第10章 新しい道を歩むとき①

10.1 新しい道へ

10.1.1「決意のとき」

 シーズン最後の試合を終えた夜、ロッカールームには独特の静けさが漂っていた。


勝った試合でも負けた試合でも、シーズンの終わりにはいつもこうした余韻が残る。

汗と熱気の入り混じった空気の中、選手たちはそれぞれの想いを抱えながら、ユニフォームを脱いでいた。


 迅はベンチに腰掛けたまま、目の前に置いたバスケットボールシューズをじっと見つめた。


どれだけ履き慣れたものでも、今夜だけは少し重く感じる。


 「迅、おつかれ」

 監督がそっと肩を叩いた。


 「……ありがとうございます」

 思わず力なく返す。


監督は隣に腰を下ろし、しばらく黙っていた。それが逆に心地よかった。



 「お前が入ってきたときのこと、覚えてるよ。あの頃はまだ線が細くて、すぐにファウルもらってたよな」

 迅は苦笑した。


「そんな時代もありましたね」

「でも、いつの間にかチームの要になった。お前がコートにいるだけで、みんなが落ち着いた。それはすごいことだよ」


 監督の言葉に、迅の胸の奥が熱くなる。


自分はこのチームで、全力で戦ってきたのだ。



 「……最後の試合、最高の時間でした」

 「そうか」


 監督は微笑み、ふっと視線を外した。

 「辞めるのは、やっぱり寂しいか?」


 問われて、迅は言葉に詰まった。


 「……正直に言えば、はい」


 引退を考え始めたのは、二年前。


30代に入り、身体の衰えを感じるようになった。

怪我の回復も遅くなり、思い描くプレーができない場面が増えていった。


そして、何より――。



(智輝の成長を、もっとそばで見ていたい)



 それが決定的な理由だった。



 彩乃が仕事で忙しいとき、迅が家にいれば智輝の面倒を見ることもできる。


しかし、遠征や合宿が重なれば、まともに顔を合わせる時間もない。

成長する息子を見逃してしまうような感覚が、ずっと胸に引っかかっていた。


 「これからは、指導者としてやっていこうと思っています」

 迅がそう口にすると、監督は静かに頷いた。


 「お前なら、いいコーチになるよ」

 その言葉に、少しだけ心が軽くなった。


 ロッカールームを出ると、廊下の奥に何人かのチームメイトが残っていた。


彼らは、迅の姿を見つけると次々に歩み寄ってくる。

 「本当に辞めちゃうのか?」

 「まだやれるんじゃないか?」

 「いなくなるの、寂しいな」


 そんな言葉をかけられるたび、迅の心は揺れる。


長い年月を共に戦った仲間たち。


彼らとともに走り続けた日々が、急に遠ざかっていくような気がして――


それが何よりも寂しかった。


 (でも、決めたんだ)


