第7章 人生の転機と決断③

7.4 命の尊さ

7.4.1 咲希の交通事故と絶望

 携帯の着信音が響いた瞬間、彩乃は嫌な胸騒ぎを覚えた。編集部での打ち合わせを終え、カフェで休憩しながらスケジュールを確認していたときだった。画面を見ると、母からの電話だった。

 「もしもし、お母さん?」

 返事の向こうから聞こえたのは、母の震える声だった。

 「彩乃……咲希が……事故に遭ったの……! 今、救急車で運ばれて……意識が……ないの……!」

 一瞬、世界が音を失ったように感じた。何かの聞き間違いではないかと、頭が勝手に否定しようとする。だけど、母の嗚咽混じりの声が、それが現実だということを突きつけてくる。

 「……どこの病院?」

 声が震えないようにするので精一杯だった。

 母が病院名を告げると同時に、彩乃はバッグを掴んで店を飛び出していた。足がもつれそうになりながらも、すぐにタクシーを拾う。

 病院に着くと、すでに両親が到着していた。母は泣き崩れそうになりながら父に支えられていて、普段は冷静な父の目も、どこか不安げに揺れていた。

 「お母さん……お父さん……!」

 彩乃が駆け寄ると、母がすがるように腕を掴んできた。

 「咲希……まだ手術中なの……!」

 「手術……?」

 頭がついていかない。手術が必要なほどの事故だったのか。

 「医者の話だと、頭を強く打っていて……それに骨折も……出血もあって……」

 母の声は震え、父がその肩を支える。

 「とにかく、医者の話を聞こう」

 そう言った父の言葉に、彩乃も必死に気を落ち着けようとした。

 しばらくして、担当医が現れた。疲れた表情の中に、深刻さが滲んでいる。

 「お待たせしました。高橋咲希さんの状態ですが——」

 彩乃は息を呑んだ。

 「現時点では意識不明の状態が続いています。頭部に強い衝撃があり、脳へのダメージが完全には把握しきれません。幸い、出血はコントロールできていますが、意識がいつ戻るかはまだわかりません」

 母が口元を押さえ、嗚咽を漏らす。父も拳を固く握り締めた。

 「そ、そんな……意識が……」

 彩乃の喉が詰まり、言葉にならなかった。

 「手術は無事に終わりましたが、回復には時間がかかる可能性が高いです。引き続き経過を見守る必要があります」

 「……事故の原因は?」

 父が静かに尋ねる。

 「事故は、歩行者と車両の双方にとって不運な偶然が重なったものでした。交差点付近で、車が右折しようとした瞬間に咲希さんが横断を始めたようです。運転手の証言では、歩行者信号がどうなっていたかははっきりしないとのことでした。監視カメラの映像も角度が悪く、事故の責任を明確にできない状況です」

 「つまり……加害者がはっきりしないってことですか?」

 彩乃の声は、どこか感情の欠けたものだった。

 「警察も調査を進めていますが、現時点では判断が難しいようです」

 不運な偶然が重なっただけ——そんな言葉で片付けられてしまうのか。

 誰が悪いのかもわからないまま、咲希は今、意識不明の状態でベッドに横たわっている。

 ——なぜ、こんなことに。

 ICUに通されると、そこには管に繋がれ、眠るように横たわる咲希がいた。

 「……咲希……」

 彩乃は震える手で、そっと咲希の手に触れた。温かい。そのぬくもりがある限り、まだ生きているのだと信じたかった。

 「起きてよ……お願いだから……」

 涙が次々と頬を伝った。

 命がこんなにも脆く、無情に翻弄されるものだなんて、考えたこともなかった。

 ——お願いだから、もう一度、目を開けて——


7.4.2 命の儚さと彩乃の不安

 病院の無機質な廊下に、機械音と小さな足音が響いていた。

 ICUの前で座り込んだまま、彩乃は動く気力をなくしていた。咲希はまだ意識を取り戻していない。医師から「今は安定しているが、いつ目覚めるかはわからない」と言われたものの、その「わからない」という言葉が、心を容赦なく締め付ける。

 隣に座る母は、小さな声で祈るように呟き続けていた。父はそんな母の肩を抱き、無言で天井を見上げている。

 「……命って、こんなに儚いんだ」

 思わず漏れた言葉に、誰も返事をしなかった。ただ、静寂だけが返ってくる。

 たった数日前まで、咲希はいつも通りの日常を送っていた。恋愛のこと、好きなアーティストの新曲のこと、お互いの仕事のこと——そんな些細な話をして、笑っていた。

 それが突然、意識のないままベッドに横たわる存在になってしまうなんて。

 ——私のお腹の中では、新しい命が育っているのに。

 胸にそっと手を当てる。まだ実感は薄いけれど、確かにこの中に小さな命がある。

 なのに、咲希は今、死の境界線にいる。

 生まれる命と、消えかける命。

 ——この世界は、どうしてこんなに不確かなんだろう。

 自分はこれから新しい家族を作ろうとしている。でも、家族の一員である咲希が、もしかしたらいなくなってしまうかもしれない——そんな理不尽が、どうしても受け入れられなかった。

