風葬
波の音が、記憶を呼び起こす。
酷い嵐だった。
叩きつける雨で風景が霞む。真昼でも薄暗く、昼なのか夕刻なのかもわからない。そんな中、船を奪って鉛色に荒れ狂う海へと漕ぎ出したのだ。ふと振り返った故郷は、立ち上る水煙に
嵐が去ったときには、もう陸地は見えなかった。
あれ以来、故郷の地は踏んでいない。
*
「
大小の島々が浮かぶ碧海を夕陽が染めていく。熟れた柿の色が鮮やかな青と混じり合い、刹那に過ぎる
大漁だ大漁だと漁民たちが
「韓へか」
短く問うた剛伽に、阿古夜は頷く。
「まあ、今が一番潮の流れがいいからな。
「と、いうことは……」
「つまり、塩飽近海を遠征軍の船団が通るということだ」
倭の船は通常、難波津より出て、鬼ヶ島を含む塩飽の島々のある吉備と讃岐の間の内海を西進し、筑紫との境である穴門を抜けて外海へ出る。
「戦で交易は途絶えるし、海賊家業もできやしねえ。お前さんの
剛伽も顔を曇らせる。春、農作業が本格化する時季の徴兵は、民にとって痛手だろう。
朝廷の手に落ちた吉備の様子が、気にならないといえば嘘になる。戦の際に里人たちに向けられた敵意については、彼らの立場では仕方のないことだろうと納得していた。人は弱いものだ。剛伽はそれを、身を以て知っている。
「それだけじゃないだろう」
黙り込んだ剛伽の代わりに口火を切ったのは月心だ。
「俺達がここにいることが——塩飽が逆賊の怨羅の後ろ盾だと朝廷軍に知れたら、まずいんじゃないのか」
「ああ。実のところ、秋に吉備津の将軍と戦争しちまったから、もう伝わっちゃあいると思うぜ、正直。だが朝廷軍にしたって、韓を攻める前に怨羅と一戦交える余裕はねえだろう……と、高を
「戦意がないとしたら、逆に好都合なのかもしれんな」
淡々と言う月心に、阿古夜は眉をひそめた。
「——まさかあんた、今更故郷に肩入れして、倭の軍を沈めるつもりか?」
「いや。知っての通り、韓は分裂している。むしろ、倭の敵は我らの敵でもある。交渉次第では、兵に志願し、あちらへ渡る」
「月心。早計だ」
さすがに剛伽が口を挟んだ。が、月心は引かない。
「逆賊とされたまま、
まあまあ、と阿古夜が二人の間に割って入った。そして話題を変え、
「ときに、
と、酔い騒ぐ人々の中に五十狭芹彦の姿を探す。
「ああ、あいつは……」
言い澱んだ剛伽の代わりに、月心が答える。
「彼はここしばらく体調がすぐれない」
剛伽が顔を上げると、どこまでも無表情な月心と目が合う。
(韓へ、帰りたいのか。月心)
数日前のこと。
「韓へと帰る決心はついたのか、王子よ」
「韓へ帰りたいのか」
「他に道があるのか?鬼ノ城を失い、民を失い、十年かけて築いてきたすべてが水疱に帰した」
ぐっ、と剛伽は言葉に詰まる。
平和で豊かな鬼火を戦火に巻き込み、怨羅一族を破滅に追いやった——その元凶は誰あろう、五十狭芹彦なのだ。
(だが、俺はあいつを責められない——)
剛伽は月心の瞳をまともに見られなかった。幾度となく剛伽の命を救ってきた男が、剛伽のどうしようもない恋情を断罪する。
「韓の国は乱れている。多くの民が、長きに渡り苦しんでいる。鬼火を失った今こそ、故国へ帰り、兄君の鬼の軍を退け、真に平和な国を再建する——それがあなたの成すべきことではないのか、剛伽王子よ」
その正論に反論する言葉を、剛伽は持っていなかった。
太陽はとうに沈みきり、
「……阿古夜、お前には恩がある。月心の言うように、これ以上迷惑をかけるのは本意ではない」
剛伽はそこで言葉を切り、それから心を決めたように切り出した。
