第9章 光が差す場所②
9.3 新しい家族
9.3.1「休職後の日々と静かな時間」
冷たい冬の風が吹き抜ける中、真奈は結衣の小さな手をしっかりと握りながら、公園の遊歩道を歩いていた。手袋越しでも伝わる温もりに、少しだけ心がほぐれる。
休職してから数週間、時間の流れは穏やかだった。朝はゆっくりと起き、結衣と朝食をとり、昼間は家事をこなしながら過ごす。体調の良い日は、颯真と結衣と三人で買い物に行ったり、公園に出かけたりすることも増えた。今までは忙しさにかまけて、何気ない日常の一つひとつを味わう余裕がなかったことに気づく。
「ママ、見て! すべり台!」
結衣が嬉しそうに駆け出していく。小さな足を一生懸命動かしながら、滑り台の階段を登っていく姿を見つめながら、真奈はふっと微笑んだ。
「こんなふうに、ゆっくり過ごすのも悪くないのかもな……」
そう思う一方で、心の奥底には別の感情がくすぶっていた。
――私はこのままでいいんだろうか?
仕事を離れてから、焦燥感が完全に消えたわけではない。休職を決めたときは「仕方ない」と納得したつもりだった。でも、今こうして穏やかな時間を過ごしていると、「私は仕事を手放してしまったのではないか」という不安がよぎる。
結衣が滑り台を滑り降りると、真奈のもとへ駆け寄ってきた。頬を赤く染めて、楽しそうに笑っている。
「ママ、今日はずっと一緒だね!」
真奈が戸惑いながら「そうだね」と返すと、結衣は小さな手で真奈の手をぎゅっと握った。
「ママが家にいるの、うれしい。」
そう言って、満面の笑みを向けてくる。
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
仕事を続けることも大切。でも、今はこうして家族と過ごす時間を大事にすることも必要なんじゃないか。結衣の笑顔を見つめながら、真奈は少しずつそう思えるようになっていった。
9.3.2「陣痛、そして病院へ」
夜更け、静まり返った寝室に響く鈍い痛みで、真奈はふと目を覚ました。
「……っ」
お腹の奥からじわじわと広がる痛み。最初は違和感程度だったが、やがて強くなり、間隔も短くなっていることに気づく。
――陣痛だ。
心臓が少し速くなるのを感じながら、隣で眠っている颯真を揺り起こした。
「颯真……陣痛きたかも」
「ん……え?」
寝ぼけた声が、すぐに緊張に変わる。颯真は慌てて起き上がり、ベッドの横に座る真奈の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? どれくらいの間隔?」
「さっき測ったら、もう五分くらい……そろそろ病院行ったほうがいいと思う」
「わかった。すぐ準備する」
颯真は素早くスマホを手に取り、病院へ連絡を入れる。真奈はゆっくりと息を吐きながら、痛みが収まるのを待った。頭の中では、「もうすぐこの子に会える」という思いと、「またあの痛みを乗り越えなければならない」という恐怖がせめぎ合っている。
「ママ……?」
寝室の扉の向こうから、小さな声が聞こえた。
結衣がパジャマ姿のまま、眠そうな目をこすりながら立っていた。
「ママ、おなか痛いの?」
「うん。でもね、大丈夫だよ」
真奈がそう言うと、結衣は少し考えるように真奈の顔を見つめ、それからそっと近づいてきた。そして、小さな手で真奈の手を握ると、にっこりと笑った。
「ママ、頑張ってね!」
たった一言だった。でも、その声には迷いがなく、まっすぐな優しさがあった。
「……ありがとう、結衣」
真奈は結衣の頭を優しく撫でた。不安と緊張が入り混じる中、娘のその言葉が心の奥にじんわりと染み込んでいく。
大丈夫。乗り越えられる。
そう自分に言い聞かせながら、真奈は颯真とともに病院へ向かう準備を始めた。
9.3.3「彩乃の駆けつけ」
スマホの着信音で、夜更けの静寂が破られた。
「……っ!」
枕元に置いていたスマホを掴み、画面を見る。颯真の名前が表示されていた。
「もしもし、颯真さん?」
