朧月

 波の音が、絶えず聞こえている。

 だからあんな夢を見たのかもしれない。


   *


 夜半。

「……っ……はっ……はぁっ……」

 荒い吐息が薄闇を侵食する。

「……んん……あ……っ、いや……だ……だめ……ああ……あ」

 切なげに絞り出される、女の声—―いや。

「やめろ……だめ……いやだいやだやめ—―あ、あ!」

 女の声が、次第に激しくなる。

「大丈夫か?桃花トファ

 つとめて落ち着いた声で、剛伽ごうきゃはうなされている五十狭芹彦いさせりひこに言った。その顔面から首筋まで、びっしりと脂汗が浮いている。

「あああ!いや!いやだ—―あああああいやあああ—―!!」

 喉が張り裂けそうな絶叫が、岩屋に響いた。

もも!おい」

「いや—―あ—―――ひっ……」

 息を引き攣らせ、何かにすがるように闇の中を掻く五十狭芹彦の白い腕を、剛伽が掴んだ。

「桃、桃!しっかりしろ!一回起き……」

 と、五十狭芹彦の両目が、かっと見開いた。間近に剛伽の顔を捉える。

 五十狭芹彦の優美な顔が、みるみる歪んでいく。

「ああああ!!」

 どん、と剛伽を突き飛ばし、くるりと回転して傍らに置いてあった剣を取る。その動きが滑らかすぎて、剛伽の反応が一瞬遅れた。

「桃!」

 薄闇の中、五十狭芹彦は既に剣を抜いていた。片膝を立て、次の瞬間には攻撃に移れる体勢だ。

「落ち着け……桃」

 焦点の合わない瞳で剣を構えている五十狭芹彦に、剛伽が言った。

 血の気が失せ、恐ろしいほど白いかおに、汗に濡れた黒髪が張り付いている。そこだけ紅い唇が小刻みに震え、ぶつぶつと何事か呟く。—―呪詛のように。

「くるな……くるなくるな来るな……っ、あ、あ、わたしが……」

「桃、おい」

 ——わたしがしねばよかった。

 唇だけがそう動いて、次の瞬間、五十狭芹彦は剛伽の視界から、消えた。

「—―っ!」

 剛伽が地面を蹴った。

 岩屋を飛び出した五十狭芹彦を追う。

 外へ出ると、むせ返るような春の匂いに包まれる。島の春は早い。

 月明かりの下、五十狭芹彦は身の丈ほどもある草を掻き分けて闇雲に駆けていく。道はとっくにそれて、何度も地面に足を取られる。草の刃が白皙をかき切って、つうっと紅い筋が滴る。

「バカ、待て!あぶない……!」

 追いかける剛伽の視界の先、突如、五十狭芹彦の身体が月光に浮かび上がった。草地が切れ、岩場に出たのだ。痩躯が駆けていく向こうは—―崖。

 崖下には荒波が打ち付けている。

 剛伽が跳躍した。五十狭芹彦が手にした剣が、月光を弾いてぎらりと光った。


 断崖から身を踊らせた五十狭芹彦の身体からだを、剛伽が捕らえた。そのまま五十狭芹彦の頭を抱き込むようにして、空中で回転する。紺碧の波涛めがけて落下する刹那、露出した崖の僅かな突出部を蹴って、剛伽は空高く跳んだ。

 浮遊感が、五十狭芹彦を正気に戻した。

「……剛伽……?」

 剛伽の腕の中で、五十狭芹彦が小さく言った。

「おう」

 剛伽は見上げてくる五十狭芹彦に微笑みを返して、ふわりと地面に降り立った。

「剛伽、剛伽、ああ」

 五十狭芹彦は剛伽の顔を撫で回した。その細い指先が、氷のように冷たい。

「生きて……る……?」

「生きてるぜ。安心しろ」

「あ……」

 五十狭芹彦はかすかに喘いで、それから力なく座り込み、両手で自らの顔を覆った。

「……どちらが夢なのか、わからなくなる……」

 震える指の間から漏れる蚊の鳴くような頼りない声は、とても一軍を率いていた将軍とは思えない。

「—―おまえの声が聞こえる……地の底で……わたしを責める……怨嗟の声が」

 そこまで言って、不意に五十狭芹彦が身をよじった。

「……んぐっ……」

 そのまま崖下に吐瀉する。が、固形物はほとんど出てこない。



 鬼ヶ島で再会した五十狭芹彦は、ほとんど物を食べられなくなっていた。無理に食べさせようとすると、吐く。空腹のくせに、眠れないからと、周囲が止めるのも聞かず酒をあおった日などは、丸一日胃液を吐いていた。

