第8話
ああもうっ!
一華さまの妹。
あのぬぼーっしたカピバラみたいな顔が頭の中に現れては、同じ言葉を繰りかえす。
おねえちゃんはやめといたほうがいいよ。
言葉が響くたび、心の中で火花が散った。
なんでアンタにそんなことを言われなきゃいけないんだ。妹だか何だか知らないけど一華さまの何を知ってるっていうんだ。
あたしはあの人に助けられたんだ。地獄の底から救い出してくれた女神さまを好きになってなにが悪い?
考えれば考えるほど、ムカムカする。
アイツはなにを考えて、あんなことを言ったんだろう。
再び、顔が浮かんでくる。あの時のアイツはいつもと違ってた。アイツってば、いつもはなに考えてるのかわかんないほど感情に
なにか理由があるんでしょうけど、あたしにわかるわけもなく。
「もしかして、アイツも一華さまのことが……?」
ううん、それはないと思う。一華さまとアイツの間には、距離がある気がする。というか……そうであってほしい。じゃないとあたしは一華さまと、付き合えないってことになるから。
そんなのつらすぎる。
それにしたって、一華さまとアイツってホントによく似てる。見てくれだけだったら、一卵性双生児もビックリするに違いない。
だから、アイツとはじめて出会ったあの日。あたしは一華さまに見られたと勘違いした。……いまいましいことにね。
でも、よくよく見たら結構違う。
アイツとセ、セ……えっちし始めてから、それがわかりだした。
一華さまって表情が見ていて
アイツはそうじゃない。いつだって無表情。ホントに感情なんかあるのかしらって思っちゃう。
してる時だってほとんど表情が変わらない。むしろ苦しそうにしてる――これはあたしが脅してるからってのもあるんだろうけど。
「あれ」
そういえば、なんでアイツはチクらないんだろ? あたしが脅してるから?
「って、またアイツのことを」
そんなことを考えてる場合じゃないんだ。あたしにはとびきり重要なミッションがあるんだから。
あたしはポケットからジッパーを取りだす。そこにはかわいらしい封筒が入ってる。
表には「あんずちゃんへ」とある。裏には一華さまの名前。
そう、これは一華さまのお手紙なんだ。
「後生大切にしますから」
思わず口にしてしまった。道行く歩行者が
もう確認するまでもないくらいに暗記してるんだけど、ホントにここが一華さまの家なんだろうか確認しなきゃね。
キョロキョロ見回してみる。目の前に、デンと大きなマンションがそびえてるくらい。あとはお店とか雑居ビルくらいしかない大通り。
「え、もしかして、このマンション?」
もしかしなくても一華さまってお金持ちなの……?
「いらっしゃい」
扉が開くと、そこには女神さまがいた。
一華さまはいつもと違う服装で、目がチカチカしてしまいそう。だって、制服以外のすがたなんてはじめて見たんだからしょうがないじゃない。
黒のフレアスカートに、ゆったりしたボーダー柄のTシャツ。あまりにも似あいすぎている。というか、一華さまに似合わない服なんてあるんだろうか、いやない。
思わず
「おーい、あんずちゃん。聞いてるー?」
「は、はひっ」
ひどい返事なのに、一華さまが笑ってくれる。
「変なの。ほら、どうぞどうぞ」
一華さまが一歩ニ歩近づいてくる。後ずさろうにも、あたしのからだは硬直して言うことを聞いてくれない。
左腕を、一華さまが握ってくる。ドキンとする。心の中がカッと熱くなって、そこらじゅうを駆けまわりたくなってきた。
わわわっ一華さまに手を
もうそれだけで幸せ。
一華さまとともに中に入った。背後でドアがガチャンと閉まった。もう二度とここからは出られないんじゃないかと思ったけれど、それでもいいな。
ホントに一華さまの家の中にいるんだと思いながら靴を脱ぐ。一華さまはとっくに廊下にいて、あたしを見て笑ってる。ううっ、見ないでください。
お家に上がって、深呼吸。うん、頭の先からつま先まで一華さまの匂いで満たされてる感じ。
廊下の先には扉があって、その中へと一華さまのあとに続いて入れば、ワンルームの綺麗な部屋。
そこにはアイツもいた。
アイツはジーパンにTシャツという飾り気のない恰好をしてた。それを言ったら、あたしも似たようなものなんだけど、今日は頑張ってきたつもりだ。
あたしを見たアイツの表情に変化はなくて、それはそれでなんかムカつく。喜ぶな、とは言わないけれど、言葉の1つくらいあったっていいじゃん。
だから、トーテムポールみたいに突っ立ってるアイツをあたしは睨んだ。
あ、ちょっとだけ表情が変わった……? 気持ち目が小さくなったように見えたような。気のせいかな。
「んー? 2人ともどうかしたの?」
一華さまは、あたしとアイツのことを交互に見ていた。
「もしかしてなにかあった?」
「なにもないよ、一華さん」
