第3話 きちんとしたパイプ椅子
特別な存在を照らすことが課せられた役割の照明係は、何ら特別な存在ではなかった。スポットライトはキャットウォークの左右にあり、照らし出すべき存在を暗幕の前にきちんと浮かび上がらせるためには、左右から斜めに直進する光線の交点を揃えなければならなかった。交点がうまく合わないとき、右は左の、左は右の照明係の狙いが悪いのだと言い合った。自らの手腕だけではどうにもならないことが歯がゆかった。スポットライトを当てるときの照明係の息遣いはスナイパーのようだ。自分が照らした丸い区画のみが世界に露呈し、なおかつその生殺与奪権を実質的に支配できるからだ。音響も特殊効果も、照明係に比べればほんの付けたりに過ぎない。「光あれ」から始まる世界。照明係の万能感とはつまりは、天地創造に起因するのではないかとわたしは考えた。だが、もちろんそれは慢心である。なぜならば「光あれ」と書かれた台本が、世界を規定していたのだから。万能の下僕、といえば、官僚のように響く。そういえばわたしは失業中に地方公務員試験を受けたことがあった。そのとき、学歴というものが社会をいかに区分しているものかを思い知った。試験日の昼休み、土砂降りの自転車置き場でコンビニのおにぎりを食べていたとき、市職員数名がワイシャツを腕まくりしながらやってきて、軽量鉄骨の桟に一斉にとびつき懸垂を始めた。わたしはそれを眺めながら、おにぎりを三個食べ、ペットボトルの緑茶を飲みながら、不合格を予感していた。なにしろわたしは、「市の樹」すら答えることができなかったのだから。
大学中退の最終学歴は高卒だ。しかし大学入試は突破した、という点は認められてしかるべきではないかと、わたしは主張したかったのだが、学校推薦枠ではねぇ。それを中退したということは、君、高校と後輩にも随分と迷惑をかけたってことだよねぇ、と蔑まれただけだった。五人ずつの集団面接で、パイプイスは座面が全面にむかって下がっていてとても座りにくく、なぜか椅子の下には汚れた水が入った青いバケツが置いてあった。バケツは気にしないように。ただ、足をぶらぶらさせて溢さないようにだけ気を付けてもらいたい。という事前の注意がなかったら、わたしはきっとそのバケツを蹴飛ばしていたに違いなかった。そして午後の一般常識のテストを白紙で提出し、あの面接室にあった青いバケツを片づけるのは、おそらく外注の清掃業者から派遣されている清掃係なのだろうと思った。それから十数年後、わたしはその清掃係をすることになるのだな、と感慨にふけったところで、時間がきて、わたしはワクチン接種会場の待機所にある、きちんとしたパイプ椅子を立ったのだった。
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