第12話 一人一人の器
歴史に重きを置いたことはなかった。歴史とはつねにいダイジェストでしかなく、ダイジェストという姿勢は小説とは相容れない。わたしは小説のように世界を構築したい。だから歴史というものを、連なり、というよりも関係性としてとらえたい。あらゆる出来事は関係をもち、歴史とはそうした関連性のなかの一つであるとわたしは考える。それは物語の構造である。わたしは物語に飽きている。それは、これまでの読書経験による。無関係であるように感じらえる出来事に関係を見出すこと。それも、ミステリー小説や、ある種の伏線としての関係性としてではなく、また、複雑系としての関係性でもない。複雑系はガイア理論のような主体を、注意深く排除した上で、それらが地球という閉じた空間に発生する現象間の、不可避的な影響関係としてのみとらえられる場合においてのみ、統計学的に用いられるのだとしても、陳腐だ。神秘学に近接し、神と呼ばれたり、涅槃という観念を導入することなく、現象の原因をつきとめることを目的とするのでもなく、かといって、たんに出来事を併記するだけでもないような仕方で、小説は事後的に詩を獲得することができるのだと考えている。世の中のほとんどの小説は物語であり、物語性に対抗しうる唯一の姿勢はドキュメンタリーであるにもかかわらず、そのドキュメンタリーを物語のように脈絡づけることこそが、作品の完成であるかのようなつまらない考え方に毒されたものが非常に多い。だから、わたしは現代小説の棚を速足に通り抜ける。それらは、書かれた時期が最近であるだけの、古い物語ばかりだから。
だからわたしは、一方の足を近代小説に、そしてもう片方の足は、俳句・短歌へ移したのだ。それは、キリスト教から仏教への転換に相当すると思う。それは一言でいえば「主体」の変質である。仏教においては「主体」は否定するが、その主体は「自らの思惑、働きによって世界を操作できる」と考えられるような主体の否定であり、「私」という器そのものを、否定するものではない。というより、この「私」という器こそが、「世界」を仮構してし、その「世界」を外界として「私」が在る、という物語を生み出す源なので、そのような器が「空」であるということを覚知する科学が、仏教なのである。
こうした意味で「仏教」を用いるのにふさわしい書籍は、ほとんど存在しない。わたしは仏教によって世界を認識したいと思っている。その姿勢を培う上でも、俳句、短歌は有用であり、それらの態度によってのみ小説は可能だと考えるにいたった。そう。新型コロナやそれに対抗するワクチンを、物語としてとらえるのか、その小説性においてとらえるのかによって、世界は大きくことなる。無論、世界は物語として成り立っているのであり、その上でその批評的立場としての小説が可能なのだが、だからといって、物語に寄り添うなどということはあってはならない。物語は加算無限のように終わらない。それは在るように在り、それを出るための乗り物は一人一人の器において他、ありえない。壊すのではなく渡るのだ。力はいらない。塗れて抜けるのみである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます