第9章 光が差す場所①

9.1 書けない日々、続くつわり

9.1.1「進まない執筆」

 リビングのテーブルにノートパソコンを広げたまま、彩乃はぼんやりと画面を見つめていた。画面には数行の文章が表示されているものの、そこから先に進むことができない。カーソルが瞬きを繰り返し、まるで先を促してくるようだった。

背後のベビーベッドでは、智輝が静かな寝息を立てている。午前中にたっぷり遊んだせいか、いつもより長く眠ってくれていた。この貴重な時間を執筆に充てようと思いながらも、彩乃の指はキーボードの上で止まったままだった。

「母親としての視点をもっと深めてほしい」

先日、編集者と打ち合わせをしたときに言われた言葉が頭の中に響く。

「子育てをしながら書くからこそ、母親としての経験が自然と滲み出てくるはずです。彩乃さんにしか書けないことがあると思うんです」

その意図は理解できる。彩乃自身、母になったことで見えてきたものも確かにある。けれど、それを作品の軸にすることに、どこか抵抗を感じていた。

“母親である自分を意識することで、むしろ筆が止まるなんて。”

以前は、言葉がするすると流れるように出てきたのに、今はまるで霧の中を手探りで進んでいるような感覚だった。母親としての経験を書くことが求められているのはわかる。でも、それは本当に自分の書きたいことなのだろうか?

彩乃はゆっくりと息を吐き、カップに残っていたぬるいコーヒーを一口飲んだ。

リビングの時計は午後二時を指している。智輝が目を覚ますまで、あとどれくらい時間があるだろうか。書かなければ。時間は限られている。そう思えば思うほど、焦りだけが募っていく。

「はぁ……」

ふと、ため息が漏れた。

そのとき、ベビーベッドのほうからかすかな寝返りの音が聞こえた。心臓が跳ねる。少しでも音を立てたら智輝が起きてしまうかもしれない。彩乃は慌ててパソコンの画面を閉じ、椅子から立ち上がった。

ベビーベッドを覗き込むと、智輝は丸まるように寝ている。安らかな寝顔を見ていると、ほんの少しだけ心が和らいだ。

“書かなきゃいけないのに、書けない”

その焦燥感と、目の前で眠る小さな命の温もりの間で揺れながら、彩乃はそっと智輝の髪を撫でた。

このままではいけない。でも、どうすればいいのかもわからない。

まだ答えは見つからないまま、彩乃はもう一度、深く息をついた。


9.1.2「気分転換と妹の言葉」

 「お姉ちゃん、ちょっとランチでも行かない?」

そうメッセージが届いたのは、智輝を寝かしつけた直後だった。

咲希とは、最近ゆっくり話せていなかった。職場復帰して忙しくしているのは知っていたから、あまり無理をさせたくないと思っていたけれど――

(少し気分転換になるかもしれない)

彩乃は「行く」と返事を打った。

***

待ち合わせたのは、近所のカフェだった。ランチタイムを少し外した時間帯で、店内にはゆったりとした音楽が流れている。

「久しぶりに二人で会うね」

咲希はそう言いながら、軽やかにメニューを開いた。スーツ姿が板についていて、以前よりもずっと大人びて見える。

「仕事はどう? もう慣れた?」

「うん、なんとかね。復帰直後はバタバタだったけど、最近は流れも掴めてきたよ」

「そっか、よかった」

「お姉ちゃんのほうは? 執筆、順調?」

そう聞かれて、彩乃は少し口ごもった。

「……全然書けてない」

正直にそう打ち明けると、咲希は驚いたように目を瞬かせた。

「え、珍しいじゃん。お姉ちゃんがスランプなんて」

「うーん、スランプっていうのか……とにかく筆が進まなくて」

彩乃はフォークでサラダをつつきながら、ぽつりぽつりと言葉をこぼした。

「育児と執筆を両立させようと思うと、思うように時間が取れないし……編集さんから『母親としての視点をもっと深めて』って言われても、何を書けばいいのか分からなくて」

「ふーん……」

咲希は頬杖をつきながら、じっと彩乃を見つめた。

「でもさ、お姉ちゃんは昔から、自分にしか書けないものを大事にしてたじゃん。中学のときだっけ?夏休みの読書感想文の宿題だって自分の言葉で伝えたいことをちゃんと考えてたし」

