第5章 人生の転換点①
5.1 道を歩む
5.1.1 彩乃の新たな挑戦
彩乃は、ライターとしての道を本格的に歩み始めていた。出版社での2年目を迎えると、仕事の幅は広がり、編集者からも少しずつ信頼を得るようになった。特に、これまで手がけた記事やコラムが好評で、社内での評価が高まり、上司からも新しい仕事を任されることが増えていった。その一方で、彩乃はライターとして独立することを視野に入れるようになった。
「フリーランスとしてやっていけるだろうか?」という不安が、日々の中で次第に大きくなっていった。独立するためには、会社内の仕事だけでは不十分だと感じるようになり、自分の力で記事を作り出していく必要があることを強く意識し始めた。しかし、フリーランスとしての収入は不安定で、生活基盤がどうしても不安定になってしまう。このままライターとして生きていけるのか、その先にどんな未来が待っているのか、彩乃は悩んでいた。
そんな中で、社内の編集者とのやり取りがますます密になり、次第に担当する記事のジャンルやクオリティも上がってきた。特に自分が興味のある分野での執筆が増え、ライターとしての手応えを感じる瞬間が増えてきた。それでも、心の中では常に「本当にこれで良いのだろうか」という疑念が湧いてきた。
彼女はふとした瞬間、昔から心の奥に抱えていた「自分の書きたいもの」を思い出した。それは、何か特別なテーマでもなく、ただ自分の言葉で表現したいというシンプルな思いだった。毎日の仕事に追われる中で、つい忘れがちだったその気持ちが再び彩乃の胸に迫った。
決して楽な道ではないと感じるが、それでも彩乃は本当にやりたいことを追いかけていこうと決めた。今後どう進むべきかの答えは見つからないが、少なくとも「自分が書きたいものを見つけること」だけは間違いなく重要だと確信していた。
5.1.2 真奈の成長と仕事のプレッシャー
真奈は、臨床心理士としての道を順調に歩み始めていた。患者とのセッションを経て、徐々に自信を深め、仕事への理解も深まっていった。特に、以前担当した患者たちの変化を見守りながら、真奈は「自分の仕事が誰かの助けになっている」と感じる瞬間が増えてきた。だが、新たに担当する患者とのセッションで、思ったように進展が見られないことに悩まされるようになった。
その患者は、これまでのアプローチでは効果を感じにくく、真奈は何度もセッションを重ねる中で、「自分にはまだ足りない部分がある」と強く感じるようになった。以前の経験が通用せず、患者との信頼関係を築くのも難しくなってきた。どうすれば効果的に向き合えるのか、真奈は迷いながらも必死に方法を探し続けた。しかし、プレッシャーとストレスが増す中で、自分のやり方に自信が持てなくなり、次第に「自分の方法が本当に正しいのか?」と疑問を抱くようになった。
そんな時、先輩カウンセラーである結城千尋に相談する機会が訪れた。千尋は冷静に真奈の悩みを聞き、優しくアドバイスをしてくれた。「自分の信念を大切にすること。どんなに大変でも、それがあなたらしい方法だからこそ、患者にも伝わるんだよ」と、千尋は真奈に力強い言葉を送った。その言葉に、真奈は少しずつ気づき始めた。自分の方法やスタイルに対して不安を感じていたが、それでも自分らしさを大切にしていけば、結果は後からついてくるのだと。
真奈は、千尋の言葉に勇気づけられ、再び自分の信念に基づいたアプローチを見つけることを決意した。彼女は、臨床心理士としての道をこれからも歩み続けるために、自分にできることを精一杯やり抜く覚悟を固めた。
5.2 彩乃の決断・真奈の出会い
5.2.1 彩乃の迷いと覚悟
