死人花

 その紅い花が何と呼ばれていたのか、誰も知らない。


 一帯に滴る血のような花が咲き乱れている。

 夜陰に乗じてひっそりと上陸し、人目を避けて山へ入った。夜明け前、麓沿いの木々に紛れて移動していくと、河原に出た。

 このあたりの地形はよく知っている。

 あのいくさの後、血吸川と呼ばれるようになったと聞く。あの日川面を埋め尽くした、人の死体と鬼の屍骸。夥しい血はとうに川の流れに洗われ、肉は土に還り生い茂る草木の肥やしとなったが、翌年一面に花が咲いた。

 まるで死者の血を吸って咲いたかのような、くれないの花。


 河原を抜けて山の麓を回り込むように進むと、戦で焼けたほうりの家の跡地に新しい小さなやしろが建っていた。すぐに中から女が一人出てきた。こちらに気付いて僅かに目を見開く。

「おや」

「安良媛」

 剛伽は昔の恋人に笑いかけたが、その笑顔はどこか覇気に欠けた。対する安良媛は笑みを浮かべる代わりに、相手を案じるような表情かおで言った。

「元気そう——でもないわね」

「ちょっとな」

「聞いたよ。からへ渡るんだって?」

「……ああ……いや、」

 剛伽は言葉を濁した。

「それで、まさか今生の別れでも言いに来たの?うっかり吉備津の兵に見つかりでもしたら、タダじゃ済まないわよ」

 怨羅一族が鬼火を追われて以降、ここいら一帯は朝廷の管轄地となり、稚武吉備津日子命——五十狭芹彦の弟王子の領内となっている。怨羅の首領の剛伽が見つかれば、直ちに討伐の兵が囲むだろう。剛伽とてやすやすと捕らえられはすまいが、ひと騒動起こるのは目に見えている。

「……赤子が……生まれたと聞いて」

 そう口にした自分の声が震えていて、剛伽は少し驚いた。

「……会いに来た」

 蚊の鳴くような声で言った剛伽の顔を安良媛はしばし眺めてから、「おいで。ここじゃ目立つ」と言って社の裏手へと剛伽を促した。

 裏の斜面を一段上ったところに、やはり真新しい小屋があった。中はこぢんまりとしていたが清潔で、布で仕切られた奥から安良媛が赤子を抱いて出てきた。

「おっ……」

 そう発したきり、剛伽は言葉を失った。

 輝くような肌の、小さな小さな命が、そこに生きていた。

 小さな心臓が送り出す血液が、小さな身体を巡る。握り込まれた小さな手の指先まで、確かな熱を持って脈打っている。桜貝よりも小さな口唇が、小さく絶え間なく呼吸している。

 なんと尊いのだろう。

「抱く?」

「いいのか?」

「当たり前でしょ。正真正銘、あんたの子だもの」

 言われて剛伽は気がついた。赤子の小さな頭に角はなかったが、ほわほわと生えた髪の毛は確かに剛伽と同じ金色をしていた。

 受け取った赤子は、まるで重さがないかのように軽かった。ともすると簡単に命の灯火を消してしまいそうで、うずうずと不安を掻き立てる。

「ちょっと、しっかり抱いてよね。落とすんじゃないわよ」

 安良媛の言葉で少し正気に戻った。

「ひとりで産んだのか?」

「楽々森の姫が、産婆と下女を何人か寄越してくれたから、別段困ることもなかったわ」

「安良媛、すまない」

「謝らないでよ」

「いくら楽々森の助けがあったとしても、大変だろうが。それに加えて鬼の子を産んだと囁かれては、相当心細かっただろうな。そんな時に何の力にも……それどころか俺は、お前が孕んでいたことすら知らずに」

 鬼ノ城を焼かれ、鬼火を追われ、それどころではなかった——というのが言い訳であることくらい、わかっている。五十狭芹彦のことしか考えられなかった。安良媛は少女の頃から知っている、身内のような感覚になっていた。剛伽の気持ちが五十狭芹彦に移っていることも薄々気付いていただろうし、それに甘えていた。安良媛なら、わかってくれるだろう、赦してくれるだろうと思っていた。だが、何も責められずに赦されることがこんなにも後ろめたいものだとは。

「……本当にすまない。せめて産む時だけでも、俺がついているべきだった」

 剛伽の言葉が、張り詰めていた安良媛の心を揺さぶった。赤子を護るのは自分しかいないと気を張ってきたこの一年あまりを思い出して、つい溢れそうになる涙を、安良媛はぐっと飲み込んだ。

