第7章 人生の転機と決断②
7.3 妊娠発覚と仕事の調整
7.3.1 妊娠発覚と迅への報告
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、彩乃の頬をやわらかく照らしていた。ぼんやりと目を開けると、妙な違和感が身体の奥に残っている。最近、疲れが抜けにくい。執筆の締め切りや打ち合わせが立て込んでいたせいかもしれないけれど、どこかいつもと違う気がした。
キッチンに向かい、湯を沸かしながらスマホのカレンダーを確認する。
「……あれ?」
予定より、生理がかなり遅れている。普段はそこまで気にしないのに、今朝の倦怠感や軽い吐き気のような感覚を思い出すと、ふと、ある可能性が頭をよぎった。
妊娠、してる……?
そう考えた瞬間、心臓が強く跳ねる。自分の中でありえないとは思えなかった。
コーヒーを淹れる手を止め、そのまま外に出た。まだ朝の冷たい空気が残る中、近所のドラッグストアへ向かう。レジの前で足が止まった。手にしているのは妊娠検査薬。店員に見られるのが少し気まずくて、一緒に飲み物や日用品もかごに入れた。
帰宅し、深呼吸をしてから検査薬を手に取る。
数分後、スティックの窓に浮かび上がった線を見た瞬間、心が大きく揺れた。
陽性——妊娠している。
「……本当に?」
驚きと戸惑いが混ざる。でも、思ったよりも強い動揺はない。むしろ、じわじわと胸の奥が温かくなっていく。
自然とお腹に手を当てた。たった今知ったばかりなのに、そこに何かがいる気がする。
——この中に、新しい命が宿っているんだ。
夜、迅が帰宅すると、彩乃は少し緊張しながら迎えた。テーブルには簡単な夕食が並んでいる。
「彩乃? どうした?」
「うん……話したいことがあるの」
言葉にしようとした瞬間、急に実感が込み上げ、喉が詰まる。でも、伝えなきゃ。
「……妊娠、してるみたい」
その一言で、迅の動きが止まる。
「——本当?」
彩乃は頷き、検査薬を見せた。迅は何度か瞬きをしてから、ゆっくりと彩乃のお腹に視線を移す。
「……俺たちの子ども?」
「そう、みたい……」
すると、迅の表情が一気に崩れ、嬉しそうに息をのんだ。
「……やばい、本当に? 俺、パパになるの?」
「うん……たぶん」
「まじか……!」
次の瞬間、迅は彩乃をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう……本当に、ありがとう……!」
彩乃は驚きつつも、その温かさに安心する。二人で子どもを迎えられることが、どれほど幸せなことかを噛みしめた。
その夜、二人は未来の話をした。
「ちゃんと支えるから。絶対に。」
迅は迷いなく言った。でも——
「遠征もあるし、試合も続くよね? どうやって支えてくれるの?」
「……そこは、二人でちゃんと考えていこう。俺にできること、全部する」
頼もしい言葉。でも、現実問題として、簡単なことではないのはわかっている。
「彩乃、俺たちなら大丈夫だよ。少しずつ、一緒にやっていこう」
その言葉を聞いて、彩乃は小さく息を吐いた。
「……うん、そうだね」
不安はある。でも、それ以上に確かに感じた——私たちは、親になるんだ。
7.3.2 真奈への相談と咲希への報告
「おめでとう!」
真奈の声が、電話越しにも弾んでいるのが伝わる。彩乃はソファに座り、スマホを耳に当てながら苦笑した。
「びっくりさせちゃった?」
「ううん、でも本当にびっくり。プロポーズの次は妊娠だなんて、怒涛の展開すぎない?」
「自分でも、そう思う……」
小さく息をつく。妊娠が発覚して数日、少しずつ実感は湧いてきたものの、やはり不安は尽きない。
「それでね、真奈に相談したいことがあって」
「うん、もちろん!」
彩乃は膝の上で指を絡めながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「真奈は、出産する前ってどんな気持ちだった?」
「……そうだなぁ。楽しみもあったけど、正直、不安のほうが大きかったよ。ちゃんと産めるのかなとか、母親としてやっていけるのかなとか。でも——」
