第8章 家族のかたち①

8.1 変化のはじまり

8.1.1「母になる準備」

 雨の音が窓を叩く午後、彩乃はノートパソコンに向かいながら、静かに息を吐いた。

妊娠8ヶ月。お腹はすっかり大きくなり、椅子に長時間座るのもひと苦労だった。背もたれに深くもたれかかると、少しは楽になるものの、すぐに腰に痛みが走る。最近は執筆に集中するのも難しくなり、締め切り前の焦りとともに、思うように進まないもどかしさが募っていた。

「……ちょっと休もう」

そう呟きながら、彩乃はそっとお腹に手を当てた。中で小さな命が動くのを感じる。

「元気だね……」

そう言うと、またトン、と小さな蹴り返しがあった。まるで「ちゃんと休んで」と言われているようで、彩乃は微笑んだ。

近くのテーブルには母親学級でもらった冊子が置いてある。妊娠後期に入ると、赤ちゃんはお腹の中でどんどん成長し、母体も出産に向けて準備を整えていく——そんな内容が書かれていた。

「母になること……か」

実感は少しずつ湧いてきているものの、それ以上に不安も膨らんでいた。

迅はできる限り家事を手伝おうとしてくれていた。洗濯や食器洗い、部屋の掃除。できる範囲で頑張ってくれているのはわかる。でも、彼はバスケットボール選手だ。試合や遠征が重なると、どうしても家を空けることが増える。

「彩乃、大丈夫?」

そう気遣ってくれるのは嬉しい。でも、忙しそうに荷造りをする迅を見ていると、「大丈夫」としか言えなかった。

一人で過ごす時間が増えれば増えるほど、心細さも募る。

「このまま、出産の日も一人だったらどうしよう……」

そんな考えが頭をよぎり、彩乃は小さく首を振った。

その日の夜、ちょうど結衣の寝かしつけを終えた頃だったのだろう、真奈から電話がかかってきた。

「彩乃、調子どう?」

「うーん……お腹が重いよ。あと、腰痛がやばい」

「わかる! 私も妊娠後期、立つのもしんどかったもん」

真奈の軽快な声を聞いて、彩乃は少し気持ちがほぐれる。

「でもね、出産したらしたで、今度は寝不足との戦いが始まるよ。結衣が新生児のときなんて、夜中に何度も泣かれて、そのたびに授乳して……寝る時間? ほぼなかった!」

「……え、そんなに?」

「覚悟しといたほうがいいよ〜。しかもね、産後はホルモンバランスの変化で情緒不安定になるし、身体もしんどいし、正直めちゃくちゃ大変だった」

「……真奈、それ、今言う?」

「事前に知っといたほうが心構えできるでしょ?」

くすっと笑う真奈の声が、彩乃の不安を少し軽くする。

「でも、どんなに大変でも、赤ちゃんがいるってすごく幸せなことだよ。初めて抱っこした瞬間、すべてが報われる感じがしたし」

その言葉に、彩乃は静かに目を閉じた。

——私も、そう思える日が来るのかな。

「ねえ、彩乃」

「ん?」

「一人で頑張ろうとしないで。頼れるときは、ちゃんと頼るんだよ」

真奈の優しい声に、彩乃は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


8.1.2「復帰への決意」

 真奈は朝のキッチンで、結衣の離乳食を用意しながら考え込んでいた。

最近、仕事復帰について考える時間が増えた。結衣はもうすぐ1歳。少しずつ手がかからなくなってきたとはいえ、まだまだ目が離せない。でも、そろそろ自分のキャリアを再開しなければという焦りもあった。