日が暮れかけたオフィスの片隅で、彩乃はパソコンの画面を見つめていた。締め切りを翌日に控えた記事の推敲をしながらも、頭の片隅では別のことを考えていた。
「本当にこのままでいいのか?」
編集の仕事は安定している。給料も決して悪くないし、雑誌の記事を書く機会も増えてきた。社内での評価もそれなりに上がってきて、後輩に指導する立場になることも増えた。
だが、それと同時に感じてしまうのは、「自分が本当に書きたいもの」との距離だった。
フリーライターとして独立するために、個人の執筆活動も続けていた。会社の仕事が終わった後、家に帰ってから夜遅くまで執筆に没頭する日々。時には休日を丸ごと使って記事を仕上げることもあった。しかし、それで十分な収入を得られるかと聞かれれば、答えはまだ出せなかった。
ライター一本で生きていくのは、思っていた以上に厳しい。企画を通すのも簡単ではないし、生活の安定を捨てる勇気が持てない。
「……どうするべきか」
ため息をつきながら、彩乃はそっとノートを閉じた。
翌日、編集会議を終えた後、彩乃は編集長の 川村誠 に呼び止められた。
「ちょっといいか?」
川村は四十代後半の落ち着いた雰囲気の男性で、出版社に長年勤め、数々の著名なライターや作家を育ててきた人物だった。
彩乃がついていくと、彼は窓際の小さな応接スペースに腰を下ろし、コーヒーを一口飲んだあと、静かに口を開いた。
「最近、お前の文章、変わってきたな」
「え?」
「悪い意味じゃない。洗練されてきたし、読ませる力もついてきた。ただ……どこか、迷いが見える」
彩乃は思わず息をのんだ。自分の内心を見透かされたようで、動揺を隠せなかった。
「もしかして、フリーになることを考えてるか?」
川村の問いに、彩乃は少し間を置いてから頷いた。
「……はい。でも、まだ決断はできていません」
「そりゃそうだろうな」
川村はコーヒーカップを置き、腕を組んだ。
「フリーになるってのは、自由と不安が隣り合わせの世界だ。自分の好きなものを書けるが、仕事が途切れれば収入はゼロだ。お前の文章の実力はある。ただ、それだけで食っていけるかどうかは別の話だ」
その言葉は、彩乃の心に重くのしかかった。
「でも、今のままだと、自分の本当に書きたいものが書けない気がするんです」
そう言った瞬間、川村の口元が少しだけ緩んだ。
「……なら、一度本気で向き合ってみろ」
「本気で向き合う?」
「何が書きたいのか、それをどうやって仕事につなげるのか。フリーになるにせよ、会社に残るにせよ、中途半端なままじゃダメだ。お前の人生だ。自分で決めろ」
川村の言葉は厳しくもあり、どこか温かかった。
「自分で決める」
その当たり前のことが、今の彩乃には一番難しいことだった。
「……ありがとうございます」
川村にそう告げたあと、彩乃はオフィスを出た。
夕方の街を歩きながら、彼女は心の中で自分に問いかける。
「私は、本当に書きたいものを書けるのか?」
答えはまだ出ない。でも、もう逃げることはできない気がしていた。
5.2.2 真奈と新たな患者、そして運命の出会い
診察室の窓から差し込む柔らかな日差しが、デスクの上に並べられたカルテをぼんやりと照らしていた。真奈はペンを片手に、新たに担当する患者の情報を確認していた。
最近、少しずつではあるが、臨床心理士としての仕事に自信を持てるようになってきた。結城千尋からのアドバイスを胸に、自分なりのカウンセリングスタイルを模索しながら、患者一人ひとりに向き合う日々を送っている。
「次の患者さんは……」
カルテに目を落とすと、そこには40代の男性患者の情報が記されていた。診断名は「パニック障害」。頻繁に動悸や息苦しさを訴え、外出することに強い不安を覚えるようになったという。
