第8話 分厚い一冊の本

 大型書店が好きだ。大型書店とは、分厚い一冊の本だと思う。そう考えれば、世界の全ては一冊の本だと呼べそうな気もしてくるが、体験できない物事にについては類推するしかないのだから、体験外の物事まで一冊の本とまとめてしまうことはできないと思う。つまり、本とは読める状態であらねばならず、その意味で想像の類は本には含まれない、ということになる。だがこれは奇妙な結論だと我ながら思う。

 本の大半は「想像」を言葉に変化したものだ。少なくともわたしはそのような本しか読みたいとは思わない。世界は空想を具現化したものだという考え方がある。これは本に似ている。ならばなぜ、世界の全てを一冊の本としてはいけないなどとわたしは考えたのだろう。問題だったのは、本のほうではなく、一冊の、という方だったのかもしれない。

 一件の大型店を一冊の本と呼ぶことに抵抗はない。だが、この書店以外の書店も、一冊の本にくくってしまっていいものだろうか? 想像するに、そのようにくくることは、おそらく間違いではない。なぜならば、世界の全てには相関があり、詳細な索引を付すことによってそれらを紐づけを明らかにすることは可能だと考えているからだ。宇宙の全てが互いに影響を及ぼしあっており、この関係性の網から独立したものは何一つ存在しない、という仏教的観点において、この宇宙を含む全宇宙、存在と非存在のあらゆるものが一冊の本ととらえることは間違いではない。逆、なぜわたしは、世界を一冊の本ととらえることを先ほど躊躇したのだろう。

 本には二種類ある。いや、正確にいうなら本の読み方には二種類ある、というべきだろうか。一方は始めから読み始め、結末まで順を追って読む読み方。もう一方は、任意の箇所を任意の長さのみ読んでいく読み方。本に書かれた内容のほとんどは、前者を想定しており、これは物語と呼ばれる。後者を想定したものを小説とわたしは呼ぶ。手垢のついた例で、本当は言いたくもないのだが、「聖書」とはその両方の読み方が浸透した稀有な本だといえる。物語として読んでもよく、聖句として抜き出してもよい。これはおそらく「この世界」と同じ構造をしている。つまり、物語としては本来成立してないものが、あたかもあるかのように錯覚させる構造、という意味である。これは書店に似ている。書店は本を販売する時空だが、実際のところ何を販売しているといえるのかを、私たちはあまり深く考えない。スーパーで食品を買い、ホームセンターでハンガーを買い、書店では本を買う。だがなぜ、本を買うなどという文が成立するのだろう。本とは何なのだろう。本と大根との違いはどこにあるのだろう。本を読むように、大根を下すことは可能なのに。

 などととりとめのない想いを放逸させながら、この書店の最深部へ到達した。ここは大型の美術書のコーナーである。みな重たい本なので、ベッドに寝転んで読むのには不向きなものばかりだ。青梅に住んでいたころには、休日のたびに一駅分を歩いて図書館へ通っていた。登山用のリュックに、美術全集を二冊か三冊背負って、線路沿いの起伏のおおい小道をたどった。途中に山腹を上る木の階段があって、比較的軽い荷物のときにはそれを上って、見晴らしのよい公園へ立ち寄った。木製のベンチが朽ちかけていて、向かい側には三連の低い鉄棒がある。真ん中は一周二百メートルくらいのトラックで、枯れた芝生と錆びたごみばこが置いてある。見下ろすとずっと山が続いている。線路は低すぎて見えない。どこまでも山ばかり。何とかいう登山道の途中に位置しているので、駅からこの公園を突っ切って鉄棒のある反対側の斜面に消えていく一団に遭遇することもある。わたしはベンチに腰掛け、膝に乗せたセザンヌの画集のせいで身動きができないまま、その登山者の一群を見送る。それは、何かの書き出しのようも見えた。決して結末まで読むことはない、おおよそ自分には興味の持てない本の書き出し。思えばわたしの記憶にはそのような断片的な書き出しばかりが、消すまでもない痕跡として幾筋もの可能性を放置されたまま、今も息づいているような気がする。

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