第8章 家族のかたち②
8.3 彩乃の出産
8.3.1 始まりの夜
夜の静けさの中で、鈍い痛みが腹部に広がった。最初は軽い違和感程度だったが、やがてじわじわと強まっていく。
——もしかして、前駆陣痛?
そう思いながらも、彩乃は深呼吸をしてベッドに横たわった。最近はお腹が張ることも増えていたし、この時期になればこういうこともあると聞いていた。焦らず、落ち着いて。
しかし、時間が経つにつれて痛みは徐々に増し、波のように襲ってくる間隔が短くなっていることに気づく。時計を確認すると、最初の痛みからすでに一時間が経過していた。
——まさか、これが本当の陣痛……?
じわりと緊張が走った。こういうとき、迅がいてくれたら。だが、今は遠征中で家にはいない。昨日の夜、試合のあとに「あと数日で戻れるよ」と電話で話したばかりだったのに。
急いでスマートフォンを手に取り、迅に電話をかける。コール音が響くが、なかなか応答しない。遠征先でのスケジュールが詰まっていることは知っている。もしかしたらミーティングか、移動中なのかもしれない。
「……出ない、か」
もう一度かけるべきか迷ったが、まずは自分でできることをしようと気を取り直す。陣痛が本格的なら、病院へ向かわなくてはならない。
——咲希。
すぐに咲希に電話をかけた。
「もしもし、彩乃?」
「咲希……ごめん、夜遅くに。ちょっとお願いがあって」
「うん、大丈夫。どうしたの?」
「多分、陣痛が始まったかもしれない……病院まで連れて行ってくれる?」
電話越しの咲希の息を呑む音が聞こえたのも束の間、「すぐ行く!」と力強く答えた。
通話を切った後、バッグに入れていた母子手帳や入院グッズを再確認する。心臓が強く鼓動を打つ。いよいよ、この日が来たんだ——そう思うと、不安とともにじんわりと込み上げてくるものがあった。
——大丈夫、私は一人じゃない。
そう自分に言い聞かせながら、彩乃は深く息を吐いた。
8.3.2 支える人
「大丈夫?ゆっくりでいいから」
咲希は彩乃の腕を支えながら、慎重に歩を進める。夜の冷たい空気の中、車へと向かう途中でも彩乃は何度か立ち止まり、深く息を吐いていた。
「……結構、痛い?」
「うん……でも、まだ耐えられる。今は間隔が短くなってきてるから、早めに病院行った方がいいよね」
咲希は頷くと、彩乃を後部座席に乗せ、すぐに車を出した。夜の道は空いていたが、信号が変わるのがやけに長く感じる。
「迅くんには連絡ついた?」
「まだ……出られないみたい。でも、もう一度かけてみる」
彩乃がスマートフォンを操作するが、やはり応答はない。咲希はミラー越しに姉の表情を盗み見た。少し不安そうに唇を噛みしめている。
「大丈夫、ちゃんと間に合うように連絡つくよ」
「うん……そうだよね」
咲希はそう励ましながら、アクセルを少し踏み込んだ。
病院に着くと、すぐに助産師が彩乃を迎え入れた。
「陣痛の間隔は?」
「10分くらいです……」
簡単な問診の後、彩乃は車椅子に乗せられ、診察室へ。咲希もすぐに付き添い、医師の診察を待つ。
「陣痛は本格的に始まっていますね。ただ、子宮口の開きはまだ3センチ程度です」
「……まだ、そんなものなんですか?」彩乃が驚いたように尋ねる。
「ええ。初産の場合は時間がかかることが多いです。おそらく、しばらくは陣痛室で様子を見ましょう」
長丁場になるかもしれない——そう告げられた瞬間、彩乃の表情がわずかに曇った。
「そんな……」
咲希はすぐに手を握った。
「大丈夫、私がついてるから」
彩乃が少しだけ笑みを見せ、「ありがとう」と小さく呟く。
それから数時間が経過した。
陣痛室の時計の針がゆっくりと進む中、彩乃はベッドの上で何度も深呼吸を繰り返す。時折強い痛みに顔をしかめながら、助産師の指示に従って姿勢を変えたり、少しだけ歩いたりもした。
「はぁ……っ、痛い……!」
陣痛の波が来るたびに、彩乃はシーツを強く握る。咲希は傍らで水を差し出し、背中をさすった。
「すごいよ、お姉ちゃん。こんなに痛いのに頑張ってる」
苦しそうな姉の姿を見ていると、胸がぎゅっと締めつけられる。
「母になるって、こんなに大変なんだ……」
かつて、彩乃は自分をこうして産んでくれたのだろうか。自分がこの世に生まれた瞬間も、こんな風に誰かが寄り添っていたのだろうか。
