第6章 新たな出会いと新生活の始まり①

6.1 仕事に没頭する彩乃と、穏やかな新婚生活を送る真奈

6.1.1 彩乃の忙しい日常と、仕事への情熱

 都内のカフェの片隅で、彩乃はノートパソコンに向かっていた。テーブルの上には開いた取材ノートとスマートフォン、冷めかけたカフェラテ。目の前の画面には、書きかけの記事が並んでいる。

ここ数か月、彼女の生活は仕事一色だった。雑誌の特集記事、書籍の執筆、取材の依頼――次から次へと舞い込む仕事をこなしながら、常に「もっと良い文章を書きたい」と思い続けている。編集者との打ち合わせで出たアイデアを膨らませ、取材を通して得た言葉をできるだけ生かしたいと考える。

「……もう少し、ここにエピソードを加えた方がいいか」

小さくつぶやきながら、彩乃はキーボードを叩いた。言葉を紡ぐことは楽しい。しかし、それ以上に「自分の文章が誰かに届く」瞬間を求めているのかもしれない。

そんな彼女を現実に引き戻したのは、スマートフォンの着信音だった。

「彩乃、今どこ? 編集部の近くにいる?」

電話の向こうの声は、担当編集の岸本だった。

「今、カフェで原稿書いてるところですけど……」

「お、ちょうどいい。あとで少し顔出せる? 例の特集、もう少し詰めたいんだよね」

「了解です。あと30分くらいしたら行きます」

電話を切り、ふうっと息をつく。締め切りに追われるのはいつものことだが、最近は特に忙しい。けれど、不思議と苦ではなかった。むしろ、執筆に没頭できることが心地いい。

***

「恋愛? そんな余裕、あると思う?」

編集部での打ち合わせ後、軽く飲みに行った帰り道、同業のライター仲間にそう言われ、彩乃は苦笑した。

「いやいや、無理でしょ。仕事で手いっぱいだし」

「でしょ? でもさ、そろそろ落ち着いてもいいんじゃない?」

「まだまだ書きたいことがあるから」

そう言って笑ったものの、果たして自分は本当にこのままでいいのだろうか――そんな疑問が、一瞬、胸をよぎる。

充実している。けれど、どこかで「今のままでいいのか」と思うこともある。

街の灯りがにじむ夜道を歩きながら、彩乃は一度、スマートフォンを取り出した。真奈の名前を見つめ、少しだけ迷った後、メッセージを打ち込む。

「久しぶりに会わない?」

今の自分の生活を、誰かに話してみたい。そう思った。


6.1.2 真奈の新婚生活と、将来への漠然とした考え

 新婚生活が始まって数ヶ月、真奈は穏やかな毎日を送っていた。朝、颯真と一緒に目覚まし時計の音で目を覚まし、二人で朝食を食べる。颯真が用意するコーヒーの香りが部屋に広がり、彼女はその温かさに包まれながら、仕事に行く準備を進める。

「今日もお弁当作る?」

「うん、お願い。ありがとう」

颯真が優しく微笑むと、真奈も微笑み返す。この穏やかな日々が何よりも幸せだと感じる一方で、真奈の心には「これからの働き方」についての漠然とした考えが芽生えていた。

フルタイムで働くことには満足している。しかし、もし子供ができたら――仕事と育児、どちらも大切にしたいと思っている反面、現実的にどちらかを選ばなければならない時が来るかもしれない。仕事を続けるために何を犠牲にし、どのようにバランスを取るべきなのか。答えがすぐに出るわけではないけれど、その不安が時折、胸をよぎる。

ある晩、二人でソファに並んで座りながら、颯真がふと口を開いた。

「将来のこと、考えたことある?」

「将来って…仕事のこと?」

「うん、仕事とか、家族とか」

真奈は少し考え込む。颯真は、どんな答えを期待しているのだろう。彼の目を見つめながら、やっと口を開いた。

「うーん、正直、まだ漠然としてる。でも、子供ができたら、もっと考えないといけないんだろうなって」

「そうだね、でも、どんな形でもお互いに支え合っていけたらいいな」

颯真は真奈の手を握りながら言った。彼の言葉は温かく、そして真奈の心を少しだけ楽にした。しかし、完全に答えが出たわけではなかった。これからどうしていくのか、確かなビジョンを描けるまでは、まだ少し時間がかかりそうだ。