 「ありがとう。でも、これが俺の選んだ道だ」

 自分に言い聞かせるように、そう告げた。



 その言葉とともに、次の人生へ向けた一歩が、確かに踏み出されたのだった。




10.1.2「引退発表」

 バスケットボール専門誌が迅の引退を正式に報じた。

チームが発表した声明には、「長年にわたりチームを支えてくれた宮原迅選手に、心からの感謝を捧げます」と記され、迅の功績が改めて称えられていた。


 チームの練習施設の一角、メディア対応のために用意された小さな会議室。


壁には過去の試合写真が飾られ、その中には迅がチームメイトと勝利を喜び合う姿もあった。


 記者がマイクを向ける。

「引退を決めた今の率直な気持ちを聞かせてください」


 迅は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、ゆっくりと口を開いた。

「正直なところ、まだ実感が湧かないです。でも、これが自分にとって最良のタイミングだったと思っています」


 記者は次々と質問を投げかける。


これまでのキャリアで最も印象に残っている試合、辛かったこと、そしてこれからのこと。


迅は一つ一つ丁寧に答えていった。


 「これまで支えてくれた家族やファン、そしてチームメイトには感謝しかありません。彼らがいなかったら、ここまで続けられなかったと思います」


 最後に、記者が問う。

「今後のキャリアについては、どのように考えていますか?」


 迅は迷いなく答えた。

「指導者として、次の世代を育てたいと思っています」



 その言葉に、記者たちが一斉にペンを走らせた。


 数日後、専門誌の記事が掲載された。見開きのページには、迅がコートを去る姿とともに、大きな見出しが踊っていた。


 「宮原迅、現役引退——指導者として次のステージへ」


 彩乃はダイニングテーブルの上に広げた雑誌を見つめながら、そっと指で紙面をなぞる。


写真の迅はどこか晴れやかな表情をしているようで、しかしその奥にほんの少しだけ、寂しさがにじんでいるようにも見えた。


 隣で雑誌を読んでいた迅がふっと笑う。

「なんか、改めて見ると変な感じだな」


「現役生活、終わっちゃったんだって実感する?」彩乃が尋ねると、迅は少しだけ考えてから、「うん」と短く答えた。


 そのとき、リビングのソファで遊んでいた智輝がふいに顔を上げた。


 「パパ、もうバスケしないの?」


 無邪気な問いかけに、迅は一瞬だけ言葉を詰まらせた。


しかしすぐに笑顔を作り、「ううん、するよ。今度は、教える方だけどね」と答える。


 「そっか!」


智輝は納得したように頷いたあと、「じゃあ、ぼくにも教えてね!」と満面の笑みを向けた。


 迅は智輝の髪をくしゃっと撫で、「もちろん」と優しく応えた。


 彩乃はそのやり取りを見守りながら、そっと雑誌を閉じた。


 本当に、迅は選手としての自分を完全に手放せたのだろうか。


 彼が「指導者になる」と言ったときの言葉は力強かった。

だけど、その内側にほんのわずかでも、現役を退くことへの未練や迷いが残っていないとは言い切れない。


 ——きっと、これから時間をかけて、少しずつ慣れていくしかないのだろう。


 窓の外では夕暮れが広がっていた。


オレンジ色に染まる空の下で、智輝が小さな手を振っていた。




10.1.4「それぞれのスタート」

 迅はスポーツセンターの会議室で開かれた研修に参加していた。

プロ選手としてのキャリアを活かし、指導者としての第一歩を踏み出すための勉強だ。


講師は長年ジュニア世代の育成に携わってきた元コーチで、迅よりもはるかに経験豊富な人物だった。


 「プレイヤーと指導者は、全く違う役割を担う。自分ができたことを、相手にどう伝えるか。それを考えることが、指導者にとって最も大事なことだ。」


 その言葉を聞きながら、迅はノートにメモを取る。

現役時代、感覚でプレーしていたことも多かったが、それを言葉にし、伝える技術が必要なのだと改めて実感する。


選手としての自分とは違う視点を持たねばならない。

 「難しいな……でも、だからこそやりがいがある。」


 新しい環境に戸惑いながらも、迅は静かに闘志を燃やしていた。



 一方、彩乃は真奈、咲希とともに、子どもたちを連れてカフェ併設のキッズスペースに来ていた。


休日の昼下がり、子どもたちは元気に走り回り、楽しそうに遊んでいる。


 「穂香、こっちだよ!」


 結衣が手を引いて、智輝とともにすべり台へ向かう。


まだぎこちない足取りの穂香を気にかけながらも、お姉ちゃんらしく振る舞おうとしているのが微笑ましい。

 「こうしてると、あっという間に大きくなっちゃいそうだよね。」


 咲希がカップを手にしながら、穏やかに言った。

