第6話

 一華いちかさんと家を出てすぐ、教科書を忘れたと言って家に引き返す。


 まあウソなんだけどね。教科書なんか最初からカバンに入ってないし、入れるつもりもない。そのまま家でスマホをいじったりして時間をつぶしてから、ふたたび学校へ。


 そんな無意味なことをしてたら、ホームルームがはじまる時間をとっくに過ぎていた。


 午前9時を過ぎた街はサラリーマンの姿もなくて閑散かんさんとしている。学生どころか、道行く人もまばらな通学路を一人歩くのは、悪いことをしてるみたいで割と楽しかったりする。


 空なんか雲一つない空。風は優しくて歩いてるだけで幸せ。


 調子に乗ってスキップしながら学校の前まで来たら、校門の前で行きつ戻りつしてる制服が目に入って、急停止。ルンルンのところなんか見られてうわさされたら、死にたくなるからね。


「ってあれ」


 その生徒はあんずだった。小柄な体と、その体をおおいつくす髪の毛のおかげで遠くからでも判別できる。


 いやホント、目立つなあ。しかも、肌はもちもちだし服装とか髪型とかちゃんとしたらめちゃくちゃ変わりそう。


 両手の人差し指と親指でフレームをつくって、画角に収めてみる。


「うーむ、迷子の子どもって感じか」


 学校に入るのをためらっているかのような背中に、わたしは静かに近づいて声をかける。


「どうしたの?」


 ちいさな体が飛びあがる。びっくりしたネコみたいに勢いよく振り返るもんだから、彼女の足はもつれて、わたしへポスンと倒れてきた。


「おっと」


 受けとめるけれど、返事はない。あれ、なんでだろ。いつもなら、殺すから、って言ってきそうなもんなんだけど、わたしのことをじっと見つめてくる。


 黒々とした瞳は、うるうるとうるんでいる。


 たぶん、いやきっと絶対に、壮大な勘違いをされてる気がする。


「一華さま……」


 ほら、王子様に助けられたお姫さまみたいなこと言ってるし。


 夢を見てるところ悪いんだけど、このままだと幸せなチューってやつをしなくちゃなりそうだから。


「いつも思ってるんだけどさ、なんで様付けなの?」


 しょうがなく、わたしは言った。


 あんずが目をぱちくり。そりゃ、王子様から夢をぶち壊しにするような言葉が出てきたんだからそうもなるよ。


 その夢見がちでおだやかだった顔が徐々に崩れていって鬼みたいな顔に。


「無言でハサミを取りださないで」


 わたしが押しやろうとする前に、向こうから離れていく。その手には銀色の凶器が握られてる。


「……なんでアンタがここに」


「それはこっちが聞きたいっていうか。なにしてるの?」


「なんだっていいでしょっ」


 あんずが校舎めがけて歩きはじめる。ドスドス歩く姿はちょっとした巨人のような迫力がある。


 そんな背中は小さくふるえていた。わたしに対する怒りなのかなあ。


 あわてて追いかけて、あんずの隣に並ぶ。迷惑かもしれないけれど、逃げてはくれなかった。


「ごめんってば」


「別に……はじめて会ったときもそうだけど、あたしが悪いの」


 どういうことなんだろうと首を傾げているうちに、あんずが昇降口の向こうに消えていく。上履きにはき替えたときには、あんずはもう保健室へと歩きはじめていた。


「なんでついてくんのよ」


「だって先生がいないし?」


 ケガ人すらほとんどこないし、こんな好条件は他にはないよ。


 わたしの言葉に、あんずの眉間にしわが寄った。え、嫌がられてる?