「ママ、んー!」

結衣がスプーンを指さしながら、小さな手を伸ばしてくる。その仕草に思わず微笑みながら、真奈は柔らかく煮た野菜を口元に運んだ。

「はい、あーん」

ぱくっと口を開ける結衣。育児は大変だけど、その瞬間瞬間が愛おしい。

——仕事に戻ったら、こういう時間が減るのかな。

そんなことを考えると、胸の奥に少しだけ寂しさが広がった。

揺れる気持ち

颯真がリビングにやってきたのは、ちょうど真奈が結衣の食事を終えたころだった。

「おはよう。今日、病院でカンファレンスがあるから、帰り遅くなるかも」

「そっか。じゃあ夕飯は私がやるね」

「悪いな。でも、最近結衣も寝るの早いし、帰ったら寝顔だけでも見られるかな」

「うん……」

言葉に少し詰まる。真奈も病院に戻れば、こんなふうに育児と仕事のバランスを考えながら過ごすことになる。それができるのか——いや、やるしかないのかもしれない。

「颯真、私、仕事復帰のこと考えてるんだけど……」

「……そろそろ、ってこと?」

「うん。でも、まだ結衣も小さいし、どうするのがいいのか……」

「俺としては、もう少し家にいてもいいんじゃないかって思うけど」

「でも、復帰が遅くなればなるほど、職場に戻りづらくなるし、感覚も鈍っちゃう気がして……」

「それはわかる。でも、仕事と育児を両立するのって、すごく大変だよ。結衣はまだ手がかかるし、真奈が復帰しても、結局大変なのは真奈のほうなんじゃないか?」

真奈はぎゅっと拳を握った。

「それって、私に家にいてほしいってこと?」

「そうじゃない。でも、現実的に考えて、俺は仕事の時間が不規則だし、サポートできる時間には限りがある。それでも大丈夫なのか、ちゃんと考えたほうがいいと思って」

「……」

確かに、颯真の仕事も忙しい。でも、それを理由にしてしまうと、結局自分ばかりが負担を抱えることにならないか——そんな思いが頭をよぎった。

「もう少し、話し合おう」

真奈は静かにそう言った。

その日の午後、真奈は結城千尋にメッセージを送った。千尋は大学時代の実習でお世話になった先輩で、今は颯真と同じ病院で働くカウンセラーだ。

「仕事復帰のことで悩んでるんですが、少しお話できますか?」

すぐに返事が来た。

「ちょうど休憩中だから、電話しようか?」

しばらくして、スマホから千尋の落ち着いた声が響いた。

「仕事復帰のこと、悩んでるんだって?」

「はい。結衣がもうすぐ1歳になるし、そろそろ戻る時期かなって。でも、仕事に戻ったら結衣と過ごす時間が減るし、家事育児の負担が増えるのも不安で……」

「うん、その気持ち、すごくわかる。仕事と育児、どっちを優先するかって、簡単には決められないよね」

「はい……。颯真も協力はしてくれるけど、やっぱり仕事が忙しくて、どこまで頼れるのか不安で……」

「なるほどね。真奈はさ、どうしたいの?」

「……私は、仕事に戻りたいです。でも、それが本当に今なのか、自信がなくて」

千尋は少しの間を置いてから、優しく言った。

「どのタイミングが正解かなんて、きっと誰にもわからないよ。でもね、一つだけ言えるのは、『やりたいと思ったときが、踏み出すとき』だってこと」

「……やりたいと思ったときが、ですか?」

「そう。もちろん、無理はしちゃいけない。でも、復帰したい気持ちがあるなら、その気持ちを無視しないほうがいい。自分の人生だからね」

真奈は深く息をついた。

「……ありがとうございます。少し、気持ちが整理できました」

「うん。どんな選択をしても、後悔しないようにね」

千尋の言葉は、迷いの中にいた真奈の背中をそっと押してくれた気がした。

その夜、真奈がリビングでぼんやりしていると、彩乃から電話がかかってきた。

「もしもし?」

「真奈、今大丈夫?」

「うん、大丈夫。どうしたの?」

「仕事と育児の両立って、どう思う?」

彩乃の言葉に、真奈は思わず苦笑した。

「奇遇だね。私もちょうどそのことで悩んでたところ」

「そっか……。私、もうすぐ出産だけど、仕事も続けたい。でも、母親になるってどういうことなんだろうって、考えちゃって」

「……わかる。私もずっと考えてた。でもね、今日千尋さんと話して、少しだけ答えが見えた気がする」

「どんな答え?」

「完璧に両立することはできない。でも、それでいいんだって。仕事をすることで得られるものもあれば、育児をすることで得られるものもある。だからこそ、自分が今何を大事にしたいのかを考えるのが大事なのかも」

