第7章 人生の転機と決断④
7.5 結婚式と新たな人生の始まり
7.5.1 妊娠と結婚準備の両立
結婚式の準備は思った以上に大変だった。妊娠によるつわりが続き、体調は不安定なままで、彩乃は日に日に疲れが溜まっていった。朝起きたばかりの時や、仕事の合間に襲ってくる吐き気に、結婚式の準備のことが頭から離れない。それでも、迅との結婚式は待ったなしでやってくる。両親や友人たちがどんどんと式の準備を進めていく中、彩乃はどうしても一歩引いて見守ってしまうことが多かった。
それでも、迅はできる限り家事を手伝い、彩乃を気遣うようにしていた。仕事から帰ると、すぐに夕食の準備をしてくれたり、洗濯物を干してくれたりと、彩乃が無理しないように心配してくれた。試合や遠征で忙しい中、彩乃に負担をかけないようにと、できることを何でもしようとしてくれていた。遠征が重なることもあり、すれ違う時間が増えていったが、お互いに理解し、支え合うことを心がけていた。
ある日、彩乃が結婚式の準備で気持ちが押し潰されそうになったとき、迅は優しく言った。「完璧にやろうとしなくていいんだよ。大事なのは二人が幸せでいることだろ?」その言葉を聞いた瞬間、彩乃は肩の力が抜けるのを感じた。結婚式を無理に完璧にしなくても、二人が心から楽しめればそれでいいと、急に気持ちが軽くなった。
その後、彩乃は少しずつ、迅の支えを受け入れながら、結婚準備を進めていった。完璧でなくても、二人の思いが込められたものにしていこう。
7.5.2 真奈の支えと心のケア
彩乃の家には、いつもと変わらぬ静けさが広がっていたが、その静けさの裏には彩乃の不安や疲れがひしひしと感じられた。つわりに悩みながらも、結婚式の準備を進める中で、彼女の心は次第に重くなっていった。加えて、咲希の事故の影響が彩乃をさらに追い込んでいた。
その日の午後、突然インターホンが鳴り、彩乃は扉を開けた。そこには、真奈が立っていた。結衣はベビーカーの中で眠っている。真奈はほんの少しの間を置いてから、静かに「お邪魔します」と言った。
「ちょっと顔を出しに来たよ。」
真奈の声はいつもと変わらず温かく、けれどその目は少し心配そうに彩乃を見つめていた。
「ありがとう、真奈…」
彩乃は微笑みながらも、心の中で何かが引っかかっているような感覚があった。どこかで一人で背負い込んでいる自分を感じていたからだ。
真奈は彩乃がどれほど疲れているのか察していたのだろう、何も言わずにソファに腰掛け、結衣を膝に抱きながら話し始めた。しばらくの沈黙の後、真奈が口を開いた。
「彩乃、最近大変そうだね。無理していない?」
その言葉が優しく響く。彩乃は何も答えず、ただ真奈を見つめた。心の中で、たくさんの思いが渦巻いている。しかし、それらを口にするのは少し怖かった。
「つわりに体調不良、結婚式の準備もあるし、咲希のことも気になるし…」
彩乃はそう言うと、少し力なく笑った。
真奈は少し黙っていたが、やがてゆっくりと言葉を紡いだ。
「でも、全部を自分で背負わなくてもいいんだよ。誰かに頼っても、助けてもらってもいいんだよ。」
その言葉に、彩乃は何かがこみ上げてきて、思わず涙が浮かんだ。ずっと一人で抱えていた気持ちが、真奈の言葉で少しずつ解きほぐされていった。
「でも…」
彩乃は答えようとして、ふっと言葉を詰まらせた。
「結婚するってこと、家族が増えるってこと、全部私一人でできるんじゃないかって、思っちゃう。」
真奈は黙って頷き、そして静かな声で言った。
「でも、それが一人じゃなくて、二人で、そして家族でやっていくことなんじゃないかな。」
「家族で…」
彩乃はその言葉を噛み締めるように繰り返した。
真奈は優しく微笑んだ。「あなたには迅くんがいるし、これからは二人で支え合っていくんだよ。だから、一人で背負いすぎないで。大丈夫、あなたはひとりじゃない。」
