第3章 進路選択と新たな挑戦
季節は春から夏へと移り変わろうとしていた。大学生活も後半に差しかかり、彩乃と真奈はそれぞれの道に向かって歩き始めていた。
「……あのゼミ、やっぱり厳しい?」
キャンパス内の中庭で、彩乃は缶コーヒーを片手に隣の真奈を見た。真奈は新しい参考書を膝に乗せたまま、ぼんやりとページをめくっている。
「うん。でも、すごく勉強になるよ」
真奈はふっと笑い、ページを閉じた。
「結城さんって人が担当なんだけど、めちゃくちゃ理論派でさ。感情で動くなって何度も言われるんだ」
「へぇ、理論派ね」
「うん。でも、患者さんの話を聞くときは全然違うんだよ。すごく落ち着いてて、ちゃんとその人に寄り添ってる感じ。私もああいうカウンセラーになりたいなって思う」
彩乃は、真奈が語る言葉に少し驚いた。大学に入った頃の真奈なら、「なんとなく」心理学を選んだような雰囲気だったのに、今ははっきりと目標を語っている。
「真奈はちゃんと前に進んでるね」
「え、なに急に?」
「ううん。ただ、すごいなって思っただけ」
彩乃はそう言うと、自分の持っていた缶コーヒーをひとくち飲んだ。苦みが口の中に広がる。
「私も、藤崎ゼミ入ることにしたんだ」
「えっ、あの有名な先生の?」
「うん。なんとか面接も通ったし、来週から本格的にゼミが始まる」
「すごいじゃん! 彩乃なら絶対向いてるよ」
「どうかな……厳しいって噂しか聞かないし、正直ちょっと怖いよ」
「でも、彩乃の文章ってすごく素敵だし、ちゃんと評価されると思う」
真奈の言葉に、彩乃は思わず笑った。
「ありがとう。でも、これからが本番だからね」
そう言いながら、彩乃は自分の胸の奥にある不安を押し殺すように、もう一度コーヒーを飲んだ。
藤崎ゼミの初回授業の日。
「お前たちに書く才能があるかどうかなんて、俺は知らない」
開口一番、教授の藤崎遼はそう言った。
「でも、才能があろうがなかろうが、文章は書ける。問題は、その書く行為にどれだけ自分を捧げられるかだ」
鋭い目つきの教授に、ゼミ生たちは少し緊張した面持ちでノートを取っている。
「今後、このゼミではお前たちに何度も書かせる。そして何度もダメ出しする。覚悟しておけ」
藤崎の言葉に、彩乃は息を呑んだ。厳しいとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
「では、まず自己紹介と、お前たちがなぜ書くのかを話してもらおうか」
順番にゼミ生たちが自分の言葉で語る。彩乃の番が回ってきたとき、彼女は少し緊張しながらも口を開いた。
「私は……文章を書くことが好きです。誰かに何かを伝えたいと思うし、言葉で世界を広げることができると信じています」
藤崎は腕を組んで、じっと彼女を見つめた。
「面白いな。でも、それだけじゃ足りない」
「え……?」
「お前が本当に書くべきことは何なのか、それを見つけろ。それができない限り、どんなに文章が上手くても意味がない」
鋭い指摘に、彩乃は言葉を失った。
(本当に書くべきこと……?)
