第6章 新たな出会いと新生活の始まり③
6.5 未来への予感
6.5.1 真奈の決断と彩乃の模索
暖かい春の日差しが窓から差し込み、真奈の部屋には心地よい午後の空気が流れていた。テーブルにはハーブティーの湯気が立ち上り、その隣に、最近お気に入りだというベビーブランドのパンフレットが置かれている。
「いよいよ産休に入るんだね。」
彩乃がカップを手に取りながら言うと、ソファに座る真奈は少し照れくさそうに笑った。
「うん、今週いっぱいで仕事は一区切り。でも、やっぱり少し寂しいかな。」
真奈は膨らんだお腹をそっと撫でる。彩乃の視線がそこに引き寄せられると、改めて彼女が新しい人生のステージに立っていることを実感した。
「未練、ある?」
「あるよ。でも、それよりも、ちゃんと母親になれるのかっていう不安のほうが大きいかも。仕事だったら努力すれば結果がついてくるけど、育児は正解がないっていうか……」
真奈の言葉には、どこか慎重な響きがあった。今まで、どんな困難にも冷静に向き合ってきた彼女が、未知の世界に足を踏み入れようとしている。
「でも、決めたんだよね?」
「うん。」真奈は力強く頷いた。「子どもが生まれたら、しばらくは仕事から離れて、この子との時間を大事にしたいって思った。」
その言葉を聞きながら、彩乃は自分の状況と重ね合わせる。真奈は人生の優先順位を明確に定めている。一方、自分はどうだろう?
——私は、何を一番大切にしたいんだろう。
「彩乃はどう? 仕事、順調?」
真奈にそう聞かれて、彩乃は少し考え込んだ。
「うーん、順調っちゃ順調。でも最近、仕事と迅のことのバランスを考えちゃって。」
「そっか。」真奈は微笑みながら、「ちょっと前までの彩乃だったら、迷わず仕事優先だったよね。」と続ける。
「今も基本的にはそうなんだけど……迅と一緒にいる時間も大切にしたいって思うようになって。」
「いいことじゃない?」
「……なのかな。でも、どこかで『私はこれでいいのかな』って考えてる。」
彩乃はカップを両手で包み込みながら、自分の胸の内を探るように言葉を選んだ。
「恋愛と仕事、どっちも大事にしたい。でも、両立って難しいね。どこかで折り合いをつけなきゃいけないのかもしれないって思うと、ちょっと怖い。」
「それ、すごく分かるよ。」
真奈が優しく頷く。「私も最初は、仕事を続けながら子育ても完璧にやりたいって思ってた。でも、現実的に考えたら、どこかでバランスを取らなきゃいけなくて。だから、私は一旦、育児に集中しようって決めたんだ。」
「……決断、早いよね。」
「そうかな?」真奈は少し笑い、「彩乃も、自分の大切なものをちゃんと見つけられると思うよ。」と続けた。
彩乃は真奈の言葉を胸に刻みながら、ふと窓の外を見上げた。澄み渡る空は、まるで彼女自身の心の中を映すかのように、まだはっきりとした形を持たずに広がっている。
——私は、何を大切にしたいのか。
その答えを探す旅は、まだ続いていく。
6.5.2 妹への紹介と試合観戦
土曜の午後、春の風が心地よく吹く中、彩乃は妹の咲希と待ち合わせをしていた。
「お姉ちゃん、珍しいね。私に紹介したい人がいるなんて。」
軽快な足取りで近づいてくる咲希は、相変わらず明るく、最近はますます洗練された雰囲気を纏っている。
「そんな大げさなことじゃないよ。ただ、そろそろ咲希にも会わせようかなって思っただけ。」
彩乃が少し照れくさそうに答えると、咲希は興味津々といった様子で「ふーん」と頷いた。
「てことは……彼氏?」
そのストレートな問いかけに、彩乃はわずかに頬を赤らめながら、「……まあ、そんな感じ」と言葉を濁す。
「お姉ちゃんが彼氏を紹介するなんて、なんか感慨深いなぁ。」
咲希が感慨深げに言うのを聞きながら、彩乃は改めて思う。今まで家族に恋人を紹介するなんて考えたこともなかった。でも、迅と付き合ううちに、自然とそういう流れになったのが不思議だった。
