第4章 新たな風を受けて②

4.3 彩乃と真奈、別々の道で

4.3.1 仕事と夢の間で

 春が訪れ、彩乃は出版社での仕事に就いてから二年目を迎えた。新入社員の頃とは違い、業務の流れを把握し、編集作業にも慣れてきた。記事の校正やライターとのやり取りもスムーズにこなせるようになり、上司や先輩からの評価も悪くない。雑誌の編集会議では、自分の意見を求められる機会も増え、以前よりも仕事に対する手応えを感じていた。

だが、どこか物足りなさを抱えている自分に気づいていた。

「編集者としての仕事は楽しい。でも、私が本当にやりたかったことはこれなんだろうか?」

デスクに並ぶ雑誌の原稿を眺めながら、彩乃はため息をついた。

大学時代に抱いていた夢——自分の言葉で、誰かの心を動かす文章を書くこと。それは今も彼女の中に消えずに残っていた。しかし、現実は編集者としての業務に追われ、自分の文章を書く時間はほとんど取れない。

それでも、この仕事を辞めてフリーのライターになるほどの勇気はない。安定した収入を得られる今の環境を手放すことへの不安があった。

そんなある日、社内で行われた企画会議の後、編集長がふと話しかけてきた。

「彩乃、最近仕事に慣れてきたみたいだな」

「はい、おかげさまで。でも、まだまだ勉強中です」

「そうか。……お前、書くことに興味はないのか?」

突然の問いに、彩乃は驚いた。

「えっ?」

「いや、お前の企画書、文章がしっかりしてるし、以前から気になってたんだ。書きたいって思ったことはないのか?」

編集長の言葉に、心がざわめく。

「書きたい……ですか?」

「そうだ。ただの編集者で終わるには、ちょっと惜しい気がしてな」

まるで心を見透かされたような気分だった。だが、彩乃は曖昧に笑って答えるしかなかった。

「ありがとうございます。でも、まだまだ編集の仕事を学ばないといけないので……」

編集長は軽く肩をすくめ、「まあ、焦る必要はないが、考えてみるといい」と言い残し、その場を去った。

その数日後、偶然にも彩乃は藤崎遼と再会することになる。

仕事帰り、駅前のカフェでパソコンを開いていた彼の姿を見つけた。迷ったが、思い切って声をかける。

「先生……お久しぶりです」

藤崎は顔を上げ、一瞬驚いたようだったが、すぐに懐かしそうに微笑んだ。

「おお、高橋か。久しぶりだな」

二人は久々に言葉を交わした。彩乃が出版社で働いていることを話すと、藤崎は少し興味深そうに頷いた。

「なるほど。で、どうだ? 仕事は楽しいか?」

「……はい。でも……」

言いかけて、少し言葉を詰まらせる。藤崎は目を細めた。

「『でも』がつくってことは、何か迷いがあるんだろう?」

彩乃は、心に引っかかっている思いを少しずつ打ち明けた。編集の仕事は充実しているが、本当に書きたいものを書くことができていないこと。ライターになりたい気持ちは消えていないが、不安も大きいこと。

話し終えると、藤崎はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと言った。

「お前、本気で書きたいと思ってるのか?」

「……本気、です」

「だったら、一度本気で挑戦してみろ」

藤崎の声は淡々としていたが、迷いのない強さがあった。

「でも……今の仕事を辞めるのは怖いんです。編集の仕事も好きだし、安定もあるし……」

「仕事を辞めるかどうかの話じゃない。書きたいなら、書け。お前の文章を誰かに読ませる機会を、自分で作れ。編集の仕事をしながらでも、やれることはいくらでもあるだろう」

彩乃は言葉を失った。

「今のお前は、自分で自分の可能性を狭めてる。やる前から諦めてどうする?」

藤崎の言葉は鋭く、だが、どこか優しさもあった。

「……私に、できるでしょうか」

「お前がやらないと、誰がやるんだ」

藤崎はコーヒーをひと口飲み、静かに続けた。

「自分が何をしたいのか、本気で考えろ。答えを出すのは、お前自身だ」

彩乃は、藤崎の言葉を胸に刻んだ。

夢を諦めるか、挑戦するか——その選択を、先延ばしにはできないと感じていた。


4.3.2 臨床心理士としての第一歩

 春の訪れとともに、真奈は新たな一歩を踏み出した。

大学院を修了し、正式に臨床心理士としての道を歩み始めたのだ。実習では何度も患者と向き合ってきたが、今度は「研修生」ではなく「臨床心理士」として、正式に患者を担当する立場になる。その違いは想像以上に大きかった。