「だからエリちゃん、私のことはおねえちゃんでいいってば。何回言わせるの?」
我が子を
でも、アイツは全然喜んでない。
一華さまのことを見ていたアイツの視線があたしへと向いて、すぐにどっかへ飛んでいく。
ふんっ助けなんて求められたって、あたしにはどうしようもないわ。一華さまに話しかけようとするだけで、不整脈になっちゃいそうだからね。
「ケンカでもしちゃった? 別にいいけどね。最終的に仲良くなるならさ。例えばさ、殴り合って河原で寝っ転がったりしてね」
あたしたちは不良じゃない――って思ったけれど、保健室にこもってるやつとサボってるやつだから、まあまあ不良か。
なんて思ってたら、アイツがため息をついた。先生と鉢合わせたときも思ったけど、ため息をつくんだな、アイツって。
って、なに考えてんのあたし。アイツの新たな一面見つけて喜ぶだなんて。
それもこれもアイツのせいだ。
アイツが保健室なんかに来なければよかったのにさ。でも同時にそれは一華さまとの繋がりを得られないことを意味しているから、過去が変わろうともそうはならないでほしい。
ごはんは
機械的に
一華さまはホントに優しくて、あたしに話を振ってくれる。でも、ちゃんと返せたかどうか。言葉にすらなっていなかったかも。
まあでも、態度で言ったらアイツの方がひどかった。ほとんど答えないし、ただただ食べてるだけ。うつむいて、目の前にいるあたしなんか見ようともしない。
悲し気な後頭部を見ていると、先日のことが頭をよぎる。
こっちを見ようともしないのは、気にしてるから? 気にするくらいなら言わないでほしいんだけど、それを言ったらあたしだって一緒か。
「緊張してるのかな」
一華さまだけはいつもと変わりない。それでこそ一華さまです。
そんなこんなでごはんの時間はあっという間に過ぎてしまった。くだらないテレビをちょっとだけ見てから、一華さまが手を叩く。
「そろそろお風呂にしましょ」
お風呂……! なぜ忘れてたんだろう、このメインイベントのことを。一華さまの湯上りで上気した肌を見るチャンス――っていうとちょっとヘンタイじみてるか。自重しろ、あたし。
「だれか一緒に入りたい人ー」
返事はない。あたしは、名乗り上げられなかった。手を上げようにも震えちゃってどうすることもできなかった。
アイツも手を上げない。そりゃあ高校生なんだから、姉妹とはいえ一緒に入るなんてことはしないよね。
「今日は一緒に入ろうよーエリちゃんー」
……ホントに一緒に入ってるの?
アイツを見たら、表情のない顔をしてる。でもなんとなく、イヤな顔をしてるように見えるのは気のせいかしら。あたしがハサミを突きつけたときの反応に似てた。
「先に入るから」
やっぱり。っていうか、なんでアイツの考えることがわかっちゃったのかしら。裸の付き合いをしてるから……?
アイツはさっさと一華さまを置いて行ってしまった。そんなんでいいのか、一華さまの頼みは絶対だろ。
「しょんなあ」
でも、やっぱり姉妹でお風呂に入ってるんだ。
「ずるい」
「――なにがずるいの?」
そんな質問がやってきて、あたしは思わず口を塞ぐ。もしかして、声に出ちゃってた?
「き、聞いてたんですか」
「エリちゃんが返事してくれないかなーって耳をすませてたら、たまたまね」
自分の耳を指でパタパタさせながら一華さまは言った。部屋の向こうの廊下からはなにも音はしない。
もう、アイツは浴室に行ってしまったんだろうか。
あたし、一華さまと2人きり――。
頭がくらくらする。そんなことって、あり得るのかな。最近は夢か現実か不安になることばかり起きて、いっそ怖い。でもたぶん、現実だ。
一華さまが近づいてくる。距離が縮まるたびに、花の
にっこりと笑われると、心の中の多幸感が爆発して、
「はじめてなの」
「にゃにが……」
もう何度目かもわからない、情けない返事。恥ずかしい。でも、一華さまが笑ってくれるならそれでもいいかって開き直る。
「エリちゃんのお友達が」
「アイツの?」
「ほらさ、ああいう子だから。エリちゃんってば一人でいるんだよね」
それなら容易に想像できる。というか、本人から一度聞いたことがある。授業をサボってるときはたいてい、屋上で
なんのために学校に通ってるんだ、アイツ。
「だからね、あんずちゃん。あなたはすっごく貴重な存在なの」
一華さまの口角がきゅっと上がる。闇夜にうかぶお月様みたいだ。すごくきれいなのに、無性に怖かった。
心臓がバクバクと打つ。頭の中では
あたし、どうにかなっちゃうんじゃないか。
これをあたしは望んでいたんだろうかどうかさえ、もうわからない。
「ね、だからお願い」
なに。なにをお願いするつもりなんだろう。
考えてる間に、一華さまがにじり寄ってくる。その手がスッと上がってあたしのほっぺにあてがわれたまさにその瞬間。