『彩乃ちゃん、真奈の陣痛が始まった。今、病院に向かってる』
瞬間、頭の中が覚醒した。
「わかった、すぐ行く」
布団を跳ね除け、素早く服を着替える。隣で眠っていた迅が、寝ぼけた声で「どうした……?」と呟いた。
「真奈が、陣痛」
それだけ言うと、迅はすぐに状況を理解したようだった。「気をつけて」と短く告げると、智輝の様子を確認しながら送り出してくれた。
外に出ると、夜の冷たい空気が頬を刺す。タクシーを拾い、病院の名前を告げると、車はすぐに動き出した。
***
病院の待合室に着くと、すでに颯真が椅子に座っていた。
「彩乃ちゃん!」
「颯真さん、真奈は?」
「分娩室に入ったよ。……まだ時間がかかるみたいだけど」
颯真の声には、不安と緊張が滲んでいた。隣に座ると、彼はこめかみに指を当て、小さく息を吐いた。
「何度目でも……慣れないな」
「……だよね」
自分が出産を経験しているからこそ、その気持ちはよく分かる。分娩は命がけだ。痛みも、苦しみも、そして何より、無事に生まれるかどうかの不安も。
でも――
「大丈夫、真奈は強い」
自分に言い聞かせるように、彩乃はそう呟いた。
真奈は強い。大学時代からずっと、自分の道を見つけ、歩み続けてきた。どんな困難があっても、立ち止まることはなかった。
――大学に入学したばかりの頃、お互いの夢について話していた日。
――仕事で行き詰まったとき、夜通し語り合った日。
――結衣が生まれたとき、母になった喜びと戸惑いを分かち合った日。
――智輝の出産のとき、長丁場は一緒に戦ってくれた日
いくつもの思い出が蘇る。
きっと、今もあの分娩室で、全力で新しい命と向き合っているのだろう。
彩乃は深く息を吸い、静かに目を閉じた。
「真奈、頑張れ」
心の中でそう呟きながら、ただ待つことしかできない時間が、静かに過ぎていった。
9.3.4「新しい命の誕生」
痛みで意識が遠のくような感覚に襲われながら、真奈は必死に呼吸を整えた。
「ふぅ……っ、はぁ……っ!」
陣痛の波が押し寄せるたびに、全身の力が奪われていく。額から流れ落ちる汗を振り払う余裕もない。ただ、この苦しみの先に、小さな命が待っていることだけを信じていた。
「大丈夫、もうすぐだよ」
横にいる颯真が、手をしっかりと握ってくれている。その手の温もりを感じながら、何度経験しても消えない恐怖と戦う。
「真奈、あと少し!」
医師の声が響く。
「がんばれ、真奈!」
彩乃の声も聞こえた。意識がぼんやりとしながらも、彼女がここに駆けつけてくれたことを感じる。
(あと少し……)
心の中でそう繰り返し、最後の力を振り絞る。そして——
「おぎゃあ!」
産声が響いた瞬間、体から力が抜けた。
「……生まれたよ、真奈」
颯真の声が震えている。視界の端で、彩乃が目頭を押さえているのが見えた。
助産師が小さな体を包んで、そっと真奈の胸の上に乗せる。温かくて、やわらかい。その命の鼓動が、自分の胸に響くようだった。
「……穂香」
そう呟くと、小さな手がぴくりと動いた。
「頑張ったね、ほのか」
そう言いながら、真奈はそっとその手を包み込んだ。
また、新しい家族が増えた——。
9.3.5「また家族が増えた」
病室の中は、温かい空気に包まれていた。
ベッドの上で横たわる真奈の腕の中に、小さな命がすやすやと眠っている。生まれたばかりの穂香は、小さな手をぎゅっと握りしめ、時折、ぴくりと動かしていた。
「……本当に、生まれたんだね」
真奈の隣に座る颯真が、そっと妻と娘を見つめる。その目には安堵と優しさがにじんでいた。
彩乃は、その光景を少し離れた場所から静かに見守っていた。
「ありがとう、彩乃。来てくれて」
ふと、真奈が彩乃を見上げて微笑んだ。その表情には、出産を終えたばかりの疲れと、それ以上の幸福が滲んでいた。
「おめでとう、真奈」
言葉にすると、胸の奥がじんと熱くなった。
また家族が増えた——。
そう思うと、言葉にならない感情がこみ上げてくる。