 「ほんとにね。昨日まで赤ちゃんだったのに、もうこんなに走り回ってる。」

 彩乃も彼女の言葉にうなずく。


 「……新しい道を進むのって、不安もあるけど楽しみでもあるよね。」

 咲希はぼんやりと遠くを見つめながら続けた。


 彼女自身、事故の後、一度は仕事をセーブしたが、最近フルタイムでの復帰を決めたばかりだ。


まだリハビリの影響もあるし、フルタイムの勤務は不安も大きいだろう。

それでも、前を向こうとしているのが伝わる。


 「それでも、過去を完全に手放すのって難しいよね。」

 真奈がぽつりとつぶやいた。


 彼女は産休前に「復帰後のポジションは約束する」と言われていたが、戻ってみると、それは真奈にとって不十分なものだった。


期待していたキャリアの継続とは違う道を示され、戸惑いがあったのだろう。


 「……わかるよ。私も、執筆と子育てのバランス、今でも迷ってるし。」

 彩乃も、真奈の言葉に共感する。


どれだけ前向きに決断しても、迷いや不安は消えない。


それでも、それぞれが次の一歩を踏み出そうとしている。


 キッズスペースの方を見ると、結衣と智輝が穂香の手を引いて、一緒に階段を上っていた。


小さな歩みだけれど、確かに前へ進んでいる。

 「きっと大丈夫。私たちも、ちゃんと前に進んでる。」

 彩乃は静かにそう思った。


 こうして、迅も、彩乃も、そして真奈や咲希も、それぞれの人生の変化を受け入れながら、新しい道を模索していく。




10.2 新しいスタート

10.2.1 迅の新しいスタート

 迅がジュニアチームの指導者として本格的に活動を始めたのは、確かな転機だった。

現役時代のように毎日練習に明け暮れることはなく、むしろその反動で自宅で過ごす時間が格段に増えた。

新たな役割を引き受けたことで、仕事の内容は変化し、責任も重くなったが、その反面、迅は家庭にいる時間を大切にしようと心がけるようになった。


コーチとして、選手たちと向き合う時間はもちろんあるが、どうしても自分一人の時間を作ることが難しかった現役時代とは違い、家庭とのバランスを意識するようになった。


彩乃はその変化をよく感じていた。

彼が忙しくても、前よりも智輝との時間を意識的に作ろうとする様子に、心からの安堵を覚えた。


以前は夜遅くまで外で過ごすことが多かった迅が、今では夕食を家で一緒にとり、智輝を寝かしつける時間までしっかりと過ごすようになった。


ある日の晩、食卓を囲んでいるとき、迅は智輝に本を読んであげると言った。


彩乃はその光景を見つめながら、ふと胸が温かくなるのを感じた。

以前は、迅が家で過ごす時間は主に体を休めるためのもので、家族との時間はその合間に過ぎることが多かった。


しかし、今は違う。


智輝と一緒に過ごす時間が、迅の生活の中で自然と大切な部分を占めてきているのだ。


「智輝、今日はどんなお話が聞きたい?」

「ねぇ、今日は『おおきなき』がいい!」

「それなら、ちょっと待ってて。」


迅はにこやかに言って、棚から絵本を取り出した。


彩乃はその後ろ姿を見ながら、自分の心の中に新たな安心感が広がっていくのを感じていた。


以前のように、家に帰ることが当たり前のようであっても、今はその時間の大切さを改めて感じる。迅の変化に、思わず感謝の気持ちが湧いてきた。


そして、迅の変化は家庭内だけにとどまらず、彩乃にも影響を与え始めていた。


迅がより積極的に子育てに関わるようになったことで、彩乃は自分の時間を取ることができるようになった。

執筆活動や講演活動の時間を確保できるようになったのだ。


「さぁ、今日はちょっと出かけてみようか。」

迅が智輝を寝かしつけると、彩乃に向かって微笑んだ。


「出かける?」

「うん。何かリフレッシュしたい気分だから。」


その言葉に、彩乃は新たな一歩を踏み出す予感を感じた。




10.2.2 彩乃の新しいスタート

 真奈と会うのは久しぶりだった。

彩乃はカフェの席に座りながら、カップに口をつけた。

目の前には、変わらない落ち着いた雰囲気の真奈が座っている。


「最近、調子はどう?」


真奈が穏やかに尋ねると、彩乃は少し考えてから頷いた。


「うん、悪くないよ。迅がコーチの仕事を始めて、家で過ごす時間が増えたから、智輝と一緒にいる時間も増えてね。


そのおかげで、私も自分の時間を持てるようになったの。」

「それはいいことじゃない。」

「そうだね。でも……最近、ちょっと考えることが増えてきたの。」


彩乃はカップを置き、指で縁をなぞった。

「自分の時間ができたら、それをどう使うかっていうのを、改めて考えるようになってね。今までは、家庭と仕事のバランスを取るだけで精一杯だった。でも、これからはもう少し違うことにも挑戦できるんじゃないかって……。」