藤崎の言葉が頭の中に渦巻く。ゼミが終わったあとも、その問いは彼女の心に重く残り続けていた。
「で、どうだった?」
その日の夕方、真奈がカフェで待っていた。彩乃は椅子にどかっと座り込み、机に顔を伏せる。
「……めちゃくちゃ厳しかった」
「うわ、大丈夫?」
「うん……たぶん」
彩乃は顔を上げ、真奈を見た。
「私、書くべきことがわかってないんだって」
「書くべきこと?」
「自分が何を伝えたいのか、まだ曖昧なんだと思う。なんとなく文章が好きで書いてきたけど、それだけじゃダメらしい」
「……難しいね」
真奈は考え込むようにコーヒーをかき混ぜた。
「でもさ、そういうのって急に見つかるものじゃないんじゃない?」
「え?」
「彩乃が本当に書きたいことって、これから見つけていくものなんじゃないかな」
彩乃はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「そうだね。ありがと、真奈」
「ううん。こっちこそ、彩乃の話聞いてると、私も頑張らなきゃって思うし」
二人は笑い合った。お互いに成長していることを感じながら——。
藤崎ゼミの教室は、壁一面の本棚に囲まれていた。色褪せた文学書から、まだ新しい文芸誌まで、ぎっしりと詰め込まれた空間。その中央に座る藤崎遼は、腕を組みながら、今日の課題を受け取ったばかりの学生たちを見渡した。
「さて、提出された作品を読んだ。全体的にレベルは悪くないが……」
そう前置きした後、彼は一つ一つの作品について淡々とコメントを述べていった。良い部分も指摘するが、それ以上に厳しい批評が飛ぶ。
「高橋の作品は――」
藤崎の視線が彩乃に向けられる。彼女は思わず背筋を伸ばし、静かに息を飲んだ。
「文章は流れるように読めるし、表現も丁寧だ。しかし……何も残らない」
その言葉に、彩乃の心臓が強く跳ねた。
「……何も?」
藤崎は淡々と続ける。
「確かに情景は浮かぶ。心地よい文章だ。だが、読み終えたあと、何か一つでも胸に刺さるものがあるか? 読者は、お前の文章を読んで何を受け取る? 何を感じる?」
彩乃は返答に詰まった。今回の作品は、「日常の温かい瞬間」をテーマにした短編だった。大学近くの小さなパン屋を舞台にした物語で、常連の老婦人と店主の何気ない交流を描いたものだ。淡い情景と、ささやかな幸せを伝えたかった――はずだった。
「テーマ自体は悪くない。だが、お前が本当に描きたいものは何だ? ただ“温かい話”を書けば、それで読者の心に届くと思っているのか?」
藤崎の視線は鋭い。
「……それは……」
「お前自身が、“書く意味”を理解しない限り、読者には何も伝わらない。」
その言葉は、じわじわと胸に染み込んでいくようだった。ゼミが終わった後も、彩乃は教室を出ることができず、一人ノートを見つめたまま、考え込んでいた。
“書く意味……私は、何を書きたいんだろう?”
それが分からなくなった瞬間、これまで当たり前に書けていたものが、急に遠ざかった気がした。
スランプの始まりだった。
実習先のカウンセリングルームは、穏やかな木目調の家具と淡いベージュの壁に包まれていた。落ち着いた空間にほのかに香るアロマが、患者の緊張を和らげる役目を果たしている。
しかし、真奈の胸の内は落ち着かなかった。
この日、彼女が担当することになったのは、一人の若い女性だった。
――佐伯柚希、25歳。抑うつ症状、休職中。現在、カウンセリング数回目。
カルテに記された簡潔な情報だけでは、彼女の抱える苦しみの全容は見えてこない。
(私に、できるだろうか……?)
心のどこかに、小さな不安が渦巻いていた。
ノックをしてから、ゆっくりとドアを開ける。
「佐伯さん、こんにちは。本日担当させていただく島崎真奈です。」
ソファに座っていた女性が、ほんのわずかに顔を上げた。
黒髪を肩口で切りそろえた彼女は、細身で、全体的に力が抜けたように見える。視線は伏し目がちで、どこか遠くを見つめているようだった。
「……よろしくお願いします。」
彼女は小さな声でそう言い、また黙り込んだ。
(大丈夫。焦らず、ゆっくり。)
真奈は自分にそう言い聞かせ、優しい口調で話しかける。
「ここに来るのは、大変ではなかったですか?」
柚希はわずかに首を横に振ったが、それ以上何も言わない。
「最近、よく眠れていますか?」
彼女は少しだけ口を開きかけたが、やはり何も言わなかった。
「……食欲はどうですか?」
「……あまり、ないです。」
返ってきたのは、それだけ。
それから30分間のセッションで、柚希が発した言葉はわずか数十語ほどだった。問いかけても、一言、二言で返ってくるだけ。
(どうしたら……?)
真奈は焦りを感じ始めていた。
これまでの実習では、相手の話に耳を傾け、共感しながら関係を築いてきた。しかし、柚希にはその方法が通じない。優しく微笑み、穏やかに話しかけても、彼女の閉ざされた心には届かないようだった。
(共感だけでは、意味がないのかな……?)
