第5章 人生の転換点②
5.3 彩乃の挑戦・真奈の変化
5.3.1 彩乃、初めての大型案件に挑む
独立してからの生活は、想像していた以上に目まぐるしかった。
編集の仕事を辞め、フリーランスのライターとして歩み始めた彩乃は、出版社やWebメディアからの仕事を受けながら、日々文章を書き続けていた。企業のオウンドメディアのコラム記事、雑誌の特集記事の執筆、取材記事のライティング——どれも書くことには違いなかったが、手がける仕事のジャンルはバラバラだった。生活のために仕事を選ばざるを得ない現実と、理想との間で揺れながら、彩乃は「自分のスタイルとは何なのか」を模索していた。
そんな中、かつての上司である川村から連絡が入った。
「ちょうど良い案件があるんだが、彩乃、お前やってみないか?」
紹介されたのは、大手出版社の月刊誌の特集記事。社会問題をテーマにした、硬派なジャーナリズム系の企画だった。ライターとしての実力を試される大きな仕事——独立したばかりの彩乃にとっては、願ってもないチャンスだった。
「本当に私でいいんですか?」
「お前の文章を気に入っている編集がいる。試しに一本書いてみろ」
彩乃は即答した。「やります」と。
久しぶりの大きな案件に、胸が高鳴った。取材対象はとある社会問題の当事者たち。彩乃は事前に資料を読み込み、綿密に取材の準備を進めた。そして迎えた取材日。実際に話を聞くと、机上の情報だけでは見えなかった当事者の思いが溢れ出してきた。その言葉一つひとつを大切に拾い上げ、彩乃は記事を仕上げていった。
ところが、記事の初稿を提出すると、編集部からのフィードバックは予想以上に厳しかった。
「文章は悪くない。でも、もっとセンセーショナルにできないか?」
編集者の求めているものは、問題提起としてインパクトのある記事。読者の目を引くために、より強い表現や、ドラマチックな構成を求められた。
「でも、それじゃあ取材で話してくれた方々の思いとは違う方向に——」
「ライターの仕事は、書き手の思いだけでなく、読者に届くものを作ることだよ」
編集者の言葉に、彩乃は言葉を失った。
取材を通して出会った人たちの言葉を、そのままの形で伝えたい。けれど、それでは記事として成立しないのか? 読者に伝えるためには、多少の演出や脚色が必要なのか?
「自分の書きたいこと」と「求められる記事」のギャップ——。
フリーランスとしての第一歩を踏み出した彩乃は、早速ライターとしての現実に直面していた。
5.3.2 真奈、颯真との距離が縮まる
病院のカフェで、真奈と颯真は向かい合って座っていた。仕事が終わると、こうして話すのがいつの間にか習慣になっていた。
「この前担当した患者さんが、ようやく回復してきたんだ。でも、退院後の生活環境が整っていなくて……家族もサポートに消極的で、どうすればいいのか悩んでる」
颯真がコーヒーをかき混ぜながら、ぽつりと漏らす。
「退院した後の環境って、すごく大事ですよね。治療が終わっても、そこで患者さんの人生が終わるわけじゃないし」
「そうなんだよな。医学的な治療はできても、その人の人生までは支えきれない。俺たちは患者さんの体を治すことが仕事だけど、それだけで本当にいいのかって、最近思う」
彼の真剣な眼差しを見ながら、真奈は静かに頷いた。
「私も、最初は『患者さんを救いたい』って思ってこの仕事を始めたけど、実際はそんな単純じゃないって気づいたんです。救える人もいれば、どうしても救えない人もいる。でも……」
真奈は少し間を置いて、続けた。
「それでも、患者さんが少しでも楽になるように、できることをしていくしかないんじゃないかなって思います。」
颯真は真奈の言葉を静かに噛み締めるように聞き、ふっと微笑んだ。
「……真奈さんの考え方に支えられてるよ」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「そんな、私はただ——」
「いや、本当に。真奈さんと話してると、自分の考えが整理されるし、違う視点から物事を見られるようになる。だから、もっと——」
颯真は言葉を切り、少し照れくさそうに笑った。
「もっと、仕事のこと抜きで会いたい」
真奈は、一瞬言葉を失った。
颯真は、穏やかだけれど真剣な眼差しで彼女を見つめている。
「……それって」
「俺、真奈さんのことが好きだ」
心臓がまた、大きく跳ねた。