真奈は少し考えるように視線を落とし、それから静かに口を開いた。


「それって、すごく大事なことだと思うよ。環境が変わると、自分の考え方も変わるし、やりたいことも変わるものだしね。」


「うん。でも、どうしても迷うの。今の生活に満足していないわけじゃないし、家族との時間も大切にしたい。だけど、書くことにもっと向き合いたい気持ちもあって……。」


「だったら、やってみたら?」


真奈は当たり前のように言った。


その言葉のシンプルさに、彩乃は思わず瞬きをする。


「でも……家族のことを考えると……。」

「家族を大事にしながら、自分の道を進むことはできるよ。彩乃は、ずっとそうやってきたじゃない。」


「……そうかな。」


「そうだよ。それにね、私、最近思うの。挑戦することって、何も大きなことじゃなくてもいいんじゃないかって。少しずつでも、自分が本当にやりたいことに近づいていくことが大事なんじゃないかな。」


彩乃は真奈の言葉をかみしめた。


彼女の言うとおりだった。


大きな決断をする必要はない。

ただ、一歩ずつ進めばいい。


「ありがとう、真奈。なんだか、少し気持ちが楽になったかも。」


「ふふ、それはよかった。」


真奈が微笑む。

彩乃はカップを両手で包み込みながら、小さく息をついた。


新しい道に進むことへの不安は、まだ完全に消えたわけではない。


だけど、前に進んでもいいのかもしれない。


真奈の言葉を胸に、彩乃は静かにそう思い始めていた。




10.2.3 新しい道

 夜、家の中は静かだった。

智輝はすでに眠りについていて、迅も明日の練習の準備を終えたのか、リビングでくつろいでいる。


彩乃はダイニングテーブルに座り、ノートを開いていた。

思いついた言葉を走り書きしながら、時折、ペンを止める。


最近、書く時間が増えた。それは、迅が智輝と過ごす時間を大切にするようになったからだ。


子どもと向き合う父親としての迅の姿は、どこか新鮮で、頼もしさを感じさせた。


「また何か書いてるの?」

迅がソファから顔を上げて声をかけてくる。


「うん。まだまとまってはいないけどね。」

「ふーん。彩乃のそういう姿、久しぶりに見る気がする。」


彼の言葉に、彩乃は小さく笑った。

「そうかも。最近、色々考えてたの。自分の時間ができて、改めて何をしたいのかって。」


「うん。」


迅は彩乃の言葉を待つように、じっとこちらを見ている。



「やっぱり、私は書くことが好きなんだって思った。もちろん、家族の時間は大切。

でも、もう一度、自分のやりたいことにも向き合ってみようかなって。」

「いいんじゃない?彩乃はそういう人だし。」

あっさりとした答えだった。


迷っていた自分が少し拍子抜けするくらいに、迅はすんなりと受け入れてくれた。


「……そんなに簡単に言わないでよ。私、結構悩んだんだから。」


「悩むのも彩乃らしいけどね。でも、こうやって考えて、ちゃんと答えを出すところも、やっぱり彩乃らしいなって思う。」


「……ありがとう。」


静かな夜。



温かい光に包まれたこの空間の中で、彩乃は心の奥にあった迷いが、少しずつ晴れていくのを感じた。


家族の形は変わっていく。

だけど、その変化の中で、自分が進むべき道もまた見えてくるのかもしれない。


新しい道を見つけよう。


そう心に決めた瞬間、彩乃はそっとノートの新しいページを開いた。

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