焦る気持ちを抑えながら、セッションを終えるしかなかった。
カウンセリングルームを出た瞬間、真奈は大きく息を吐いた。
そのとき、廊下の向こうから静かな声がかかった。
「島崎さん。」
振り向くと、結城千尋が立っていた。彼女は白衣のポケットに手を入れ、落ち着いた表情でこちらを見ている。
「今日のセッション、どうだった?」
「……正直、全然ダメでした。柚希さんがほとんど話してくれなくて……。」
真奈が肩を落としながら答えると、結城は少し目を細めた。
「あなたは彼女の言葉を『引き出そう』としていたね。」
「え……?」
「でも、それだけがカウンセリングじゃない。」
結城は腕を組みながら、淡々と続けた。
「カウンセラーができるのは、患者が自分と向き合う手助けをすること。共感だけでは救えないのよ。」
「……共感だけじゃ、救えない?」
その言葉が、真奈の心に深く刺さった。
「もちろん、共感は大切。でも、それだけでは患者の状況は変わらない。今日、あなたは柚希さんの話を『聞き出そう』としていた。でも、それは彼女にとって負担だったかもしれない。」
「……。」
「カウンセラーは、ただ相手の話を待つ存在じゃない。患者が話したいと思えるような空間を作ることが重要なの。」
結城の声は穏やかだったが、その言葉の意味は鋭く真奈の胸に響いた。
真奈はゆっくりとうなずいたものの、自分の中に広がる不安を拭いきれなかった。
(私は……ちゃんとできているのかな?)
共感することはできる。でも、それだけでは足りないのかもしれない。
自分がこれまで信じてきた「人に寄り添う」という姿勢が、根本から揺らぎ始めていた。
(私は、本当にカウンセラーになれるのかな……?)
そんな迷いが、静かに、しかし確実に心の中に広がっていった。
都内の小さなカフェ。夜の帳が降りる頃、窓際の席には二人の姿があった。
彩乃と真奈。
テーブルの上には、それぞれ頼んだホットコーヒーとカモミールティー。湯気が静かに立ち上る。
「……疲れたね。」
真奈がぽつりと呟く。
「うん……。」
彩乃も静かに頷いた。
二人とも、少しやつれた顔をしていた。
「藤崎先生に言われたんだ。」
彩乃がスプーンでカップを軽くなぞるようにしながら、口を開いた。
「『お前の文章には何かが足りない』って。」
「……何が足りないの?」
「それが、分からないの。」
苦笑する彩乃の表情は、どこか寂しげだった。
「文章を磨くことはできる。でも、それだけじゃダメみたいで……。もっと何か、本質的なものが足りないって言われて。でも、その『何か』が分からないんだよね。」
スランプに陥っている彩乃の姿が、目の前にあった。
「……私も、正直、今すごく自信なくしてる。」
真奈もまた、ため息をつくように言った。
「実習で担当した患者さんがいてね。抑うつ症状のある人なんだけど……全然、心を開いてくれなくて。」
「そっか……。」
「私、ずっと『人に寄り添うこと』が大事だと思ってた。でも、それだけじゃダメなんだって、結城先生に言われて……。今までやってきたことって、もしかして意味がなかったのかなって思ったら、なんか……怖くなっちゃった。」
真奈は苦笑しながら言ったが、その表情には迷いが滲んでいた。
「……分かるよ。」
彩乃はカップを両手で包み込みながら、ゆっくりと呟いた。
「夢を追うことって、楽しいことばかりじゃないよね。むしろ、思い通りにならないことのほうが多いのかも。」
「……うん。」
真奈は頷いた。
「夢を持つことが大事って、昔から言われてきたけど……現実は、こんなに難しいんだね。」
「ほんとに。」
彩乃は苦笑し、少し首を傾げる。
「でも、諦めたくないんだよね。」
「私も……。」
二人は視線を交わし、少しだけ笑った。
「……ねえ、真奈。」
「ん?」
「こうやって話してるとさ、自分の気持ちを整理できる気がする。」