「最初は、ただ同じ病院の職員として、相談しやすい相手だと思ってた。でも、気づいたら……真奈さんと話す時間が、俺にとって特別なものになってたんだ」
真奈は、俯いていた視線をゆっくりと上げる。
——この人の言葉は、いつも誠実だ。
「……私も、颯真さんと話してる時間が好き」
その気持ちは、気づかないふりをしていたものだった。でも、こうして言葉にすると、驚くほど自然に口からこぼれた。
「……じゃあ」
颯真の表情が、少し緩んだ。
「付き合ってくれる?」
真奈は、小さく笑って頷いた。
「はい」
——こうして、二人の関係は、仕事仲間から恋人へと変わっていった。
5.3.3 彩乃と真奈、それぞれの近況を語り合う
土曜の午後、都内のカフェ。駅から少し離れた静かな場所にあるその店は、以前から二人のお気に入りだった。
「……なんか久しぶりじゃない?」
カフェラテを手にしながら、彩乃が微笑む。
「うん、最近ずっとバタバタしてたからね」
真奈も頷き、ストローをくるくる回した。
それまでは月に何度か会っていたが、彩乃は独立してから仕事に追われ、真奈も病院の業務やカウンセリングの研修に忙しくしていた。ようやくタイミングが合い、今日は久しぶりにゆっくり会うことができた。
「彩乃は、フリーになってどう? 順調?」
真奈の問いかけに、彩乃は少し口元を引き締めた。
「うーん……楽しいけど、正直めっちゃ大変」
「やっぱり?」
「うん。フリーになったからって、すぐに好きなものを書けるわけじゃないし、仕事を取るのも一苦労。今、大きめの案件に関わってるんだけど、クライアントの意向と自分の書きたいものが噛み合わなくてさ……」
彩乃はため息をつくと、テーブルに頬杖をついた。
「自分のスタイルを貫きたいけど、それだけじゃ食べていけないし。思ってた以上に難しいなって」
それは、彩乃が独立前から分かっていたことではあった。でも、実際に経験してみると、想像以上に厳しい現実があった。
「そっか……彩乃ならうまくやると思ってたけど、それでも大変なんだね」
「甘くなかったよ。まあ、覚悟はしてたけどね」
そう言いながらも、彩乃の表情にはどこか充実感があった。
「でも、やっぱり書くのは好きなんだよね。だから、諦めたくはない」
その言葉に、真奈はふっと笑った。
「彩乃らしいね」
「でしょ?」
彩乃も笑うと、カップを手に取り、一口飲んだ。そして、ふと真奈を見つめる。
「真奈はどう? 最近の仕事は?」
「うん、それがね……実は、付き合い始めた人がいるの」
その言葉に、彩乃の目が大きく開いた。
「え、マジで!? 誰? いつから??」
「そんなに食いつかなくても……」
少し照れくさそうに、真奈はカップを両手で包み込んだ。
「病院の内科医の先生。名前は橘颯真(たちばな そうま)って言うんだけど……」
真奈が彼のことを語る間、彩乃は興味津々で聞いていた。
「いやー、真奈に彼氏ができるなんて、なんか感慨深いなあ」
「別にそんな珍しいことじゃないでしょ」
「いや、真奈って仕事一筋な感じあったし、あんまり恋愛の話してこなかったしさ。でも、いいじゃん。どんな人なの?」
「すごく真面目で、患者さん思いの人。でも、理想と現実のギャップに悩んでる部分もあって……そういうところを話してるうちに、距離が縮まった感じかな」
「へぇー……なんか、真奈にぴったりな人っぽい」
彩乃は嬉しそうに頷いた。
「で、颯真さんはどんな感じ? 付き合ってみて」
「うーん……まだ始まったばかりだから、これからって感じだけど。でも、一緒にいると落ち着くし、価値観を共有できるのが嬉しいかな」
その言葉を聞いて、彩乃は少し考え込んだ。
「……いいね、そういう関係」
「彩乃は?」
「私?」
「彩乃も、恋愛する余裕くらいはあるんじゃないの?」
「うーん……今は、ちょっとそれどころじゃないかな」
彩乃は苦笑いしながら首を振った。
「でも、いつかはそういう相手がいたらいいなって思うけどね」
「そっか」
カフェの窓から差し込む午後の陽射しが、二人の間に穏やかな影を落とす。
お互いに違う道を歩み始めた今でも、こうして並んで話していると、学生時代に戻ったような気がした。
——それぞれの道を進んでいる。でも、こうして話せば、やっぱり心のどこかでつながっている。
「真奈、これからも色々話そうね」
「うん。彩乃も、困ったことがあったら言ってよ」
