第9話 鍛錬開始
外では依然として大雨が降り続いている。雨が打ち付ける音を聞きながら、僕たちは何も話さずに暖炉を囲んでいた。風呂に入るように促したが、彼女は一向に入ろうとはしなかった。床に広げた新聞が、彼女の髪から滴る水滴で濡れていく。
《家族は数年前から失踪か》
七月〇日頃から、××県▽市に住む三宮碧さん(十七)が行方不明となっている。学校への無断欠席が続き、学校側が不審に思い、事件に発展した。捜査関係者によると、碧さんの家族のうち、長男の三宮渚さん(当時十五歳)も過去に行方不明となり、その後も行方が分からないままとなっている。父親・三宮傑(五十二)は過去に家を出入りするところが目撃されたが、碧さんの一件ののち、連絡が取れなくなっている。警察は近所に呼びかけをするとともに、碧さんの捜索を続けていく方針だ。
動こうとしない彼女に、部屋から持ってきた毛布を掛けると、そのまま包まってしまった。彼女の泣きはらした目は僕の方を見ることはない。
チリン
扉から鈴の音がして振り向くと、防弾チョッキを着た彼女の兄・渚が立っていた。
「悪い夢を見た」
彼は眉間に皺を寄せてひどく狼狽した様子だった。
「心配で眠れなかった」
僕たちのいる暖炉の傍までやってきた渚は床に広げられた新聞の記事に目線をやると、さらに眉間に皺を寄せた。そして、ため息を一つ吐いた。
暖炉を囲んで、僕たちは長い間何も話さないでいた。
「碧、風呂に入ってこい」
彼がそう告げると、彼女はゆっくりと立ち上がって奥の部屋に消えていった。
彼女がいなくなり渚と二人きりになっても、数分間何も話さなかった。
「はぁ……」
長い沈黙を破って、渚がまたため息を吐いた。
「俺たちは、あの世界を忘れてもいいんだろうか。俺もずっと答えを出せないでいる。未練があるわけでもないのに、俺たちを産んでくれた母親はあっちの世界の人間なのに、忘れたら裏切りにならないかと時々考えるんだ」
「……」
渚が床の新聞に視線を移す。
「これだって、オヤジがなにもしないからこうなるんだ。いつもいつも俺達には興味がない」
「……」
「碧も、あの世界を忘れたくて忘れられないんだ。また、期待してしまうから」
彼女が言った『人なんて』の後にはどんな言葉が続いたのだろうか。
渚は頭を抱えてまた黙ってしまった。
僕が言った『大丈夫』は彼女にとって負担にならないだろうか。
それから十五分ほど経った後だろうか、風呂から上がった彼女がゆっくりと帰ってきて毛布にくるまった。僕たちは近すぎず遠すぎない微妙な距離を保って座る形になった。
「碧……」
「大丈夫」
兄の呼びかけにうっすらとほほ笑んだ彼女は、そのまま目を閉じた。僕は季節外れな時期に活躍している暖炉の火を消して、キッチンへ向かった。
「渚さん、お好みの飲み物は?」
「コーヒーで構わない。ありがとう」
僕は二杯のコーヒーと一杯のココアを用意して彼女の近くの席に座った。渚は床の新聞を拾い上げ、小ぢんまりとした見出しの記事を眺めている。新聞が当たらない場所にマグカップを置くと、彼は顔を上げて
「何をしに人間界に行ったんだ?」
と僕に尋ねた。茶色い瞳に緑色がマーブル模様のように混ざり合っている。
「アオイちゃんが、米を」
「そうか」
彼は新聞を折りたたんで足をクロスさせ、コーヒーを一口飲んだ。
「今度もってくる」
そして大きな欠伸をすると、机の上に突っ伏した。
「今夜はここに泊まる。明日の朝、起こしてくれ」
こんな固い机の上で眠るのだろうか。
「僕の部屋にベッドがある。そこで寝てくれ。警護員が寝不足で仕事ができないなんてのは勘弁だからね」
渚は驚いた顔をした後、ふっと鼻で笑って起き上がり、妹の肩を軽く叩いた。
「こいつの部屋に行くぞ。寝るならそこのベッドで寝ろ。俺は床で寝る」
「お兄と一緒は嫌。自分の部屋で寝る」
「なっ……」
すたすたと歩き出した彼女。それを悲しそうな目で見送る渚。
「残念だったな」
僕は渚の背を軽く小突いた。
**
蒸し暑さで目が覚めた。部屋を出て店の方に顔を出すとアラタさんが朝食の準備をしていた。
「おはよう。お兄さんはもう仕事に行ったよ」
「そうですか……」
顔を引っ込めて廊下を歩き、洗面台の鏡を見れば、腫れぼったい目をした自分が映っていた。
「すごい顔」
瞼を持ち上げたり、顔周りのマッサージを試してみたりしたが即効性などなく、鏡の奥の私は先ほどと同じ顔をしていた。
朝食を食べ終えた後、私はアラタさんに能力の指導を頼み込んだ。
「時間がある時でいいです。毎日じゃなくても。私も自分で勉強するので」
アラタさんは特に迷惑がることもなく承諾してくれた。
「皿洗いが終わったら、さっそく始めようか。そこのテーブルで待ってて」
「ありがとうございますっ」
私は穏界で生きていくことを心に決めた。人間界を忘れたいわけでもないけれど、私を受け入れてくれる世界はここにあるのだから。