「私も……。彩乃と話してると、ちょっとだけ前向きになれる。」
彩乃がふっと微笑む。
「……そう、だね。」
真奈は静かにティーカップを手に取った。
「夢に向かってる限り、きっと、こういう壁は何度も来る。でも、そのたびに、お互いがそばにいるって思えたら、少しは乗り越えられるのかな。」
「うん。」
彩乃もまた、コーヒーを一口飲んだ。
夜のカフェは静かだった。窓の向こうでは、ネオンの光がきらめいている。
「……まだ、諦めたくないね。」
「うん。まだ、やれるよね。」
二人は静かに微笑み合った。
温かい飲み物の湯気が、ゆっくりと夜に溶けていった。
カフェで語り合った翌日、彩乃と真奈はそれぞれの日常へと戻っていった。
悩みはすぐに解決するものではない。けれど、心のどこかに「まだやれるはずだ」という思いが残っていた。
藤崎ゼミの研究室で、一冊の本が彩乃の目に留まった。
『記憶の風景』
著者は、かつて藤崎のもとで学んでいた作家だった。
何気なくページをめくる。そこには、日常の中にある些細な出来事を掬い取ったようなエッセイが綴られていた。
「……こんなにシンプルなのに、胸に響く。」
彩乃は一気に引き込まれた。
どのエピソードも特別なことは書かれていない。けれど、著者自身の感情や経験が繊細に紡がれ、読む者の心を揺さぶるものだった。
「私に足りないものって、こういうことなのかな……。」
藤崎の言葉を思い出す。
──「お前の文章には何かが足りない。」
それは、技術ではなく、自分の言葉で「本当に伝えたいこと」だったのかもしれない。
ふと、彩乃はノートを開き、ペンを手に取る。
書き出したのは、昨夜のことだった。
カフェで真奈と話したこと、自分の迷い、そして、前を向こうとした気持ち。
「……エッセイ、書いてみようかな。」
創作ではなく、自分自身の体験を言葉にすること。
それは、彩乃にとって新しい挑戦だった。
真奈は、結城の言葉を改めて思い返していた。
「共感だけでは救えない。カウンセラーは、患者が自分と向き合う手助けをする存在だ。」
柚希のカウンセリングは、相変わらず難航していた。
だが、結城は続けてこう言っていた。
「焦るな。相手の言葉だけを聞こうとするな。患者の『本当の声』は、沈黙の中にもある。」
沈黙の中にも、声がある。
その言葉が、真奈の中で引っかかっていた。
その日、柚希とのカウンセリングの時間。
「こんにちは、佐伯さん。」
真奈が優しく声をかける。
柚希は相変わらず伏し目がちで、会話は弾まない。
けれど、今日は無理に話しかけるのをやめた。
焦らず、柚希の「沈黙」に耳を傾けてみようと思った。
静寂の中、柚希が小さく息を吐いた。
「……今日、寒いですね。」
真奈は、一瞬驚いた。
柚希が、初めて自分から言葉を発した。
「そうですね。朝、空気がひんやりしてましたよね。」
そう返すと、柚希はほんのわずかに頷いた。
それだけだった。
それでも、真奈にとっては大きな一歩だった。
「言葉にしなくても、心の中には何かがある。」
そう信じて、もう少し、この距離感で向き合ってみよう。
彩乃は、新しい文章を書き始めた。
真奈は、焦らず相手と向き合うことを覚えた。
まだまだ課題は多い。
けれど、小さな突破口を見つけたことで、二人の足取りは少しだけ軽くなっていた。
大学生活も終盤へと向かう。
夢を追いながら、それぞれの道を進む二人の物語は、次のステージへと動き出そうとしていた。
大学のキャンパス内にあるカフェ。夕方の柔らかな光が差し込み、店内は講義を終えた学生たちで賑わっていた。彩乃、真奈、田辺梓、松井奈緒の四人は、隅のテーブルを囲んで座っていた。
「ねえ、卒業旅行どうする? そろそろ本格的に決めないと、宿とか飛行機とか予約埋まっちゃうよ」
梓がコーヒーカップを置きながら話を切り出す。
「やっぱり海外がいいよね! ヨーロッパとかどう?」
