第7話

「お泊り会は、今週の土曜にしようかなって思ってるんだ」


 そんな声がして、わたしはシャワーを止める。バスタブには真っ裸の一華いちかさんがいた。


 こんな光景をあんずが目にしたら、烈火れっかのごとく怒りだすんだろうか。あるいは、真っ青になって倒れちゃうか。


 もちろん、姉妹で口にするのもはばかられるようなインモラルなことをしてるってわけじゃない。どちらかといえば、そっちよりとも言えなくもないんだけど、少なくともわたしはそうは思っていない。


 単にお風呂に入ってるだけ。


 わたしからすればただそれだけでしかない。いつも何かと理由をつけて入ってくる一華さんの方にはやましい理由があるのかもしれないけど。


「なんで?」


「ほら、早い方がいいかなって。鉄は熱いうちに打て、っていうでしょ」


「いや知らないけど……」


 わたしはカランを回す。シャワーヘッドから湯が飛びちって、世界は湯気に包まれる。


 すぐ近くにいる一華さんの笑顔が、降りそそぐ温水にかき消されていく。


 ゆっくり丁寧ていねいに頭と体を洗う。のぼせて上がるんじゃないかと思ったんだけど、一華さんは粘り強い。こういう時には、特に。


 諦めて、わたしはシャワーを止める。


「……いい加減上がれば?」


「まだまだ平気だよ」


 水の中から均整きんせいのとれた腕がにゅっと出てくる。わたしを待ち構えるように。その手を無視して、湯船に脚を沈みこませる。


 一華さんと向かいあう形で――。


「今日はそっちじゃない方がいいな」


「…………」


 注文が多い。でも、そうしなかったら一華さんが水の中から立ち上がるに違いない。そうして、わたしのことを抱きしめるんだ。それはそれで面倒くさいから、渋々しぶしぶ従う。