勤務先となったのは、大学時代に実習を行った総合病院の心理相談室。慣れた環境とはいえ、責任の重さがまるで違う。これまでの実習では、指導者が常にそばで見守ってくれていた。しかし今は、彼女自身が患者を支える立場なのだ。

初出勤の日、病院の白い廊下を歩きながら、真奈は緊張を抑えきれずにいた。

(本当に、私にできるのかな……)

手帳を握りしめ、深呼吸する。ここで働く以上、不安を抱えたままではいけない。だが、それでもやはり怖かった。

最初に担当することになったのは、30代前半の女性患者だった。彼女は長年、不安障害に悩まされており、日常生活にも支障をきたしているという。

初めてのセッションの日、真奈は待合室で彼女を迎えた。

「こんにちは、島崎真奈です。今日はよろしくお願いします」

できるだけ柔らかく微笑んでみせるが、患者は目を伏せ、緊張した様子だった。

「……よろしくお願いします」

診察室に入り、椅子に座る。真奈はできるだけ相手が話しやすい雰囲気を作ろうと心がけたが、患者の口数は少なく、なかなか本音を引き出せない。

(うまく話せていない……どうすればいい?)

質問を重ねるが、患者の反応は鈍い。実習のときは、指導者が適切なタイミングでフォローしてくれたが、今は誰も助けてはくれない。この空気をどう埋めるかは、彼女次第だった。

「……最近、何かご自身の中で変化を感じることはありましたか?」

「……わかりません」

(焦らないで。ゆっくり、相手のペースに合わせて……)

そう自分に言い聞かせるものの、セッションはぎこちないまま終わった。

終了後、真奈は診察室を出て、そのままスタッフルームへと向かった。自分の至らなさが身に染みる。

「……難しいな……」

その時、不意に声をかけられた。

「初めての患者か?」

振り向くと、そこには結城千尋が立っていた。

「……はい」

結城は、大学時代の実習で指導を受けたことがある先輩カウンセラーだった。クールな印象だが、患者に対しては誠実で温かい。真奈が尊敬する臨床心理士の一人だった。

「表情を見ればわかる。うまくいかなかったか」

真奈は苦笑した。

「……話を引き出せませんでした。何を言えばいいのか、わからなくなって……」

結城は少し考え込んでから、静かに言った。

「真奈、あなたは“話をさせよう”としていたんじゃない?」

「え?」

「もちろん、患者の話を引き出すことは重要だ。だが、心理士の役割は“話をさせる”ことだけじゃない。“そこにいる”ことも大事だ」

結城の言葉に、真奈は目を瞬かせた。

「そこにいる……?」

「患者は真奈に“話をしに来る”のではなく、“話せる場所を求めている”んだ。今はまだ、その場に慣れていないだけ。無理に話させようとするのではなく、真奈がしっかり“そこにいる”ことを意識しなさい」

真奈は、ふと最初のセッションを思い返す。確かに、自分は話を引き出すことばかり考えていた。患者が安心できる環境を作ること、そのことを忘れていたのかもしれない。

「……ありがとうございます、先生。」

「焦らなくていい。真奈なら、きっとできる」

そう言って、結城は微かに微笑んだ。

その日の帰り道、真奈はゆっくりと歩きながら考えた。

(私は、心理士として何ができるんだろう)

理論ではわかっていても、実際の臨床の場ではうまくいかないことばかり。けれど、それを一つずつ乗り越えていかなければならない。

(結城先生の言う通り、私は“話を聞こう”としすぎていたのかもしれない)

患者が本当に求めているものは何か。その答えを見つけるために、自分にできることを模索し続けよう——

真奈は、少しだけ前向きな気持ちで夜の街を歩いていった。


4.3.3 交わる視点

 春の終わりを感じさせる風が、新緑の並木道をそっと揺らしていた。週末の昼下がり、彩乃と真奈はいつものように落ち着いた雰囲気のカフェで向かい合っていた。

「もう2年目なんだね、彩乃は」

カフェラテの泡をスプーンでなぞりながら、真奈がふとつぶやいた。

「うん、気づいたらね」

彩乃は苦笑する。入社当初の慌ただしさは落ち着き、仕事の流れもつかめるようになった。だけど、それだけでは満たされないものがある。

「仕事には慣れた。でも……やっぱり、ずっと考えてる。自分が本当に書きたいものって何なのかなって」

真奈がそっと目を向ける。

「編集の仕事は好き。でも、私はもともと”書くこと”が好きだったのに、今は誰かの記事を直してるだけ。それが悪いとは思わないんだけど……やっぱり、自分の言葉で何かを伝えたいって気持ちは消えなくてさ」