待ち合わせ場所のカフェのドアが開き、そこに迅が現れた。黒のスポーツジャケットにデニムを合わせたラフな服装。それでも、普段から鍛えている体格のせいか、存在感がある。
「初めまして、彩乃の妹さんだよね。宮原迅です。」
迅は自然な笑顔で手を差し出し、咲希も「初めまして、高橋咲希です!」と明るく応じる。
「うわー、スポーツマンって感じ! なんか爽やかでお姉ちゃんと正反対!」
「……どういう意味?」
彩乃が思わずツッコミを入れると、咲希はくすっと笑った。
「いや、お姉ちゃんってクールなイメージだからさ。こういうタイプの人と付き合うなんてちょっと意外。でも、バランスいいのかもね!」
「それ、褒めてる?」
「もちろん!」
そんな軽口を交わしながら、三人は席についた。迅は気負うことなく、咲希とも自然に会話をしている。その様子を見て、彩乃は少し安心した。
「そういえば、今日は試合があるんでしょ?」
咲希が話題を変えると、迅は「うん、リーグ戦の準決勝。結構大事な試合だから、緊張するかも。」と答えた。
「せっかくだし、私も一緒に応援行っていい?」
「もちろん!」
そんな流れで、彩乃と咲希はそのまま迅の試合を観に行くことになった。
試合会場に着くと、体育館には熱気が満ちていた。コートの上ではすでに選手たちがウォーミングアップをしている。迅の姿もすぐに見つけることができた。
「お姉ちゃん、なんか緊張してる?」
咲希がくすっと笑いながら言う。
「……別に。」
言葉ではそう言ったものの、確かに胸の奥が少しざわついていた。
(こうやって、誰かを応援するのって久しぶりかも。)
高校時代、バスケ部だった頃は、仲間とともに試合に臨んでいた。でも、今はプレイヤーではなく、応援する側。立場が違うと、感じ方も変わるものだ。
試合が始まると、迅のプレーは圧倒的だった。スピード、判断力、そして力強いシュート。観客の歓声が沸き上がるたびに、咲希も「すごいね!」と興奮した様子で声を上げる。
彩乃は、そんな迅の姿を目の当たりにしながら、改めて思う。
(この人は、こんなにも全力で戦ってるんだ。)
自分のフィールドで真剣に挑む姿。それは、彩乃が仕事に打ち込む姿とどこか重なる気がした。
試合は接戦の末、迅のチームが勝利を収めた。試合後、彩乃と咲希は観客席を出て、迅が戻ってくるのを待つ。
「お姉ちゃん、なんかいい顔してるね。」
咲希がそう言うと、彩乃は少し驚いた。
「そう?」
「うん。なんか、嬉しそうっていうか、誇らしそうっていうか。」
言われてみれば、確かに胸の奥が温かい。
(そうか、私はこの人の頑張る姿を、もっとそばで見たいって思ってるんだ。)
しばらくすると、汗を拭いながら迅がやってきた。
「応援ありがとう。彩乃、どうだった?」
「すごかった。」
彩乃が素直にそう言うと、迅は少し照れくさそうに笑った。
「そっか。じゃあ、また次の試合も見に来てくれる?」
「うん、行く。」
その答えが、今の自分の気持ちをすべて表している気がした。
6.5.3 それぞれの未来への向き合い方
真奈の部屋には、赤ちゃん用品が少しずつ増えてきていた。小さなベビーベッド、可愛らしい洋服、温かみのあるブランケット。
「こうして準備してると、少しずつ実感が湧いてくるね。」
クローゼットを整理しながら、真奈はゆっくりとした口調で言った。
「最初は“本当に母親になれるのかな”って不安だったけど、こうやって一つひとつ準備していくと、不思議と前向きな気持ちになれるんだよね。」
「そっか……。」
彩乃は真奈の横に座りながら、並べられた赤ちゃん用品を眺める。
「颯真さんは?」
「うーん……相変わらず仕事が忙しいけど、家ではすごく気にかけてくれるよ。“無理しすぎるな”って何回も言われる。」