「……そっか」

「彩乃も、無理しないでね。お腹の子も、彩乃が頑張りすぎるのはきっと嫌だと思うよ」

電話の向こうで、小さな笑い声が聞こえた。

「ありがとう、真奈。なんか、ちょっと気持ちが楽になったかも」

「それならよかった」

育児も仕事も、簡単なことじゃない。でも、それでも自分なりの答えを見つけながら進んでいくしかない。

そう思いながら、真奈はそっと結衣の寝顔を見つめた。


8.1.3「すれ違う想い」

 リビングのテーブルの上には、育児グッズのカタログが広がっていた。ベビーベッド、ベビーカー、哺乳瓶、オムツ——どれを選ぶべきか迷うものばかりだ。

「……これにしようかな」

彩乃はカタログのページをめくりながら、メモを取る。迅と一緒に選びたいと思っていたが、彼は試合や遠征で忙しく、ゆっくり話し合う時間が取れないままだった。

最近はすれ違いが増えている。帰ってきても、疲れた様子で食事をとり、少し会話をしたかと思えばすぐに寝てしまう。

「仕方ないよね、仕事なんだから」

わかっているつもりだった。それでも、寂しさが募るのを止めることはできなかった。


その日も、彩乃は一人で出産準備を進めていた。

育児用品のリストをチェックし、必要なものをネットで注文する。入院準備のためのバッグも少しずつ整えていく。

「……あとは、ベビーカーか」

迅に相談しようと思い、スマホを手に取ったが、今はちょうど遠征中で、連絡が取れるかどうかわからない。

ふと、カタログの隅に書かれた「パパとママで選ぶ、初めての育児グッズ」という文字が目に入った。

「……私、一人でやってるな」

出産は二人のことなのに、準備をしているのは自分ばかり。もちろん、迅が仕事で忙しいのは理解している。だけど、こうやって一人で決めることが当たり前になってしまうのは、少し違う気がした。

その夜、久しぶりに迅が帰宅した。

「おかえり」

「ただいま。……疲れた」

ソファに座り、深く息をつく迅。その姿を見て、彩乃は言葉を飲み込んだ。本当は、出産や育児について話したいことがたくさんある。でも、疲れている彼に、それをぶつけるのは気が引けた。