 ちょうど、一華さんを背もたれにするみたいに座る。あたたかな湯がカサを増して、バスタブからあふれていく。


「んふ。気持ちいいね」


 確かに疲れが洗い流されていくような気はする。でも、誰かさんがいなければもっと気持ちよかっただろうに。


 ジェットコースターの安全バーみたいに包みこんでくる誰かさんがいなければ。


「で」


「でって言われてもおねえちゃんわからないなあ」


「……あんずをうちに呼ぶって話に決まってるでしょ」


「ああそのことね。土曜ならさ、お泊り会をしても困らないかなって」


 翌日が日曜だからってことだろう。金曜日じゃないのは、準備のことを考えてるに違いない。


 一華さんはそういうところちゃんとしてる。そういう気配りをわたしにも向けてくれたら完璧なんだけど。


 わたしはぺちぺち太ももを叩く。もちろん、自分のを。


「エリちゃんの肌ってもちもちだよねえ。ね、触っていい?」


「……拒否しても触るんでしょうが」


 耳元でこそばゆい笑い声。細長い指がわたしの腕を滑っていったり、二の腕をムニムニつまんだりしてくる。


 ホント、勝手だ。


「じゃ布団を買ってこなきゃ」


「え、なんで?」


「なんでも何も、あんずを硬いフローリングにでも寝かせるつもり?」


「今の布団で寝てもらえばいいんじゃないの?」


 すぐ後ろの一華さんが首をひねってるのが気配でなんとなくわかる。


 うちには布団が1枚しかない。それもセミダブルの、わたしと一華さんがいっしょに入ったらそれでぎちぎちになるくらい大きさのやつしか。


 わたしは別にリビングの床でもいいとして、


「一華さんはどこで寝るの、風呂場?」


「そりゃあ、みんな一緒にしっぽりと」


 しっぽりて。


 というか、いくらあんずが小さいからって3人一緒に寝られるわけがない。


 でも、一華さんはいたって真面目な顔をしてると思う。わざわざ確認なんかしないけど、絶対そうだ。


 本気で、川の字で寝るつもりだ。


「絶対、布団を買いに行くからね」


「そっか。でも、エリちゃんが乗る気でおねーちゃんは嬉しいのです」


「苦しいから抱きついてこないで」


 抱きついてくるどころか、わたしの肩に顎を乗っけてくる一華さん。こっちを向いたその顔はへにゃりと優しく笑う。


 ゾワゾワとしたものが奥底から湧き上がってくるのを止められない。


 わたしはあらがうのをやめてじっと丸くなる。ただ、湯の下を、股の間のバスタブの模様をじっと見つめることにした。


 そうすれば一華さんは何もしなくなる。どうしてだか、わたしにもわからないんだけど、経験的に知ってるんだ。


「およ、どうかしたの?」


「……もう上がるから」


「まだだーめ」


 一華さんの両腕で抱きしめられると、わたしは逃げられない。


 でも、それ以上のことはされない。


 たぶん、わたしはカゴの中のカナリアみたいなもので、一華さんはそれを愛でてるんだと思う。


 わたしの背中に胸を押しあててきてるのも、わざと。だから、その感触をわざわざ口にして、一華さんをよろこばせたりはしない。


 貝みたいに黙る。一華さんの吐息も、感触も、体温もみんな無視して。


「ちょっと話しておきたいことがあるんだけど」


「当日のメニューならなんでも――」


「あんずちゃんってかわいいよね」


 思わず横を見てしまった。


 一華さんと目が合う。その目はコロコロと笑っていた。わたしを笑うかのように。振り向かせるために、気になるようなことを言ったのか。


「……彼氏いるんじゃなかったの」


「いるけど?」


「ちなみに理由をきかせて」


「そりゃあ、反応がいちいち面白くてさあ」


 言いながら、わたしに頬ずりしてくる一華さん。わたしがあんずに見えてるんだとしたら眼科よりかは精神科に行った方がいいよ。


 どうかしてる。


「彼氏が泣いちゃうね」


「泣かないって。あの人は優しいから許してくれると思うんだよね。別に彼氏が変わるってわけじゃないでしょ」


「でも、おねえちゃんって優しくない。だって――」


 それって二股ってことじゃないの。


 呟いた言葉が一華さんに届かなかったわけがない。わたしたちの間にはほとんど隙間はなくて、天井から落ちてくる水滴が弾ける音くらいしかしてなかったんだから。


 でも、一華さんは何も言わなかった。


 怒りもせず、悲しみもしない。わたしをたしなめてくるようなことだってなかった。


 それが不気味で、わたしは一華さんの顔を見れない。


 頭がフラフラした。長話してたせいで、のぼせちゃったみたいだ。


 立ち上がろうとすれば、一華さんの腕は水とともに離れていく。


 湯船から上がり、浴室の扉に手をかけたところでわたしは振りかえる。やっぱり気になった。これでも一華さんは血のつながった姉だし。


 笑ってた。ひどい言葉をぶつけられたくせに、聖女みたいに口角を上げて。






 翌日になっても気分はすぐれなかった。窓の向こうに見える曇天よりも暗く沈んで、どうにも浮かびあがってこれない。


 からだは重いし、あんずとの行為もなんだかいつもよりも長く感じた。


 お風呂に長く入りすぎたから?


 ――あんずちゃんってかわいいよね。


 一華さんの言葉が響いて、あんずの顔を見てるのが辛かった。いつになく楽しそうというかなんというか。


 それもこれも一華さんと出会ったから――友達になったからで。


 嬉しくもあり、なんだか寂しくもある。あれだけ寒かった冬が消えていく、春先みたいな感じ。……なに言ってるのか、自分でもよくわかんないや。


 キスの時だってその目が近づいてくると、思わず目をそらしてしまう。


 頭が痛い。


 だから、なすがままになるしかなくて。


「具合悪いの?」


 心地よさの波が収まって一息ついた時に、あんずが聞いてくる。わたしのことを心配してくれるなんて、珍しい。でも、それ以上に、その満ち足りた表情を汚したら、わたしのこの気持ちも満たされるんだろうか。


