第5章 人生の転換点③

5.5 未来への決断

5.5.1 彩乃、初めての本を出版する

 彩乃の初めての単行本が出版される日が、ついに訪れた。

出版社から届いた見本を手に取った瞬間、その重みと質感が現実のものとして指先に伝わってくる。表紙には、何度も編集部とやり取りを繰り返した末に決まったデザインが施され、ページをめくれば、書き上げたばかりの言葉たちが活字として整然と並んでいた。

「……本当に、出たんだ」

自分の名前が書かれた表紙を見つめながら、実感がゆっくりと胸に広がっていく。


この本が世に出るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。

商業ライティングの世界に飛び込み、自分の書きたいことと求められるものの間で葛藤した日々。川村からは「プロの書き手としての視点」を学び、藤崎からは「書くことの本質」を問われ続けた。編集部とのやり取りでは、妥協できる点と譲れない部分を何度も見極め、最終的に「彩乃にしか書けないもの」としての形を見つけた。

藤崎の言葉が思い出される。

——本は一度世に出たら、もうお前だけのものじゃなくなる。それでも、お前が書いたものは、お前の言葉でしかない。だからこそ、誠実に書け。

書き手としての覚悟を持て、と言われたあの夜のことが、今になって胸に響く。


出版当日、彩乃は一人で都内の書店に足を運んだ。

新刊コーナーに並ぶ自分の本。周囲には、名の知れた作家や話題のベストセラーが並ぶ。その中に、自分の本があることに、不思議な感覚を覚える。

「……すごいな」

自分の本を手に取る人がいるかもしれない。この本を読んで、何かを感じる人がいるかもしれない。そう思うと、期待と同時に不安もこみ上げてくる。

だが、その不安すらも、今の自分に必要なものなのかもしれない。

その夜、真奈や友人たちが祝ってくれた。

「彩乃、おめでとう!」

「ついに出版かぁ、すごいよ!」

梓や奈緒もメッセージをくれ、川村からは「次に書くものを考えておけよ」と、らしい言葉が届いた。藤崎からは短いメールが来ていた。

——お前の言葉を大事にしろ。

彩乃は静かにスマホを置き、本を手に取る。そして、改めて思った。

これはゴールじゃない。まだ、書きたいことがある。

自分の言葉で、まだ伝えられることがある。

そう思ったとき、次に書くべきものの輪郭が、ぼんやりと頭に浮かび始めていた。


5.5.2 真奈、颯真からのプロポーズと両家への挨拶

 休日の午後、颯真は真奈をディナーに誘った。

「今日はちょっと特別な日だから」

そう言って向かったのは、夜景が美しいレストランだった。

真奈は少し戸惑いながらも、彼の特別な雰囲気を感じ取っていた。二人の関係は穏やかで安定していたが、これまで「結婚」について明確に話したことはなかった。

食事が終わり、デザートが運ばれてくると、颯真が真剣な表情で真奈を見つめた。

「真奈」

彼はポケットから小さな箱を取り出し、静かに開ける。そこには、シンプルで上品なデザインの指輪が光っていた。

「僕と結婚してください」

突然の言葉に、真奈は息をのんだ。

「……え?」

頭が真っ白になる。心臓が早鐘を打つ。予感はあったはずなのに、いざ目の前でその言葉を聞くと、思考が追いつかない。

「急に驚かせてごめん。でも、ずっと考えてた。真奈と一緒にこれからの人生を歩んでいきたいって」

颯真の目は真剣だった。

真奈は少し俯き、深呼吸をする。自分の心に問いかける。

——私は、この人とこれからも一緒にいたい?