それでも、話さなければ伝わらない。

「ねえ、ベビーカーのことなんだけど」

「ん?」

「そろそろ決めようと思ってるんだけど、どれがいいか一緒に選びたいなって」

「今?」

迅がちらりと時計を見る。

「悪い、明日でもいい?」

「……明日はまた遠征だよね?」

「まあ、でも時間作るよ」

「そう言って、いつも結局話せないままになってる」

彩乃の声が少し強くなった。迅が驚いたように彼女を見る。

「そんな言い方しなくても……俺だって、何もしようとしてないわけじゃないだろ?」

「わかってる。でも、私は一人で母になるんじゃないの。二人でやりたいの」

思わず口にして、はっとした。

迅の表情が曇る。

「……そんなふうに思ってたのか?」

「思いたくなんてない。でも、私ばっかり準備を進めて、迅はいつも忙しくて……」

「それは俺の仕事だろ。俺が家にいられない分、できることはやってるつもりだ」

「でも、それで本当に“二人で”育てていけるの?」

言葉が途切れる。部屋の中に、重たい沈黙が落ちた。

「……ごめん、少し考えさせて」

そう言って、彩乃はリビングを後にした。

翌日、迅は遠征のため、朝早くに家を出た。

一人になったリビングで、彩乃は昨夜のやりとりを思い返す。

「言い過ぎたかな……」

でも、不安だった。本当に二人でこの子を育てていけるのか。

そのとき、スマホが震えた。迅からのメッセージだった。

「昨日はごめん。話し合う時間、作るから」

「俺も、ちゃんと一緒にやりたいと思ってる」

短い言葉だった。でも、そこに迅の不器用な優しさが滲んでいた。

彩乃はゆっくりと息を吐き、返信を打つ。

「ありがとう。帰ってきたら、一緒に選ぼう」

すぐに、

「わかった」

と返ってきた。

彩乃はスマホを握りしめながら、心の中で小さくつぶやく。

「二人で、ちゃんと話し合っていかなきゃね」

不安が消えたわけではない。でも、少しだけ、前に進める気がした。


8.1.4「新しい未来へ」

 朝のリビング。結衣が床に座り込み、小さな手で絵本をめくっている。まだ言葉はおぼつかないが、興味深そうにページをめくる姿に、真奈は思わず微笑んだ。

カレンダーには、来月の真奈の仕事復帰の日が丸印でつけられている。

「本当に復帰するんだな……」

そう思うと、胸の奥に期待と不安が入り混じる。

結城千尋に相談したことで、自分が本当にやりたいことを見つめ直すことができた。

「結衣と一緒にいる時間は大切。でも、私はカウンセリングの仕事を続けていきたい」

その気持ちが揺るがないことを確認し、真奈は再びカレンダーを見つめた。

その夜、颯真と家事や育児の分担について改めて話し合った。

「俺もできるだけ協力するけど、どうしても夜勤とかで家を空ける日がある」

「分かってる。でも、私も仕事を続けていくなら、お互いに協力し合わないとね」

「そうだな。完璧じゃなくても、二人でやっていけるようにしよう」

颯真の言葉に、真奈はほっとした。家庭と仕事、その両方を大切にする道を、一歩ずつ進んでいこうと思った。

病院のリハビリ室。咲希は両手を軽く開きながら、一歩ずつ歩を進めていた。

「調子いいですね、高橋さん」

理学療法士の声に、咲希は「はい」と笑顔で答えた。

「歩くのは問題なくなってきたし、そろそろ本格的に仕事復帰も考えないとね」

とはいえ、以前と同じように働けるかどうか、不安はあった。

旅行代理店の営業として走り回る日々は充実していた。でも、事故を経験してから、自分の働き方や人生そのものを見つめ直すようになった。

「私、本当にまたあの仕事を続けたいのかな……」

そんなことを考えていたとき、姉・彩乃の妊娠が頭をよぎる。

「彩乃も新しい家族を作ろうとしてるんだよね」

その事実が、咲希の心に静かに広がっていった。

「私も、これからの人生をしっかり考えないと」

ただ以前に戻るのではなく、自分に合った新しい道を探していきたい。

そう決意したとき、携帯が震えた。画面を見ると、彩乃からのメッセージだった。

「今度、真奈と3人で会わない?」

咲希は、少し驚きながらも「うん、会いたい」と返信した。

数日後、都内のカフェ。彩乃と真奈、そして咲希が久しぶりに顔を合わせた。

「咲希ちゃん、顔色いいね」

「うん、リハビリも順調。そろそろ仕事のことも考えなきゃって思ってる」

「そっか、私もちょうど仕事復帰の準備を始めたところ」

「私はもうすぐ母になるんだなって、最近ようやく実感してきた」

互いの近況を話しながら、三人はそれぞれの変化を感じ取っていた。

「家族って、思っていたよりも形が変わっていくんだね」

「うん。でも、変わることが悪いわけじゃない」

彩乃の言葉に、咲希と真奈は静かに頷いた。

「それぞれの形で、それぞれの道を進んでいくんだね」

未来はまだはっきりとは見えない。

それでも、自分の足で進んでいこう。

そう思えた瞬間だった。




8.2始まりの兆し

8.2.1「重くなる日々」

窓の外に広がる春の空は穏やかだった。柔らかな風がカーテンを揺らし、鳥のさえずりが遠くに聞こえる。けれど、その心地よさとは裏腹に、彩乃の身体はますます重くなり、動くたびに息が上がるようになっていた。

ソファに腰を下ろし、そっとお腹に手を添える。9ヶ月目に入った赤ちゃんはよく動き、時折強く蹴るたびに、「もうすぐ会えるんだな」と実感する。けれど、それと同時に、出産への不安も押し寄せてくる。

最近、執筆活動はほとんどストップしていた。机に向かって長時間座るのも辛く、何より頭が働かない。原稿を仕上げるより、まずは無事にこの子を産むことに集中しようと決めたものの、仕事から離れることへの焦りもあった。

