第8話 見慣れない世界03

 強い日差しと鳴りやまない蝉の鳴き声、そして心配そうな声で間が覚めた。

「ん……?」

 寝起きには眩しすぎる光が一斉に目に入り込んできて、なかなか目が開けられない。目をつぶったまま、丸まった状態だった体を起こし、緊張をほぐすために伸びをする。急に動いたため、重心のかけ方を間違えて少しふらついたところを誰かに支えられた。

 寝ぼけた脳と目が、ここはどこで私の隣にいるのは誰なのかと問いかけている。

「? お兄? おはよぅ」

すぐ横にいるのが兄だと脳が答えを出した。兄が傍にいるという状況に嬉しくなって安心して抱き着いた。今まで甘えられなかった分、存分に甘えようと思った。

「え、え?」

頭上から聞こえる声に違和感を覚えて見上げてみればなんとそこにいるのは兄ではなく、アラタさんではないか。

「きゃぁぁぁぁぁぁ‼」

私は反射的にアラタさんを押し、二人ともその場で尻もちをついた。

「え? 何、ここどこ?」

私はあたりを見回してようやく、自分が夜中からずっと同じ場所にいたということを理解した。やっと頭が覚醒した。同じく状況が呑み込めていない様子のアラタさんが、目を点にして微動だにしていない。

「あぁぁ……、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃ」

私は地面に座ったまま何度も深々と頭を下げた。なんてことだ。寝ぼけすぎにもほどがあるだろう。兄と間違えてなんて無礼を……。

 アラタさんは状況を理解したのか、立ち上がって服についた砂を払い、謝罪を繰り返す私に歩み寄ってきた。

「ごめんなさいぃぃ、わざとじゃないんですぅぅ……」

「少し、いやかなりびっくりしたけど、大丈夫」

アラタさんがこちらに手を差し出す。

「あぁぁぁぁ、消えたいぃぃ」

「でもなんでこんなところにいたの?」

私は差し出された手をとって立ち上がり、砂を払う。

「昨日の夜中に目が覚めて、ここで夜風にあたっていたら寝ちゃったみたいです……」

「びっくりしたよ。朝食のために部屋に呼びに行ったらいないんだから。心配していろんなところ探して、もしかしてと思ったら扉が開いててこんなところにいるから……」

「すいません……」

「体が冷えるから、夏でも外に出る時は毛布を持って行って。そして寝る時はちゃんとベッドで寝てよね。もう……」

「はい……、すいません」




**



 今日の朝食は魚の煮つけ、野菜の和え物、コーンスープだった。昨日私が食べなかった夕食なのだろう。

箸で魚をつつきながら考える。この数日間、アラタさんが食事を作ってくれているのだが、私には足りないものがある。それは「米」だ。しかし、食事を作ってもらっている分際で文句は言えないので、ずっと心の奥に留めているのだ。これはもう食文化が違うということで納得するしかないのだろうか。

穏界での食生活は今までとほとんど変わりはない。ただ、コーヒーやお菓子、香辛料など特定の食材は貴重なものとして扱われる。穏界の主食はパンやパスタであり、米を食べる機会はあまりないようだ。野菜にもさほど違いはなさそうだ。地産地消の考えが根強いせいか、人間界から食材を輸入することはなほとんどないようだ。一部のもの好きにはウケがいいようだが。

人間界から米を持ってきて米でも炊こうか。

 思い立ったら行動だ。私がアラタさんに人間界に行くと伝えると、彼も一緒についていくと言った。いつもの服装に、黒いトートバックと財布を持って、私たちは店の前の坂道を下った。

「もうすぐ夏も終わりですね。まだまだ暑いですけど」

「そうだね」

ぽつぽつと会話をしながら山道を下り見慣れたコンクリートの道路に足をつける。時々すれ違う人は頭にタオルを巻いていたり、つばの大きな帽子をかぶったり日傘をさしたりして太陽からの攻撃を避けている。

 家の前に着くと、庭の草が生い茂って玄関に入りづらくなっていた。しかし、少し通り道があるのは父が定期的に帰ってきているからだろうか。

 玄関の鍵を回し、扉を開けると、ほこりっぽい空気が室内に充満していた。

「ポストに新聞がたくさん入ってたよ」

退寮の新聞や広告を抱えたアラタさんが私の後から入ってきて、玄関にドサッと置いた。その中の新聞の一つを手に取って何やら真剣に読んでいる。私は靴を脱いで先にリビングに向かう。キッチンの下の収納スペースを開けて、米が残っていないか確認した。

「やっぱりないか……」

父が捨ててしまったのかもしれない。もう誰も住んでいないのだから。

 トボトボと玄関に戻ると、新聞を畳んでいたアラタさんがこっちへ来るようにと手を動かした。

「この新聞、何個か持って帰るよ」

「何かに使うんですか?」

「まあ、そんな感じ。あと、アオイちゃん、サングラスかマスクしていった方が良いかも」

「? わかりました」

風邪が流行していると書いてあったのだろうか。私は言われた通り、マスクをつけて戻ってきた。サングラスは持っていないと言うと、帽子をかぶってと言われたので部屋から帽子を持ってきて深くかぶった。