「ありがと。……よし、また明日から頑張るか」
二人はカップを手に取り、静かに笑い合った。
5.4 それぞれの道、交わる瞬間
5.4.1 彩乃、執筆活動に没頭する日々
独立して数ヶ月が経ち、彩乃はフリーランスの生活にも徐々に慣れ始めていた。仕事を安定させるために、出版社やWebメディアからの依頼をこなしながら、自分の執筆スタイルを模索する日々が続いていた。そんな中、大手出版社の企画に関わることになり、大きなチャンスを手にする。しかし、それは同時に新たな葛藤の始まりでもあった。
今回の案件は、著名なノンフィクション作家が監修するインタビュー記事のシリーズだった。彩乃の担当は、社会問題をテーマにしたルポルタージュ。しかし、編集部からの指示は明確だった。
「読者が興味を持ちやすいように、エモーショナルな視点を強調してほしい」
編集者の意図は理解できる。感情を揺さぶる文章は人を惹きつけるし、実際に売れる記事の多くはそういった要素を含んでいる。けれど、彩乃は違和感を覚えた。取材で聞いた言葉をそのまま伝えたいのに、過剰な演出を求められることに戸惑いを感じたのだ。
「このまま書いていいのかな……」
執筆が進むにつれ、迷いは深まった。取材相手の言葉をできるだけそのまま伝えたいという思いと、求められる形に沿わなければ仕事として成り立たないという現実。その狭間で、彩乃は自分の立ち位置を見失いかけていた。
迷ったとき、彩乃が頼るのは二人の人物だった。一人は、かつての上司であり、今も彼女のことを気にかけてくれる川村誠。もう一人は、大学時代から指導を受けている藤崎遼。
まず、川村に相談すると、彼は静かに彩乃の話を聞いたあと、淡々と言った。
「プロのライターは、クライアントの要望を汲みながら書くものだ。でも、それがすべてじゃない。お前はまだ、自分の書きたいものが何かをはっきり言葉にできていないんじゃないか?」
鋭い指摘だった。彩乃は口を閉じ、考え込んだ。自分の書きたいもの――それがはっきりすれば、クライアントの意向とどう折り合いをつけるべきか、答えが見えてくるのかもしれない。
次に、藤崎遼のもとを訪れた。彼は彩乃の原稿を読みながら、ぼそっと呟いた。
「お前の言葉は、まだどこか遠慮があるな」
「遠慮……ですか?」
「商業的な記事と、自分の書きたいものが完全に一致することなんてほとんどない。でも、たとえ制約があっても、自分の言葉を見失わずに書くことはできるはずだ。問題は、お前がどこまでそのバランスを取る覚悟があるかだ」
彩乃は黙って頷いた。何をどこまで譲るのか、どこは絶対に譲らないのか。フリーランスとしてやっていく以上、そこを決めるのは自分自身だった。
出版社とのやり取りは決して楽ではなかったが、試行錯誤の末、彩乃は自分なりの折衷案を見つけた。取材相手の言葉を尊重しつつも、読者に伝わりやすい表現を模索し、時には編集部と粘り強く交渉した。結果、彼女の記事は掲載され、企画の一部として世に出ることになった。
だが、彩乃はまだ満足していなかった。これは単なる一歩にすぎない。
「私の言葉で、何を伝えたいのか……」
その問いに、今度こそ明確な答えを出さなければならない。そう強く思いながら、彩乃は新たな原稿に向き合った。
5.4.2 真奈と颯真、交際の日常
真奈と颯真の交際が始まって数ヶ月。二人とも忙しい仕事を抱えながらも、少しずつ関係を深めていた。
仕事帰りに待ち合わせて軽く食事をしたり、休日が合えば短い時間でも会うようにしていた。颯真は仕事で疲れたとき、真奈との会話に安らぎを感じるようになっていた。彼女の落ち着いた口調、相手の気持ちを汲み取る姿勢は、慌ただしい病院勤務の中で張り詰めた心をほぐしてくれるものだった。
「今日、やっと担当患者の容体が落ち着いてさ」
そう言いながら、颯真はコーヒーを一口飲む。
「良かったね」
真奈は微笑みながら、ゆっくりとカップを傾けた。
「でもさ、これで終わりじゃないんだよな。退院しても、生活習慣を変えなきゃまた同じことの繰り返しになるし……。医者として何ができるのか、考えちゃう」
「そうだね。でも、患者さんにとっては、颯真が診てくれること自体が支えになってるんじゃないかな」
そう言うと、颯真は少し驚いたような顔をして、それから柔らかく笑った。
「真奈にそう言ってもらえると、ちょっと気が楽になるな」