「ふう……」

何気なくスマホを手に取り、迅の試合スケジュールを確認する。遠征が続いていて、家に帰ってくるのはまだ先。最近はメッセージや電話でやり取りすることが増えたが、やっぱり直接会えない寂しさは埋められない。

(早く帰ってこないかな……)

そう思いながらカレンダーを眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。

「お姉ちゃん、開けてー」

咲希の声だ。

ドアを開けると、咲希は小さな紙袋を抱えていた。「お土産買ってきたよ。疲れてるかなと思って、甘いもの」

「わざわざありがと。入って」

咲希は慣れた様子で家に上がり、キッチンで紅茶を淹れ始める。最近、彼女は頻繁に家を訪れるようになった。リハビリも順調に進み、仕事復帰も決まったことで、以前よりも表情が明るい。

「どう? 体調は」

「うーん……正直、しんどい。ちょっと動くだけで息が切れるし、寝るのも大変」

「そっか。でも、もうすぐだもんね」

咲希は微笑みながら、カップを彩乃の前に置いた。

「ありがと。咲希がいてくれると助かるよ。迅がいないから、家で一人だといろいろ考えちゃって」

「まあね。さすがに9ヶ月で一人は心細いでしょ」

咲希はそう言って、さりげなく掃除機を手に取る。「ちょっと掃除するね」

「え、いいよ、そんなの……」

「いいの。私も暇なわけじゃないけど、リハビリがてらっていうか、今はできることやりたいんだ」

彩乃はその言葉に、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。咲希は咲希なりに、自分を支えようとしてくれている。

「ありがとう、咲希」

「お礼は出産後にね。赤ちゃん抱っこさせてもらうから」

咲希の笑顔を見ながら、彩乃は少しだけ心が軽くなるのを感じた。


8.2.2「咲希の決意」

 「お姉ちゃん、ちょっといい?」

紅茶を一口飲んで、咲希は静かに口を開いた。彩乃はクッションに身を預けながら、「ん?」と顔を上げる。

「私ね、来月から仕事に戻ることになった」

彩乃は驚いて目を見開いた。「え、本当に?」

「うん。まだフルタイムじゃなくて、短時間勤務だけど。でも、もう一度やってみようかなって」

咲希の声には、迷いのない強さがあった。事故で長いリハビリ生活を送ることになり、一時は仕事どころか、普通に歩くことすら難しかった。それが今、再び社会に戻る決意をしたのだ。

「すごいじゃん。……本当に、よかったね」

彩乃は心からそう思った。咲希が前を向いて、自分の人生を取り戻そうとしている。それがどれだけ大変なことか、ずっとそばで見てきたからこそ、胸にこみ上げるものがあった。

「ありがと。でもね……」

咲希は少し言葉を選ぶように視線を落とした。

「お姉ちゃんのそばにいる時間が減るのが、ちょっと心配でさ」

「え?」

「今までみたいに、毎日ここに来るのは難しくなると思う。正直、そばにいてあげたいって気持ちはある。でも、私も私の人生をちゃんと歩かないとって思ったんだ」

彩乃は、咲希の視線の奥にある決意を感じ取った。

「そうだよね……。私のこと気にしてくれるのは嬉しいけど、咲希の人生は咲希のものだもん」

咲希は少しホッとしたように笑った。「うん。でも、完全にいなくなるわけじゃないよ。出産のときはちゃんと付き添うし、困ったことがあったらすぐに飛んでくるから」

「頼りにしてるよ」

姉妹として、支え合う関係は変わらない。だけど、これまでとは少し違う形になっていく。互いに自分の未来を考えながら、それでも寄り添い続ける――。

彩乃は、咲希の決意を尊重したいと思った。


8.2.3「真奈の葛藤」

 夕暮れの病院のスタッフルームで、真奈は静かに書類を閉じた。仕事復帰から数週間が経ち、思っていた以上に順調だった。職場の同僚たちは温かく迎えてくれ、業務の負担も調整されている。新しい担当患者とのセッションも違和感なく進められた。