彩乃の声には、迷いと焦りがにじんでいた。

「好きなことを仕事にするって、思ったより難しいんだね」

真奈の言葉に、彩乃は小さく笑う。

「ね。やってみないと分からないことばっかり。でも、真奈だって大変でしょ?」

真奈は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。

「……うん。臨床心理士として働き始めて、やっとスタートラインに立った気がする。でも、実際に患者さんと向き合うのは本当に難しいよ。研修では学んできたはずなのに、現場では通用しないことばっかりで……」

「やっぱり、そんなに違うんだ」

「うん。例えばね……カウンセリングの理論通りに話を進めても、患者さんが心を開いてくれるとは限らない。言葉を尽くしても、何も響かないこともある。そんなとき、自分は本当に役に立ててるのかなって、不安になるんだよね」

真奈の言葉に、彩乃は静かにうなずく。

「真奈は、ちゃんと向き合おうとしてるんだね」

「……向き合うしかないからね。でも、いつも答えがあるわけじゃないから、そのたびに悩むし、自信をなくしそうになる」

二人はそれぞれのカップに目を落とす。お互いに違う道を歩みながら、それぞれの難しさを抱えていた。

「でもさ」

彩乃が顔を上げる。

「お互い、大変だけど……ちゃんと前に進んでるよね」

「……うん」

「私も、もっと本気で夢に向き合わないとって思ったよ。仕事があるからって、諦める理由にはならないし」

真奈は彩乃を見つめ、少しだけ微笑んだ。

「そうだね。私も、迷いながらでも進んでいくしかないんだなって思う」

違う道を歩いていても、悩み、もがきながら進んでいる。

それぞれのやり方で、それぞれの目指す場所へ——

二人はその事実を、静かに受け止めていた。


4.3.4 それぞれの決意

 週の終わり、オフィスの窓から見える空はどこまでも澄んでいた。

彩乃はデスクに向かいながら、自分の中にある高揚感を確かめる。

——私も、動き出さなきゃ。

先日、編集長との打ち合わせの席で、ふと話題に出た言葉が今も胸に残っている。

「今度、コラム枠で社内公募をすることになった。ライター志望なら、試しに応募してみるといい」

この機会を逃すわけにはいかない。編集の仕事にやりがいを感じてはいるけれど、それだけで終わりたくない気持ちはずっとある。

彩乃はPCに向かい、応募用の企画書を開いた。

——何を書く?

社内向けとはいえ、プロのライターたちと並んで自分の文章が評価される機会。怖さもある。でも、やってみなければ何も変わらない。

「今の自分に書けるものを書くしかないよね」

小さく息を吐いて、彩乃はキーボードに指を置いた。

一方、真奈もまた、病院のカウンセリングルームで静かにペンを走らせていた。

最初の頃は、カウンセリングのたびに緊張していた。でも今は、患者との会話の中で「自分にできること」が少しずつ見えてきている。

結城千尋の指導のもと、さまざまなケースを担当しながら、真奈は「自分らしいカウンセリング」の形を模索していた。

「答えを与えるんじゃなくて、一緒に考えること。それが私のやり方なのかもしれない」

患者にとって、一番大事なのは「寄り添うこと」。それはシンプルなようでいて、とても難しい。でも、だからこそ、もっと経験を積んで成長していきたいと思う。

「一歩ずつでもいい。私にできることをやろう」

ペンを置いて、真奈は窓の外を見た。

夜、彩乃のスマホが震えた。

真奈:「今日もおつかれ!」

彩乃:「おつかれ! どう?」

真奈:「今日は少しだけ自信がついた気がするよ」

彩乃:「それ、いいことじゃん!」

真奈:「彩乃は?」

彩乃:「私も、挑戦しようって決めたとこ!」

少しの間を置いて、真奈からメッセージが届く。

真奈:「そっか。お互い、頑張ろうね」

画面を見つめながら、彩乃は微笑んだ。

——違う道を歩いていても、支え合える。

それが、二人にとって何よりの力になっていることを、改めて実感した。

それぞれが「今の自分にできること」を見つけた日。

二人は、また新しい一歩を踏み出す。

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