「それはつまり、7限が終わるまでアンタと一緒にいなきゃいけないってこと」


「まあ、そうなるかな」


 答えた途端、あんずは早歩きになった。まるで逃げるみたいに。わたしも早歩きになって追いかける。


 なんでだろうね、走っちゃえばいいのにさ。廊下を走るなっていう標語を律儀に守っちゃって。ほかに守るべきものがあるだろ。学校でいかがわしいことはするな、とか。


 どっかの教室から上がったにぎやかな声を無視して、わたしたちは競うように保健室へ。


 タッチの差でわたしが先に保健室の扉に手をかけ、開く――。


 扉の先、誰も来るはずのないと思っていた保健室には、人がいた。


 白衣を着たその人が、こっちを振り返り、あんずとわたしを交互に見た。その目を白黒させて。


「あらま。珍しいこともあるもんだ」


 大人のハスキーな声。


 どうやら、この人が保健の先生らしい。いなくてもいい人って、なんでいなくていいときにフラッと現れるんだろう。






 自慢じゃないけどわたしは先生に詳しくない。担任の先生の顔さえもおぼろげなもんだから、保健の先生がどんな人かなんてますます自信がない。


 その人は白衣の似合う女性だった。ヒールも履いてないのに、頭1つ分は背が高くて、目はたかみたいに鋭い。見つめられると、思わずうめき声が出ちゃいそうになる。


「変な取り合わせだけど、ごゆっくりー」


 ひらひらと手を振りながら、その先生はそそくさ出ていく。


 その手にはマルボロとライター。あの人、喫煙きつえん者なのか。


「っていうか、仕事はどうした仕事は」


 思わずつぶやいた言葉に、あんずが肩をすくめる。


「変な人だよね」


 あの人もわたしたちには言われたくないとは思うけどね。確かに変だ。変というかヤバいというか、教師として問題があるというか……。


 2人だけになった保健室。わたしは大きく息を吐く。


 胸がドキドキしてる。恋じゃなくて恐怖ね。先生に怒られるんじゃないかって恐怖。


 胸をなでおろしていたら、意外そうに口を開けているあんずが見えた。


「アンタにも怖いものってあるのね」


「わたしをライオンかスパルタの兵士かなんかとお思い……?」


「だって、ハサミを突きつけられても平然としてたじゃない」


 そんなことはない。めちゃくちゃ怖かった。あの時は、ガチのマジで刺されるんじゃないかって思ってたし。


「表情に出ないだけだって」


「だからって眉一つ動かさないなんてどうかしてる」


「……確かに」


 想像してみたけれど、変というより怖いまであった。凶器を突きつけられて、平静を保ってるやつがいたら、まともじゃないか精巧せいこうな人形だろうから。


 その怖いやつというのが、わたしという事実が一番恐ろしかった。


 わたしたちは奥のベッドへ向かっていく。いつもの定位置。あんずが先に座って、膝小僧ひざこぞうがぶつかり互いの体温が感じられるほどの至近距離にわたしが――。


「なにしてんの」


「え」


 あんずに睨まれて、わたしは停止ボタンを押されたみたいにストップ。なんかまた、気にさわるようなことをしちゃっただろうか。


 あ、そっか。今日は『そういうこと』をする日じゃないってことね。だから、距離を取れってことらしい。


「ちゃんとしてるなあ……」


「なんか言った?」


 なんでもないよ、と答え、わたしはこぶし2個分くらい脇にズレる。


 それから、心の中で指折り数えてみる。関係がはじまってからかなりってて、非日常はいつの間にか日常と化してる。


 さっきのだって、あんずに命令されてたことだし。


 もしかしなくてもこうやって普通に話をするのってはじめてなのか。なんてまあ、いびつな関係だ。


 そんなことを考えてたら、隣のあんずが後方へ倒れていく。ぽすんと控えめな音とともに、白いシーツに黒い海が広がった。あんずのトレードマークみたいな髪はいつだってツヤツヤ。


「あの人、いつもの時間になるとタバコを吸いに行くの」


「そんな気がしてた」


 今回はわたしというイレギュラーがいたから、灰皿はいざらのある場所にでも行ってくれたんだろう。というかそうであってほしい。タバコばっかり吸ってる不良先生がいるとは思いたくないし。