期待に満ちた瞳を輝かせながら、梓がパンフレットを広げる。そこにはパリやロンドンの観光名所の写真が並んでいた。
「うーん、ヨーロッパかぁ……いいけど、結構お金かかるよね」
彩乃はメニューを眺めながら、現実的な懸念を口にした。
「そうなんだよね。私はどちらかというと、国内でのんびりできるところがいいな」
奈緒が静かに提案する。「温泉とか、自然が綺麗な場所とか。学生最後の旅行だから、リラックスできるのもいいかなって」
「国内かぁ。でも、それなら北海道とか沖縄とか?」
真奈が考えながら言う。「私はどっちかっていうと、思い出に残るような場所がいいな。大学の締めくくりだから、特別な感じのところ」
「そうだね。普通の観光旅行じゃなくて、何か意味のある場所にしたいかも」
彩乃が頷くと、梓が「じゃあ、何か思い出に残るアクティビティとかも考えようよ!」と勢いよく提案した。
「例えば?」奈緒が興味深そうに尋ねると、梓は指を折りながら答えた。
「スカイダイビングとか、熱気球に乗るとか……あとは、流氷ウォークとか?」
「スカイダイビング⁉ 絶対無理!」
真奈が即座に拒否し、奈緒も苦笑する。「私は地上でのんびりしたい派だから……」
「まあまあ、いろんな案を出してみようよ」
彩乃が微笑みながらフォローする。「たぶん、全員が納得できる場所が見つかると思う」
その後も四人は楽しそうに話し続けた。お互いの好みを知りつつ、最終的にどこに行くのかを決める時間は、何よりも楽しく、大切なひとときだった。彩乃と真奈にとっても、それは日々の悩みを忘れさせてくれる、かけがえのない時間だった。
大学の文芸ゼミの一室。テーブルには雑誌の試作ページが並び、ゼミ生たちは真剣な表情で議論を交わしていた。
「この特集、テーマはいいんだけど、読者の視点で考えたときに少し堅すぎるかも。もう少し、身近な言葉で書けないかな?」
藤崎がそう指摘すると、ゼミ生の一人がうなずいた。「確かに、読者の年齢層を考えると、もう少し親しみやすい表現のほうがいいかもしれないですね」
彩乃はその言葉を聞きながら、自分の原稿を見つめた。今回、彼女は「日常に潜む物語」というテーマでエッセイを書いていた。自分の経験をもとにした文章だったが、いざ編集の場になると、「伝わる文章とは何か?」という視点での議論が飛び交う。
「伝えたいことをただ書くだけじゃ、読者には届かないんだ……」
そのことを実感しながら、彩乃はもう一度自分の文章を見直した。語り口を柔らかくし、読者の視点を意識した修正を加えていく。
数日後、完成した雑誌が印刷され、ゼミ生たちの手に渡った。彩乃は自分のエッセイが掲載されたページをめくりながら、どこか落ち着かない気持ちでいた。
「読者に伝わる文章になってるかな……?」
そんな不安を抱えつつも、しばらくして感想が届いた。ゼミの後輩が「彩乃先輩のエッセイ、すごく共感しました!」と話しかけてくれたのだ。
「こういう視点で日常を見るのって新鮮でした。自分の生活の中にも、小さな物語があるんだなって思えて……」
その言葉を聞いた瞬間、彩乃ははっとした。自分の文章が、誰かの心に届いた。
「書くことには、意味があるんだ」
その実感が、彼女の中で確かなものになっていった。
大学附属の心理相談室。真奈は、結城の指導のもと、佐伯柚希のカウンセリングを続けていた。
以前よりも柚希は少しだけ表情を見せるようになったが、依然として心の奥を開くことはなかった。
「最近、どうですか?」
いつものように優しく問いかける。しかし、柚希は視線を落とし、小さく「別に」とつぶやくだけだった。
(どうすれば、もっと話してくれるんだろう……)
焦りと無力感を感じる真奈。どれだけ寄り添おうとしても、柚希の心には届かないのではないか。
実習後、結城にその悩みを打ち明けると、彼は静かに言った。
「島崎さんは『心を開いてもらおう』としすぎているのかもしれないね。」
