第7話 書店巡り

 本屋に立ち寄った際のルーティンがある。視力が落ちた最近では必要最小限の棚しか回遊しない。入口近くには雑誌の棚がある。ここではサイクリング関係の雑誌を軽く眺める。すでに、「今月の新刊」や「話題の本」などの棚は素通りした後だ。新刊書には全く興味がなくなった。視力と同時に持続力も失われている。読書に集中することができなくなった。これは家事と猫の世話に追われているからだと断言できる。高校生の頃までは、時間はほぼ無限にあった。宿題は休み時間に済ませていたし、放課後を一緒に過ごす友人も少なかった。むろん、家事に煩わされることもなかったし、深夜まで起きていても平気だった。高校を卒業してからも似たような状況で、大学ではサークル活動にかなりの時間をとられてはいたが、それでも土日の書籍や図書館通いは欠かさなかったし、当時付き合っていた人とその周辺の人にとっても、本は必須アイテムだったからだ。通学や通勤に片道2時間かかる電車内は絶好の読書空間だったし、当時はインターネットも携帯も不要だった。喫煙か読書か。そんな風に過ごせた時間をもてたことは幸福だったと今は思う。だから、年に1度か2度、一泊二日で旅行に出かけると、一切から解放される。旅行とはそのためだけに必要なのだと実感できるようになった。距離を置くことこそが、旅行の意義なのだ。日常を離れる、とは文字通り距離の問題なのである。そして非日常とされる旅行空間においてのみ回復される日常があるというのは、なかなか興味深い。日常生活圏内の書店は非日常からの物理的距離は不足しているが、「今」に集中することによって、同等の非日常を出現させることは可能だ。その間だけ自らを日常から切り離すこと。興味をもてる対象に、この「たましい」を引きずり込んでもらうこと。時の経つのを忘れて、没入すること。この没入時の感覚こそが逆説的に「旅」と呼べるものであること。通常の旅は肉体を物理的に異空間に没入させることであるのに対し、書店での旅は精神を書物空間に吸引されることである。観劇でも映画でもよい。これらの共通点は「異者」となることである。「異者」とは「旅人」であることの謂いである。これは修験道における「一所不在の行」とは異なる。一所不在とは風となることを理想とし、それはすなわち「空」を疑似体験することに他ならない。依他起性を離れる状態を自らに課し、この自ら事態を空性に解放すること。つまりは悟りへのステップなのである。だが、わたしがここで拠り所としている旅の場合は、日常の日常性によって抑圧されている自らの日常性を開放する、という程度のささやかな娯楽なのである。北向きの大きな窓の前にあるカウンター席を、しばしこの娯楽の座として、わたしは七つの海をめぐる航海にもにた書店巡りを始めた。

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