真奈自身も、彼と過ごす時間に安心感を覚えていた。仕事ではいつも冷静であろうとするが、颯真といると自然体でいられる気がした。
ある休日、二人は久しぶりにちゃんとしたデートをしようということで、水族館へ出かけた。青く揺れる水槽の中を魚が優雅に泳ぐ様子を眺めながら、他愛もない話をして笑い合う。
「子どもの頃、くらげの水槽の前でずっと動かなかったことがあってさ」
「へえ、意外とロマンチストだったんだね」
「いや、それよりも単純に、あのフワフワした感じがなんか癒されたんだよな」
「わかるよ。無重力みたいで、見てると不思議な気持ちになるよね」
二人は並んで歩きながら、時折視線を交わし、自然な空気の中で心地よい時間を過ごした。
帰り際、駅までの道をゆっくり歩いていたとき、不意に颯真が言った。
「……真奈はさ、いつか結婚とか考えたことある?」
何気ない口調だったが、真奈は思わず足を止めた。
「結婚……?」
これまで意識したことのない言葉に、どう答えていいかわからなかった。
「うん。まあ、まだ今すぐって話じゃないけどさ、将来的にどういう風に考えてるのかなって」
颯真は軽く笑って、真奈の顔を覗き込むようにした。
真奈は少し考えてから、正直に答えた。
「……正直、まだ実感がわかないかも。でも、もし誰かと一緒にいる未来があるとしたら、ちゃんとお互いに支え合える関係がいいな、とは思うよ」
颯真はその言葉を噛みしめるように頷いた。
「そっか。……うん、それ、すごく真奈らしいね」
彼はそれ以上何も言わず、ただ穏やかに微笑んだ。
真奈は、自分の胸の奥にある感情を確かめるように、静かに夜の街を見つめていた。
5.4.3 真奈、颯真を彩乃に紹介する
春の陽気が感じられる週末、真奈は彩乃に颯真を紹介するために、三人で食事をする場を設けた。場所は落ち着いた雰囲気のカフェレストラン。窓際の席には柔らかな光が差し込み、開放的な雰囲気が漂っていた。
「彩乃、こっちこっち」
店に入ると、すでに真奈と颯真が席についていた。颯真はスーツではなく、カジュアルなシャツ姿で、いつも病院で見る印象よりも少し柔らかい雰囲気だった。
「初めまして、橘颯真です。真奈さんから彩乃さんの話はよく聞いています」
立ち上がって軽く頭を下げる颯真に、彩乃は微笑んだ。
「初めまして、彩乃です。真奈とは大学時代からの付き合いなんです」
「ええ、聞いてます。いつも支え合ってきた大切なご友人だと」
真奈が少し照れくさそうに頬をかく。
「そんな大げさなこと言ってないでしょ」
「いや、でも本当に大切に思ってるのは伝わってきますよ」
颯真の言葉に、真奈はわずかに目を伏せながら、けれど嬉しそうに微笑んだ。そのやりとりを見て、彩乃は自然と頬を緩めた。
食事をしながら、三人の会話は和やかに進んだ。
「颯真さんは、内科のお医者さんなんですよね?」
「はい。患者さんの治療がメインですが、最近は精神面のケアについても考えることが増えました」
「真奈の影響?」
「そうですね。カウンセリングの視点から学ぶことが多くて」
そう言って、颯真は真奈をちらりと見た。真奈は少し照れたようにスプーンを弄んでいた。
「彩乃さんはライターのお仕事をされてるんですよね?」
「そうです。今はフリーランスで執筆していて、雑誌やWebの記事を書いたり、小説の執筆にも挑戦してます」
「すごいですね。どんなテーマが多いんですか?」
彩乃は少し考えたあと、「人の生き方や感情を深く掘り下げるようなものが好きですね」と答えた。
「興味深いですね。僕たちは医療の現場にいますが、患者さんの人生に関わるという意味では、もしかしたら少し共通点があるのかもしれません」
「……確かに」
彩乃は、颯真がただ真面目なだけでなく、人の気持ちに寄り添おうとする人なのだと感じた。
食事が終わるころ、彩乃はふと真奈の表情を見た。
(こういう表情、久しぶりに見たな……)
真奈の瞳は穏やかで、自然体でいられる空気が漂っていた。
「颯真さん、これからも真奈のことよろしくね」
彩乃が軽く冗談めかして言うと、颯真は真剣な表情で頷いた。
「はい、もちろんです」
真奈は「ちょっと、大げさすぎ」と笑いながらも、どこか安心したような表情を浮かべていた。
友人として、これほど嬉しいことはない。彩乃はそう思いながら、二人の姿を温かく見守った。
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