結衣が生まれたときも、こうして真奈は新しい命を迎えたのだ。そして今、また新たな命がこの世界に加わった。
「母になったからこそ書けることがある」
その考えが、再び彩乃の中に浮かんだ。
出産の瞬間にあったあの痛みと喜び、家族が増えることの意味、そして母親としての時間が生み出す、かけがえのない瞬間。
(私にしか書けないものが、きっとあるはず——)
小さな穂香の寝顔を見つめながら、彩乃はそっと手を握りしめた。
9.3.6「新しい日々と、物語の始まり」
夜の静けさの中で、智輝の寝息がゆっくりと響いていた。
隣に横たわる小さな体は、温かくて、頼りなくて、それでいて確かにそこにある。彩乃はそっと布団をかけ直しながら、その穏やかな寝顔を見つめた。
(書けないまま、もうどれくらい経ったんだろう)
真奈の出産に立ち会った数日後、彩乃はそんなことを考えながら、書斎のデスクに置かれたままのノートを見つめた。
執筆の手が止まってから、もう何週間も経っている。
「母になっても書き続けたい」と思っていたのに、日々の慌ただしさに追われて、ペンを握る時間が遠のいていた。
だけど——。
真奈の姿を見て、そして生まれたばかりの穂香を抱いたとき、心の奥で何かが変わった気がする。
(今の私だからこそ、書けるものがあるのかもしれない)
母になることの喜びや戸惑い、日々の小さな幸せ。
それらすべてを、言葉にしてみたい——。
「お姉ちゃん、いる?」
玄関の方から聞き慣れた声がした。
「咲希?」
ドアを開けると、咲希が紙袋を片手に立っていた。
「真奈さん、無事に生まれたんだって? 良かったね。」
柔らかく微笑みながら、そう言う咲希の表情には、どこか安心したような色があった。
「うん。本当に良かった」
彩乃がそう返すと、咲希はふっと目を細め、それから少し茶化すような口調で続けた。
「で、お姉ちゃんは? そろそろ本書くの、進めたら?」
図星を突かれたような気がして、思わず苦笑する。
「……そうだね。そろそろ、始めるよ」
ノートを開き、ペンを握る。
浮かんできた言葉を、ひとつひとつ書き留める。
(母になった自分の物語を、私は——)
夜の静けさの中、久しぶりにペン先が動き出した。
9.5 家族か仕事か
9.5.1「新しい生活の始まり」
部屋の中は薄暗く、時計の針は午前2時を指していた。
「ほのか、ほのか……大丈夫だよ」
胸の中で穂香をそっと揺らしながら、小さな背中をぽんぽんと優しく叩く。生まれたばかりの彼女は、まだ昼夜の区別がつかないのか、夜中になると泣き出すことが多かった。
ベッドでは颯真が静かに寝息を立てている。彼も毎日忙しいのに、できるだけ育児を手伝ってくれていた。けれど、彼の仕事柄、夜勤や早朝の出勤も多い。夜中の対応は、どうしても私がすることが増えてしまう。
目を閉じていたいくらいの眠気が襲ってくる。身体の芯が重く、全身が倦怠感に包まれていた。
(……結衣のときも、こんな感じだったっけ)
3年前の育児の記憶を思い出しながら、それでも一つ違うことがあるとすれば、今回は「お姉ちゃん」がいることだった。
朝、リビングに座る結衣は、まだ眠そうな目をこすりながら、私の腕の中にいる穂香を覗き込んだ。
「ママ、ほのかちゃん、かわいいね」
彼女の目は純粋な愛情に満ちていて、穂香の小さな手をそっと指でなぞる。
「ゆいみたいに優しい子になるかな」
そう言いながら笑う結衣に、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。眠気も、疲労も、すべてがその小さな笑顔に包み込まれていくようだった。
「きっとなるよ」
私はそう答えながら、穂香を抱く腕に少しだけ力を込めた。
育児は決して楽ではない。夜泣きに悩まされ、寝不足の日々が続き、思うようにいかないことばかり。けれど、それでも――
「大変だけど、家族が増えるって、やっぱり幸せなことなんだね」
私は、穂香の寝顔を見つめながら、そっとつぶやいた。
9.5.2「家族の成長」