「だからセックスができるってわけかあ」


 別に返事が欲しいわけじゃなくて、思わず口をついた言葉だった。


 グルンとあんずの顔がそっぽを向いた。


「せ、せ、せ」


 そんな真っ赤な呟き声が聞こえてきてびっくり。てっきり気にしてないと思ってた。あんだけ激しいことしてきたくせに……。


 今どんな顔してるんだろ。見ようと思ったら、ハサミをぶうんと振りまわしはじめたものだから、近寄ることができない。


「こっちみんな! 見たら刺すからな」


 カチンカチンとハサミの音がする。威嚇いかくしてくるカニみたいに。


「じゃあやめておこうかな」


「というか、なんでアンタがここにいんのよ」


「だからサボるため。保健の実技を受けに来たわけじゃないよ」


「何言ってんの、バカ!」


 ちいさなグーパンがわたしのわき腹にクリーンヒット。めちゃくちゃってわけじゃないけれど、痛い。


「冗談なのに……」


「表情の変わらないやつが冗談なんか言うなっ」


 寝転がったままでバタバタ暴れるさまは、子どもみたいでほほえましい。


 いつまでもからかってたら、今度こそ刺されるかもしれないので、わたしは話を変えることにする。


「先生にはバレてないよね?」


「なにが……あーまあ、たぶんバレてない。バレてたら問題になるでしょ」


 そりゃそうだ。でも、なんかなあ。さっきの保健の先生とか空気読みそうだし?


 真っ白なシーツにはシミなんてまったくない。これ、だれが洗ってるんだろうと、いつも不思議に思ってるんだ。まさか、あんずなわけないし。先生だとしたら……わからない方がおかしいっていうか。


 いつも通り、保健室は他とは違って病院にも似た潔癖な匂いがする。わたしたちの体液の香りは、いくら鼻をひくひくさせても感じられない。


 やっぱり、バレてんじゃないか。


 ま、考えてもしょうがない。こうなったらなるようになれ、だ。


 わたしはぼけーっとする。窓から差し込める陽の光を浴びてると、眠くなってきちゃう。一華さんに「植物みたいだね」って言われたことがあるけれど、これって貶されてるんだろうか。


 ゴロゴロ転がっていたあんずは、自分のカバンから教科書を取りだして、読みはじめる。


 ん? 教科書?


「マジ……?」


 わたしの言葉に、あんずがまゆを上げる。


「むしろ、なんで不思議そうにしてるのかがわからないんだけど?」


「いやだって、ずっと保健室にいるから、勉強なんてしたくないとばかり」


「アンタと一緒にしないでくれる? サボりたくてここにいるんじゃないんだから」


「じゃあなんで」


 返事はなかった。見れば、教科書に意識を集中させてるらしい。なに読んでるんだろうと横から覗きこめば、わけわからんグラフだった。


 頭、痛いや……。


 仰向けになってベッドに寝転がり、わたしは目を閉じた。






 それが夢だとわかったのは、両親にめられてる一華いちかさんが幼かったから。


 すぐにピンときた。夢だとわかったんだから可及かきゅう的速やかに覚めてもらいたかったんだけど、そうはなってくれなかった。


 これは夢じゃなくて、悪夢。


 父と母の優しそうな目が、一華さんの隣にいたわたしを向くときにはもう、険しいものになっていて。


 ――なんでこの子は。


 ――お姉ちゃんはもっとしっかりしてるぞ。


 そんなこと言わないで。


 そんな目で見ないで。


 わたしは一華さんとは違うんだ。


 一華さんみたいに何でもできるんじゃない。


 次の瞬間には両親の姿はなくなっていた。まわりには冷たい闇がどこまでも広がっている。落ちているかも上がっているかもわからないような完全な闇のなかでわたしは膝を抱えていた。


 遠くからわたしを呼ぶ声がする。声はだんだん大きくなった。


 不意に白い点が闇に浮かんだ。それが一華さんだとわかったのは、やっぱり夢なんだからなんだ。


 純白の光はあまりにまばゆい。


 近づけば近づくほどにわたしのからだを、心までをも焦がしていく。


 イカロスは太陽に近づいていって破滅したけれど、わたしにとっては逆だ。太陽の方からこっちにやってくるんだからどうしようもない。


 来ないで。


 好きだなんて言わないで。


 わたしはおねえちゃんのことが――。


 そこで夢は覚めた。


 目を開くと眼前にあんずの顔。あまりに綺麗な顔に、あとちょっとでぶつかるところだった。


「うわっ」


「その言葉そっくりそのまま返すけど……」


 あんずはそう言って、教科書の方へと戻っていく。その顔に一瞬、心配のようなものが見えた気がしたんだけど、錯覚だろうか。


 その感情も、今はもう、恥ずかしさにかき消されててよくわからない。


 もしかして、エッチなことでもされようとしてたんだろうか。


 自分自身の服装を確かめてみる。よかった、身ぐるみはがされてるってわけじゃないみたいだ。でも、胸元がちょっと開いてる?