この世界で生きていくためにはまずは仕事を見つけなくてはいけない。しかし、能力も何も持ち合わせていない私が役に立てる仕事などないと思った。だからまずは自分の能力のことを知って、コントロールできるくらい練習をしよう。
テーブルで本を読んで待っていると、皿洗いを終えたアラタさんが向かいの席に座った。
「さっそくだけど、質問だ」
アラタさんは人差し指を立てて私を見る。
「君に隠れている能力は目に見えるものだと思う?」
「もし、兄と同じような能力があるのなら、目には見えないものだと思います」
「うん、そうだね。まず、穏界人の能力について説明しよう。能力には大きく二つに分けられる。物質に力を与える能力、自分に力を与える能力だ。前者は目に見えるもの、後者は目に見えないものだ」
私は大きく頷く。
「物に力を与える能力。これは物を浮遊させたり、ボタンに触れなくても電気をつけられたり、直接的に物や他人に干渉できる能力だ。自分に力を与える能力は、アオイちゃんのお兄さんが持つ未来を先見する力のように間接的に物や他人に干渉できる能力のことだ」
「アラタさんの能力は後者に当たりますよね?」
「そう、僕の能力は他人の感情がわかる能力だ。正しくは、色で分かる、という感じだけどね」
「両者とも自分でコントロールできるんですよね?」
「ああ、コントロールというと、物質に直接干渉している方がイメージしやすいけれど、僕のような能力もコントロールできる。ただ、出力のされ方が違うと言った感じかな」
「どういうことですか?」
「物質に直接干できる能力を、例えば「物を浮遊させる」能力と考えよう。この能力を持つ人は『よーし! 浮遊させるぞ!』と意気込むことでコントロールの出力がオンになる。逆に、僕のような能力はいつもオンになっている状態なんだ。だから、使いたいときにオフにすると言った感じだ」
「では、私は今オンの状態なんですか?」
「そうなるね。ただ、君はまだ発現すらしていない。だから能力の影響はない」
「なるほど」
「君のお兄さんはまだ能力のコントロールが不十分だと言っていたね。おそらく寝ている間はオフにするコントロールが解除されるから、その間に能力が発現している可能性が高い」
「だから昨日……」
「そういうことだ」
「うまくいくんでしょうか」
「それはアオイちゃん次第と言ったところかな」
アラタさんが立ち上がって、前に来るようにと促す。
「じゃあさっそく実践に移りたいんだけど、これまでに能力の発現の予兆かもしれないと感じた出来事はある?」
私はこの十七年間をできるだけ思い返した。
「ない、です……」
私に能力があることさえ知らなかったのだから。
「目をつぶって」
言われた通り、アラタさんの前で目をつぶった。
「自分の周りのことにすべてを集中させるんだ。そう思い込むだけでもいい」
「はい」
周りに集中。周りに
「僕が今からアオイちゃんの体に触れる。どこに触れられるかわかったら手で止めて」
「わかりました」
静まり返った店内にアラタさんの衣擦れの音だけが聞こえる。
「ここだ!」
私は頭の上で蚊を叩くときのように手を合わせた。だがアラタさんの指先は私の頬をツンとついた。
「もう一回」
私は気を付けの姿勢を取り直し、再び神経を研ぎ澄ませた。集中。集中だ。
「ここ!」
私は膝のあたりに手をやったが、アラタさんの手は私の足首をつかんでいた。
「全然だめだ……」
私は目を開けて椅子に腰かけた。
「最初はこんなくらいだよ」
「気が遠いです」
「この練習を続けていって、近くの物の動きが予想できるようになれば、上達している証拠だ」
「うーん」
「でもやっぱり、練習にはお兄さんが適任かもね。僕じゃアオイちゃんの能力の本当の引き出し方がわからない」
「そうですか……」
何度か同じ練習をして二人とも疲れが出始めたので、今日の練習は終了となった。私は自室に戻ってケータイを開き、兄に連絡をした。すぐに既読がついて返信が来た。
“最初はその練習でいい、早く上達したいなら日常生活でも常に心掛けろ。目が開いていてもいい。意識を集中させることが大事だ。今は難しくても自然にできる時が来る”
『お兄は寝てる時はコントロールできないの?』
“なぜ知ってる”
『アラタさんが言ってた』
“あの野郎”
「あははっ」
兄がどんな顔をしているのか想像してしまい自然と笑みがこぼれた。
『昨日来てくれてありがとう』
“ああ、よく眠れたか?”
『うん』
それ以降何も返ってこなかった。おそらく仕事中に返信してくれたのだろう。
私は床に座りなおして目を閉じた。聴覚のみが働いて、部屋の外で鳴く蝉の声が聞こえる。
「あぁ~、何も起きない」
床に大の字になって天井の木目をぼーっと眺める。
「第三者視点の方が想像しやすいかも……」
私は再び目をつぶって、床に寝そべっている私を想像した。私の周りにあるものは? ベッド、積まれた本、たんす……。右手を頭の上に置く。今どんな体制? 想像するんだ。
そんなことを一日中やっていた。
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