穂香が生まれてから、あっという間に半年が経った。
生後6か月になった穂香は、夜泣きも少しずつ落ち着き、昼と夜のリズムができ始めた。授乳の間隔も空いてきて、離乳食を少しずつ始める時期になってきた。最初はスプーンを口に入れられるのを不思議そうにしていた穂香も、今では嬉しそうに口を開けるようになった。
生活のペースが少し整い始めたとはいえ、二人の子どもを育てる日々は慌ただしい。
そんな中で、私が気になっていたのは結衣の様子だった。
「ママ!見て!ゆいが絵本読んであげるの!」
ある日、結衣がお気に入りの絵本を持ってきて、穂香の前で広げた。
「ほのかちゃん、ここにワンワンがいるよ。かわいいね!」
そう言いながら、指で犬のイラストをなぞる。穂香は意味が分かっているのかいないのか、にこっと笑った。
結衣はそんな穂香の反応に満足そうだった。
お姉ちゃんとして頑張ろうとしているのが伝わってくる。でも、その一方で――
「ママ……抱っこして」
そう言ってくることも増えた。
結衣なりに「お姉ちゃんらしく」振る舞おうとしているのはわかる。でも、まだ3歳。甘えたい気持ちも当然ある。私が穂香にかかりきりになっていると、結衣は不機嫌そうに膨れたり、わざと「できない!」と駄々をこねたりすることもあった。
「結衣、お姉ちゃんだから頑張らなきゃって思ってる?」
そう聞くと、結衣は少しだけ目を伏せた。
「……うん。でもね、ママはほのかちゃんばっかり見てるから……」
その言葉に、胸がぎゅっと痛くなった。
その日の夜、颯真が仕事から帰ってくると、結衣をそっと膝に乗せた。
「結衣、お姉ちゃんになってくれてありがとうな」
優しく頭をなでながら、ゆっくりと伝える。
「お姉ちゃんになるのって、大変なことだよな。でも、パパもママも結衣のこと、大好きだよ」
結衣は少し驚いた顔をした後、照れくさそうに微笑んだ。
「……うん!」
私も隣でその様子を見ながら、結衣の成長を改めて実感した。
子どもたちが少しずつ大きくなり、私たち親もまた、その成長に寄り添いながら変わっていく。
「母になること」は、きっとゴールのない旅のようなものだ。
でも、こうして家族の絆が深まっていくのを感じるたびに、その旅路が温かいものに思えた。
9.5.3「彩乃の新しい挑戦」
穂香が生まれて1年が経った。
橘家を訪れるたびに、穂香がしっかりと成長していく様子を見て、「赤ちゃんの1年って、本当にあっという間だな」と実感する。
そしてその1年間は、私にとっても挑戦の時間だった。
母として、妻として、そして書き手として――。
「宮原さんの新刊、今日から店頭に並んでいますよ」
編集者の木村さんからの連絡を受け、本屋へ足を運んだ。
育児エッセイ『母になるということ』。
これが、私の新しい本のタイトルだ。
智輝が生まれてからの2年間、私は「母」としての時間を過ごしながら、「書き手」としての時間を模索していた。
今までのように、静かに机に向かい、思う存分書くことはできない。
智輝が昼寝をしているわずかな時間、夜に寝かしつけた後の数十分、そうした小さな隙間を縫うようにして書いた。
「これでいいのかな……」
執筆中、何度もそう思った。
育児と仕事を両立しようとする中で、自分の中にある「書くことへの情熱」と「母親としての時間を大切にしたい気持ち」がぶつかり合った。
そして今、本は出版された。
けれど、発売直後の反応は――静かだった。
「やっぱり、育児の合間に書いた本じゃダメだったのかな……」
本屋に並ぶ自分の本を眺めながら、そんな不安が頭をよぎる。
以前の作品よりも平積みされているスペースは少なく、SNSでも話題になっている様子はない。
私は何度もスマホを開いては閉じた。
それでも、この本を書きたかったのは確かだった。
育児に追われる日々の中で、「母になったからこそ見えたもの」がたくさんあった。
それを形にすることで、同じように悩む誰かの支えになれたら――そんな思いを込めた一冊だった。