「おっぱい触った?」


「ち、違うから! うなされていたみたいだから、大丈夫かと思って触っただけで、別にそれ以上のことは」


 それ以上のことってなんだって思ったんだけど、それ以降の言葉はモゴモゴしててよく聞こえなかった。


「わたしうなされてたの?」


「え、ま、まあ。こっちに来ないでとかなんとかかんとか言ってたわ」


 ふむん。そんなことを夢の中で言ったような言わなかったような。でも、もう夢とやらはぼんやりとしていて、思いだそうとしてもよくわからない。なんとなーく悪夢だろうとは思うんだけど。


 わきとか背中を触ってみたら、じっとりしてる。寝汗がすごかった。


「ここってシャワーとかってあるっけ」


「あるわけないでしょバカ」


「だよねえ」


 水泳部員ならシャワー使い放題なのかもしれないけれど、あいにくわたしは帰宅部だ。


 我慢するしかないね。一応、自主的に帰宅するという手もあるけれど、なんかそんな気分でもない。


 見わたせば、いつのまにかカーテンが引かれていて、世界は白いベールに包まれている。


 スマホを見れば11時前。3限の中ごろか。みんなは勉強に精を出している。


 木曜日なら、いつもこのくらいの時間にわたしたちはさかりあってる。


 でも、今日はそういう日じゃなくて、わたしもあんずも高校生らしく制服を着てる。これが当たり前なんだけど、なんだか違和感。


 しかもベッドには教科書やら文房具やらが散乱してるし。おなかの上には、下敷きとシャーペンがころがってる。


「ん、わたしは勉強机になっちゃった感じ?」


「しょうがないでしょ。アンタが寝てるんだから置くとこなかったんだもん」


「だからって他人のおなかを代わりにしないでよ」


 しかも英語だ。こちとらアルファベットを見てるだけで、おなかが痛くなってくるってのに。


 っていうか器用だな。いくらわたしの寝相がいいからって、こんなところで勉強できるのはある種の才能だ。そんな才能わたしはいらないけどね。


「もしかして悪夢を見たのはそのせい――」


「アタシのせいだっていうの!?」


 そうは言ってない。あ、でも、ここに来ることになった原因って意味では、あんずのせいともいえるのか。


 プンプン怒ってるあんずは、オノマトペほどかわいくはない。だって手にはハサミが握られてるから。


 いつかホントに刺されちゃいそう。そんなこってこての昼ドラ展開にはならないでもらいたい。


「おねえちゃんが――」


 そこまで口にしてしまってから、頬がかあっと熱くなる。変えようとした話題がよりにもよって一華さんのこととは。しかもガキのときみたいに、おねえちゃんって言っちゃうだなんて。


 あんずのハサミを取り上げて、自分の頸動けいどう脈を切り裂きたいくらいには恥ずかしかった。


「おねえちゃん?」


「……ただの言い間違え。おねえちゃんじゃなくて一華さん」


 興味津々って感じで身を乗りだしてきていたあんずが、居住まいを正す。一華さんは神様じゃないんだけど。


「一華さまがどうかしたの」


「んーちょっと驚かせるようなことを言うから覚悟してほしいんだけどさ」


「いきなり何よ」


「とにかく覚悟して」


「今朝驚いたんだから、いまさらたいていのことには驚かないわ」


「一華さんが遊びに来ないかって」


 直後バタンとあんずが倒れた。顔を覗きこめば、幸福そうな顔をしてる。


 でもこれ気絶してるんだよね……。

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