「……そうだったかな」

「そうだったよ」

咲希は微笑みながら続けた。

「今も同じじゃない? 何も無理に“母親”を意識して書く必要はないと思う。でもさ、お姉ちゃんが“母だからこそ書けること”って、きっとあるんじゃない?」

「……母だからこそ、書けること」

彩乃はゆっくりとその言葉を反芻する。

母親になってから感じたこと、見えたもの。それは確かにある。でも、それをどう言葉にすればいいのか、まだ分からない。

「お姉ちゃんの本、絶対売れると思うよ」

咲希はそう言って、軽くグラスを傾けた。

「だから、焦らなくていいんじゃない? お姉ちゃんのペースで、書きたいことを書けばさ」

「……そうかもしれないね」

咲希の言葉が、心のどこかにすっと入り込んでくる感覚があった。

まだ霧は晴れない。それでも、少しだけ、光の筋が見えた気がした。


9.1.3「つわりの重さと仕事の不安」

 ――気持ち悪い。

診察室のソファに腰掛けながら、真奈はそっとお腹に手を添えた。

妊娠が分かってから、つわりは日に日に酷くなっている。朝起きた瞬間から吐き気に襲われ、何かを口にすれば胃が拒絶するような感覚に陥る。仕事中も波のように押し寄せる気持ち悪さを堪えながら、患者と向き合うのが精一杯だった。

「橘さん、大丈夫?」

同僚の心理士が心配そうに声をかけてくる。

「……うん、ちょっとつわりが酷くて」

「無理しないでね。休憩取ってきたら?」

「ありがとう、大丈夫」

そう答えたものの、実際は全然大丈夫じゃない。診察が終わるたびにふらつき、休憩室で深呼吸することも増えた。それでも「ここで倒れたら、みんなに迷惑をかける」と思うと、なかなか自分から休むとは言い出せない。

(こんな調子で、これからどうなるんだろう)

そんなことを考えながら、診察室を後にする。

***

病院を出ると、冷たい冬の風が頬を撫でた。

コートのポケットに手を入れながら、ゆっくりと帰路につく。

(また仕事を休むのか……)

思わずため息がこぼれた。

結衣を妊娠したときも、つわりがひどくて結局産休まで早めに休職した。今回はまだ妊娠初期だが、このまま仕事を続けられる自信がない。

(でも、ここで休んだらまたキャリアが止まる)

せっかく職場復帰したのに、また長いブランクができてしまう。仕事に戻ってからも、「久しぶりの実践感覚を取り戻さなきゃ」と頑張ってきたのに。

自分がいなくなれば、患者の担当も割り振り直しになり、同僚たちの負担が増える。

「無理しないで」と颯真は言ってくれるけれど、それで簡単に決断できるほど、仕事は割り切れるものじゃない。

(結衣のときと同じように、また離れてしまうのが怖い)

立ち止まり、冬空を見上げる。

冷たい風が吹いているのに、頭の中はぐるぐると熱を持ったように落ち着かない。

(仕事を続けるのも大変。でも、休むのも不安……)