数週間後、状況が変わり始めたのは、ふとした瞬間だった。
「宮原さんの本、読んだんですけど、すごく共感しました!」
知り合いのママ友がそう言ってくれたのを皮切りに、少しずつ読者の声が届くようになった。
「私も毎日子育てで悩んでばかりだけど、この本を読んで少し気持ちが軽くなりました。」
「育児本って完璧なお母さんの話ばかりだけど、宮原さんの本は『できなくてもいい』って言ってくれるから救われた。」
SNSでは、そんな口コミがじわじわと広がり始めた。
気づけば、書店の育児書コーナーで、私の本は以前より目立つ位置に置かれていた。
平積みされ、特集コーナーに並び、「話題の本」として紹介されるようになっていた。
そして――
『母になるということ』は、ベストセラーになった。
まるで、小さな種を蒔いたものが、ゆっくりと芽を出し、成長していくように。
私は、確かに「書き手」としての道をまた一歩進んでいた。
9.5.4「迷いと選択」
「宮原さん、改めておめでとうございます! ものすごい反響ですよ」
編集者の木村さんが興奮気味に電話をかけてきた。
『母になるということ』は、予想以上に売れ、今や育児書コーナーの定番になりつつある。
口コミで広がり、ネットの書評でも高評価が続き、読者のリアルな声が次々と届く。
「子育ての悩みが少し軽くなった」
「自分だけじゃないんだと救われた」
その言葉を目にするたびに、「この本を書いてよかった」と心から思った。
「それでですね、宮原さん。今、講演会の話がいくつか来ているんです」
「……講演会?」
「はい。子育て世代向けのトークイベントとか、書店でのトークショーとか。あと、テレビやラジオ番組への出演オファーも増えていて、特集を組みたいという話も出ているんです」
電話の向こうで木村さんが熱心に説明するのを聞きながら、私は複雑な気持ちだった。
作家として、これは大きなチャンスだ。
今ここで積極的に動けば、執筆だけでなく、より広い活動の場が開けるかもしれない。
でも――。
智輝の顔が頭をよぎる。
「仕事を優先すべきか、家庭を優先すべきか」
その夜、リビングで迅と向き合いながら、私はため息をついた。
「どうした?」
「……講演会やメディア出演の話が来てるの。でも、どうするべきか決められなくて」
そう言うと、迅は少し考えてから、静かに口を開いた。
「彩乃のやりたいことを大事にしていいんだよ」
彼はいつだって、私の決断を尊重してくれる。
けれど、その言葉だけでは答えは見つからなかった。
私は、智輝の成長を間近で見守りたい。
夜泣きが減ってきたとはいえ、まだまだ手がかかる時期だ。
幼い彼の「今」は、もう二度と戻ってこない。
だけど、作家としてのチャンスもまた、そう何度も訪れるものではない。
「迅は……どう思う?」
私の問いに、迅は少し微笑んで答えた。
「俺は、彩乃が後悔しない選択をすればいいと思う」
後悔しない選択――。
それが何なのか、私はまだわからないまま、静かに夜が更けていった。
9.5.5「新しい未来へ」
智輝の寝息が、静かな寝室に穏やかに響いている。
小さな手を握ったまま、私はぼんやりと天井を見つめた。
講演会を受けるべきか、断るべきか。
母として、作家として、私はこれから何を大切にして生きていくのか――。
答えはまだ見つからない。
けれど、この迷いもまた、きっと私の人生の一部なのだと思う。
窓の外が少しずつ明るくなり始めていた。
夜の静寂を破るように、淡い橙色の光が空を染めていく。
まるで、新しい未来の始まりを告げるかのような朝焼けだった。
私はそっと目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。
「私の物語は、これからどう進んでいくのだろう?」
その答えを探すために、私は――
枕元のノートに手を伸ばし、静かにペンを握った。
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