その夜、寝室でスマートフォンを手に取った真奈は、ふと通知に目を止める。

「久しぶりに会わない?」

彩乃からのメッセージだった。真奈は少し驚きながらも、心の中で嬉しさがこみ上げる。

「久しぶりだね。会いたいな!」

すぐに返信を打ち、再び会う約束をした。自分の中でモヤモヤしていた気持ちが、少しだけ晴れたような気がした。


6.1.3 彩乃と真奈の再会、結婚と仕事についての会話

 久しぶりに会った彩乃と真奈は、静かなレストランの一角で席についた。窓際の席からは夕日が差し込み、二人の顔を柔らかな光で照らしている。久々に会ったというのに、最初の照れくさい感じはすぐに消え、自然に会話が弾んだ。

「最近どう?」真奈がまず聞くと、彩乃は少し考えてから答えた。

「うーん、相変わらず忙しいけど、充実してるよ。取材や執筆、編集の打ち合わせとか、やることが山積みだけど、それが楽しくてね。『書きたいこと』がたくさんあって、恋愛とか後回しになっちゃってるかな」

彩乃の言葉にはいつも通りの情熱が込められていて、真奈は微笑みながら頷いた。

「でも、そんな彩乃でも、いつか誰かと出会うかもしれないよね」

彩乃は笑って肩をすくめた。

「それはどうだろうね。今は本当に書くことが大事で、恋愛とか考える余裕がないかな。でも、出会いがあったら、また考えは変わるかもね」

真奈は少し静かに考え込み、彩乃の言葉を心の中で咀嚼した。

「うん、そうだね。彩乃はいつも自分のやりたいことを追いかけてるから、きっとそういう生き方が一番だよね。私は…最近、少し迷ってることがあるんだ」

彩乃は興味深そうに真奈を見つめた。

「迷ってる? 仕事のこと?」

「うん、結婚してから仕事と家庭、どっちを優先するかっていうか、どうバランスを取るかって、正直なところまだはっきりしてなくて。どうしても仕事を続けたい気持ちはあるけど、もし子供ができたら、どんなふうに働いていくべきか…」

真奈の言葉には、少しの不安と迷いが混じっていた。それを聞いた彩乃は、真奈の手を優しく握りながら言った。

「それはすごく大事な問題だよね。でも、真奈ならきっとうまくやっていけるよ。何かを選ばないといけない時が来たとしても、自分に正直に、心地よい方を選べばいいんだよ」

真奈はその言葉に少し安心し、思わず頬を緩めた。

「ありがとう、彩乃。彩乃の言葉って、なんか元気をもらえるよ」

二人はしばらく黙って、温かい料理を囲んだ。やがて、再び会話が始まった。

「でも、どんなに忙しくても、こうやって会って話す時間が大事だよね」と真奈が言うと、彩乃も頷いた。

「うん、お互いにどんな道を進んでいても、変わらない友情があるって信じてる。私たちはそれを大切にしていこうね」

二人は目を合わせて笑った。その笑顔には、これからも変わらぬ絆があることを確かめ合う気持ちが込められていた。


6.2 彩乃の新たな出会い

6.2.1 取材での出会いと第一印象

 体育館の独特な匂いが鼻をくすぐる。わずかに響くバッシュの擦れる音。彩乃はメモ帳を片手に、試合前の選手たちがウォーミングアップをする様子を眺めていた。

 今回の取材は、実業団バスケットボールの特集記事のためのものだった。プロリーグではなく、企業に所属しながら競技を続ける実業団の選手たちの実態に迫る企画。競技を続ける理由、仕事との両立、そして彼らが見据える未来——。彩乃にとってスポーツを深掘りする記事は初めてだったが、かつてバスケ部に所属していたこともあり、興味がないわけではなかった。

 だが、目の前の光景に、少し気後れする。

 「体育会系のノリ、やっぱりちょっと苦手かも……」

 コート上では、選手たちが笑い合いながらも、時折鋭い視線を交わし、激しくシュートを打ち込んでいる。掛け声やハイタッチ、冗談混じりの罵声——そういった雰囲気に、高校時代を思い出しつつも、少し戸惑う自分がいた。

 「高橋さん、そろそろインタビューの時間です」

 広報担当者の声に、彩乃は顔を上げた。指定された取材対象の選手が、こちらへ向かってくるのが見えた。

 宮原迅。27歳、183cm。実業団チームのエースガード。

 近づいてくると、その体格の良さに改めて驚く。細身ながらしっかりとした筋肉がついていて、動きに無駄がない。短めの黒髪はラフに整えられ、爽やかな雰囲気を漂わせていた。