 それでも昼間はごく普通に過ごしていたのだ。他愛ない話もすれば、笑いもする。だが、徐々にその違和感は現れた。

 初めは思い違いかと思った。

 剛伽の顔を見ると、はっとした顔をする。だがそれは一瞬で、次の瞬間にはふわりと笑顔を作る。

 そんなことが何度かあった後、夜中にひどくうなされて飛び起きると、いきなり両手で自分の首を締めだした。

「おい、やめろ!」

と剛伽が言っても、言葉は届いているのかいないのか。ようやく細い手を引き剥がすと、今度は剛伽にしがみついて泣き崩れる。その白い首に、紅い爪の跡が刻まれていた。

 ある夜などは、剛伽がふと目覚めると、五十狭芹彦が暗闇の中で剣を抜いていた。白銀の刀身をじっと見つめている。それからゆっくりとそれを首筋に当てたところで、剛伽は慌てて剣を取り上げた。

 またある夜は、ごん、ごん、とくぐもった音がする。暗闇の中目を凝らすと、五十狭芹彦が壁に寄りかかって座っていた。焦点の会わない瞳が、虚空を見つめている。その頭を、規則的に壁に打ち付けながら。

 剛伽は咄嗟に五十狭芹彦と壁の間に手を差し入れた。がん、と掌ごと壁に打ち付けられる。

「——ってぇ……」

 それで初めて五十狭芹彦は剛伽に気づき、「ああああ!」と叫ぶとめちゃくちゃに頭を振り回した。剛伽は五十狭芹彦の頭を抱きしめ、そのまま朝までそうしていた。

 そんな状態だから、とても他の鬼たちと同じ場所では寝られない。五十狭芹彦は洞窟から少し離れた小さな岩屋に移った。剛伽は洞窟内に部屋が用意されていたが、結局ほぼ毎晩五十狭芹彦の岩屋へ通った。

 日に日に痩せていく五十狭芹彦を救ったのは、楽々森の娘だった。粥しか食わないと安良媛から聞いた、と、教えてくれたのだ。楽々森の娘は阿古夜と協定を結び、海賊衆の根城と吉備の里とを精力的に行き来している。

「ときに、冠者よ。おまえは安良媛の子に会わずともよいのか」

 楽々森の娘が唐突に切り出した時は、さすがの剛伽もたじろいだ。

「……安良媛の……子……だと?」

「はっきり言わねばならぬほど、鬼とは阿呆なのか?つまりお前の子だろうが」

 溜め息混じりに侮蔑の目を向けられ、剛伽は憮然とした。が、返す言葉がない。

「安良媛が子を産んでいたこと、知らなかったのか。それとも、思い出さぬようにしていたのか」

「おまえ、意地悪だな?寝てる間に雷が落ちようが赤子が生まれようが、知りようがないだろうが」

 楽々森の娘はそれには返事をせず、じろりと睨み返しただけだった。それが余計に剛伽の気概を削いだ。

 安良媛の—―おのれの子には、まだ会いに行っていない。



 海上には、茫とした月が寄る辺なく浮かんでいる。

「—―俺はお前を責めてなんかいねえだろう」

 月下の崖上、剛伽はまだえずいている五十狭芹彦の背をさすって言った。

「……だって、聞こえる—―ほら、おまえの声だ」

 そう呟いた五十狭芹彦の顔は、どこまでも青白い。

「ああ……ゆるして……わたしが、わたしが死ねば—―」

「ちがう、桃花」

 剛伽はたまらず五十狭芹彦の細い躰を抱きしめた。剛伽の熱い体温に包まれて、五十狭芹彦は尚も言い募る。

「わたしが死ねばよかった—―剛伽、おまえはまた、安住の地を喪ってしまった—―わたしのせいで」

「お前のせいじゃない、桃花。誰も悪くないんだ」

 そうだ。皆、戦の犠牲になっただけだ。

 戦という、狂気の。

 剛伽はどす黒いものが胸のうちに湧き上がるのを、頭をひとつ振って押し込めた。

「—―いいや、剛伽。わたしはおまえを殺したのだよ」

「……死んでない。生きてる。しっかりしろ、桃花」

「まだ手に残っているんだ。毎日、毎晩、何度も何度も蘇る。おまえの首を落とした—―感触が」

 五十狭芹彦は両手を見つめて、それからぐっと握り込んだ。

「毎日毎晩、おまえを—―殺し続ける—―わたしは」

「桃花」

 剛伽の腕をやんわりと振りほどいて、五十狭芹彦はふらふらと立ち上がった。

 朧に霞む月の下、青白い顔が寂しげに微笑う。

「わたしは、おまえといるのが—―つらい。剛伽」

 それだけ言って、一人、岩屋へと戻っていく五十狭芹彦の後を、剛伽は追えなかった。




「眠れんのはあんたの方だろう、剛伽王子」

 背後の樹上より声がして、剛伽はふっと自嘲の笑みを漏らした。

「お前はいつもその位置にいるが、はっきり言って悪趣味だぞ。月心」

「いつも俺がここにいてやっていることに、もう少し感謝してほしいものだが」

 ざっ、と葉擦れの音を立て、月心が剛伽の前に降り立った。

「それで、韓へと帰る決心はついたのか、王子よ」

 剛伽はその顔から笑みを消した。


 波の音が、絶えず聞こえている。

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