真奈の声が少し柔らかくなる。
「結衣が生まれた瞬間、そんな不安は吹き飛んだ。確かに大変なことは多いけど、それ以上に幸せなこともたくさんあるよ」
「……そっか」
「彩乃も絶対、大丈夫。妊娠中はホルモンの影響で気持ちが不安定になることもあるし、無理しすぎないようにね」
真奈の優しい言葉に、彩乃は肩の力が抜けるのを感じた。
「ありがとう、真奈。なんか、話してたら少し安心した」
「うん、いつでも話してね。——あ、つわりは大丈夫?」
「今のところはそんなに。でも、ちょっと疲れやすいかな」
「なら、早めに休んでね。特に仕事との両立は無理しすぎないこと!」
「それなんだよね……」
彩乃は膝を抱えながら、小さく息を吐いた。
「やっぱり仕事は大事にしたい。でも、全部今まで通りってわけにはいかないし……」
「うん、その気持ちもすごくわかる。でもね、妊娠中も出産後も、体は確実に変わるから。思ってる以上に負担がかかるし、絶対に無理しないって決めたほうがいいよ」
「……そっか」
「彩乃の仕事は、体力勝負の仕事ではないけど、精神的な負担は大きいよね。だからこそ、うまくバランスを取ることが大事かな」
「うん、そうだね……」
少し考えて、彩乃は静かに微笑んだ。
「やっぱり、できる範囲で頑張る。でも、無理はしすぎないようにする」
「うん、その心意気、大事!」
真奈の明るい声に、彩乃の気持ちも少し軽くなった。
その夜、咲希にも報告することにした。
「妊娠?」
電話越しの咲希の声が、一瞬止まる。
「うん」
「え、ええええええっ!?」
予想通りのリアクションに、彩乃は吹き出した。
「ちょ、待って、ちょっと待って、お姉ちゃんがママになるの!?」
「そういうことになるね……」
「えー!! すごい! いや、すごいんだけど! え、ほんとに!?」
「本当に」
「うわー……なんか、信じられない……!」
咲希の驚きようが面白くて、彩乃はくすくす笑った。
「でもね、咲希にはちゃんと伝えておきたくて」
「そりゃ伝えてくれなきゃ困る! え、めっちゃ嬉しいんだけど!」
咲希は興奮した声で続けた。
「ねえねえ、性別はもうわかるの?」
「まだ全然先。でも、どっちでも楽しみだなって思ってる」
「そっかぁ……! うわー、お姉ちゃんがママかぁ……なんか感慨深い……」
咲希はしみじみと言いながら、最後にこう付け加えた。
「ねえ、お姉ちゃん。私、おばさんになるってことだよね?」
「……そうだね」
「うわぁ……なんか、私も責任重大だ……!」
「そんなに気負わなくていいよ」
「でも! 甥っ子か姪っ子、めっちゃ可愛がるからね!」
咲希の真っ直ぐな言葉に、彩乃は胸がじんわりと温かくなった。
「ありがとう、咲希」
「ううん、こっちこそ! お姉ちゃん、おめでとう!」
こうして、彩乃の妊娠は少しずつ家族に受け入れられていくのだった。
7.3.3 仕事とのバランスと悩み
原稿のカーソルが、画面の端で瞬いている。
「……うーん……」
彩乃はパソコンの前で手を止め、深く息を吐いた。
最近、集中力が続かない。もともと締め切り前には一気に書き上げるタイプだったが、今はどうしても体調の波に左右される。
妊娠してから、急に眠くなったり、疲れやすくなったり。日によっては体がだるく、文章を打つのも一苦労だった。
「……こんなことで大丈夫なのかな……」
仕事への情熱は変わらない。書くことが好きなのも、伝えたいことがあるのも、何も変わっていない。でも、思うように進まないことが、ただただ焦りに繋がる。
そのとき、スマホが振動した。
「彩乃さん、そろそろ編集部との打ち合わせ、大丈夫ですか?」
担当編集の桐野からのメッセージだった。
「はい、大丈夫です!」
慌てて返信し、ノートと資料を手に取る。体調は万全とは言えないけれど、仕事を疎かにするわけにはいかない。
「……なるほど、そういう方向性ですね。確かに面白いと思います!」
「そうそう、それでね——」
オンラインの打ち合わせが続く。桐野を含め、編集部のメンバーとアイデアを出し合いながら、次回の企画について話し合っていた。
普段なら楽しく議論できる時間のはずなのに、今日はどこか気が重い。