結局、まだ答えは出ないまま、真奈はまた歩き出した。


9.1.4「偶然の出会い、咲希の一言」

 診察の帰り道、寒さに縮こまりながら駅へ向かう途中で、見覚えのある姿が視界に入った。

「……咲希ちゃん?」

信号待ちをしていた女性が顔を上げ、驚いたようにこちらを見つめる。

「あ、真奈さん!」

咲希は急ぎ足で近づいてきた。黒のコートに、首元には薄いベージュのマフラー。どこか落ち着いた雰囲気を漂わせている。

「偶然ですね。どうしたんですか?」

「ちょっと妊婦検診で。……咲希ちゃんこそ、もう仕事復帰してるんだっけ?」

「うん、一応ね。フルタイムは無理だから、時短で働いてるけど」

咲希はそう言いながら、じっと真奈の顔を覗き込んだ。

「ていうか、顔色悪くない? 体調、大丈夫?」

「ああ……うん、ちょっとつわりが酷くて」

「そっか……」

咲希の表情がほんの少し曇る。

「お姉ちゃんもそうだったけど、やっぱり妊娠って体力使うんだね。無理しないでよ」

「……うん。でも、仕事もあるしね」

そう呟いた真奈に、咲希は少し考えるように視線を落とした。

「私さ、事故のあとしばらく仕事休んでたけど、復帰するまでずっと焦ってたんだよね。周りに置いてかれるんじゃないかとか、自分の居場所がなくなるんじゃないかとか」

「……うん」

「でも、実際戻ってみたらさ、確かに変わったこともあるけど、仕事はちゃんとそこにあった」

咲希はふっと笑い、コートのポケットに手を入れながら言った。

「仕事ってさ、続けるのも辞めるのも大変だけど、無理して続けるのが一番しんどいよ」

真奈は思わず足を止めた。

「……無理して続けるのが一番しんどい?」

「うん。だってさ、仕事は逃げないけど、今の自分の体調は戻ってこないよ」

柔らかい声でそう言う咲希の言葉が、心の奥深くに静かに染み込んでいく。

無理をしてでも仕事を続けたい――そう思っていたのは確かだ。でも、本当にそれでいいのか?

「……そっか」

曖昧に頷いた真奈の横で、咲希は「ま、なんとかなるよ」と気楽そうに笑う。

「とりあえず今日は早く帰って、暖かいものでも食べて寝たほうがいいよ」

「……うん」

まだ答えは出せない。でも、少しだけ心の霧が晴れた気がした。


9.1.5「決断できないままの夜」

 智輝の寝息が、静かな部屋に穏やかに響いている。

彩乃は布団の端に座り、ぼんやりと息子の寝顔を見つめていた。

ふわふわとした頬、小さな鼻、かすかに動く唇――どれを見ても、愛おしさが込み上げてくる。

(母だからこそ書けること……か)

咲希の言葉が頭の中で反芻される。

自分にしか書けないものを大事にしてきた。でも、今の自分にはそれが何なのか、はっきりとわからない。

机の上に開いたままのノート。何度も書きかけては、途中でペンを置いた。

「母親としての視点をもっと深めてほしい」と編集者に言われたけれど、“母である自分”を前面に出すことが、本当に書きたいことなのかはわからない。

智輝の寝顔を見つめながら、彩乃はゆっくりと目を閉じた。

まだ、答えは出せそうにない。

一方、その頃――

リビングのソファに座り、真奈は静かにため息をついた。

コップの中の白湯が、ゆっくりと揺れる。

「仕事は逃げないけど、今の自分の体調は戻ってこないよ」

咲希の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

確かに、彼女の言う通りなのかもしれない。

でも――

「お休みをいただきます」と上司に伝える瞬間を想像すると、どうしても胸の奥がざわついた。

キャリアを積んできた分、ここでまた休むことへの抵抗がある。

家の中は静かで、颯真も結衣も寝ている。

こんな風にひとりで考える時間があるのに、どれだけ考えても結論は出ない。

真奈は小さく息を吐き、ソファに体を預けた。

今夜も、答えは見つからないまま――。

彩乃と真奈、それぞれが抱える「迷い」。

それは、夜の静寂の中に溶けていくようだった。

決断できないまま、夜が更けていく。


9.2.1「仕事中の限界と決意」

 診察室の空気が妙に重く感じられた。患者の話に耳を傾けながら、胸の奥からせり上がる吐き気を必死にこらえる。机の上に置かれたカルテの文字がぼやけ、視界が歪む感覚に襲われた。