——「家族の形」。
最近、考えることが増えた言葉が頭をよぎる。自分も、彩乃の子どもにとっての「家族」になれるのだろうか。
「お姉ちゃん、もう少しだからね」
小さく呟いた声が、彩乃の耳に届いたかはわからない。それでも、咲希は姉の手を握り続けた。
8.3.3 間に合うのか
部屋に戻った迅は、いつものようにスポーツバッグをベッドに置き、軽くストレッチをしながらスマートフォンを手に取った。だが、画面に並ぶ着信履歴を見た瞬間、その動きが止まる。
咲希(5)
彩乃(3)
一瞬、心臓が跳ね上がる。こんなに立て続けにかかってくるのは、普通じゃない。急いで咲希の番号をタップすると、コール音が数回鳴った後、慌ただしい声が返ってきた。
「迅くん!? 今どこ?」
「遠征先だ、どうした?」
「お姉ちゃんと病院にいる。陣痛が始まってる」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になる。
「……え、陣痛?」
「そう。もう本格的に来てるって。すぐ帰れる?」
「待ってろ、すぐ行く」
通話を切るなり、迅は荷物を掴んで部屋を飛び出した。
遠征先のホテルのロビーに駆け込み、スタッフに声をかける。
「すみません、急用で東京に戻りたいんですが、今すぐ空港に行けますか?」
スタッフが驚いた顔をしながらも、「何かあった?」と尋ねる。
「妻が、陣痛が……」
それだけ言うと、すぐに理解してくれたのか、スタッフは動き出した。チームのマネージャーにも連絡を入れ、最短で空港に向かう手段を探してくれる。
「今すぐタクシーを手配する。フライトは……たぶん、最終便にギリギリ間に合うかどうか」
迅は焦る気持ちを押さえながら、スマートフォンでフライト情報を確認する。最終便まであと1時間。空港までの距離を考えると、ぎりぎりのタイミングだ。
「頼む、間に合ってくれ……」
タクシーの中、迅は何度もスマートフォンを握りしめ、画面を確認する。咲希からのメッセージがひとつ届いていた。
「まだ時間はかかるみたい。でも、できるだけ急いで」
「時間はかかる」——それは、間に合うかもしれない、という希望でもある。しかし、確実な保証はない。
「俺がそばにいない間に産まれたらどうしよう」
その不安が、じわじわと胸を締めつける。
「間に合わなかったら——」
考えたくもない未来が頭をよぎる。
「……クソッ」
自分は何をやってるんだ。彩乃が一番大変なときに、こんな遠くにいるなんて。
「せめて、あと数日早く戻っていれば……」
後悔ばかりが募るが、それよりも今は、一刻も早く帰ることが先決だ。
タクシーの速度が少し緩んだのを感じて、迅は顔を上げる。
「運転手さん、もう少し飛ばせませんか?」
「すみません、これが限界です」
迅は奥歯を噛みしめた。
「頼む……間に合ってくれ……!」
震える指で、もう一度スマートフォンを握りしめた。
8.3.4 真奈の思い
真奈はデスクに置いていたスマートフォンを何気なく手に取った。
咲希(1)
「——っ!」
嫌な予感がして、すぐに通話ボタンを押す。
「もしもし、咲希ちゃん? どうした?」
「真奈さん、お姉ちゃんが……陣痛が始まった。今病院にいる」
「本当に?」
「うん、まだ時間はかかりそうだけど……できたら来てもらえたら」
その言葉を聞いた瞬間、真奈は立ち上がり、ロッカーからバッグを取り出した。
「すぐ行く。ちょっと待ってて」
通話を切ると、急いで上司に事情を説明し、タクシーを呼んだ。
「彩乃、ついに……」
タクシーの窓の外を眺めながら、真奈はそっと胸元を押さえた。
ついこの間まで、お腹の中に命が宿るということ自体が、どこか不思議な感覚だったのに。気づけば、彩乃はもう母親になろうとしている。
「私も、結衣を産むとき、こんなふうにみんなが駆けつけてくれたんだよね……」
思い返せば、自分の出産のときは颯真がずっとそばにいてくれた。痛みと不安に押しつぶされそうになりながらも、あのとき彼がいたから、乗り越えられた気がする。
「彩乃も、迅くんが間に合うといいけど……」
不安と期待が入り混じるなか、スマートフォンを手に取る。颯真に連絡を入れ、事情を伝えた。
「——そうか。結衣は俺が見てるから、気にせず行ってこい」