 「咲希……お願いだから戻ってきてよ……」

 祈るように呟いたそのとき、病室の扉がそっと開いた。

 「彩乃!」

 聞き慣れた声に顔を上げると、そこには真奈が立っていた。

 「真奈……」

 駆け寄ってくる真奈の表情には、心からの心配が滲んでいる。

 「話を聞いて、すぐに来た。大丈夫……じゃないよね」

 彩乃は答えようとしたが、喉が詰まり、何も言えなかった。

 次の瞬間、真奈がそっと彩乃の肩を抱いた。その温もりに、彩乃は張り詰めていた感情が一気に崩れそうになった。

 「……怖いよ」

 小さな声で呟くと、真奈はさらに強く抱きしめた。

 「うん……怖いよね。でも、咲希ちゃんは強い子だから」

 その言葉を聞いた瞬間、涙が零れ落ちた。

 「私、何もできない……こんなに簡単に人の命が奪われるのに、私は何もしてあげられない……」

 泣きながらこぼした言葉に、真奈は優しく首を振った。

 「そんなことないよ。彩乃がここにいるだけで、お母さんもお父さんも、きっと救われてる。咲希だって、目を覚ましたときに、彩乃がいてくれることを望んでるはず」

 その言葉に、彩乃は少しだけ息を整えた。

 「……そうかな」

 「うん。でも、つらかったら無理しないで。私がいるから」

 その言葉に、彩乃は小さく頷いた。

 廊下の奥では、咲希の友人たちが集まり、静かに彼女の回復を願っている。誰もが、彼女の目覚めを信じて待っていた。

 それでも、不安が完全に消えることはなかった。

 ——咲希は、ちゃんと戻ってきてくれるだろうか。

 命の儚さに揺れながら、彩乃はただ、咲希の眠る病室を見つめ続けた。


7.4.3 回復への一歩と姉妹の対話

 病室の白い天井をぼんやりと見上げながら、咲希はゆっくりとまばたきをした。

 「……お姉ちゃん」

 小さく掠れた声に、彩乃は顔を上げた。

 「咲希……!」

 駆け寄った瞬間、涙が溢れそうになるのを必死に堪える。数日前まで生死の境をさまよっていた妹が、今こうして目を開け、言葉を発している。それだけで、胸がいっぱいになった。

 「……よかった、本当に……」

 彩乃がそっと咲希の手を握ると、咲希は弱々しくも少し笑った。

 「心配かけた……?」

 「バカ。どれだけ心配したと思ってるの」

 そう言いながら、彩乃の声は震えていた。

 咲希の意識が戻ったという知らせを聞いて、両親はもちろん、友人たちも涙を浮かべながら喜んでいた。でも、まだ安心できるわけではない。

 医師の説明では、咲希の回復には時間がかかるという。骨折した足のリハビリ、そして衝撃による脳への影響がどこまで残るか——完全に元通りになるには、長い時間が必要だった。

 それでも、目を覚ましてくれた。それだけで十分だと思った。

 「……夢みたいだな。事故に遭ったことも、こうして生きてることも」

 咲希はぼそっと呟いた。その横顔はどこか遠くを見つめているようで、彩乃はそっと寄り添うように椅子に座った。

 「怖かった?」

 問いかけると、咲希は少し考えてから、ゆっくりと頷いた。

 「うん。気づいたら真っ暗で、何もわからなかった。でも、時々ね、声が聞こえてた気がするんだ。お母さんとか、お父さんとか……お姉ちゃんの声も」

 その言葉に、彩乃は目を見開いた。

 「本当に……?」

 「うん。はっきりじゃないけど、『咲希、頑張って』って……。だから、私、戻ってこられたのかもしれない」

 咲希の言葉を聞きながら、彩乃は改めて「生きる」ということの不思議さを感じていた。

 人の命は、あまりにも儚く、脆い。偶然が少し重なれば、こうして隣にいることすら叶わなくなる。

 でも——それでも、人は生きようとする。誰かの声に導かれながら、前に進もうとする。

 「生きててくれて、ありがとう」

 思わず口に出したその言葉に、咲希は驚いたような顔をした後、ふっと笑った。

 「……なんか、変な感じ。でも、ありがとう」

 病室の窓から、夕陽が差し込んでいた。

 彩乃は静かに手を伸ばし、咲希の髪をそっと撫でる。

 「これからリハビリとか大変だと思う。でも、どんなことがあっても、大事な家族だからね」

 咲希は少し目を丸くした後、照れたように微笑んだ。

 「……なんか、お姉ちゃん、最近優しくなった?」

 「前から優しいでしょ」

 「うーん、どうだろう?」

 小さな冗談を交わしながら、二人は静かに笑い合う。

 ——生きている。

 それが、どれほど奇跡のようなことなのかを、改めて思い知る時間だった。

 彩乃は、お腹にそっと手を当てた。

 これから生まれてくる命と、今目の前で生きている大切な人。

 全てが、かけがえのないものだと、心から思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る