「あっつい」

玄関の鍵を閉めて、私たちは早足でスーパーへ向かった。


 スーパー内は冷房が効いていて涼しく、吹き出していた汗が一気に冷えていくのを感じる。私はまっすぐに米があるコーナーへ向かった。後ろからアラタさんが付いてくる。

「二キロ……、いや、五にしようかな。でも私だけか食べるの」

「米? 僕も久しぶりに食べたいな」

「五にしようか……でもちょっと、重いかも。大丈夫か」

米の前で悶々としていると、不意に肩を叩かれた。

「あおい、ちゃん?」

「へっ?」

振り向くと、近所に住んでいた堺さんだった。夫婦二人暮らしで、一人で家にいがちな私をよく心配してくれた。

「碧ちゃんよねっ、大変! 警察呼ばなきゃ!」

「え? 警察? 私何も……」

「どこで何してたの、皆心配して、」

「アオイちゃん、逃げて」

「は? 何?」

「いいから逃げろ」

私は半分持ちかけていた五キロの米を置いて、その場から駆け出した。訳の分からない状況に困惑していた。

「あっ、ちょっと碧ちゃん⁉ 今警察呼んだから‼ 大丈夫よ」

背後から聞こえる堺さんの声に立ち止まって振り返った。

「駄目だ。走れ」

アラタさんが私の腕を引っ張ってスーパーの外へ行くように促した。

外へ出ると、蒸し暑い空気に包まれるとともに、遠くからサイレンの音がした。アラタさんは走るスピードを止めずにスーパーの裏側に回った。

「ねえ、どういうことですか⁉ なんで逃げるの?」

「後で説明する。今日はもう帰ろう」

そのまま私たちは走り続けた。少し遠回りをしてスーパーの裏手から住宅街のある細い道路に抜けると、アラタさんは走るのをやめた。二人とも息が上がっていてしばらくは無言で歩き続けた。私はあたりを見回し、どこにいるのかを把握しようとしたのだが、あるポスターに目が釘付けになってしまった。

 引っ張る腕が重くなったことに気づいたアラタさんが私の方へ振り返った。そして私が見ているポスターに目をやる。



《探しています。

三宮碧さん (十七)


七月〇日頃から行方が分からなくなっています。

最後に目撃情報があったのは、△町□号線の道路上で、傘を持っていない状態で歩いていたということです。当時の服装は白いワイシャツに紺色のスカート姿。》




 名前の横にはすました顔をしている私の写真が載っている。学校側が提供したのだろうか、学生証と同じものだ。

私は足がすくんでそこから一歩も動けなくなってしまった。頭から血の気が引いて、頭の中まで真っ白になった。サイレンの音が遠くで鳴っている。逃げないと。頭ではわかっているのに、足は震えて使い物にならなくなっていた。

急に視界がひっくり返って、通りすぎる家々が残像のように映った。アラタさんが私を抱きかかえて走っている。この目で見た情報が衝撃的で、冷静な判断もできなかった。私は帽子をもっと深くまでかぶった。私はこの世界では行方不明なのだ。


**



 新聞に、彼女の情報が載っていた。一か月前、彼女は傘も持たずに濡れた状態でいたところを目撃されたのを最後に、行方不明となっていた。彼女の父と、兄も同じく。リビングから出てきた彼女にこの動揺が知られないように、新聞を畳んで、彼女のバッグにしまった。外に行くなと言えばよかったのだが、何やら楽しそうにしていたのを思い出して言いだせなかった。

 悪い予感はおおよそ当たった。

スーパーで声をかけられただけならまだよかった。彼女は帰り際に自分が行方不明になっているポスターを見て、目を見開いていた。

 しまったと思うと同時に、僕はなんてことをしてしまったのだろうと思った。彼女にそんな顔をさせたくなかったのに。遠くで響くサイレンが近くに来ているような気がして、咄嗟に彼女を抱きかかえて走った。僕たちは何も話さなかった。

 店へと続く坂の前まで来て、走るのを辞めた。息が上がっていて少し休憩が必要だった。

「もう歩けます」

声のする方に目を向けると、今にも泣いてしまいそうなぎこちない笑顔を作った彼女がこちらを見ていた。おそらく、僕も今にも泣き出しそうな顔をしていたのだろう。そっと足を降ろすと、彼女はバッグを持って一人で歩き始めた。

「ごめん」

僕は喉元まで来ていた言葉をようやく吐き出した。

「アラタさんは悪くないですよ」

振り向きもしないで彼女は言う。

「当然じゃないですか。私、学校にも行っていないんですから」

「でもっ」

「いつかは知ることになっていたと思いますよ」

彼女の背中に影ができる。見上げると、空が薄暗くなっている。

「誰も私のことなんて気にしていないと思ってました」

夏の夕立だ。まだ夕方ではないのに天気の移り変わりが早い。ぽつぽつと小さな雨粒が降ってきたかと思えば、次第に大きな雨粒に変わり僕達に降りかかってくる。急いで前を歩く彼女に追い付いて横に並び、背中を押しながら歩く。

「誰も気にしてなかったじゃんっ、どうして今更……」

長い髪で彼女の顔は見えないが、彼女の背中が震えている気がした。雨が地面や草木を打つ音で彼女の声が聞き取りづらくなってきた。

「人なんてっ……」

その後の言葉はよく聞こえなかった。両手を目のあたりで擦る仕草をする彼女を、押す姿勢から引っ張る姿勢に変えた。すぐに彼女が立ち止まる。

「うわぁぁぁぁん」

彼女は幼い子供のように声を上げて泣いた。僕は彼女を何かから守るように、全身を包み込んで抱きしめた。雨に濡れていることも忘れて。

「大丈夫」

おまじないのように唱えた。何度も何度も。彼女にだけ伝わるように。


 彼女が雨に濡れて店の前に現れた日を思い出した。


 泣き声が嗚咽に変わり始めた頃、彼女がゆっくりと歩き出したので僕も遅れまいと付いていった。店までの距離がこんなに遠く感じたのは初めてだった。


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