「え……?」
「患者が心を開くかどうかは、カウンセラーが決めることじゃない。向こうのタイミングがある」
結城はコーヒーカップを手に取りながら続けた。
「大事なのは、開くかどうかではなく、そこにい続けることだよ」
その言葉が、不思議と心に残った。カウンセリングは、結果を求めるものではない。大切なのは、その場にいること。
次のカウンセリングのとき、真奈は柚希に余計な問いかけをしなかった。ただ、一緒にいる時間を大切にした。
すると、柚希のほうから、ふと「最近、少しだけ眠れるようになった」と呟いた。
それは、小さな一歩だった。
(ああ、こういうことなのかもしれない)
努力だけでは超えられない壁があることを知りながらも、真奈は確かに前進していた。
冬の終わりが近づき、大学のキャンパスには少しずつ春の気配が漂い始めていた。
カフェテリアのテラス席。午後のやわらかな陽射しの下、彩乃、真奈、梓、奈緒の四人は、卒業旅行の計画の最終調整をしていた。
「それで、結局行き先は温泉になったんだっけ?」
梓がちょっと不満そうに言うと、奈緒が申し訳なさそうに微笑んだ。「ごめんね。結局、みんなで話し合ったら、のんびりできるほうがいいってことになって……」
「まぁ、それも悪くないけどさ。でも、温泉入って何するの? ひたすらのんびり?」
「それが最高なんじゃない?」と彩乃が笑う。
「それに、卒業旅行っていうよりも、社会人になる前の最後の息抜きって感じかな」
梓は納得いかないような顔をしながらも、「まぁ、楽しければいいか」と肩をすくめた。
「社会人かぁ……」奈緒がぽつりと呟く。「なんか、実感ないよね。あと少しで大学終わるのに」
その言葉に、四人ともふっと沈黙する。
──あと少しで、大学が終わる。
「今、こうしてるのも、あと少しなんだよね」真奈が静かに言った。「みんな、それぞれの道に進むんだもんね」
梓は「らしくないなー」と笑ってみせたが、その目には少し寂しさがにじんでいた。
「でもさ、ここで終わりじゃないでしょ?」
彩乃がカップを手に取りながら言う。「違う場所に行っても、また会えるし、こうやって集まることもできるし」
「そうだね」と奈緒が小さく笑う。「でも、こういう何気ない時間は、もう戻らないんだなって思うと……やっぱり少し、寂しいかな」
「……うん」
誰かが頷き、四人はそれぞれのカップを手に取った。
カフェテリアのざわめきの中、彼女たちは静かに、それぞれの未来を思い始めていた。
──楽しい時間の中に、少しずつ別れの予感が混ざっていく。
それでも、まだ彼女たちは「今」を大切にしていた。
ゼミの最終課題が発表されたのは、卒業論文の提出を終えたばかりの頃だった。
「テーマは『自分にとって書くとは何か』。これが、君たちにとって最後の課題になる」
藤崎の言葉がゼミ室に響く。
彩乃はノートを開きながら、その問いを噛みしめた。書くことは好きだった。けれど、それが「自分にとって何なのか」と改めて問われると、答えがすぐには見つからない。
──私は、何のために書いているんだろう。
雑誌編集の経験を通じて、文章が「読者に届くこと」の大切さは学んだ。けれど、それと「自分にとって書く意味」はまた別の話だった。
ゼミ仲間たちと議論する中で、ある言葉が頭に残った。
「結局のところ、書くことでしか表現できないものがあるんだよ」
言葉にすることで、自分の内側にあるものを形にする。書くことで、誰かとつながる。そう考えると、彩乃が今まで紡いできた文章は、すべて「誰かに届いてほしい」という思いから生まれていたのかもしれない。
だが、それを藤崎にぶつけたとき、彼の返答はそっけなかった。
「お前の言う『誰か』は、具体的に誰なんだ?」
その問いに、彩乃は答えられなかった。
──読者、と言ってしまうのは簡単だ。でも、私は本当に「読者のため」に書いているのか?