初回のセッションでは、患者はほとんど目を合わせようとしなかった。緊張と不安の入り混じった表情で、短い言葉で返事をするばかり。だが、真奈は焦らなかった。
「この人のペースでいい。少しずつ、信頼関係を築いていこう」
ゆっくりと、穏やかに話しかけながら、患者の言葉を引き出していく。時折、小さく頷くだけでも、相手が安心できることがある。それを肌で感じながら、真奈は患者との距離を少しずつ縮めようとしていた。
その日の午後、真奈はカフェテリアでコーヒーを買い、スタッフ用の休憩スペースへと向かっていた。ちょうどそこに、一人の男性が立っていた。白衣の上からネームプレートが見え、その名を確認する。
「橘 颯真……?」
彼は背の高い、すらりとした体格の医師だった。柔らかな雰囲気を持ちつつも、どこか冷静で理知的な印象を受ける。
颯真は気づくと、真奈に軽く会釈をした。
「臨床心理士の島崎さん、ですよね?」
「あ、はい。橘先生……ですよね?」
「ええ。内科を担当しています。実は、前から一度お話ししたいと思っていました」
「私と……ですか?」
突然の言葉に少し驚く。颯真は落ち着いた口調で続けた。
「最近、内科の患者さんの中にも、精神的な問題を抱えている方が増えていて。例えば、原因不明の体調不良を訴える患者さんの中には、ストレスや不安が関係しているケースも多いんです。でも、僕は精神医療についてあまり詳しくないので、どう対応するのがベストなのか、よく分からなくて」
「なるほど……」
真奈は少し考えたあと、静かに口を開いた。
「確かに、精神的な要因が身体症状に影響を与えることはよくありますね。ストレスが続くと、胃腸の調子が悪くなったり、頭痛が頻繁に起きたり……。そういう患者さんには、身体のケアだけでなく、心理的な側面からのアプローチも大切になります」
「そうですよね。でも、どこまで医師が踏み込むべきなのか、その境界が難しいなと感じていて」
「それは私たち臨床心理士も同じです。どこまで患者さんの心に踏み込むべきなのか、そのバランスを考えながら関わっています」
颯真は興味深そうに真奈の言葉を聞いていた。
「やっぱり、精神医療って奥が深いですね」
「はい。患者さん一人ひとり違いますし、正解がないことも多いです。でも、その分、やりがいを感じることもあります」
颯真は少し考え込むように視線を落としたあと、穏やかな笑みを浮かべた。
「島崎さん、また時間があるときに、色々と話を聞かせてもらえますか?」
「もちろんです」
そう答えながら、真奈は少し不思議な感覚を覚えていた。
颯真の視線には、単なる仕事の話以上の何かが含まれているような気がした。それが何なのかはまだ分からない。でも、彼と話すうちに、自分の仕事への向き合い方が少し変わるような予感がした。
新しい患者との向き合い方、そして、新たな出会い。
この日を境に、真奈の仕事と人生は、少しずつ新しい方向へと動き始めていた。
5.2.3 彩乃、独立への決断
編集部のデスクに座り、目の前に開かれた原稿を見つめながら、彩乃は深く息を吐いた。
「フリーランスになる」
そう決意したものの、実際に会社を辞めると考えると、胸の奥に得体の知れない不安が押し寄せてくる。
数日前、川村からのアドバイスを受けた後、彩乃は何度もシミュレーションをした。退職を伝える言葉、フリーランスとしての収入計画、そして今後の執筆活動の方向性。頭の中では準備を整えたつもりだった。
しかし、いざ上司に辞意を伝えようとすると、足がすくむ。
「本当にこれでいいのか?」
編集者としての仕事は安定している。生活の不安もない。今のままでも文章を書き続けることはできる。
でも、それは本当に自分が望む生き方なのだろうか?