「謝らないで。あたしはこの通り苦労なんてしてないし、後悔もしてない」

 それが精一杯の矜持であることくらいは、剛伽にもわかった。

「それより、あんたはしっかり桃を護りなさいよ」

 剛伽の顔に陰がよぎる。

「あいつは……俺から離れたほうがいいのかもしれん」

「はあ?」

「毎夜悪夢にうなされて、どんどん痩せていく。俺といるとそのうち死んでしまいそうで」

 安良媛に吐露するのはお門違いも甚だしい——と、わかってはいるが、一度口にしたら止まらなかった。

「俺の首——まあ、玉爛の首だったんだが、斬った感触が蘇ると言ってな。俺が韓に行ってしまえば、あいつも落ち着くかもしれんと……塩飽に口利きしてもらってどこか身を寄せられる豪族を探してもいいし、いっそ都に帰れば王子としてそれなりの地位もあるのだろうし、そのほうがあいつには生きやすいかもしれんとな」

 聞いていた安良媛は、肩をすくめて首を振った。

「はあ、すっかり弱くなったもんだねえ、吉備の冠者も」

「お前は強くなったなあ」

 剛伽は眩しそうに安良媛を見た。その口唇に安良媛が人差し指を当てる。

「母は強し、なんてくだらないこと言うんじゃないわよ。ばかばかしい。そんなこと言われて嬉しい母親なんていないわよ」

「すまん」

「謝らないでってば」

「すまん」

「ばか。もう。なんなの」

 そのとき不意にふえぇ、と赤子が声を上げた。

「え、おい、安良媛」

 おかしいほど狼狽える剛伽から安良媛が「はいはい」と赤子を受け取って「よーしよし」とあやしながら、衣をたくし上げて桜貝の口に乳を含ませた。赤子は必死で白い乳を咥えると、まくまくと忙しなく吸い始めた。

「ほんと、男ってのは謝るだけでなんにもできないくせに。死にそうとか生きやすいとか、あたしはこの子の命を今日一日生かすのに精一杯だってのにさ。だって、死んじまったらもうこの子には会えないんだよ……そう思ったら、夜中だって何度も起きちまう。目を離した隙に何かあったらと思うと、いっときだって離れていられない。この子を失うなんて、考えられない——そういうもんじゃないのかい?」

 剛伽ははっとした。

 死んでしまったら、もう会えない。あの濡れた瞳に見つめられることも、艷やかな髪に触れることも、花のような笑顔を見ることもできない。

「……っ!」

 不意に、胸が締め付けられた。目を離した隙に……自分が韓へ行っている間に、もしも訃報を聞いたら。自分は、受け入れられるだろうか。耐えられるだろうか。遠い故郷で、誰かを愛することなどないと思いながら生きて、多くを殺し、鬼に堕ちた。そんな自分が初めて愛した人を——失ったら。

 ——生まれ落ちた赤ん坊は育つまでに半数が死に、産み落とした母親は五人に一人が出産で死ぬ。この束の間の現し世で、死はとても身近だ……ふとした折に取り込まれる……。

 ふと、かつて聞いた言葉を思い出した。遠い都で姉が死んだと報せを聞いた、五十狭芹彦が絞り出すように言った。愛する姉の死目に会えず、さらに契りを交わした剛伽の命を絶った五十狭芹彦の苦悩に、剛伽はようやく思い至った。精神こころが壊れるほどの悲しみを、ようやく理解した。

「……嫌だ……俺は」

 五十狭芹彦を失ったら、自分は再び修羅に堕ちるだろう。優しい五十狭芹彦は自分自身を壊した。だが剛伽はきっと、我を忘れて世界を壊してしまう。そんな未来は耐えられない。

「桃と離れるって言ってたけど、それが本当にあんたがやるべきことなの?桃は、あんたが護らなきゃだめなんじゃないの?」

「……弱くなったな、俺は」

 剛伽は力なく自嘲を漏らした。

「大事な人からは、目を離しちゃだめだよ……冠者」

 いつしか乳を吸い終えた赤子は、満足そうにけぷっと小さくむせて、すやすやとねむりだした。


「来てくれて嬉しかった、冠者」

「困ったらいつでも力になる——と言いたいところだが、生憎追われる身ではな」

 だが、いつもおまえと赤子の幸せを願っている、と言いかけて、剛伽は思い直した。そんなことは彼女の未来にとって、どうでもいいことだ。

「おまえは最高にいい女になったよ、安良媛」

「……ばか」

 果たして安良媛は、満面の笑みを浮かべた。

 その笑顔に満足して、剛伽は踵を返した。

 迷いのない足取りで河原に下りて、一面の紅い花の中を去っていく後ろ姿を見送りながら、安良媛は呟いた。

「……さよなら。あたしの金の鬼」



 仏の教えの伝来とともに、この紅い花が彼岸花とか曼珠沙華とか呼ばれるようになるのは、まだずっと後のことである。

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