夜啼鳥

 剛伽が、いなくなった。


 久しぶりに鬼たちのねぐらを訪れると、

「阿古夜と塩飽しわくに行っている」

人語を話せる鬼が、そう教えてくれた。

「韓の国へ渡るのに、船の下見をするそうだぜ」

 五十狭芹彦は小さく息を呑んだ。

 ——俺は韓へ渡る。

 あれは、本気だったのか、と。

〈……俺達もそろそろ、身の振りを考えねえとなあ〉

 ちらりと会話が耳に入ってきて、五十狭芹彦はそちらに目を向けた。剛伽に教わって、断片的にだが鬼の——韓の言葉がわかるようになってきた。

〈塩飽の用意する船に乗り切れなきゃ、陸路で出雲に出て合流か。朝廷の支配下の吉備を縦断するのはなかなか険しいだろうな〉

〈だが、ここにいてもいずれ朝廷の水軍とかち合うって話だろう。海で戦うか山で戦うか、それだけの違いだろうが〉

〈朝廷軍に恭順したら——〉

〈馬鹿が。それ以上言うな〉

 五十狭芹彦が聞いているのに気づいて、二人は話題を逸らした。

「どういうことだ?」

 五十狭芹彦の問いに、人語を話せる鬼が渋々説明する。

「朝廷の遠征軍が近々この近海を通るらしい。それに兵士として雇われれば、労せずして韓へ渡れる」

「朝廷軍に……朝廷と和解するのか?怨羅が?」

「剛伽にその気はないらしいがな。第一、朝廷軍の出方が全く読めん。——だが噂では、大王は鬼の軍を作ろうとしているとか」

 五十狭芹彦の脳裏を、ある光景がかすめた。大王には、留玉臣こと玉爛が取り憑いている。玉爛の意図は全く読めないが、鬼の軍とはいかにも考えそうなことだ。

「我らは韓から渡ってきた。だが、若い鬼の中には鬼火で生まれた者も多い。皆が皆、韓へ帰ることに賛成しているわけではない」

 剛伽の決断に、怨羅たちは揺れ動いている。怨羅たち特有の豪放な明るさが、今日の彼らには感じられない。

 不安なのだ。戦に負け、仲間を失い、住み慣れた鬼火を離れて隠れ住むように小島に身を寄せている。敵の姿は未だ見えず、戦いの気配だけが確実に近づいてきている。そして、頭領の剛伽が往こうとしている韓は、恐らくは修羅の国だ。どちらを向いても血の道しかない。

〈俺は……帰るなら鬼火の里がいい〉

 誰かがぽつりと呟いた声が、五十狭芹彦の耳に残った。


 思考がまとまらないまま山道を歩いていたら、あたりはもう暗くなりかけていた。

 空腹はとうに身体の一部となっていた。立っているだけで目眩がするほどで、当然足元は覚束なく、何度も足を取られて転びかけた。すべてが曖昧で、現実感がない。

 聞き慣れない鳥の声がして、五十狭芹彦はふと我に返った。日暮れ前に岩屋に戻るつもりが、どこで間違えたのか。薄暗闇の中、道が藪の中に途絶えている。その先は崖のようで、下方からかすかに沢の音が聞こえてくる。

 どうやら迷ったらしい。

 来た道を引き返しかけて、五十狭芹彦はびくっとして足を止めた。

 何かいる。

 足音も息遣いも聞こえないが、道を塞いで、はいる。じっとこちらを見つめている者の気配。夜風にざわめく森を、不自然に切り抜いた闇。

 狼だ。

(この島に狼など、いただろうか)

 思いを巡らせる一方で、ふと、これは知っている狼のように感じた。夜目で顔つきが判然としない。

「ミツメ……?」

 呼びかけると、狼はくるりと背を向けた。その背にひとすじの赤毛が、確かに見えた。

「……ホムラ」

 口の中で小さく呟いたのは、死んだ狼の名だ。

 ここは死んだ者の世界だ、と、五十狭芹彦は悟った。

 ホムラに先導されて、山道を進む。岩屋へ連れて行ってくれるのか、それとも——冥府へといざなっているのか。

(どっちだっていい——どうせ)

 投げやりな気持ちでそう思考して、その続きを言葉にする前に、再び鳥の声がした。

「せり」

 はっと顔を上げた。

 鳥に名を呼ばれた。——いや。

「あ……ね……うえ……?」

 視線の先、幻のように現れた百十姫が、ふうわりと笑った。ホムラが小さく甘えるように百十姫に頭を押し付けたので、百十姫は透き通るほどに白い手でホムラの頭を撫でる。

「そろそろ苦しむのにも疲れたでしょう、せり」

「姉上ぇ…………」

 ぱたり、と涙が落ちた。

「……なぜ……」

 逢いたかった。逢えなかった人。永遠に喪ってしまったはずの。

「なぜ、身罷られたのですか……」

 冷たい土の下に葬られ、もう二度と触れられないはずの姉に、震える手を伸ばす。

「なぜわたしは、生きなければならないのですか……?こんなにも穢れた、罪深いわたしが……」

 ずっと護られていた。と同時に、ある意味で縛られていた百十姫を失って、孤独すぎる生に放り出された。

 犯したあやまちは、一人で背負っていくには重すぎる。

「……この苦しみから解放されるなら、姉上、あなたのおそばに行きたい」

「死んでも楽にはなれないよ、せり。ほら、わたくしとてこうして、おまえのことが心残りで気が気じゃない」

「姉上、でも私はもう、幸せになどなれない——そんなこと、許されない」

 悩んで、迷って、選びきれずに、間違えた。鬼火を焼き、鬼ノ城を滅ぼし、剛伽を手に掛けた。血を分けた弟と決別し、多くの血を流した挙げ句に、行き場を失った鬼たちを修羅の国へ追いやらんとしている。