その言葉に彩乃は少し安心した。結婚するということ、家族が増えるということが、ただの一時的なことではなく、これから先の人生を一緒に歩んでいくための大きな一歩であることを再確認したのだった。
「ありがとう、真奈…」
彩乃は真奈に目を向け、そしてそのまま肩の力を抜いた。心のどこかでずっと不安を感じていたが、今は少し軽くなった気がする。
真奈が立ち上がり、結衣を彩乃の側に寄せてから、手を差し伸べた。「少しでも気が楽になったらいいな。何か手伝えることがあったら言ってね。」
「うん、ありがとう。本当に、ありがとう。」
彩乃は心から感謝を込めて答えた。
7.5.3 結婚式前夜の想い
結婚式前夜、彩乃は一人で部屋の窓辺に立ち、深呼吸をしながら外の風景を眺めていた。夜の街の灯りが静かに輝き、風が少し肌寒い。しかし、彩乃の心は静まり返っていたように感じた。つわりの不調も少し落ち着き、結婚式の準備も無事に終わりを迎えたが、それでも心の中にはたくさんの思いが交錯していた。
「明日、結婚するんだな…」
口に出してみて、改めて実感が湧いてきた。これまでの出来事が、まるで昨日のことのように思い出される。妊娠がわかってから、仕事と家事、そして体調の不安定さを抱えながら過ごしてきた日々。さらに、咲希の事故という予期しない出来事が重なったことも、彩乃にとっては大きな試練だった。
「でも、ここまで来たんだな。」
彩乃はふと自分を誇りに思った。どんな困難があっても、何とか乗り越えて、ここまで歩んできた。いろいろなことがあったけれど、これまで一度も後悔したことはなかった。
部屋の机に目をやると、そこには迅からのメッセージが表示されたスマートフォンが置かれていた。手を伸ばして、それを手に取ると、改めてその内容を読んだ。
「明日は僕たちの大切な日だね。どんな時も支えてくれてありがとう。彩乃の笑顔が、僕にとって一番の幸せだから。明日、一緒に幸せを感じようね。」
その言葉に、彩乃は胸が温かくなった。迅の信頼と愛情を感じると同時に、これから始まる夫婦としての生活に対する期待が膨らんだ。
「私たち、これから夫婦として生きていくんだよね…」
それが現実になることが、少し信じられないような気もした。結婚というのは、単なる形式ではなく、二人で同じ時間を共有し、共に歩んでいくことだと感じるようになった。
「明日が楽しみだな。」
彩乃は静かに微笑んだ。どんな未来が待っているのかは分からないけれど、迅と共に歩むその未来を、彩乃は心から楽しみにしていた。
そして、もう一度迅のメッセージを読み返し、ふっと深呼吸をした。明日の結婚式に向けて、心を整えるために。
「私、頑張るよ。迅と一緒に。」
彼への愛情を胸に、彩乃は眠りにつく準備を始めた。明日の新たな一歩を踏み出すために。
7.5.4 結婚式当日・誓いの瞬間
結婚式当日。朝から心の中で緊張と期待が入り混じり、彩乃は何度も深呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。身支度を整え、最後に鏡の前で自分の姿を確認すると、少しだけ自信が湧いてきた。白いウェディングドレスが、どこか夢のように輝いて見えた。
式場に足を踏み入れると、温かな雰囲気が広がっていた。彩乃の大学時代の恩師、藤崎遼先生をはじめ、大学時代の友人の田辺梓や松井奈緒、そして出版社時代の上司で、彩乃がフリーランスの道を歩み始めるきっかけを作った川村誠が、微笑みながら見守ってくれている。その顔を見ただけで、心が温かくなり、これまで支えてくれた人たちの存在がどれほど大きかったかを改めて感じた。
「みんな、来てくれてありがとう…」
心の中で感謝の気持ちを伝える。これから新しい人生が始まる。その瞬間が、どれだけ特別なものなのか、彩乃は実感していた。
そして、いよいよ迅が現れた。タキシードを着た迅の姿を見た瞬間、彩乃の胸は高鳴った。いつもスポーツで活躍する姿しか見たことがなかったが、この日、タキシード姿で立つ迅はまるで別人のように輝いていた。
「この人と一緒に生きていくんだ…」