締め切りが近づく中、彩乃は何度も書いては消し、書いては消した。悩み続けた末、たどり着いたのは「自分自身」だった。
彩乃は、書くことで自分と向き合ってきた。迷いや不安、喜びや悲しみ。言葉にすることで、それらを整理し、自分の気持ちを確かめていた。
──私は、私自身のために書いている。
そう思ったとき、不思議と筆が進んだ。
提出の日、彩乃は震える手で原稿を藤崎に差し出した。彼は無言で受け取り、一枚一枚、丁寧に目を通していく。
やがて、静かに口を開いた。
「……お前は、ようやく自分の文章を見つけたな」
その一言が、今までのどんな指導よりも嬉しかった。
彩乃は深く息を吸い、こみ上げる感情を抑えながら頷く。
──私は、書き続ける。これからもずっと。
そう、心の中で強く誓った。
病院のカウンセリングルーム。柔らかな陽が差し込む午後の時間。
真奈は佐伯柚希と向き合い続けていた。
最初は頑なに口を閉ざしていた柚希も、回を重ねるごとに少しずつ表情が和らいできた。それでも、彼女が自分の気持ちをはっきり言葉にすることはほとんどなかった。
「今日は……何か話したいこと、ありますか?」
いつもと同じように問いかける。しばらく沈黙が続いた後、柚希がぽつりと呟いた。
「……あのね」
真奈は目を見開いた。
柚希が、自分から話し始めたのは初めてだった。
「私……ずっと、自分の気持ちなんて、話しても仕方ないって思ってた」
「……うん」
「でも、何度もここに来て、真奈さんと話して……少しずつ、自分の気持ちを考えるようになったの」
言葉を選ぶように、慎重に。それでも、柚希は確かに「自分の言葉」で語っていた。
真奈はゆっくりと頷きながら、彼女の言葉を受け止めた。
──私が、誰かの心に寄り添えた。
それが初めて実感できた瞬間だった。
けれど、喜びと同時に、胸の奥に小さな迷いが生まれる。
「私は、本当にこの道でやっていけるのか」
柚希の心が少しずつ開いていくのを感じるたびに、真奈は嬉しかった。でも、同じようにすべての人と向き合えるのか、自分は本当に人の心を支えられるのか、不安が拭えなかった。
実習の終わりが近づくある日、真奈は結城に相談を持ちかけた。
「先生……私、本当にカウンセラーになれるんでしょうか」
結城は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに微笑んだ。
「どうしてそう思う?」
「柚希さんとの関わりの中で、人の心に寄り添うことの意味が少しわかった気がします。でも……これから先もずっと、同じようにできるのか、自信がなくて」
結城は腕を組み、しばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「迷うのは当然だよ。むしろ、迷わないほうが危うい」
真奈は思わず顔を上げた。
「カウンセリングの仕事は、決して簡単じゃない。自分の無力さを痛感することもあるし、努力だけではどうにもならない場面にも出くわす。それでも……迷いながらでも進むことが、この仕事を続けるうえで大切なことなんだ」
結城の言葉は、真奈の心に静かに染み渡った。
「だから、今の自分を信じなさい。君はもう、十分に人の心に寄り添えている」
真奈は息を飲んだ。
柚希の言葉、そして結城の言葉が、胸の中で一つに重なっていく。
──私は、迷いながらでも、この道を進んでいきたい。
心の中でそう決意すると、不思議と不安が和らいだ気がした。
春の風が、やわらかな陽射しとともにキャンパスを包んでいた。
卒業式の朝、大学の正門をくぐると、そこには見慣れた顔があふれていた。スーツや袴に身を包んだ学生たちが、晴れやかな笑顔で写真を撮り合っている。
彩乃は、一歩ずつゆっくりと歩きながら、胸の奥にこみ上げる感情を噛みしめていた。
──今日で、本当に終わるんだ。
四年間通い慣れたこの場所も、毎日のように顔を合わせていた仲間たちも、明日からはもう「日常」ではなくなる。
けれど、不思議と寂しさよりも充実感のほうが強かった。
「彩乃!」
振り返ると、真奈が手を振って駆け寄ってきた。
「おはよう。……似合ってるよ、その袴」
「ありがとう。彩乃も、すごく綺麗」
二人で笑い合う。何気ない会話の一つ一つが、特別なものに思えた。
やがて、式典が始まる時間となり、体育館へと向かう。
壇上で名前を呼ばれ、一人ずつ卒業証書を受け取っていく学生たち。
「……高橋彩乃」
自分の名前が響く。
ゆっくりと歩を進め、証書を受け取ると、壇上から見える景色が一瞬だけ鮮明になった。
