第8章 家族のかたち③

8.4 誕生

8.4.1 はじめまして

 まぶたの裏がじんわりと熱くなる。

 長い、長い時間をかけてようやく出会えた。

 腕の中、小さな体が包まれた白い布の隙間から、智輝の顔が覗いている。まだしわしわで、目もうまく開かない。それでも、確かにそこにいる。私の子どもが。

 疲労で体は鉛のように重いのに、心はふわふわと浮かんでいるようだった。

「…はじめまして」

 そっと囁くように言葉をかけると、智輝は小さく口を開け、ふにゃりとした声を漏らした。胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 隣で見守っていた迅が、静かに息を呑む気配がした。

「…俺たちの子だ」

 その言葉とともに、そっと智輝を受け取る。迅の大きな手の中に収まった我が子は、頼りなげに小さな指を動かした。

 迅はゆっくりと瞬きをし、瞳の奥に涙を滲ませながら、震える声で続けた。

「ちっちゃいな……でも、ちゃんと生きてる」

 私もまた、涙が溢れそうになるのをこらえながら、そっと微笑む。

「うん、生きてるね」

 そのとき、病室の扉がそっと開いた。

 咲希と両親、そして真奈が、少し緊張した面持ちで部屋に入ってくる。咲希は私の顔を見て安堵の笑みを浮かべ、母は目元を押さえていた。

「お姉ちゃん……お疲れさま」

 咲希がベッドのそばに寄ってきて、智輝を覗き込む。その瞳が驚きと喜びに揺れる。

「すごい、本当に産まれたんだね」

 当たり前のことなのに、その言葉が胸にじんと響く。父も母も、そっと智輝に手を伸ばし、頬を撫でるようにして彼の存在を確かめる。

 真奈も静かに智輝を見つめ、柔らかく微笑んだ。

「……家族が増えたね」

 その言葉に、全員がふっと笑う。

 長く険しかった時間を超えて、ようやく迎えたこの瞬間。

 智輝は、生まれたばかりのその小さな手を、空へ向かってゆっくりと伸ばしていた。


8.4.2 それぞれの想い

 病院を出る頃には、東の空が白み始めていた。

 長かった一日。彩乃の出産を見届けた安心感と、新しい命の誕生に立ち会えた感動が胸の奥に静かに残っている。

 タクシーに乗り込み、窓の外に流れる街の景色をぼんやりと眺めながら、ふと、思った。

「二人目ができたら、どうなるんだろう」

 結衣が生まれたときのことを思い出す。初めての育児に必死で、仕事のことなんて考える余裕もなかった。でも、あれから時間が経ち、私は臨床心理士としてのキャリアを築きながら、母親としても少しずつ成長してきた。

 今は仕事も楽しくて、結衣の成長を見守ることも大きな喜びになっている。だからこそ、「もう一度赤ちゃんを育てるってどんな感じなんだろう」と、漠然とした思いが心に浮かんだ。

 タクシーが止まり、家に着くと、静まり返ったリビングに颯真がいた。ソファに座ったまま、寝落ちしていたようだ。

「ただいま」

 そっと声をかけると、彼は目を開けて私を見た。

「おかえり。お疲れ」

 ゆっくりと伸びをしながら、颯真が立ち上がる。

「どうだった?」

「無事に産まれたよ。彩乃も赤ちゃんも元気」

「そっか。よかったな」

 安心したように微笑む颯真を見て、私は少し迷いながらも、ぽつりと口を開いた。

「……ねえ、二人目ができたら、どうなるんだろうね」

 颯真は少し驚いたように私を見つめ、それから静かに聞き返した。

「急にどうした?」

「彩乃の出産を見て、なんていうか……ちょっと考えちゃった」

 言葉を探しながら、自分の気持ちを整理する。

「もちろん、今すぐってわけじゃないよ。でも、もう一度赤ちゃんを育てるのってどんな感じなのかなって。結衣も成長してきたし、私も仕事を続けていきたいし……」

「……なるほど」

 颯真は真剣な顔で私の言葉を聞き、少し考えてから言った。

「俺は真奈がどうしたいかが一番大事だと思ってる。仕事も育児も、どっちも真奈にとって大切なものだし」

「うん……」

 私は結衣が眠る寝室のドアをそっと開けた。小さな寝息が静かに響く。

 まだ漠然とした思い。でも、もし家族が増えたら、私たちはどうなるんだろう。

 彩乃が母になった。

 私は、これからどんな道を選んでいくのだろう。

 結衣の寝顔を見つめながら、そっと未来のことを思い描いた。


8.4.3 新たな一歩

  姉の出産に立ち会ったあの日から、数日が経った。

 智輝は小さくて温かくて、まるで光みたいだった。

 泣きながら生まれてきたその姿を思い出すと、「命ってすごいな」と改めて思う。

 私は、一度死にかけた。

 事故に遭って、意識が戻らなかったときのことは、今でも夢のようにぼんやりとしている。でも、目を覚ましたときに姉が手を握っていて、それを見て「私はまだここにいるんだ」と思った。

