたいこと、目指していることとは違う方向に進んでいるような気がしていた。最初はそれを我慢してきたが、時間が経つにつれてその違和感がどんどん大きくなってきた。

 「このままでいいのか?」

 その問いが、真奈の心に何度も浮かんできた。母親である自分が職場での立ち位置を変えなければならないという現実は受け入れつつも、どこかで「本当にこれでいいのか?」という気持ちが拭いきれなかった。

 ある日の昼休み、真奈は職場で少し考え込んでいた。上司からのフィードバックを受けて、自分の役割について再考してほしいという思いが強くなっていた。しかし、それを伝えるために踏み出すことができなかった。自分の言葉が届かなかったらどうしよう、逆にもっと状況が悪化したらどうしようという不安が胸を締め付けていた。

 「こんなことで悩んでいても、何も変わらないのは分かってるんだけど……」

 真奈は心の中で自分を励ましながらも、決断を下す勇気が出ないでいた。

 一方で、職場には彼女の気持ちを理解し、支えてくれる同僚もいた。特に、最近の新しいメンバーである石田さんは、「母親だから」という理由で制限をかけることなく、真奈に対して柔軟なサポートをしてくれた。石田さんは、彼女自身も子育てと仕事を両立させているからこそ、真奈の立場をよく理解していた。

 「ありがとう、石田さん。あなたのおかげで、少し楽になったよ」

 その一言が、真奈にとって大きな励みになった。彼女は、少なくとも職場のすべてが「母親だから」と扱っているわけではないことに気づき、少しだけ希望を持つようになった。

 だが、それでも心の中で揺れる気持ちは消えなかった。「今の状況を受け入れるべきなのか、それとも自分のキャリアのために行動を起こすべきなのか」その決断が、真奈にとって一番の課題だった。

 夜、寝室で穂香を抱きながら考える。

 「もし、私が今行動を起こさなかったら、後悔するかもしれない」

 そう思う一方で、家庭と仕事を両立させる難しさに直面しながらも、決して諦めたくないという強い思いがあった。母親であることを理由に、自分のキャリアを犠牲にしたくはなかった。

 「私は私の人生を生きたい。母親であることも大切だけど、それだけじゃない」

 その気持ちが、真奈の心に根付いていった。まだ答えは出ない。だが、彼女の中に確実に変化が生まれていた。それは、自分のキャリアに対する新たな決意だった。

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