──これが、四年間の証。
胸にぐっと力を込め、彩乃は席へ戻った。
隣に座る真奈が、そっと小さく微笑んでいる。
式典が終わると、キャンパスは一気に祝福ムードに包まれた。
「写真撮ろう!」
「これでみんなバラバラになるの、寂しいな……」
あちこちから、そんな声が聞こえてくる。
彩乃と真奈も、田辺梓や松井奈緒と一緒に写真を撮った。
「みんな、これからも絶対連絡しようね!」
梓が言うと、奈緒も頷く。
「うん。でも……なんか実感湧かないな」
「それでも、きっと少しずつ変わっていくんだろうね」
──その「変化」を、それぞれの場所で受け止めながら生きていくんだろう。
彩乃は、藤崎に最後の挨拶をするために研究室へ向かった。
ノックをすると、静かな声が返ってくる。
「失礼します」
扉を開けると、藤崎はデスクに座り、書類を整理していた。
「卒業か」
「はい……お世話になりました」
藤崎は、軽く頷いたあと、ふと手を止めて言った。
「お前の文章はまだまだ荒削りだが……少なくとも、お前にしか書けない言葉を持っている。それは、今後も大切にしろ」
彩乃は、驚いたように目を見開いた。
「……ありがとうございます」
それは、藤崎なりの最大の賛辞だった。
一礼し、研究室を後にする。
一方、真奈は結城のもとを訪れていた。
「結城先生……今日で、最後ですね」
「そうだね。でも、島崎さんとはまたどこかで会いそうな気がする」
「……私、本当にこの道を選んでよかったのか、まだ自信がありません」¥
「それでいい」
結城は、いつもと変わらない落ち着いた口調で言った。
「島崎さんはもう、十分に悩んだし、迷った。あとは、やるだけだ」
真奈は、目を伏せて微笑んだ。
「……はい」
日が傾き始めたころ、彩乃と真奈は最後にもう一度、二人で並んで大学の門をくぐった。
「……もう、ここに学生として戻ることはないんだね」
「うん。でも、ここで過ごした時間は、ずっと消えないよ」
夕暮れの光の中、二人は静かに歩く。
「これからが、本当のスタートだね」
どちらともなくそう呟き、互いに顔を見合わせる。
迷いも、不安も、まだきっとある。
それでも、今はただ、前を向いて歩いていこう。
春の訪れとともに、新しい生活が始まった。
彩乃は、出版社のオフィスに足を踏み入れる。
──今日から、ここが私の職場。
慣れないスーツの襟元を直しながら、緊張した面持ちで受付を通る。社内は活気に満ちていて、あちこちで編集者とライターが打ち合わせをしている。
入社初日、配属された編集部のデスクに座ると、目の前には分厚い資料とスケジュール表が並べられた。
「これが、最初の仕事か……」
原稿のチェック、企画会議の準備、ライターとのやりとり──。頭が追いつかないほどの情報量に圧倒されるが、同時に胸の奥が熱くなるのを感じる。
これは、ずっと憧れていた場所。
これから、ここで言葉を紡ぎ、誰かに届ける仕事をしていくんだ。
***
一方、真奈もまた、新たな環境でのスタートを切っていた。
大学院での学びを続けながら、実習先の施設でカウンセリングの研修に臨む日々。
初めて会う患者、経験豊富な指導者たち。
真奈は、自分がまだ未熟であることを痛感しながらも、少しずつ現場の空気に馴染んでいく。
ある日、指導担当のカウンセラーから、初めて患者との面談を任されることになった。
「最初は誰でも緊張する。でも、大切なのは相手の声に耳を傾けることだよ」
その言葉に背中を押され、真奈は深呼吸をする。
カウンセリングルームのドアをノックすると、中から静かな返事が返ってきた。
──ここからが、本当の始まり。
***
社会人としての最初の休日。
桜が満開を迎えた公園で、彩乃と真奈は久々に顔を合わせた。
「なんか……久しぶりな気がする」
「うん。でも、たった一週間しか経ってないんだよね」
二人で並んでベンチに座る。
「仕事、どう?」
「大変。だけど、やっぱり楽しい。彩乃は?」
「まだまだ分からないことばかり。でも、やるしかないよね」
少しの沈黙のあと、ふと彩乃が空を見上げる。
「私たち、これからどうなっていくんだろうね」
「分からない。でも……きっと大丈夫」
桜の花びらが、そよ風に乗って舞い落ちる。
これから先、どんな未来が待っているのか。
不安もあるけれど、今はただ、この一歩を大切に踏み出そう。
「これからも、頑張ろうね」
「うん」
春の光の中で、二人は小さく微笑み合った。
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