「……それで、また夜になると不安になってしまって……」

 目の前の患者の声が遠く感じる。意識を集中しようとしたが、胃が強く締めつけられるような感覚に耐えきれず、私は咄嗟に言葉を挟んだ。

「すみません、少しお時間をいただいてもいいですか?」

 患者は戸惑いながらも頷いた。私は立ち上がり、ゆっくりと診察室を出る。吐き気はすぐそこまできていた。

 トイレに駆け込んで、ようやく喉の奥の不快感を吐き出す。冷たい水で口をゆすぎ、鏡を見上げた。そこに映る自分の顔色は青白く、汗がにじんでいる。

「……ダメだな、これじゃ」

 ゆっくりと深呼吸しながら、診察室に戻る。席に座ると、患者が心配そうにこちらを見ていた。

「すみません、大丈夫です」

 笑顔を作りながら答えたが、実際は大丈夫ではなかった。

 診察が終わると、すぐに主任に呼ばれた。

「橘先生、体調、大丈夫ですか?」

優しい声が、逆に胸に突き刺さる。

「最近、つわりがひどくて……」

 正直に答えると、主任は少し考えてから、静かに口を開いた。

「無理しなくていいんですよ。今は身体を優先して、休むことも大事です」

 その言葉に、少し肩の力が抜けた。しかし、同時に「ここで休んでしまったら」という不安が頭をよぎる。

 私はここで働き続けたい。患者たちの悩みに寄り添い、支えになりたい。その気持ちは変わらない。でも、このまま仕事を続けて、患者に迷惑をかけるのも本意ではなかった。

 主任の言葉にうなずきながらも、私はまだ迷っていた。

 帰り道、冷たい風が頬をかすめる。頭では分かっている。このままでは仕事に支障が出る。自分の体を労わるべきだと。でも、それを素直に受け入れるのは難しかった。

 私は、ふとお腹に手を当てる。そこには、確かに新しい命が育っている。

 ……決めなきゃいけない。

 立ち止まり、深く息を吸う。

「……休職しよう」

 自分にそう言い聞かせるように、小さくつぶやいた。


9.2.2「結衣との時間と迷い」

 仕事を終えて帰宅すると、結衣が玄関まで駆け寄ってきた。

「ママ、おかえり!」

 明るい声に、自然と笑みがこぼれる。どんなに疲れていても、結衣の笑顔を見ると少し気持ちが軽くなる。

「ただいま、結衣。今日は一緒にご飯作ろっか?」

「うん! 結衣、お手伝いする!」

 小さな手を元気よく上げる姿に、思わず頬が緩む。

 キッチンでエプロンをつけ、食材を並べる。今日のメニューは野菜たっぷりのスープと、鶏肉のソテー。それほど手のかかる料理ではないけれど、最近はつわりのせいで、まともに台所に立てる日が少なかった。

