第10話 あなたの信仰は何ですか?

 「あなたの信仰は何ですか?」

 と問われることがある。それは夕暮れ間近の渋谷ハチ公前であったり、日曜日午後に子供連れで玄関の呼び鈴を押す闖入者からだったりする。信仰を問う目的は勧誘以外にはない。ことに無宗教といわれる日本において、このような質問をしてくる者は常に異人と見做された。

 「わたしを勧誘してください」

 というお願いを聞くことがある。それは映画や小説の一説に繰り返される「脱洗脳」のテクニックだ。あらゆる宗教は粗密はあるとしてのどこかで必ず「信じる」という無根拠性に依拠する部分をもっている。科学で説明できない部分を飲み込ませるために宗教はある。無理だから宗教が登場するのである。無理というのは、不可能という意味でははい。科学的でない、という程度の意味である。科学的であるとはつまり、因果応報で完結する世界観に尽きるのだが、生命の誕生、宇宙発生という、「因果応報」の要となる出発点に科学で応えることができない以上、我々は根源的な不安の上に今日を建立しているわけだ。そしてその不安を補完してくれるはずの宗教が「言葉」によって布教される限り、補完はつねに無根拠のビリーブ、なのであり、頑なさによって保持するよりほかないものであり、生き死にによってしか示すことができない信仰になってしまう。だからこそ、禅は不立文字を打ち立てた。不立文字ですら言葉ではあるので、この言葉はあくまでも比喩なのである。

 わたしは全ての言葉は名称であり、名称とは比喩でしかないと考えている。だから、はじめに言葉があり、神の言葉によって生きるとされるキリスト教系の全ては落第する。ユダヤ教、イスラム教などはとくに、民族が生活する上での公衆道徳としての側面が大きいのであり、それらを守らせるために「神」を用いているのに過ぎない。「宗教」の大半が「死後」を取り扱う理由は、「死後」を担保にすることで「規律」を守らせるためなのだ。政治権力が及ばない民を統治するために宗教がある。仮に科学が「死後」を、地獄も輪廻も子孫への祟りも絶対に存在しない、と明証しそれを万民が受け入れたなら、宗教は消滅し、ほとんどは自己啓発セミナーになるだろう。

 わたしが書店で絶対にい立ち寄らないのが、この自己啓発書コーナーだ。それとビジネス書関係。あらゆる古典をビジネス虎の巻に読み替える剛腕には敬意を表するが、その読み替え方が十年一日紋切り型と思われて退屈だ。所詮、ビジネスで求められるものなど古代ギリシアの時代から全く変わっていないのだろうし、わたしからは最も遠い地点にある生活だから。

 哲学書と思想書の棚は、柄谷行人、蓮見重彦、浅田彰、中沢新一 をずっと追いかけていた。江藤淳や吉本隆明を批評する世代の言説がとにかく刺激的でおもしろかった。すでに三人は老境に入り、東浩紀さんたちの世代が中心となっていて、書店の棚もゲンロンカフェ関係が多数を占めている。それらのサロンをパラパラと立ち読みして通り過ぎる。それらはあまりにも「今」と「リアル」に依存しすぎているように感じられてならない。なんというか、「超越論的視座」を感じない。簡単にいえば「理想」を持てない世代。現状分析ほどつまらない言説はないという言説もまた現状分析であると自戒しつつ、海外小説のコーナーへ移動する。

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