 「宮原迅です! よろしくお願いします」

 彼は人懐っこい笑顔を見せながら、軽く頭を下げた。声は明るく、ハキハキとしている。

 「高橋彩乃です。本日はよろしくお願いします」

 彩乃も会釈を返す。

 「いやー、なんか取材ってちょっと緊張しますね。俺、あんまりこういうの慣れてなくて」

 迅はそう言いながら、腕を組んで笑った。

 「意外ですね。試合ではあんなに堂々としていたのに」

 「そりゃ試合とインタビューは違いますよ。バスケは体で動けばいいけど、言葉で表現するのは難しいんで」

 その言葉に、彩乃は少し興味を引かれた。

 「言葉で表現するのが苦手なんですね」

 「うん、考えるより動くタイプなんで。でも、伝えるべきことはちゃんと伝えますよ」

 彼はニッと笑う。その表情は屈託がなく、まっすぐだった。

 (なるほど、根っからの体育会系って感じね)

 彩乃は淡々と質問を進める。バスケットを始めたきっかけ、実業団を選んだ理由、プレースタイルの特徴——。

 迅は歯切れよく答えていった。時折、熱が入りすぎて話が脱線することもあったが、決して悪い印象ではない。彼の言葉の端々から、バスケへの情熱が伝わってくる。

 だが、ある質問をしたとき、彩乃は少し違和感を覚えた。

 「競技を続ける上で、一番大事にしていることは何ですか?」

 迅は、迷うことなく答えた。

 「勝つことですね。それがすべてです」

 彩乃は一瞬、言葉に詰まる。

 「……それは、なぜ?」

 「負けたら意味がないからです」

 彼の瞳はまっすぐだった。あまりに迷いがなく、揺るぎない。

 (単純すぎる……)

 バスケットは競技である以上、勝利を目指すのは当然だ。でも、彼の言葉からは、何かもっと深い部分にある考えが見えてこない気がした。

 「勝つことの意味は、なんでしょう?」

 「えっ?」

 迅は少し驚いた表情を見せた。

 「勝つことは、強さの証明だと思ってます。自分がやってきたことが間違いじゃないって証明できるし、応援してくれる人にも結果で応えられる」

 「なるほど。でも、たとえば結果が出なくても、大事なものが残ることってありませんか?」

 「……うーん、どうだろう。俺は、負けたら何も残らないと思ってます。悔しい記憶しか」

 その答えに、彩乃はふとペンを止めた。

 (やっぱり考え方が違う……)

 だが、迅の目は真剣だった。彼は決して思考が浅いわけではなく、彼なりに考え抜いた上で、シンプルな答えに行き着いているのだろう。

 「……高橋さん?」

 迅が怪訝そうに顔を覗き込む。

 「いえ、少し考えていました」

 彩乃は小さく微笑み、再びメモを取る。

 (たぶん、彼とは価値観が違う)

 そんな確信があった。

 だけど——。

 (でも、どうしてだろう……この人の言葉、妙に引っかかる)

 体育館の喧騒の中、彩乃はペンを走らせながら、迅の表情をもう一度見つめた。


6.2.2 思わぬ共通点と距離の変化

 インタビューがひと段落し、彩乃は小さく息をついた。取材の進行には問題なかったものの、やはり迅の考え方には戸惑う部分があった。

 (負けたら何も残らない、か……)