その瞬間、彩乃は強く心の中で誓った。涙がこぼれそうになり、少しだけ目を潤ませる。けれど、笑顔で迅を見つめることができた。
式は静かに進行し、誓いの言葉が交わされる時間が近づいてきた。
司会者の声が響く中、迅と彩乃は指輪を交換するために前に進み出た。静かな空気の中、二人の手が重なり、指輪が交換された。彩乃の手は少し震えていたが、それでもその瞬間が永遠に続いてほしいと感じた。
「これからの人生を、あなたと共に歩んでいきます。」
迅が言ったその言葉に、彩乃は心から頷いた。そして、続けて自分も言った。
「私も、あなたと一緒に生きていきます。」
シンプルな言葉だけれど、二人にとってはそれ以上に大切な意味が込められていた。誓いの瞬間、その言葉がふたりの未来を築く礎となった。
そして、ふと迅の目に涙が浮かんでいることに気づいた。驚いた彩乃は、少し戸惑いながらも嬉しさが込み上げてきた。普段は感情をあまり表に出さない迅が、こんなにも深い思いを持っていたことに、彩乃は心から幸せを感じた。
式の進行が続き、二人は最後に誓いのキスを交わす。今、確かに自分の手の中に未来があると感じながら、その瞬間を心に焼き付ける。
これから二人で歩む道がどんなものであれ、共に支え合い、乗り越えていくんだと心の中で誓った。
7.5.5 咲希の復帰と家族の絆
披露宴会場には、穏やかで温かな雰囲気が満ちていた。大きな窓から柔らかな夕陽が差し込み、会場を黄金色に染める。笑い声が響き、グラスが触れ合う音が心地よいリズムを刻んでいる。
彩乃は席を立ち、ふと視線を巡らせた。恩師の藤崎、出版社時代の上司であり恩人の川村、大学時代の友人たち、そして迅のチームメイト。支えてくれた人々の顔が、優しく微笑んでいた。その光景を目にすると、胸がいっぱいになった。
だが、その中でもひときわ目を引いたのは、会場の端に座る咲希だった。
咲希は、数週間前まで病室のベッドの上で眠り続けていた。意識を取り戻した後も、リハビリの日々が続き、彩乃は何度も病院に足を運んでいた。その咲希が今、爽やかなブルーのドレスに身を包み、精一杯の笑顔でこちらを見つめている。
咲希の席に向かうと、妹はゆっくりと立ち上がった。まだ完全に元通りではない。足元も不安定で、少し杖に頼りながら。それでも、自らの意思で立ち、彩乃の方へと一歩を踏み出した。その姿を見た瞬間、彩乃の胸に込み上げてくるものがあった。
「お姉ちゃん——おめでとう。」
震える声だった。それでも、しっかりとした意志が込められていた。
彩乃は涙をこらえきれず、咲希をそっと抱きしめた。
「生きていてくれて、ありがとう……」
その言葉は、彩乃の心の奥底から溢れ出たものだった。
事故の知らせを聞いたときの絶望、意識の戻らない咲希を見守った日々、リハビリに励む姿——すべての記憶が走馬灯のように駆け巡る。そして今、こうして妹が目の前で生きている。それが、どれほど奇跡のようなことか。
咲希も、彩乃の腕の中で小さく頷いた。
「うん……私も、生きててよかったって思う。」
二人はそのまましばらく抱き合っていた。周囲の人々も、その様子をそっと見守っていた。誰もが、言葉にならない感情を抱えていた。
そして、ふと気がつくと、迅が隣に立っていた。優しく微笑みながら、彩乃の肩にそっと手を置く。
「咲希ちゃん、来てくれてありがとう。」
咲希は少し照れたように笑い、「迅くんこそ、お姉ちゃんをよろしくお願いします」と、少し冗談めかした口調で言った。その言葉に、彩乃と迅は思わず笑った。
涙があった。でも、それ以上に、希望があった。
事故の恐怖も、痛みも、失った時間も、決してなかったことにはならない。それでも——いや、それだからこそ、今日という日は特別な意味を持っていた。
命の儚さと、そのかけがえのなさ。咲希が生きていてくれたこと。彩乃が新しい人生を歩み出すこと。そのすべてが、今ここにあった。
「姉妹で写真、撮ろっか。」