(このタイミングで、妊娠のこと……伝えるべきかな)
少し前ならすぐに報告していただろう。だけど、仕事への影響を考えると、慎重にならざるを得なかった。
執筆スケジュールを調整する必要もあるし、体調次第では企画を長引かせてしまうかもしれない。そう思うと、なかなか言い出せなかった。
「……では、締め切りはこのスケジュールで進めましょう」
「はい、よろしくお願いします」
打ち合わせが終わり、画面を閉じた瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
「……ふぅ……」
これからの仕事と妊娠をどう両立させるか——まだ答えは出ないままだった。
「結婚式、いつにする?」
迅のその言葉に、彩乃は手を止めた。
夕食後の片付けをしながら話していたが、予想外のタイミングで出た話題に、一瞬返事に詰まる。
「……そうだね、考えないといけないんだけど……」
「でも、妊娠してるし、無理に今決めなくてもいいんじゃないか?」
「うん、それはそうなんだけど……」
本当は、結婚式のことを考える余裕がなかった。仕事のこと、体調のこと、そしてこれからの生活。いろいろなことが重なりすぎて、どう進めればいいのか分からなくなっていた。
「焦らなくていいよ、彩乃の体が一番だから」
「ありがとう。でも、親とかもいるし、いずれはちゃんと考えなきゃね」
「うん、俺も手伝うから」
迅はそう言ったものの、彼の遠征スケジュールは相変わらず忙しい。試合や合宿が続き、家を空けることも多い。
(結婚式の準備も、ほとんど私がやることになるのかな……)
そう思うと、少し不安になった。
「これからの生活、ちゃんとやっていけるのかな……」
「いってきます!」
翌朝、迅が慌ただしく家を出て行った。
いつものことだ。彼の仕事は遠征が多く、試合が続くとほとんど家にはいられない。それは分かっていたし、覚悟もしていたつもりだった。
でも、これからお腹が大きくなって、体調も変わっていく中で、家事や仕事をどうやってこなしていけばいいのか——まだ想像がつかない。
「……大丈夫、ちゃんとやれる」
自分にそう言い聞かせながら、彩乃は今日もパソコンに向かった。
7.3.4 決意と前向きな一歩
「ねえ、迅」
夕食の後、食器を片付けながら、彩乃は意を決して口を開いた。
「うん?」
「……このままだと、全部私だけで抱え込んじゃいそうで……。妊娠して、仕事のこともあるし、結婚式の準備も……。迅が忙しいのは分かってるけど、ちょっと不安になっちゃって」
言葉にすることで、胸の奥が少し軽くなった。
迅は驚いたように箸を置き、少し考え込むような表情をした。
「……ごめん。彩乃がこんなに悩んでるって、ちゃんと気づけてなかった」
「ううん、迅は何も悪くないよ。でも、これからのこと、もう少し具体的に話し合いたいなって思って……」
迅は深く頷き、真剣な表情で言った。
「俺も、彩乃の負担を減らしたいって思ってる。でも、正直、遠征がある以上、できることには限界がある。だから、無理に全部やろうとしないでほしい」
「うん……」
「家事も、手伝えるときはちゃんとやるし、結婚式のことも、時間があるときに一緒に考えよう。お腹が大きくなってきたら、親とか頼れる人にも相談してさ」
「……そうだね」
夫婦として、どう支え合うか。すべてを完璧にこなすのは無理だけど、できる範囲で分かち合うことならできるかもしれない。
翌日、彩乃はパソコンの前に座り、改めて考えた。
妊娠を機に、生活のペースは大きく変わる。仕事も、これまでのように無理はできない。でも、だからといって書くことを手放したくはなかった。
(少しずつ、ペースを調整しながら続けていこう)
焦らなくていい。自分のやり方で、大切なものを守りながら進んでいけばいい。
「完璧にやろうとしなくていいんだよ」
真奈や咲希の言葉を思い出す。
そうだ、私は一人じゃない。支えてくれる人たちがいる。
「……よし」
少しずつ、新しい未来へ。彩乃は深呼吸をし、静かに前を向いた。
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