答えは、もう決まっていた。

「……うん。よろしくお願いします」

微笑みながらそう答えると、颯真は安心したように息をつき、指輪をそっと真奈の指にはめた。

指に馴染むその重みが、未来の始まりを告げるようだった。

プロポーズの翌週、二人はそれぞれの両親へ結婚の挨拶をすることになった。

最初に訪れたのは、島崎家だった。

真奈の両親は、颯真の訪問に対して慎重な姿勢を崩さなかった。特に父・宏典は、厳格な表情で彼を迎えた。

「娘と結婚を考えていると聞いたが、君は本当に真奈を幸せにできるのか?」

颯真はその鋭い問いにも、動じることなくまっすぐに答えた。

「はい。真奈さんとはお互いを支え合いながら生きていきたいと思っています。仕事が忙しい分、支える時間が足りなくなることもあるかもしれませんが、それでも彼女を一番に考えていきます」

宏典はしばらく沈黙し、じっと彼を見つめていた。

「……誠実な人のようだな」

その一言が、受け入れのサインだった。母・恵は静かに微笑み、「どうか、真奈のことをよろしくお願いしますね」と優しく言った。

次に訪れたのは、颯真の実家・橘家だった。

颯真の父・正隆は、厳格な外科医らしく端的に質問を投げかけた。

「君は、息子の仕事の大変さを理解しているか?」

真奈は少し緊張しながらも、しっかりと目を見据えて答えた。

「はい。颯真さんが忙しいことも、責任の重い仕事であることも理解しています。でも、彼はその仕事に誇りを持っていますし、私はその姿を支えていきたいと思っています」

正隆は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。

「……息子にはもったいないくらい、しっかりした人だな」

その場にいた母・美和は、柔らかい笑みを浮かべながら「これからは家族として、どうぞよろしくね」と真奈の手をそっと握った。

こうして、両家の承諾を得た二人の結婚は、現実のものとなった。


5.5.3 大学時代の友人たちと再会

 週末の午後、都心の落ち着いたカフェで、彩乃、真奈、梓、奈緒の4人が顔をそろえた。卒業後もそれぞれとは会っていたものの、4人そろうのは久しぶりだった。

「うわー、全員そろうのって何年ぶり?」

梓が目を輝かせながら言うと、奈緒が静かに笑った。

「卒業式以来……ではないけど、こうやってゆっくり話せるのは本当に久しぶりだね」

「みんな忙しいもんね。あれ、でも一番忙しいのは彩乃じゃない?」

真奈が笑いながら言うと、彩乃は苦笑しながらコーヒーを手に取った。

「まあね……でも、そっちも結婚準備でバタバタなんじゃない?」

「それはそう!」

梓がすかさず乗っかり、身を乗り出す。

「いやー、まさか真奈が一番に結婚するとは思わなかったなあ。なんかもっと慎重に考えるタイプかと思ってた」

「わかる。奈緒あたりが最初に落ち着くのかなって思ってたよ」

彩乃も同意すると、奈緒が小さく肩をすくめた。

「うん……まあ、私もそう思ってた。でも、仕事を始めたら、自分のケアのほうが大事だなって気づいて、今は恋愛よりそっちに集中してるかな」

「なるほどねー。福祉関係って大変そうだもんね」

梓が感心したように言いながら、自分のグラスを持ち上げる。

「じゃあ、今のうちに改めて……真奈、おめでとう!」

「おめでとー!」

彩乃と奈緒も声をそろえ、4人はグラスを合わせた。

変わっていく生活、それでも変わらないもの

それぞれの近況を話すうちに、4人の進んできた道が改めて浮き彫りになった。

梓は、旅行代理店の仕事で忙しくしながらも、いずれ海外駐在を目指して奮闘中だった。

「最近は東南アジアのマーケティングに関わってるんだけど、めちゃくちゃ面白いよ。現地の文化とか習慣を知ると、旅行の仕方も全然変わるんだよね」

奈緒は企業のカウンセラーとして働き、人のメンタルケアに向き合う日々を送っていた。

「思ったより大変。でも、誰かがちょっとでも楽になるきっかけになれたらいいなって思ってる」

真奈は結婚を控え、心理士としての仕事も充実していた。

「結婚はまだ実感がわかないけど、仕事と両立できるように頑張りたいな」

そして彩乃は、初めての本を出し、作家としての道を歩み始めていた。