 終わらない、苦難の連鎖。

「だからもう、生きるのをやめると?」

 五十狭芹彦は泣きながら幼子のように何度も頷いた。

「せり、おまえには心を残すものは何もないの?ほんとうに?」

 溢れてくる涙で百十姫の顔が霞み、嗚咽が込み上げて言葉にならない。

「おやおや。せりは泣いたりしないのではなかったの」

「だっ……て……姉上……っ……」

「さあ、そろそろ目を覚ましなさい、せり。わたくしの大切なせり。つよくてうつくしいせり。そんなふうに嘆きなさるな」

 五十狭芹彦ははっとした。遠い記憶の姉の言葉。

 ひとは、己を憐れむものを哀れまない。

(そうでしたね、姉上)

 笑え。目を背けずに、相手を見据えて。

「…………っ」

「涙をお拭きなさい。そしておまえが目を背けていたものに向き合いなさい。おまえが本当にすべきことは、おのずから見えてくるはず」

 涙を拭って顔を上げると、百十姫とホムラの姿は消えていた。

 木々の向こうから、金色の鬼が、光をまとって駆けてくる。

「……そうか」

 目を背けていたものは、罪。

(わたしが目を背けていたもの)

 だが、償うべき相手は。

「わたしは罪を恐れ嘆くばかりで、償うべき相手を見ていなかった……」


「桃花!」

 飛びつくように抱きしめてきた剛伽の巨躯を受け止めて、熱く滾る体温に包まれる。

「桃花、桃花、俺は生きているぞ。お前が何度夢で俺を殺しても、俺は毎朝お前の横で生きている。お前の隣で生きて、お前のことを護る。だから安心して俺を殺せ。お前が俺と自分を殺すのに飽きて、生きることを思い出すまで」

「剛伽、おまえ、韓に行くんじゃなかったの?」

「やめた。韓の国で殺し合うより、桃、お前と生きたいんだ」

「では、わたしがおまえたち鬼の国をこの倭に作ってやる。それが鬼火を喪ったお前たちへの、せめてもの償いだ。だからおまえは見届けろ。わたしのそばにいろ、剛伽」

「いいのか?」

 返事の代わりに五十狭芹彦は軽く背伸びして、剛伽の口唇に接吻した。


 朝廷の遠征軍が内海を通過する直前に、怨羅の残党は塩飽より借り受けた船団で静かに穴門あなと(関門海峡)を抜け、一路東を目指した。出雲をかすめて高志こしの国(越国)を目指す。

 かつて大王が大彦を陸道くぬがのみちに派兵した、その更に北の地域は未だ朝廷にとっての未踏の地であった。

 そして、そこには古来より鬼が棲む——と、いわれていた。

 怨羅たち大陸を起源とする鬼とは異なる、土着の鬼。

 ——蝦夷、と呼ばれる一族が、それである。

「本当に、この地にも鬼がいるのだろうか」

 吉備津の海よりも濃い色の海を眺めながら、五十狭芹彦がぽつりと言った。

「見たことはないのか?都には鬼はいなかったのか」

「いないね。噂は聞いたけど、北の鬼は山中に暮らして人里を嫌うという。好んで倭の国に攻め入ってくることはないと言う意見が大勢だったよ」

「でも、お前は違うと思っているのだろう?」

 剛伽が五十狭芹彦の先を読む。伊達に一国の王子だったわけではない。五十狭芹彦もそれを分かっているから、苦笑して先を続ける。

「……大王がね。そんなものは指導者ひとつで変わると。軍を組織して攻めようとする者が現れれば、必ず朝廷の脅威となる。そうなる前にこちらの防備を固め領地を広げるのだと」

「桃花」

 剛伽の声が幾分硬くなる。五十狭芹彦は海面を見つめたまま言った。

「……わたしを嫌うか?剛伽」

「桃花、おまえはそれで後悔しないのか」

「だって」

「桃花」

「虐げるから、敵意を育ててしまう。先手を打っているようで、挑発している。火種をまいて、噛みついたところを叩く。そういうやり方で、鬼火も」

「桃花」

 海に乗り出すように言い募る五十狭芹彦の両肩を掴んで引き寄せる。人形のような美貌が焦燥で歪む。

「だって、今のままじゃいずれ」

「桃花、桃花」

 剛伽はたまらず五十狭芹彦を抱きしめた。その腕の中で、五十狭芹彦が弱々しく言った。

「わたしがその指導者になるといったら、剛伽、わたしを嫌うか?」

「桃花、もう言うな。わかったから」

 言葉を遮るように、口唇を塞ぐ。

「わかっているから」

 鬼を連れた五十狭芹彦は、蝦夷に同朋意識を抱かせるだろう。その計算ずくで、五十狭芹彦は朝廷を攻めるつもりなのだ。その先に鬼火の奪還があるとしても、途方もない遠謀であることは自明だ。その賭けのような戦いに、五十狭芹彦は剛伽を利用しようとしている。

 剛伽にそれを責めることなどできるはずもなかった。


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【番外編】怨羅じゃ! —鬼火夢幻郷― 加賀谷清濁 @sakakiyayoi

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