 それは彼にとっての真実なのだろう。でも、彩乃にはどうしても割り切れなかった。

 「……ん?」

 ふと顔を上げると、迅がじっとこちらを見ていた。

 「考え込む癖、あるんですか?」

 「え?」

 「さっきから、たまに黙り込むから。俺、変なこと言いました?」

 「いえ、そんなことは……ちょっと考えていただけです」

 「ふーん。ライターさんって、そんなに言葉にこだわるもんなんですね」

 「仕事ですからね」

 彩乃がさらりと答えると、迅は軽く肩をすくめた。

 「なんか、俺らの世界とは正反対だな。俺ら、考えすぎるとミスるんで」

 「そういうものなんですか?」

 「そういうもんですよ。バスケは流れが大事なんで」

 そう言って彼は片手でボールを転がす。その仕草があまりにも自然で、彩乃は思わず視線を奪われた。

 その瞬間、不意に口が滑る。

 「……私も、高校までバスケ部だったんです」

 迅の手が止まった。

 「え?」

 彼は一瞬、冗談かと思ったような顔をした後、少し目を細める。

 「マジで?」

 「はい。一応、東京都ベスト8までは行きました」

 「いやいや、だったらもうちょっとバスケにリスペクト持ってくれてもいいんじゃない?」

 冗談交じりに言いながら、彼は笑う。その顔が少しだけ子どもっぽく見えて、彩乃もつい口元を緩めた。

 「持ってますよ。だからこそ、いろいろ気になるんです」

 「へぇ、なんか意外。全然スポーツ興味なさそうなタイプなのに」

 「偏見じゃないですか?」

 「かもしれない。でもさ、そういうのって、話してみないと分かんないもんですね」

 彼はボールを指先で回しながら、どこか楽しそうに言った。

 「じゃあ、高校時代はどんなプレースタイルだったんですか?」

 「私はフォワードでした。身長はそこまで高くないですけど、外からのシュートは得意でしたね」

 「おお、それはいいですね。やっぱりシューターは貴重ですから。俺もガードだから、そういう選手はすごく助かる」

 そう言いながら、迅は軽くボールを弾く。

 「でも、フォワードってことは、結構フィジカル強くなきゃですよね? ちゃんと当たり負けしないように鍛えてました?」

 「それなりに。でも、正直、接触プレーは苦手でした」

 「はは、分かる。シュートうまい人って、そういう人多いですよね。でも、それを補うためにどう動くかって、めちゃくちゃ大事なんですよ」

 その言葉に、彩乃は少し驚いた。

 (この人、やっぱりちゃんと考えてプレーしてるんだ……)

 最初は単純な体育会系かと思っていた。でも、彼の言葉の端々から、戦術やプレースタイルについての理解の深さが伝わってくる。

 「宮原さんは、どういうプレースタイルなんですか?」

 「俺? 俺はガードなんで、試合の流れを読むのが一番大事ですね。チームメイトがどこにいるか、どう動くか、瞬時に判断しないといけないんで」

 「なるほど……」

 「まぁ、基本的には『考えるより感じろ』ってタイプですけどね!」

 そう言って、彼はまた軽く笑う。彩乃はつい苦笑した。

 「やっぱり、私とは根本的に違う気がします」

 「うん、俺もそう思う。でも、話してみると意外と通じる部分もあるかもって、ちょっと思いました」

 彼の言葉に、彩乃は少し考え込む。

 (話が合うような、でもやっぱり違うような……)

 お互いの価値観は明らかに異なっている。けれど、同じバスケを経験した者としての共通言語がある。それが、不思議な距離感を生み出していた。

 「……なんか、また話したいですね」

 迅がぽつりと言う。

 「え?」

 「いや、ほら。バスケの話とか、結構楽しかったし」

 彼は少し照れたように鼻をこすりながら言う。

 (……なんだろう、この感じ)

 最初の印象とは違う。どこか、少しだけ心の距離が縮まった気がする。

 でも——。

 (やっぱり、この人とは違う世界の人な気がする)

 彩乃は、自分の胸の奥に引っかかる違和感を抱えたまま、ノートを閉じた。


6.2.3 迅が彩乃の文章に触れる

 試合が終わった夜、迅はベッドに寝転がりながらスマホを眺めていた。

 (せっかく取材受けたんだし、どんな記事になるかくらいはチェックしとくか)

 そう思い、高橋彩乃の名前を検索する。すぐにいくつかの記事がヒットした。

 「へぇ……結構書いてんだな」

 バスケット以外の分野も多い。スポーツだけでなく、インタビュー記事やエッセイのようなコラムまで幅広く手がけているようだった。

 何気なく記事を開くと、すぐに目を奪われた。

 (……え、これ、めちゃくちゃ読みやすい)

 文章はシンプルなのに、すっと頭に入ってくる。まるで会話をしているような自然なリズムがあり、言葉に温度があった。

 (すげぇ……なんか、相手の気持ちがちゃんと伝わってくる……)

 特に印象に残ったのは、あるアスリートの引退について書かれた記事だった。

 《勝ち続けることがすべてではない。けれど、彼は勝つためにここまで走り続けた。それを知っているからこそ、最後の一歩がどれほど尊いものか、私たちは理解できるのだ。》

 その一文を読んだ瞬間、迅は思わず息をのんだ。

 (言葉って、こんなに人の心を動かせるのか……)