「まだまだこれからって感じだけどね。でも、やっとスタート地点に立てた気がする」

それぞれの道を進みながらも、こうして集まると大学時代と変わらない空気が流れる。それが心地よくて、4人とも自然と笑顔になっていた。

「次は彩乃の番?」

「それにしても、次に結婚するのは誰だろうね?」

梓がふとそんなことを言い出すと、奈緒がクスッと笑う。

「普通に考えたら彩乃じゃない?」

「えっ、なんで?」

彩乃が驚くと、真奈がいたずらっぽく微笑んだ。

「なんとなく、次に『人生の大きな決断をする』のは彩乃な気がするから」

「いやいや、私はまだ書きたいことがあるし、そもそもそんな相手もいないし……」

苦笑しながら言うと、梓が肩をすくめた。

「まあ、人生ってそういうもんだよ。急に何かが変わったりするし」

「確かにね。でも、今はまだ本に集中したいかな」

彩乃の言葉に、奈緒が優しく頷いた。

「それでいいと思うよ。私たちは、それぞれのペースで進めばいいんだから」

グラスに残った飲み物を飲み干しながら、彩乃はふと、この瞬間がとても貴重なものに思えた。

——何年経っても、こうやって集まれるのなら、それだけで十分幸せだ。

そう思いながら、彼女は静かに微笑んだ。


5.5.4 真奈と颯真、結婚式の準備

 「やることが多すぎる!」

「もう、思った以上に決めることが多い!」

結婚式の準備を進める中で、真奈は何度この言葉を口にしたかわからない。

「まあ、結婚式ってそういうものだよね……」

颯真が苦笑しながらも、彼女の言葉に頷く。

会場の手配、招待客のリストアップ、ドレス選び、料理の試食、席次の決定……ひとつひとつは楽しみながら進めていたものの、仕事をしながらの準備は想像以上に大変だった。

「颯真は、式のイメージとかあるの?」

「うーん、シンプルで落ち着いた雰囲気がいいかな。派手なのはあんまり好きじゃないし……」

「私もそう思ってた! 華やかすぎるのはちょっと落ち着かないしね」

二人の好みが似ていたのは幸いだった。式場は、格式張りすぎず、でも洗練された雰囲気のある都内のホテルを選んだ。

「親族と親しい友人だけを呼んで、ゆったりした披露宴にしよう」

「そうだね。でも、ちゃんと楽しんでもらえるようにしないと」

式のテーマや進行について話し合いながら、二人は少しずつ理想の形を固めていった。

「うわ、どれも素敵……」

真奈は試着室で、鏡の前に立ち、いくつかのウェディングドレスを眺めていた。

「クラシックなAラインもいいし、もうちょっと柔らかいデザインも捨てがたいし……」

「全部似合ってるよ」

颯真の一言に、真奈は思わず吹き出した。

「それ、何も決めてないのと同じじゃない?」

「いや、本当にそう思うんだけどな。でも、真奈が一番自分らしいと思えるものを選べばいいよ」

「……じゃあ、もうちょっと考えてみる」

試着を繰り返しながら、最終的には上品なシルエットのドレスに決めた。

「颯真のタキシード姿も楽しみだな」

「普通のやつだけどね」

「ううん、すごく楽しみ」

そんな会話を交わしながら、二人は準備を進めていった。

招待するゲストのリストアップは、二人にとって意外と難しい作業だった。

「仕事関係の人、どこまで呼ぶべきかな……」

「うーん、職場の人って微妙なラインだよね。上司は招待するべきだろうけど、全部の同僚を呼ぶのは現実的じゃないし」

「そうだね……」

家族や親族、親しい友人たちの席次も考えながら、何度もリストを見直す。

「彩乃は、やっぱりスピーチお願いしたいな」

「絶対に盛り上げてくれると思うよ」

「うん。あと、梓と奈緒もいい席にしたいな」

それぞれのゲストに対する思いを込めながら、二人は慎重に席次を決めていった。

結婚式前夜——「明日が来るのが、ちょっと不思議」

あっという間に準備の日々は過ぎ、ついに結婚式の前夜になった。

「もうすぐだね」

「うん……」

ベッドに座りながら、真奈はふと指輪を眺めた。婚約指輪とはまた違う、結婚指輪のシンプルな輝き。

「明日から、本当に夫婦になるんだね」

「実感、ある?」

「まだ、ちょっと不思議な感じ。でも……幸せだよ」

「俺も」