それでも、心のどこかで満たされないものがあった。

「結衣、もう寝た?」

帰宅してすぐ、颯真に聞くと「うん、さっき寝かしつけたよ」と返ってきた。

「そっか……」

仕事が終わって急いで帰ってきたのに、結衣の寝顔しか見られない日が増えた。朝はバタバタと支度をし、夜は仕事の疲れを抱えながら、ほんのわずかな時間だけ触れ合う。

「母としての時間を削っていいの?」

その問いが、ふと胸をよぎる。

「今日さ、保育園の先生が言ってたんだけど、結衣、お友達と遊ぶのがすごく上手になったんだって」

颯真の何気ない言葉に、真奈は思わず立ち止まる。

「そうなんだ……」

結衣の成長を見逃している気がする。もちろん、子どもは日々成長するし、全部の瞬間に立ち会えるわけじゃない。でも、どうしても胸の奥がざわついた。

「ねぇ、颯真。もう少し家事とか育児、分担増やせないかな……?」

「え?」

「私、仕事に復帰したけど、結衣と過ごす時間が減るのが辛いんだ。だからせめて、もっと家事の負担を減らしたいなって……」

颯真は少し考え込むように腕を組んだ。「うーん……もちろん協力するつもりだけど、俺も仕事があるし、正直これ以上は難しいかな」

「でも、今のままだと私ばっかりバランスを取らなきゃいけない感じがするの」

「真奈だって、仕事復帰するって決めたんだろ? お互いにやれる範囲でやるしかないよ」

言葉のすれ違いに、小さな溝を感じる。

本当は、家事の負担をどうするか以上に、「結衣との時間を削ること」に対する迷いを颯真に理解してほしかった。でも、どんなに言葉を尽くしても、この葛藤は伝えきれない気がした。

その夜、布団に入りながら、真奈はふと思う。

「彩乃は今、どんな気持ちなんだろう」

もうすぐ母になる彼女は、この戸惑いを抱えているのだろうか。それとも、初めての出産に向けて、ただ前を向いているのだろうか。

答えはわからない。だけど、彩乃と話したくなった。母として、そして友人として――。


8.2.4「書くべきこと」

 夕方の柔らかな光がリビングに差し込んでいた。窓の外には静かに暮れていく空が広がり、部屋の中には咲希が淹れたカモミールティーの香りが漂っている。

「お姉ちゃん、少しは休んでる?」

テーブルの向かいでお茶を飲みながら、咲希が優しく問いかけた。

「休んでるよ。っていうか、休まざるを得ないっていうか……。思うように動けないし、何するにも一苦労」

そう言って笑ってみせたものの、実際は少し焦っていた。妊娠9ヶ月を迎え、すでに身動きが取りづらい。迅は遠征が多く、出産の準備はほとんど一人で進めているようなものだった。

「でもね、最近ちょっと思うことがあるんだ」

「何?」

咲希が首を傾げる。

彩乃は少し言葉を選びながら、カップを手のひらで包み込んだ。

「この経験を、文章に残したいなって」

咲希は少し驚いたような顔をした。

「妊娠して、いろんなことを考えた。体の変化もそうだけど、家族との関係とか、これからの人生のこととか……。それに、母になるってどういうことなんだろうって、ずっと考えてる」

「……うん」

「きっと、こういう気持ちって、私だけじゃないと思うんだよね。出産を控えている人、子育てをしている人、それに、昔同じ経験をした人も。だから、この気持ちを言葉にしてみたいなって」

咲希は少しの間黙っていたが、やがて静かに微笑んだ。

「お姉ちゃんらしいね」

「そうかな?」

「うん。前も言ったけど、私にとってお姉ちゃんの本は、ただの本じゃないの。お姉ちゃんがどんなことを考えて、どんなふうに生きてるのかを感じられるから。だから、きっとこの本も、誰かにとってそういうものになるんじゃないかな」

咲希の言葉に、彩乃はじんわりと胸が温かくなるのを感じた。

「そうだったらいいな」

そっとノートを開く。ペンを走らせながら、自分の中に芽生えつつある「母になる」という実感を、少しずつ言葉にしていく。

人生の転機を迎えようとしている今だからこそ、書けるものがあるかもしれない。

そう思いながら、彩乃は新たなページに向き合った。

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