颯真の迷いのない声に、真奈の肩の力が抜ける。
「ありがとう。こういうときに支え合えるのが家族だよね」
「当たり前だろ。真奈だって、俺がピンチのとき支えてくれるじゃん。彩乃ちゃんのために真奈の力が必要だよ」
その言葉に、小さく笑みがこぼれる。
「……うん、行ってくる」
電話を切ると、タクシーはもう病院の近くに差し掛かっていた。
病院の正面玄関でタクシーを降りた真奈は、足早に受付へ向かった。
「宮原彩乃さんの付き添いで来ました。橘です」
「どうぞ、産科のナースステーションへ」
言われた通りに進むと、椅子に座っている咲希の姿が見えた。
「真奈さん!」
「彩乃は?」
「まだ陣痛が続いてる。思ったより時間がかかるみたい……」
咲希の顔には疲れがにじんでいたが、それ以上に姉を支えたいという強い気持ちが伝わってきた。
「……大丈夫。きっと、もうすぐ会えるよ」
自分自身の経験を思い返しながら、そう言って咲希の肩に手を置いた。
「うん……」
その瞬間、真奈の心にふと、言葉にならない感情が芽生えた。
——また、もう一度。
自分の中に、命を宿す日が来るのだろうか。
そんな思いが、胸の奥にそっと落ちていった。
8.3.5 迎える瞬間
病院の廊下に響く、彩乃の苦しげな声。
分娩室の扉の向こうで、命が生まれようとしている。
真奈が病院に到着したのは、深夜に差し掛かる頃だった。
咲希からの連絡を受け、颯真に結衣を預けて急いできた。
病室に入ると、彩乃は汗で髪が額に張りつき、呼吸を整えようと懸命だった。
咲希がそばで手を握り、励ましている。その姿はいつもの快活な咲希ではなく、姉を必死に支える妹の顔だった。
「彩乃、大丈夫?」
真奈がそっと声をかけると、彩乃は顔を上げ、かすかに微笑んだ。
「……来てくれたんだね」
力のない声だったが、それでも真奈は彩乃の手をしっかり握った。
「もちろん。こんな大事な瞬間にいないわけないでしょ」
真奈が言うと、彩乃はゆっくりと頷いた。その瞳には、痛みだけでなく、どこか安心したような色も浮かんでいた。
その後、彩乃と咲希の両親も駆けつけた。
「彩乃……!」
母親がそばに寄り、優しく背中をさする。父親は言葉少なだったが、それでも娘を見つめる目は温かい。
「お母さん……」
彩乃が苦しそうに呼ぶと、母親はそっと髪を撫でた。
「頑張ってるわね。もうすぐよ」
咲希がそばで彩乃の手を握りしめ、真奈も横に立って支える。
家族が一つになって、この瞬間を乗り越えようとしていた。
その頃、迅はようやく病院に到着した。
フライトが遅れ、タクシーを飛ばして病院へ向かったが、思った以上に時間がかかってしまった。
「彩乃は?」
病院に駆け込むと、すぐに咲希が迎えに来た。
「まだ……でも、長いみたい」
迅は焦る気持ちを抑えながら、病室へ向かう。
扉を開けた瞬間、彩乃がこちらを向いた。
「迅……!」
彼女の声は震えていたが、目を潤ませながら、どこか安心したように見えた。
「遅くなってごめん……!」
迅は彩乃の手を握る。
「来てくれただけで、十分……」
彩乃の顔が安堵に満ちる。迅はその手を握り返し、ただひたすらそばにいた。
長時間にわたる陣痛の末、助産師の声が響く。
「もうすぐ産まれますよ!」
空気が一気に変わった。
彩乃の表情が引き締まる。
「ふぅ……っ!」
呼吸を整え、最後の力を振り絞る。迅はその手を握りしめ、咲希や真奈も固唾をのんで見守る。
「……あともう少し!」
そして――
産声が響いた。
「おぎゃあああああ!」
力強く、はっきりとした泣き声。
「……産まれた……?」
彩乃の目から涙がこぼれた。
助産師が赤ちゃんを抱き上げ、彩乃の胸にそっと乗せる。
「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」
赤ちゃんは小さな手をぎゅっと握りしめ、まだ目を開けていないのに、まるでこの世界に力強く生きようとしているようだった。
「智輝……」
迅がそっとその名前を呼ぶと、赤ちゃんの手がぴくりと動いた。
「……智輝」
彩乃も涙を流しながら、その小さな命を抱きしめる。
新しい命が、ここに誕生した。
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