彩乃の言葉に、咲希は頷く。迅も笑いながら、「俺も混ざっていい?」と冗談めかして言った。
フラッシュが光る。
その瞬間、彩乃は確かに感じていた。これから始まる未来に、どんな困難が待っていたとしても——大丈夫だ、と。
命の強さと、希望を胸に。彩乃の新たな人生は、確かにここから始まっていた。
7.5.6 新たな生活への決意
披露宴も終盤に差し掛かり、司会者が静かにマイクを持ち上げた。
「それでは、ここでご友人代表として、新婦・彩乃さんの親友である橘真奈さんより、お祝いのスピーチをいただきます。」
温かな拍手の中、真奈がゆっくりと壇上に向かう。淡いラベンダー色のドレスが、彼女の落ち着いた雰囲気に優しく馴染んでいた。マイクを握ると、一瞬、場内を見渡し、彩乃と目が合う。真奈は小さく微笑み、スピーチを始めた。
「えー、改めまして、今日は彩乃の結婚を心からお祝いするために、ここに立たせてもらっています。新郎の迅さん、そしてご両家の皆さま、本当におめでとうございます。」
しっかりとした口調の中に、どこか穏やかな温もりがあった。
「彩乃と初めて会ったのは、大学の入学式の日でした。最初は『明るくて元気な子だな』と思っていました。話していくうちに誰よりも熱く、情熱的に物事を語る彩乃の魅力に惹かれました。どんなことにも一生懸命で、文章を書くことが好きで、時には頑固で……でも、そんな彩乃がいたから、私は何度も救われました。」
彩乃はそっと目を伏せ、あの日のことを思い出していた。
「人生って、思うようにいかないことがたくさんあります。辛いことも、迷うことも、逃げたくなることも。でも、彩乃はいつも、自分の言葉を信じて前に進んできた。そしてそんな彼女のそばには、いつも誰かがいた——。今日のこの場が、その証だと思います。」
会場のあちこちから、静かな感嘆の声がもれる。真奈の言葉には、偽りのない真実があった。
「迅さん、彩乃をよろしくお願いします。でも、たぶん彩乃のことだから、あれこれ心配するより、一緒に楽しんでくれる人が一番なんじゃないかなと思います。」
くすくすと笑いが起こり、迅も苦笑しながら頷いた。
「彩乃、あなたは本当に素敵な人です。そして、その彩乃が選んだ迅さんも、きっと素敵な人なんだと思います。だから、これからどんなことがあっても、お互いを支え合って、笑顔の絶えない家庭を築いてください。」
真奈は彩乃をまっすぐに見つめ、優しく微笑んだ。
「本当に、おめでとう。」
大きな拍手が広がり、彩乃は目頭を押さえながら、小さく「ありがとう」と口の動きだけで伝えた。
——そして、披露宴の最後。
新郎新婦として、彩乃と迅は並んで立ち、ゲストへ感謝の言葉を伝えた。
「今日は私たちのために集まってくださり、本当にありがとうございます。」
迅が、まっすぐな声で言う。その隣で、彩乃も静かに続けた。
「これまでの人生で、たくさんの方に支えられてきました。家族、友人、そして仕事でお世話になった皆さん……そのおかげで、今日この日を迎えることができました。」
ゆっくりと会場を見渡しながら、彩乃は言葉を紡ぐ。
「結婚はゴールじゃなくて、これからの始まりだと思っています。きっと楽しいこともあれば、大変なこともある。けれど、どんな未来が待っていても、私たちは一緒に歩いていきます。」
迅が隣で、しっかりと頷いた。
「これからは、夫婦として支え合いながら、そして新しく迎える命を大切にしながら、一歩ずつ前に進んでいきます。」
温かな拍手が響き渡る。
その音の中で、彩乃はふとお腹に手を添えた。まだ小さな命。でも、確かにここにいる。
式が終わり、会場の外に出ると、夜空には美しい星が輝いていた。
迅がそっと彩乃の手を握る。「これから、よろしくな。」
「うん。よろしくね。」
二人はそのまま、静かに夜の道を歩き出した。
——これが、新たな人生の始まりだった。
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