 ……なんて思っちゃうのはわたしがどうかしてるからで。


 ちょっと死なせてほしい……とは流石に言えないや。


「ううん。ちょっと――考え事」


「ならいいの。顔が青く見えて怖かったからさ」


「いや、なんていうかさ。明後日、うちに来ない?」


「――――」


 あんずがきゅっと目を閉じる。すうっと薄い胸がふくらんだ。


「それは、一華さまのお家にお呼ばれしてるってことでいい?」


「お泊り会をしようだってさ」


 今度こそ、あんずは固まった。目の前で手を振っても反応がない。小さな鼻をつついてみても、下は……さすがにね。


「ホントに?」


「うん。一華さんはそう言ってるけど」


 くるくる回っていた瞳が、わたしをじっと見つめる。据わっててちょっと怖い。


「ちょっと殴って」


「唐突だね」


「いいからやる」


 あんずは震える左手でハサミを取り出そうとしていた。動揺しているからか、その手つきは正直いって危うい。ほっとくと自分で自分を刺しちゃいそう。


 っていうか、わたしが殴らないからハサミで刺そうとしてるの……? そんなバカな……ってはいえないか。かなり混乱してるみたいだし。


「わかったからハサミはおろして」


 わたしは手を伸ばし、あんずの頬に手を伸ばす。ぷにぷにのお餅みたいなそれを思いっきり引っ張ったら、あんずが悲鳴を上げた。


「痛いってことは夢じゃない……」


「夢だと思ってたの? 今の今までやってたキスもセックスもなにもかも」


「だからどうしてそうあけすけにものを言うのよっ。オブラートに包みなさいオブラートに」


 今さら包むほどのことじゃないと思うんだけど。そもそも、わたしたちってば包んでるものをさらけ出してるわけだし。


 そういうところが、あんずのいいところ、なのかなあ。


「ってそんなことはどうだっていいの。え、ホントに一華さまのお家に行ってもいいの? アタシを寄ってたかってイジめるためじゃないよね?」


「なんでそんなこと……」


「な、ならいいの」


 慌てた様子であんずがそう言う。


 イジメ。そして、左手首の包帯。


 まさかね。


 あんずは誰かにいじめられてた――なんてことないよね。


 そんなあんずを一華さんは助けた。いじめっ子集団に突っ込んでいって、バッタバッタと薙ぎ払っていく様子が目に浮かぶようだもん。


 だから、あんずは一華さんのことを好きになった――と。


 気がつけば、わたしはこぶしを握りしめていた。手が真っ白になってしまうほどに強くきつく。


 わたしはため息をつく。


 あんずもそっぽを向いていた。


 なんだか、微妙な空気になっちゃってるな。


「そっちの都合は大丈夫そう?」


「それなら大丈夫」


 食い気味の言葉が飛んできた。エサを奪われそうになってるイヌみたいだ。


「そ、そう」


「お泊り会。一華さまとお泊り……」


 わたしもいるんだけどね。頭に入ってくれてるといいんだけど。


 今のあんずは、はじめて彼氏のお家に向かうことになった彼女みたいだった。


 一華さんとあんずがカップル。


 そうなったら、一華さんがわたしに言ってくるんだ。


 この子と付き合ってるんだって。


 想像しただけで、からだが灼熱しゃくねつに飲みこまれたみたいに熱くなって、全身をかきむしりたくなってくる。


 そんなのイヤだ。


 あんずは人前でしちゃいけないような笑みを浮かべている。絶対、妄想してるに違いない。一華さんとの恋愛生活を。


 その先には破滅はめつが待ち受けてるかもしれないっていうのに。


「まだ、一華さんのことが好きなの」


 ハサミがこっちに向くんじゃないかと不安になりながら、聞く。あんずはこっちも見ずに「当然」と言った。


「どんなことがあっても?」


 口にした途端、心がチクリと痛む。


 まただ。また、昨夜のことが脳裏をよぎっていく。


 あんずちゃんってかわいいよね。


 その言葉は頭にこびりついて離れてくれない。思いだすたびからだがゾワゾワして、いても立ってもいられない。


 色のない衝動しょうどうがわたしのことを突き動かす。そんなことをしてしまったらどうなるかなんてわかりきってるのに、わたしにはどうしても止められなかった。


「な、なによ。怖いわよ、その顔」


 あんずの小さくて薄いくちびるがかすかに震えているのが見えた。


 わたしは、この子に本当のことを伝えるべきなんだろうか。


 一華さんには彼氏がいる。


 そう伝えるだけで、この胸の中の重りもちょっとは軽くなるに違いない。


 でも、大丈夫なのか。


 この、小さな女の子にそんなことを伝えたら、ぽっきり折れてしまわないか。


 思わずあんずの左手首に目が吸い寄せられる。


 何重にも巻かれた包帯の向こうにあるはずの、赤い線。


 リストカット。


 ……やっぱり、わたしにはできないよ。


「首を振ってどうしたの。話があるなら聞くけれど」


「おねえちゃんはやめといたほうがいいと思う」


 言った瞬間、わたしはあんずに突き飛ばされる。柔らかなベッドに受けとめられ、ポフッと軽い衝撃。起きあがろうとしたら、喉元に刃先を突きつけられた。


 そう、あの時もこんな感じだった。


 でも、わたしとあんずの関係も状況もまったく違う。


「一華さまを悪く言わないで」


 鋭利な先端がわたしの喉に触れる。痛みはなくて、ただただひんやりしていた。今のあんずの目みたいに。


「取り消して」


「……ごめん」


「ねえ!!!」


 取り消すなんてできるわけがない。一度出してしまった言葉を取り消したって意味はないんだ。


 それに、わたしはどう思われようが伝えておきたかった。


 もっとはっきり言えたらよかったんだけどな。だったら、こうしてハサミを突きつけられることもなかったし、死にたいと思うことだってなかったのかも。


 ハサミが離れていく。許したわけじゃなくて、もっと辛辣しんらつで強烈な一撃がやってくる前触れ。


 あんずは左腕を振りかぶって、ハサミを振り下ろす。


 ゆっくりと向かってくる銀の軌跡を、わたしはただ見つめていた。


 あんずならやると思ってたし、あんずに殺されるならそれもいい。


 でも、ハサミはわたしの喉元に突き破ることはなくて、真っ白なシーツを赤く染めることも、わたしを死に至らしめることはなくて。


 ベッドに深々と刺さっただけだった。


 あんずの顔が近かった。その顔はいろんな感情で万華鏡まんげきょうみたいにグチャグチャ。


 その中で、ハッキリとしてるのは怒りの感情だけ。


「出でけ。今すぐ出ていかないと殺すっ!」


 あんずの瞳からしずくが降ってきて、頬でパッと砕け散る。そのたびに、からだが引き裂かれるような感じがする。


 あんずのイヤな言葉をぶつけたんだから、この程度の痛みは当然で、別になんてことはないと覚悟してたんだけど、やっぱり痛い。


「……明後日、一華さん待ってるから」


 辛うじてそう言うことができたわたしは、服を着るため逃げるようにベッドから降りた。

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