 あのとき、姉が「生きていてくれてありがとう」って言ってくれた。

 だから、私も智輝に「生まれてきてくれてありがとう」と伝えたかった。

 今日は仕事復帰の日。

 久しぶりにスーツを着て、オフィスのドアを開けると、すぐに同僚たちが「おかえり!」と声をかけてくれた。

「もう体は大丈夫なの?」

「うん、大丈夫! ありがとう」

 上司も「無理せず、ゆっくり慣れていけばいいから」と気遣ってくれた。

 デスクに座ると、久しぶりの仕事の感覚がじわりと戻ってくる。

 私はこの仕事が好きだ。

 お客様の旅の計画を一緒に考えて、理想の旅行を形にする。それが誰かの人生の思い出になったり、特別な時間になったりするのが嬉しい。

「よし、頑張ろう」

 新しい気持ちで、私はまた一歩踏み出す。

 仕事が終わったあと、その足で彩乃の家へ向かった。

 チャイムを鳴らすと、すぐに姉が出てきた。

「咲希、おかえり!」

「ただいま。仕事、無事に復帰したよ」

「そっか、よかった」

 リビングに入ると、智輝がベビーベッドの中で小さく手足を動かしていた。

「まだ、ちっちゃいね」

「ほんとに。毎日見てるのに、なんか不思議な感じ」

 彩乃は智輝を優しく見つめながら、笑った。

 私はその顔を見て、ぽつりと言った。

「……お姉ちゃんが母親になったって、やっぱりまだちょっと不思議」

「私も。自分が母親になったなんて、実感が湧くような、湧かないような……でも、この子がここにいるのは、確かなんだよね」

 彩乃が智輝の小さな手を握る。

「咲希も、無理しすぎないようにね。仕事、大変なこともあると思うけど」

「うん。でも、やっぱりこの仕事が好きだから。大丈夫」

 新しい命、新しいスタート。

 それぞれが、自分の人生をまた歩き出している。

 智輝が小さな手をぎゅっと握った。

 その仕草が、まるで「がんばれ」と言ってくれているみたいで、私はそっと笑った。


8.4.4 日常へ

  退院してから数日が経ち、少しずつ智輝との生活にも慣れてきた。

 慣れてきた、とは言っても、まだまだ戸惑うことばかりだ。

 昼夜関係なく泣く智輝をあやしていると、一日があっという間に過ぎていく。寝不足で頭がぼんやりすることもあるし、自分のための時間はほとんどない。でも、智輝の小さな手を握ると、不思議と疲れも吹き飛ぶ気がした。

「お腹すいたの?」

 智輝が小さく泣き声をあげる。授乳をして、寝かしつけて、やっと静かになった頃、そっとベビーベッドに寝かせる」

 ゆっくりと息をつき、カーテンを開けると、夜空が広がっていた。

 ふと、考える。

 この子が大きくなったとき、私はどんな母親だと思われるんだろう?

 優しい母親? それとも、頼れる母親?

 智輝がどんなふうに成長していくのか、まだ想像もつかないけれど、私はこの子がどんなときも安心して帰ってこられる場所でいたい。

「おやすみ、智輝」

 頬にそっと触れると、智輝は安心したように小さく息をついた。

 仕事に復帰してから、毎日が慌ただしく過ぎていく。

 カウンセリングの予約が立て込んでいて、一つひとつの相談に全力で向き合っていると、気づけばもう夕方になっていることも珍しくなかった。

 やりがいはある。やっぱりこの仕事が好きだ。

 でも、結衣と過ごす時間は、育休中と比べてどうしても少なくなってしまった。

 今日も、帰宅するとすでに寝ていた。

 寝顔を見ながら、そっと小さな手を握る。

「結衣、ママはちゃんとママでいられてるかな」

 そう問いかけても、返事はない。でも、握った手がわずかに動いて、小さく指を絡めてくる。その温もりに、少しだけ安心した。

 仕事も、育児も、どちらも大切にしたい。

 まだまだ手探りだけれど、私もまた、新しい日々の中で成長していけるはずだ。

 夜が深まる中、窓の外には穏やかな星空が広がっていた。


8.5 新しい未来へ

8.5.1違和感

 朝から体が重い。目覚めた瞬間から疲れが抜けていないような感覚があった。

「寝不足かな……?」

そう思いながらも、最近は特に遅くまで仕事をしているわけでもない。結衣の寝かしつけが終わったあと、自分もなるべく早めに寝るようにしていた。それなのに、疲れが取れない。

それだけではない。ここ数日、食欲が落ちている。大好きなコーヒーの香りに、なんとなく胸がむかむかする。夕飯の準備をしているとき、炒め物の匂いにふいに鼻をつまみたくなった。

「もしかして……」

頭に浮かんだ考えをすぐには認めたくなかった。

昼休み、職場の同僚とランチに行ったときも、食べている途中でなんとなく箸が止まってしまった。周りの同僚たちが楽しそうに話す声が遠くに聞こえる。ふと、同じような感覚を過去に覚えたことがあることに気がついた。