その日の夜、彩乃は大学時代の恩師であり、作家でもある藤崎遼のもとを訪れた。
藤崎はコーヒーを片手にデスクに寄りかかっていた。彼の机の上には、数冊の文芸誌と赤ペンの走った原稿が無造作に置かれている。
「フリーになりたいが、不安だ、と?」
「……はい」
藤崎はコーヒーを一口飲み、彩乃をまっすぐ見つめた。
「安定がほしいなら、今の仕事を続ければいい。だけど、本当に書きたいものを書きたいなら、迷っている時間はないぞ」
「でも、収入も保証されていないし、仕事があるかどうかも分からなくて……」
「当然だ」
藤崎はあっさりと答えた。
「書くことで生きるっていうのは、そういうことだ。リスクがあるからこそ、何を書くかが問われる。お前は何が書きたい?」
「……」
彩乃は言葉に詰まる。
今までは編集者の仕事をしながら、与えられたテーマで記事を書いてきた。でも、本当に自分が書きたいものは?
「私は……」
藤崎は静かに続けた。
「本当に書きたいものがあるなら、まずはそれを明確にしろ。書き続ける覚悟があるなら、多少の不安があっても飛び込めるはずだ」
彩乃は拳を握りしめた。
不安はある。でも、ここで一歩踏み出さなければ、いつまでも変われない。
翌日、彩乃はついに上司のもとへと向かい、辞意を伝えた。
これが、彼女の新たなスタートだった。
5.2.4 真奈、颯真への特別な感情に気づく
病院のカフェでコーヒーを買おうとしたとき、真奈は見慣れた背中を見つけた。
「橘先生?」
振り向いたのは、内科医の橘 颯真。彼もまたコーヒーを手に持ち、どこか疲れた表情をしていた。
「島崎さん……お疲れさまです」
「先生こそ、お疲れですね」
「まあ、ちょっとね」
いつもは業務的な会話ばかりだったが、最近はこうしてカフェで偶然顔を合わせることが増えた。最初は軽い挨拶を交わすだけだったが、何度か話すうちに、自然と会話が続くようになっていた。
真奈は、颯真の向かいの席に座った。
「先生、何か悩みが?」
そう尋ねると、颯真は小さく笑った後、ふっと視線を落とした。
「……僕は内科医だから、患者さんの体を治すのが仕事です。でも、それだけじゃ足りないことも多いんです」
「足りない?」
「たとえば、治療がうまくいっても、患者さんの心の中までは救えないことがある。特に、長期入院の患者さんや重い病気を抱えている人たちは、身体だけじゃなく、精神的な支えも必要なんです。でも、僕ら医師はそこまでケアできる時間がないし……どうすればいいのか、わからなくなることがある」
真奈は黙って彼の言葉を聞いていた。
「医師としての仕事は誇りに思っています。でも、患者さんの不安や苦しみを受け止める余裕がないと感じることがあるんです。僕にできることは、限られているのかもしれないって……」
颯真の言葉には、深い葛藤がにじんでいた。
「先生は、それでも患者さんの心に寄り添おうとしているんですね」
「……そうですね。でも、もしかしたら僕は“無力”なのかもしれない」
「そんなこと、ないと思いますよ」
真奈はそっと言った。
「先生が患者さんの心に目を向けようとしていること、それだけでもきっと意味があると思います」
颯真がゆっくりと顔を上げた。
「……そう思いますか?」
「はい。もちろん、医師として限界を感じることはあるかもしれません。でも、その限界の中でできることを考え続けることが、大切なんじゃないでしょうか」
颯真はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……ありがとう。島崎さんと話してると、少し気持ちが軽くなりますね」
その笑顔を見た瞬間、真奈は心が軽く弾むのを感じた。
“もっと話を聞いてあげたい”
そう思ったのは、カウンセラーとしての職業的な関心だけではない。彼の真摯な姿勢や、患者に向き合う誠実さに惹かれている自分に気づいてしまう。
でも、それは仕事の延長線上で感じるべき感情なのだろうか?
「そろそろ戻らないと」
颯真が立ち上がる。
「あ、はい……先生、またお話しましょうね」
「ええ、ぜひ」
そう言い残し、颯真は病棟へと戻っていった。
彼を見送ったあと、真奈はふと、自分の胸の奥に生まれた感情の正体を考えていた。
これは、ただの仕事仲間への共感なのか、それとも……?
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