真奈はくすっと笑った。
「でもね、家族になるって思ってたよりずっと大変だけど、思ってたよりずっと悪くないよ。」
その言葉には、どこか穏やかで、それでいて力強い響きがあった。
「家族になるって……想像してたのと違う?」
「うん。でも、違うからこそ面白いのかもしれない。」
真奈の言葉を聞きながら、彩乃はふと、迅のことを思い出していた。
仕事の繁忙期が落ち着き始めたころ、彩乃は少しずつ迅と未来の話をするようになっていた。
「ねえ、彩乃はさ、これからもずっと今の仕事を続けていくつもり?」
ある夜、迅が何気なく聞いた。
「うん……多分、ずっと書いていくと思う。」
「やっぱりそうだよな。」
迅は微笑みながら頷く。
「俺も、バスケはできるだけ長く続けたいと思ってる。でも、いつか引退したら、指導者になるのもいいかなって考えてるんだ。」
「指導者……?」
「うん。今まで積み上げてきたものを、次の世代に繋げる仕事って、悪くないなって思うんだよな。」
迅の言葉には、未来を見据える確かな意思が感じられた。
「彩乃は……結婚とか、家族のこととか、考えたりする?」
彩乃は一瞬、言葉に詰まる。
今までそんなことを真剣に考えたことはなかった。でも、真奈が言っていた言葉がふと蘇る。
「家族になるって、想像してたのと違うけど、悪くないよ。」
「……少しずつ、考えてみてもいいのかもって思い始めてる。」
静かにそう答えると、迅は優しく笑った。
「うん。俺も、彩乃と一緒に考えていけたらいいなって思う。」
未来について考えることは、少し怖い。でも、隣にいる人と一緒なら、それほど悪くないのかもしれない。
彩乃はそっと夜空を見上げた。
6.5.4 それぞれの選択と新たな一歩
真奈の部屋のカーテン越しに、やわらかな午後の日差しが差し込んでいた。
「産休に入っちゃった。」
ソファに座る真奈が、そっとお腹を撫でながら言う。
「いよいよだね……。」
彩乃は温かいハーブティーを口にしながら、穏やかに笑った。
「うん。でも正直、まだ実感が湧かないんだよね。」
真奈は少し照れくさそうに笑った。
「この間まで普通に仕事してたのに、突然“母になる”って感覚が追いつかないっていうか。」
「でも、準備は着々と進んでるじゃん。ベビーベッドとか、可愛い服とか。」
彩乃が部屋の隅に置かれた小さなベビー用品を指さすと、真奈は小さく頷いた。
「うん。でもね、準備を進めれば進めるほど、色々考えちゃうんだよね。仕事に戻るときのこととか、家族としての役割とか……。」
「そっか。」
「でもさ、結局のところ、何が正解とかはないんだと思う。人生って、いろんな選択肢があるし。」
真奈は静かにそう言った。
「どんな選択をしたとしても、結局自分が納得できるかどうかが大事なんじゃないかなって思うんだよね。」
彩乃はその言葉を聞きながら、そっとカップを置いた。
「……私も、もっと大切なものを見つけられるのかな。」
ぽつりと呟くように言うと、真奈は優しく微笑んだ。
「彩乃は、もうちゃんと見つけ始めてると思うけどな。」
「え?」
「迅くんのこと、仕事のこと、未来のこと。前よりずっと深く考えるようになってるじゃん。」
真奈の言葉に、彩乃は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「……そうなのかな。」
「うん。だから、焦らなくてもいいと思う。彩乃なら、自分にとって一番大切なものを、ちゃんと選べるよ。」
真奈の言葉に、彩乃は静かに頷いた。
「ありがとう、真奈。」
それぞれの人生の選択をしながら、新たな一歩を踏み出す。
彩乃は、これからの自分の人生に思いを馳せながら、そっと未来を見据えた。
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