結衣を妊娠したとき。

心臓が、どくん、と大きく鳴る。

「いや、でも……」

仕事も順調で、家庭も落ち着いていて、今の生活に特に変化はないはずだった。考えすぎかもしれない。そう言い聞かせながら、午後の仕事に戻った。


その日、帰り際に突然の吐き気に襲われた。

「っ……」

職場のトイレに駆け込み、冷たい水で顔を洗う。鏡に映る自分の顔色が悪い。

「やっぱり……」

これまでの違和感が、すべてひとつの可能性につながった気がした。

帰り道、ふらりとドラッグストアへ入る。手に取った妊娠検査薬の箱が、なんだか妙に重く感じた。レジへ向かう足が少し震えている。

帰宅後、結衣を寝かしつけ、颯真がシャワーを浴びている間に、ひとりで検査薬を使った。

静まり返る部屋の中で、時間が過ぎるのを待つ。

――結果は、陽性。

妊娠している。

その事実が目の前に突きつけられた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。でも、それと同時に、不安が押し寄せてくる。

「嬉しいけど……仕事をまた休むことになる」

結衣のときと違って、今は仕事が本格的に軌道に乗っている。自分のキャリアを止めるのは怖い。でも、新しい命を授かったことが嬉しくないわけじゃない。

複雑な感情が渦を巻き、真奈は無言で検査薬を握りしめたまま、しばらく動けずにいた。


8.5.2「報告と葛藤」

 夜、リビングのソファに座り、ぼんやりと手のひらを見つめていた。

颯真は仕事から帰ってきて、今はシャワーを浴びている。結衣はすでに寝室で眠っている。家の中は静かで、時計の針の音だけが微かに響いていた。

そっと深呼吸をしてみる。でも、胸の奥が重いままだ。

「言わなきゃ……」

そう思っても、言葉にするのが怖かった。

バスルームのドアが開き、颯真がリビングに入ってくる。タオルで髪を拭きながら、「ふぅ、今日も疲れた」と軽く伸びをする。その姿を見て、いつものように「お疲れさま」と声をかけようとした。でも、喉の奥で言葉が詰まる。

「真奈?」

声をかけられて、ようやく顔を上げた。

「ちょっと、話したいことがあるの」

私の声が少し震えていたのか、颯真の表情が柔らかく変わる。「うん」と頷き、隣に腰を下ろした。

「……今日ね、妊娠検査薬を試してみたの」

そう言いながら、震える手でテーブルに検査薬を置いた。

「結果は……陽性だった」

颯真は一瞬驚いたように目を見開いた。でも、すぐに表情がほどけて、「そっか」と呟くように言った。

そして、少しの沈黙のあと、

「おめでとう」

そう言って、優しく微笑んだ。

「……ありがとう」

言葉を返しながらも、私の心は晴れなかった。

それに気づいたのか、颯真は真剣な表情で私を見つめる。

「……でも、不安なんだろ?」

「……うん」

喉の奥がつまる。

「仕事も軌道に乗ってきたのに……また休まなきゃいけないかもしれない。せっかく戻ってきたのに、またキャリアを中断するのが怖い」

「……そうだよな」

颯真は、しばらく考えるように目線を落とした。そして、ゆっくりと口を開く。

「無理に答えを出さなくていいよ」

「え?」

「今すぐに決めなくてもいい。俺たちは夫婦だし、家族なんだから……一緒に考えていこう」

颯真の言葉に、張りつめていたものが少しだけほどけた気がした。

「どうしたらいいんだろう……」

思わず口から出た言葉は、私自身の心の奥底に向けた問いだった。

でも、すぐに答えを出せなくてもいい。そう思えただけで、少しだけ気持ちが軽くなった。


8.5.3「ペンを握る」

 夜が静かに更けていく。

智輝を寝かしつけたあと、私はそっとベッドを抜け出した。隣で眠る小さな寝息を確認しながら、そっと部屋のドアを閉める。

リビングに戻り、机に向かう。目の前には、まだ真新しいノートと、久しぶりに持つペン。

――書こう。

そう思った瞬間、ふと、遠くの部屋から智輝の寝息が聞こえた気がした。

母になって、私は変わったのだろうか。

今までのように、好きな時間に書いて、思うままに表現する生活とは違う。迅は遠征で家を空けることも多く、夫婦二人の頃とは比べものにならないほど毎日が慌ただしい。だけど、不思議と苦ではなかった。

むしろ、目の前にある小さな命が、私に新しい視点を与えてくれる。

「この経験を形にすることで、誰かの支えになれるかもしれない」

そんな思いが、心の奥から湧き上がる。

ペン先がノートに触れ、最初の文字を書き出す。

“はじまりは、一つの小さな命だった。”

その言葉が、自分の中にしっくりと馴染むのを感じた。

――家族が増えるって、きっと大変なこともある。でも、それ以上に得られるものがある。

智輝の寝顔を思い浮かべながら、私は物語を綴り始める。

気づけば、窓の外には朝焼けが広がっていた。

新しい未来の始まりを予感させる、優しい光が。

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