颯真が優しく微笑む。

「明日、最高の一日にしよう」

「うん」

そうして二人は、静かにその夜を迎えた。

——そして、いよいよ結婚式の日が訪れる。


5.5.5 真奈と颯真の結婚式

 晴れ渡る空の下、静かで厳かな音楽が流れる中、真奈と颯真の結婚式が始まった。

式場は二人が選んだ落ち着いた雰囲気のホテルのチャペル。純白のバージンロードが中央に伸び、その両側には家族や友人たちが温かい眼差しで座っている。

真奈は、背筋を伸ばして父・宏典の隣に立っていた。

「……行ってこい」

寡黙な父が小さくそう告げ、真奈の手をそっと送り出す。

「ありがとう、お父さん」

父の手から颯真の手へと託される。真奈は、微笑みながら颯真と向かい合った。

神父が問いかける。

「橘颯真さん、あなたは島崎真奈さんを生涯愛し、支え続けることを誓いますか?」

颯真は静かに、しかし確かな声で答えた。

「誓います」

「島崎真奈さん、あなたは橘颯真さんを生涯愛し、支え続けることを誓いますか?」

真奈は、颯真の瞳をまっすぐに見つめ、深く息を吸った。

「誓います」

指輪が交わされ、誓いのキスの瞬間、チャペルは温かな拍手に包まれた。

彩乃は、拍手をしながら、じんわりと胸が熱くなるのを感じた。

披露宴が始まり、食事が進む中で、司会者がマイクを持つ。

「それでは、ここでご友人代表からお祝いのスピーチをいただきます。高橋彩乃さん、お願いいたします」

彩乃は席を立ち、ゆっくりとマイクの前へ歩いた。

「ええと……」

スピーチの原稿は準備してきたけれど、実際に二人を前にすると、言葉を選び直したくなった。

「まずは、真奈、颯真さん、ご結婚おめでとうございます」

会場に拍手が響く。

「私と真奈が出会ったのは、大学の入学式の日でした。最初はちょっとクールな印象だったけど、実はすごく優しくて、努力家で……。一緒に過ごすうちに、大切な親友になりました」

彩乃は、真奈の方を見た。

「真奈は、どんなときも人の気持ちを大切にする人です。自分のことよりも、相手のことを考えて行動できる人です。それは、学生時代も、そして今も変わりません」

少し間をおいて、彩乃は続ける。

「だからこそ、颯真さんのそばで、きっと素敵な家庭を築いていくんだろうなって思います」

彩乃の言葉に、真奈は目を潤ませながら笑った。

「でも、困ったことがあったら、いつでも連絡してね。これからも、私たちはずっと友達だから」

会場から温かな拍手が送られた。彩乃はマイクを置き、席へ戻ると、梓がこっそりと耳打ちした。

「いいスピーチだったよ」

「ありがと」

披露宴も終盤に差し掛かり、真奈がマイクの前に立った。

「……最後に、両親への手紙を読ませてください」

真奈は一度深呼吸し、封筒を開いた。

「お父さん、お母さん。今日まで育ててくれて、本当にありがとう」

真奈の声は、静かに震えていた。

「お父さんは、厳しい人だったけど、いつも私たちのことを思ってくれていたこと、今ならわかります。お母さんは、どんなときも優しく見守ってくれました」

宏典は静かに目を閉じ、恵は涙を拭いながら娘の言葉を聞いていた。

「私はこれから、颯真さんと新しい家庭を築きます。でも、お父さんとお母さんが私にくれた愛情を、ずっと忘れません」

言葉を詰まらせながらも、最後まで真奈は手紙を読み切った。

会場にはすすり泣く声が広がり、大きな拍手が送られる。

披露宴が終わり、会場を後にする頃、彩乃はふと、夜空を見上げた。

「……ついに、真奈が結婚したんだ」

隣には梓と奈緒が並んでいる。

「なんか、すごいね」

「うん。私たちも、それぞれの道を歩いてるんだなって思う」

真奈は、今日から「橘真奈」として新しい人生を歩み始める。

彩乃は、祝福の気持ちを抱きながらも、少しだけ寂しさを感じていた。

(私は……どうなるんだろう)

「ねえ、彩乃。次はあんたの番なんじゃない?」

梓がからかうように言うと、彩乃は苦笑した。

「さあね。今はまだ、書きたいことがあるから」

自分は、まだまだ書き続ける。

——人生はまだ続く。

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