勢いよく扉が開いた。
いやもう特殊部隊が突入してきたんじゃないかってほどの勢いで開いた扉は、壁にぶつかって悲鳴を上げる。
出てきたのは湯気を頭から上らせたあいつだ。その顔は何時もよりも赤くて、色っぽいと思ってしまったあたしがいた。
でも、その目は絶対零度並みに冷えていた。
「……上がったよ」
その言葉は、ツララみたいに鋭くて冷たくて。あたしの一華さまの間を暴風のように駆けぬけていく。
「そっか。うん、ちょっと待ってね」
パッと一華さまが離れていく。名残惜しいような、これでよかったような気もする。
「じゃ、次は私が入ろっかな。あんずちゃんはどうする?」
それはお風呂に入る順番のことを言ってるのか、はたまた、一緒に入ろうと提案してくださっているのかはわからなかったけれども。
「い、いえ。お先にどうぞ」
濡れた子犬のようなアイツを見てたら、そんな言葉が自然に飛びだしていた。
お風呂が終わって、ジュースとお菓子をつまみながら、映画を見てると時間はあっという間に過ぎていった。
午後11時。いつもならだらだらスマホをいじってる時間帯なんだけど。
「そろそろ寝よっか」
一華さまの宣言によって、そういうことになった。
で、一華さまとアイツが布団を敷いていくんだけど、なぜか二つしかない。えっとあたしの分はどこに、とキョロキョロしている間にも布団は敷かれていく。
ぴったりとくっついた二つの布団は、なんだかはんぺんみたい。
「私まーんなか」
言うなり一華さまは布団の境目へとダイブ。
あたしはアイツの方を見た。アイツは小さく首を振った。
「一緒に寝るのが日常なの……?」
一華さまに聞こえないくらいの声で聞いてみたら「そう」と短い返事が返ってきた。
そりゃもう二度見だ。
嘘でしょ。そんなのうらやましすぎ。
「いつもは1つの布団で寝てるから、これでもまだいい方」
「……アンタも大変なのね」
いくら一華さまのことが大好きで、四六時中一緒にいたいとはいえ、お風呂に毎日入って、寝るときもいっしょなのはなんというか、頭がおかしくなっちゃいそうだ。
あたしの言葉にアイツは目をぱちくりさせて驚いていた。なんか珍しいものが見れた気分。
「わたしは右に寝るから」
「じゃ、左か」
どっちにしろ、あたしと一華さまが隣りあわせになることは変わらないし、寝方にもこだわりがあるわけじゃないから、これでいい。
「失礼しますっ」
「そんなにかしこまらなくていいって」
一華さまは、バシバシ布団を叩いて歓迎ムード。でも、緊張する。
別にエッチなことをするわけでもなしに、何を緊張することがあるんだ。清水の舞台から飛び降りる気持ちで、えいやっと布団の中に潜りこむ。
「電気消すから」
アイツが電気を消すと部屋は真っ暗になる。
最初は何も見えない。でも、闇のなかからちょっとずつ一華さまの顔が浮かびあがってくる。ポラリスみたいなきらめきに、あたしの呼吸は一瞬だけど確実に止まった。
「おやすみなさい」
「おっおやすみなさい……」
最後にウィンクが飛んできた。あんなものを受けて、やすやすと眠れるわけがない。
背後から聞こえてくる、すうすうという寝息。身じろぎするだけで、一華さまにぶつかってしまうんじゃないかって思うと、からだはガチガチに固まる。
目はエスプレッソを何倍も飲んだみたいにギンギンに冴えてるし。
寝れないのははじめてじゃない。あの時のことがフラッシュバックして、寝付けないことは何度もあったし。
でも、それとこれとは別。タイプが真逆だ。
とにかく静かにしてよう。一華さまの眠りだけは邪魔しないようにしなきゃ。
知らない天井のシミでも数えて……夜が明けるのを待つ。その行為にどんな意味があるかはわからないし、そもそも天井にはシミなんてなかったけれど。
どれくらい経っただろう。あたしは何度目かの寝返りを打った。
そしたら、目の前に顔があった。
にっこりと笑った人の顔。
「わっ」
「っ!?」
思わず叫び声が口を飛びだす――その直前、口に影が覆いかぶさってくる。その熱を持った柔らかくてしなやかな物体は手に違いなかった。
あたし、口を
「しずかに、だよ。エリちゃんが起きちゃうかもしれないから」
コクコクと頷けば、手がようやく離れていく。濃密な一華さま成分がすうっと消えていくけれど、胸は酸欠のせいかキリキリ痛んだ。
一華さまの顔がこんなに近い。息づかいが肌で感じられるほどの至近距離。
「寝付けないんでしょ」
あたしは何度も頷く。言葉は出ない。いや出たとしても100しか出なくて、アイツを起こしちゃいそう。
一華さまはいたずらっぽく笑った。悪い子を見つけたみたいな顔だった。
「じゃ、ちょっと温かいものでも一緒にどう?」
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