第5話 石ころ帽子
初めての頭痛を覚えていない。ただ眼鏡をかけ始めてから頭痛を感じるようになった気がする。小学校四年生の時だ。クラスで初めて眼鏡をかけたのがわたしだった。田舎の学校だったので、各学年は一クラスずつしかなく、従ってクラス替えのない六年間を過ごした。それは地獄と極楽のカオスだ。極楽であってもその一部が地獄であったなら、おそらくそれは地獄と感じられるのではないか、という程に、わたしの小学校の六年間は極楽だったと、今は思うのだが、実際にその世界だけが棲みかだったあの当時は日の当たる極楽などどこにもないと感じていただろう。わたしは見られることが苦痛であり、見る事だけが快楽だった気がする。だからわたしは透明になりたかった。ドラえもんの中でもっとも羨ましかった秘密道具は「石ころ帽子」だった。話題の中心になりたいという欲求を抱えながら、誰の記憶にも残りたくないとも思っていた。何がいけなかったのかは分からない。幼稚園の頃は別段、独りぼっちだったとは思わない。だが、そういえば階段から転落して顔の半分が内出血で腫れあがった状態で通園していた時期を境に、もしかしたらわたしは異物化し、忌むべき存在になったのではないかと、ふと思い出した。風が強い。ガラス張りの開き扉が煽られている。ホテルのロビーへ続く扉の一枚だと思う。だがなんとなく屋内に入りたくなかった。風は東から湿気を含んで吹いている。雨になるのかもしれない。頭痛。
過ぎてしまえば無事だった。たとえどんな傷跡が残ったとしても、今はもうあの現実は過去のものだ。そしてあのような過去を共有できる人間はわたし以外にいないというところが救いだった。同窓会にいくつもりはない。この先の階段を下りて駅ビルに入ると、同窓会が行われた店がある。靴を脱いで、掘りごたつみたいになったところに置いてある長い机の前に座るタイプの居酒屋だと思う。大勢での集まりも居酒屋も酒も嫌いで、同窓生と温めるべき親交もないのだから、参加するはずはない。時間が解決してくれる問題なんて本当は一つもないと思う。ただ忘れるだけだ。過去はたんに遠ざかるだけで、遠くのものはなんとなく美しく見えるというだけのことだ。対岸の火事は見物するのにちょうどいいというだけのことだ。交差点を渡る。ビジネススーツの男女の集団がスマホを眺めながら溜まっている。研修にでも出かけるのだろう。ということはこの大勢が同期社員ということになるのかもしれない。絆。などという言葉が浮かぶ。気持ち悪い言葉だと思う。大きな地震のあとで、くずれおちた表層のかけらが、取り込まれない洗濯物のようにぶら下がっていた洗濯ロープを思い浮べる。トムとジェリーのアニメにでてくる裏路地に張り巡らされた洗濯ロープ。絆といわれるとそれが一番近いような気がする。洗濯ロープは簡単に輪が作れるし、引っかけやすいし、丈夫だ。首を吊る場合、荒縄や虎ロープではチクチクするし、登山用のザイルなどは高い。洗濯ロープならば100均でも買えるだろう。だが、そんなわたしも自殺を考えたことは一度もなかった。社会生活の9割を閉める対人関係に絶望していたとしても、個人的な生活には絶望していなかったからだろう。青信号になり全員が目的地へ向かう。湿った風に身震いしながら、あと半時ほどでやってくる頭痛のことを忘れるように努める。わたしは独りでいることに馴れている。ワクチンの副作用で熱は出るだろうか。駅ビルに入る。九階にあるレストランで、見合いをしたことを思い出す。全くやる気のない相手だったので、こちらも取り繕うことを途中で放棄し、一期一会のありがたみを感じた時間だった。いろいろなことがあるな、と思う。森田童子をギターで歌っている男がいて、その前にしゃがみこんでいる女がいる。七階にある本屋に寄って行こうと思う。急いで帰る理由もなかったし、まだ頭痛までは間があったし、腹も減っていたからだ。
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