「戦が始まる前に、あちらへ渡る船に我らを乗せてもらうことはできんか」
「……そりゃあ、少ないとはいえ商船がないわけじゃねえ。
阿古夜の返答を聞いて、剛伽は海上へと視線を巡らせた。月はまだ出ていない。
「倭の兵となるのは無理だ。交渉とか、そういう次元の話じゃねえ。
剛伽は自身の胸に拳を当てた。
「——が、韓へゆく、というのは……考えてみようと思う」
——おまえといるのがつらい、剛伽。
ここ数日、五十狭芹彦の言葉が何度も去来しては、そのたびに胸が締め付けられるような気分になる。あれ以来、五十狭芹彦の岩屋を訪れていない。
そばにいるのがつらいなら、いっそ——。
桃花がもういちど
そんな剛伽の思いを察したかのように、阿古夜が言った。
「この話は、
往来があるとはいえ、船舶技術が未熟な時代、航海は命がけである。五十狭芹彦は曲がりなりにも倭の皇子だ。筋骨隆々、剛腕無双の鬼たちとはわけが違う。しかも、
「あいつは行かんよ」
剛伽はそれきり言葉を切り、
深夜、いいだけ酔った人々は、三々五々帰路についた。
剛伽もまた、珍しく酔っていた。気付けば一人、山道を歩いていた。
宴の最中は気にならなかった波音が、一人になるとやけに耳につく。暗い山道がどこまでも続いている。
——俺は何処へ向かっているのか。
もうとっくに
見渡す限り屍体の折り重なる、凄惨な大地が。
残虐を極めた、終わりのない戦闘が。
血と
鬼火の里など、なかったのだ。桃花源は夢だったのだ。
俺はずっとあそこにいたのだ。この山道を抜けたら、長い夢から醒めて俺は故国にいる。
ああ——あそこへ
そんなことを考えながら、山道を一歩一歩進む。
ふいに、茂っていた木々が途切れた。
行く手に白い光が差していて、光の中に天女が立っている。それが月の明かりだと、ややあって気付く。
天女がこちらを見つめる。——よく知っている顔だ。
「剛伽……?」
「……
数歩の距離を駆け寄って、抱き
「剛……っ」
苦しげに喘ぐ唇を、唇で塞ぐ。きっちりと結ばれた衣の紐を、ほどくのももどかしく引き千切り、つめたくなめらかな肌に触れる。
「やめろ、なんで——」
五十狭芹彦が腕の中で必死に抵抗するが、禄に食べていない身体では全く効かない。両腕を背に回して自由を奪い、やすやすと押し倒すと、露わになった胸の膨らみに顔をうずめた。両脚の間に膝を割り入れて無理矢理に開かせる。
腹の奥底から湧き上がる欲望を止められない。酔いのせいか。それとも血生臭い幻影のせいか。何かに追い立てられるように、性急に求める。
「いやだ!剛伽!」
パァン——と乾いた音が響いて、剛伽はようやく動きを止めた。
張られた頬に手を当てる。
「なんで……こんな……!」
そこだけ紅い唇を震わせ、剛伽を見上げる瞳に満ちる、怒りと恐怖と不信と。
五十狭芹彦の張り手に、痛むほどの重さなどなかった。鬼の拳で殴られたことも、剣で斬られたこともある。だがそのどれよりも強烈に、じくじくといつまでも頬が痛んだ。
胸が締め付けられて、息が苦しい。
剛伽は五十狭芹彦を掴んでいた片手を放し、立ち上がった。
「俺は韓へ渡る。お前の前にはもう現れんよ」
それだけ言い残し、踵を返す。
「え……っ?」
一人取り残された五十狭芹彦は、その瞬間、自分の中にぽっかりと穴が空くのを感じた。いま自分は何かを永遠に失ったのだ、と分かった。
剛伽の後ろ姿はすぐに森の闇に溶けた。
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