 今まで、文章なんてほとんど読んでこなかった。正直、活字よりも試合の動画を見るほうがずっと好きだった。

 でも——彩乃の文章は違った。

 彼女が言葉を通して人の思いをすくい上げ、それを丁寧に伝えていることが分かる。

 (あの取材のときも、質問の仕方が鋭かったもんな……)

 最初は「理屈っぽそうな人だな」と思っていた。でも、それは決して冷たいわけじゃなくて——むしろ、相手を深く理解しようとする姿勢の表れだったのかもしれない。

 思わず、次の記事、また次の記事と読み進めてしまう。

 (……面白いな、この人の文章)

 気づけば、ベッドの上で夢中になっていた。

 ***

 数日後、体育館での練習後、迅は彩乃に連絡を取った。

 「お疲れさまです、高橋さん」

 「……珍しいですね、どうしたんですか?」

 「記事読んだけど、面白かったよ」

 彩乃は一瞬、驚いたように沈黙した。

 「……本当に読んだんですか?」

 「いやいや、そんな疑う? ちゃんと読みましたって」

 「どの記事ですか?」

 「えーっと……アスリートの引退について書いたやつ。最後の一歩がどうこうってやつ」

 その言葉を聞いた瞬間、彩乃の表情が少し変わった。

 (……この人、ちゃんと読んでくれたんだ)

 「……どうでした?」

 「すごくよかった。なんていうか、言葉の力ってすげぇなって思いました」

 迅は、少し照れくさそうに頭をかく。

 「俺、今までバスケばっかで文章とかあんまり読まなかったけど、高橋さんの記事は面白かったですよ」

 彩乃は思わず笑った。

 「それ、すごく嬉しいです」

 「そっか、よかった」

 それ以来、二人の間の会話は少しずつ増えていった。バスケの話だけでなく、言葉や考え方の違いについても話すようになり——。

 彩乃の中で、迅への印象が少しずつ変わり始めていた。


6.2.4 妹との会話と、彩乃の恋愛観の変化

 日曜の午後、彩乃は妹の咲希とカフェで待ち合わせていた。

 「お姉ちゃん、相変わらず忙しそうだね」

 席につくなり、咲希が軽やかに言う。社会人になってもう二年目。彼女は旅行代理店の営業職として働き、持ち前の明るさで職場でも評判がいいらしい。

 「まあね。でも好きなことを仕事にしてるから、あんまり“忙しい”って感覚はないかも」

 そう言いながら、彩乃はカフェラテを一口飲む。咲希はアイスティーをストローでくるくる回しながら、少し考えるような表情をした。

 「ふーん……でもさ、お姉ちゃんって恋愛とか結婚とか考えたことあるの?」

 唐突な話題に、彩乃は思わず咳き込んだ。

 「いきなり何?」

 「いや、だってお姉ちゃん、学生の頃からそういう話全然しなかったじゃん。今まで好きな人とかいた?」

 咲希の目がきらきらと興味津々に輝いている。

 「んー……いたかどうかって言われると、正直よく分からない」

 「え、それってヤバくない?」

 「いや、別にヤバくはないでしょ」

 「でもさ、今はどうなの? 好きな人とか、気になる人とか」

 彩乃は少し考えて、「今は仕事が楽しいし、書きたいことがいっぱいあるから」と答えた。

 それは本心だった。取材や執筆の毎日は刺激的で、まだまだ自分が書けることがたくさんある。

 けれど、言葉にした途端、何か引っかかるものを感じた。

 「でもさ、仕事とは違う形で誰かと一緒にいるのも、楽しいかもしれないよ?」

 咲希の何気ない言葉が、胸にじわりと広がる。

 「……咲希は、最近誰かいるの?」

 「いるよー。同期の人なんだけどね、最近よく一緒に出かけたりしてて、結構楽しいんだ」

 嬉しそうに話す咲希を見て、彩乃はふと、言葉にしがたい感情を抱いた。

 それは焦り——というほど強いものではないけれど、どこかそわそわするような気持ち。

 (私は、こういう話を誰かとすることがあるんだろうか?)

 最近、迅と話す時間が増えていた。最初は「ちょっと苦手かも?」と思った相手だった。価値観も違うし、ノリも合わない。でも、話してみると意外と真剣に物事を考えているし、何よりまっすぐだった。

 そして、彼は彩乃の書いた記事を読んで、「面白かったよ」と素直に言ってくれた。

 (私はこの人といると、どう思うんだろう?)

 まだ、その答えは分からない。

 けれど、「価値観が違うからこそ、面白いのかもしれない」という思いが、少しずつ芽生え始めていた。

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