「結衣、にんじんを洗ってくれる?」

「うん!」

 結衣は真剣な表情で小さな手を動かす。その姿を見ながら、私も鶏肉の下ごしらえを始めた。

 しかし、香ばしい鶏肉の焼ける匂いが漂い始めた瞬間、胃がぐっと締め付けられるような感覚に襲われた。

 ――だめだ。

 喉の奥が熱くなる。冷や汗がにじむ。

「ごめんね、結衣。ちょっと待ってて……」

 そう言うのが精一杯だった。急いでキッチンを出て、洗面所へ向かう。

 何度か深呼吸をするが、吐き気は治まらない。結局、私はその場にしゃがみ込んでしまった。

「ママ、大丈夫?」

 ふと、小さな声が聞こえた。

 顔を上げると、心配そうに私を見つめる結衣がいた。小さな手が、そっと私の手を握る。

 その温もりに、胸が締め付けられた。

「ごめんね、結衣……ママ、ちょっと気持ち悪くなっちゃった」

 そう言うと、結衣は小さく首を振った。

「いいの。ママ、がんばりすぎちゃだめだよ」

 たどたどしい言葉に、思わず涙がにじみそうになる。こんなに小さいのに、ちゃんと私を気遣ってくれている。

 私は結衣の手を握り返した。

「ありがとう、結衣」

 この子は、私が守るべき存在だ。

 それなのに、私は何を迷っているのだろう。

 「また仕事を休むのか」――そう思う自分がいた。でも、それよりも今、大切なものがあるのではないか。

 結衣の手の温もりを感じながら、私は少しずつ、自分の中の迷いに向き合い始めていた。


9.2.3「咲希との会話と決断」

 日曜日の午後、真奈は結衣を連れて彩乃の家を訪れていた。

「結衣ちゃん、大きくなったね!」

 咲希が、笑顔で結衣の頬をつつく。

「ふふっ、こちょばいよ~!」

 くすぐったそうに笑う結衣を見て、真奈も自然と微笑んだ。咲希とはこの前、偶然街で会ったばかりだったが、こうして改めて会うのは久しぶりだった。

「咲希ちゃん、最近仕事はどう?」

「うん、だいぶ慣れてきたよ。でもやっぱりフルタイム勤務にはまだ戻せないかな」

 咲希はそう言いながら、温かい紅茶をひと口飲む。

「無理はしないほうがいいよね。……私も、そろそろ仕事を休もうと思ってるんだ」

 そう言うと、咲希は驚いたように目を見開いた。

「え、そうなの?」

「うん。つわりもひどくて、仕事に支障が出てきたし……でも、まだ迷ってる」

 言葉を濁すと、咲希は少し考え込むように視線を落とした。

「私もね、事故のあと復帰するとき、不安だったんだ」

「……うん」

「仕事を離れてる間に、何かが変わってしまうんじゃないかって。戻っても、自分の居場所がなくなってるんじゃないかって」

 咲希はカップを置き、真奈をまっすぐ見つめた。

「でも、実際に戻ってみたら、仕事はちゃんとそこにあったよ」

 その言葉に、真奈は小さく息をのむ。

「もちろん、最初はちょっと戸惑ったし、周りの変化についていくのは大変だった。でも、結局はなんとかなるものだよ」

 咲希の表情は、どこか晴れやかだった。それを見て、真奈の中の不安が少しだけ和らいでいくのを感じた。

「……そう、だよね」

 そう呟くと、結衣が小さな手を伸ばして真奈の指を握った。

「ママ、おはなしおわった?」

「うん、終わったよ」

「じゃあね、ママ、おいしいジュースのむ?」

 結衣が満面の笑みでそう言った。何かを決めたわけではない。でも、この小さな手を離したくない――そう思った。

「……うん、一緒に飲もうか」

 少しだけ、心の霧が晴れた気がした。

 翌日、真奈は正式に休職願を提出した。

「復帰後のポジションは心配しなくていいからね」

 上司はそう言ってくれたが、それでも完全に不安が消えるわけではなかった。

 ――本当に、大丈夫だろうか?

 けれど、今はそれでもいいのかもしれない。迷いながらでも、少しずつ進んでいけばいい。

 そう自分に言い聞かせながら、真奈は深く息を吐いた。


9.2.4「家族の言葉と向き合う時間」

 夕方、空が淡いオレンジ色に染まり始める頃、真奈は颯真と結衣と一緒に近所の公園を歩いていた。

 結衣は真奈の手をぎゅっと握りしめ、小さな足で落ち葉を踏みしめながら歩いている。

「ママ、みて! くも、オレンジ!」

 空を指差す結衣に、真奈は微笑んだ。

「ほんとだね、きれいだね」

 隣を歩く颯真が、ふと真奈を見て声をかける。

「少しは気持ち、落ち着いた?」

 真奈は、ぎゅっとマフラーを握りしめながら、小さく息を吐いた。

「……うん。でも、休むって決めたのに、やっぱり不安で」

 颯真は少し考えるように視線を前に向け、それから優しく言った。

「もちろん、仕事も大事だよ。でも、無理をして何かを犠牲にするのは、あとで後悔するんじゃないかって思うんだ」

 そう言って、颯真は真奈の手をそっと握る。

「だから、今はしっかり休んで。結衣や、これから生まれてくる子と向き合う時間を大切にしたらいい」

 その言葉に、真奈は静かに目を閉じた。

 ――私は、仕事よりも大切なものを、見落としかけていたのかもしれない。

 結衣が小さな手でぎゅっと真奈の指を握る。

「ママ、だいすき」

 その声に、胸がじんと温かくなった。

「執筆が、うまくいかないんだ」

 夜、彩乃はリビングでコーヒーを片手に、迅と向かい合っていた。

 迅はソファにゆったりと座りながら、少し驚いたように眉を上げる。

「珍しいね、彩乃がそう言うの」

「自分でも分かってる。でも、筆が進まないんだよね……。編集者からも催促がきてるし」

 焦燥感が胸の奥を占めていて、どうしようもない気持ちだった。

 そんな彩乃を見て、迅は穏やかに微笑む。

「焦らなくていいよ。彩乃は彩乃のペースでやればいい」

「でも、締切は待ってくれない」

 ため息をつくと、迅は少し考え込むように視線を落とした。

「それでも、彩乃の書くものには時間が必要なんじゃない?」

 言葉の意味を噛み締めるように、彩乃はカップの縁をなぞった。

 その夜、智輝が夜泣きをした。

 暗闇の中、小さな身体を抱きながら、彩乃はぼんやりと考える。

 ――母としての経験が、書くことにどう影響を与えるのだろう?

 今までの自分の文章は、どこか客観的だった。けれど、今は違う。

 この腕の中で眠る小さな命を育てながら、私は新しい視点を持っている。

 ……でも、それをどう表現すればいいのかが、分からない。

 そんなことを考えて過ごしていたある日、咲希から電話がかかってきた。

「お姉ちゃん、最近疲れてない?」

「……そんなふうに見える?」

「うん、声がちょっと元気ない」

 咲希は少しの間、言葉を選ぶように沈黙した後、ぽつりと言った。

「少し離れてみるのもアリじゃない?」

 その言葉に、彩乃はゆっくりと息を吐いた。

 ――私は、まだ気持ちの整理がついていない。

 けれど、咲希の言葉が、今の自分に必要なものなのかもしれない。

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