第9話 水族館を思い出す

 本の息吹を感じながら、もっとも置くにある大判の美術書・写真集のコーナーから、深く潜行する感覚で息を詰める。書店を巡回するたびに水族館を思い出す。あるいは幼い頃につれられて入った動物園の小さな昆虫館に。

 昆虫館とはいえ生体展示ではなく、おびただしい数の標本を陳列した建物で、わたしはそこが怖くて仕方がなかった。そこにピン留された大量の死が恐ろしかったわけではない。むしろそこに死を感じられなかったことがとてつもなく恐ろしかったのだと思う。一切の感情をはく奪された美の、底知れぬ不気味さをわたしは感じていた。それらの冷たい輝きが、昆虫の形態となって展示されている。これが鉱物標本であれば、このような感じにはならないだろう。昆虫は人間とは全く異なる形状をしているが、それらが躍動している姿をわたしは容易に想像できる年齢だったし、その躍動すべきはずの形状が行儀よく整えられてピンで串刺しにされている不自由さに戦慄したのだと思う。そこにはあらゆるものを奪われ切った形状の無念が漂っている気がしたのだ。

 書店にも似たところがある。本とはすべてが完結した存在である。続編の途中であるとか、未完の書籍がある、という意味ではない。本は、その内容とは無関係に、本として完結した存在で、手に取られていない本は標本箱の昆虫と同じところにいると私は思う。ただ、わたしは書店に戦慄しない。なぜならば本は何一つ奪われていないからだ。本は奪われるのではなく、奪うものなのだとわたしは考えている。奪われるのは著作者だ。著作者は自らの本という存在に捧げ続けることで生きながらえる者だ。その意味で、本とは標本に似ている。だが昆虫標本は一度展翅されると触れることが禁じられるが、本は紐解かれることによって、奪い続けることができる。奪われることが自由なのではなく奪うことが自由なのだということを、、わたしたちは忘れてはならない。書店をめぐることは奪われることに他ならず、ここで自由なのはわたしではなく本のほうなのである。だからわたしは水族館を思い出すのだ。水族館にはさほど馴染みはないが、それでも三四回は訪れた経験がある。美術書を何冊か手に取り、戻す。そして、芸術、音楽などの棚を経て、宗教・哲学のほうに進んでいく。

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