妖狐な日々

佐崎らいむ

第1話

―――いったい、どうしてこんなことになったんだろう。


京助は、カチカチに焦げた朝食の目玉焼きを箸の先でつついた。

そして目の前に佇む人物を、ため息まじりに非難してみる。


「お前、料理ぜんぜんダメじゃん」


言われてうなだれているのは、昨日まではたった一人で朝食を食べていた26歳、しがないサラリーマンの京助に、突如できた同居人だ。


けれど、この状況はまったくちっとも嬉しくない。

泣いていいと言うなら、すぐさま号泣したい気分だった。


「……ごめんなさい」

彼はシュンとし、女の子のような声で言った。


同居人は、昨日までは全く見ず知らずだった、まだ小・中学生くらいにしか見えない小柄な少年だ。


サラサラヘアに顎のほっそりした色白で、目は大きく、琥珀色に澄んでいる。


半袖Tシャツにジーンズ。本当にその辺から浚ってきましたと言う感じの、見た目は可愛らしい少年だ。


事情を知らない人が見たら、こんなあどけない子供をマンションの一室に閉じ込めて、朝っぱらから召使の様にこき使うなんて、一体何を考えてるんだこのド変態め……と非難されかねない状況だが、実際途方に暮れているのは京助の方だった。


「でも大丈夫だよ京助さん。オレ、こう見えてもけっこう呑み込みが早いんだ。すぐにいろいろ勉強して、毎日うまいもん作って食わしてやるから! リクエストには何でも対応する。だから安心して!」


少年はニカッと人懐っこい表情で笑い、髪の間から生えた、三角の茶色い耳を掻く。

更に、シャツの裾からポワンと垂れる、モフモフの亜麻色しっぽをフルンと揺らした。


―――人間だったら、まだ救いがあった。


ママの所へ帰りなさいと、その奇妙な付属品をくっつけたコスプレ少年を追い払えば済んだ。


けれどどんなにその耳と尻尾を調べても、体温と絶妙な柔らかさを持つそれらモフモフは、ちゃんと血の通った本物だとしか思えなかった。

くすぐったそうに動く両耳も、感情に沿って揺れる太い尻尾も、しなやかな筋肉を感じた。


無理に引っ張ってみてもポロリと取れる事は無く、痛みに堪えて少年が涙目になるだけなのだ。


確かに出会ってすぐにこの少年は、いまだかつてないほど潔く自分の自己紹介をした。


『オレ、狐です! と』


嘘ではないのかもしれない。

こいつの言うことは事実なのかもしれない。いや、でも、それにしても……。


―――ああ、何てツイてないんだ。ようやく総務のみやびちゃんを初デートに誘えたというのに。


よりによってそのデート前日に、こんな疫病神……いや、キツネに憑りつかれてしまうなんて。


  ***


京介がこの狐に出会ったのは、昨夜の9時ごろ。

自転車で10分のところにあるコンビニエンスストアに、タバコと夜食を買いに出かけた、その帰りだった。


開拓予定地の雑木林の傍を走っている最中、急に胸が痛み出し、さらに呼吸まで苦しくなって路肩に自転車を止めた。


このまま死んじゃうのかな。などと真剣に思うほど具合が悪く、地面に転がった途端、意識が朦朧とした。


―――明日はようやく出来た彼女、みやびちゃんとの初デートだって言うのに。なんて可愛そうな俺。最後までツイてない人生だったな……。


そんなことを思いながら無意識に空に手を伸ばした京助だったが、ふわりとそれを別の小さな手で包み込まれた。


「みやびちゃん?」


思わずそうつぶやいたが、心配そうに京介をのぞき込んでいたのは、まだあどけなさの残る、少年の小さな顔だった。頭に三角の耳をつけている。


「ごめんなさい、オレのせいで! オレが自転車の速さに走れなかったばっかりに! でもオレが来たからもう大丈夫。苦しくなくなったでしょ。二度と離れないから」


まったく意味不明な言葉を叫びながら、その子は大きな瞳を潤ませた。


だが確かにこの少年が近づいた途端、京助の胸の苦しさはすっかり消え去り、気分はすこぶる良くなった。


「ねえ、君はいったい何? どっから来た。ちっともわからないんだけど」


「狐です。名前はカイ。本当にごめんなさい、オレ、さっきトラックに跳ねられちゃって、死にそうになって、とっさに傍を通ったお兄さんの魂を半分貰っちゃったんだ。だからお兄さんの魂は半分になっちゃって、オレから離れたら苦しくなるんだ。

オレは人間の魂を半分もらっちゃったから、こんな姿になっちゃったけど、驚かないで。珍しい事じゃないんだ」


―――いや、充分すぎるほど珍しい。


とは思ったがツッコみそこねた。


「ねえ、お兄さん、名前は?」


こっちには質問させる隙を与えず、耳をぴんと立ててカイは訊いてきた。


「きょ、京助」


「きょきょすけ」


「ちがう、京助」


京助の名を覚えたところでカイは、引き続きその場でいきなり絶望的な発表をした。


「本当は一個だった魂だから、遠く離れてしまえばお互いに苦しくなる。ほら、今みたいに。だからもうオレたちは遠く離れられない。

本当に申し訳ないけど、これからオレはしばらく京助さんのそばで暮らすよ」


「意味わかんないんですけど。……離れたら苦しくなるって……距離にしてどれくらい?」


散らかった頭で、まずはそう訊いてみた。

他に訊くべきことはたくさんあるはずだが、まだちゃんと思考が働かない。


「たぶん30メートル以上は離れられないと思う」


「それ、……いつまで?」


「術がとけなきゃ、オレが生きてる限り」


―――生活できやしないんですけど、それ。


「で、狐の寿命って何年?」


「普通のキツネは5年だけど、オレの両親はキャリアな妖狐ようこで、オレもその血をひいてるから頑張れば500年は生きると思う」


じわりと奇妙な汗と嗤いが込み上げて来た。


これはヤバい子に出会っちゃったかもしれない。逃げたほうが得策だな、と。



すぐさま自転車に飛び乗り、猛スピードでコスプレ少年を振り切って逃げ、マンションの2階にある部屋に帰り着いた。


けれど再び信じられないほどの胸痛が京介を襲い、呼吸が苦しくなってそのまま玄関に崩れ落ちた。ガクガクと体中の震えが止まらない。


―――もしかして、あの少年の説明は全部本当の事だったのだろうか。


肩で息をしているといきなり足音が響き、ドアから飛び込んできたカイが蒼白になって京助に縋りついた。「ゴメンなさい」と何度も言いながら、目を潤ませる。


まるで夢だったように呼吸がすっと楽になり、元凶がこの狐であるにもかかわらず、ほんの一瞬天使に見えた。


パブロフの犬状態だ。


「こんなことになったのもオレのせいだし、オレ、ここで掃除でも洗濯でも何でもするよ。父さんと母さんは善狐ぜんこだけど、もうすぐ仙狐せんこに昇進するんだ。そしたら京助さんの魂も元に戻してくれるように頼むから。

だからそれまで、オレを傍に置いて。ぜったい邪魔にならないようにするから」


京助はまだくらくらする頭で、「わかった。とにかく、邪魔にならないところにいてくれ」と、それだけ言い、這うようにしてベッドにもぐりこんだ。


もう何を考える気力も無かったし、とにかくその子が傍に居れば苦しくはない事だけは分かった。


朝になったらもしかして、全部夢だったって事になるかもしれない。そんなことも思いながら、風呂も入らずに眠ってしまった。



――けれど朝になっても狐はいた。


洗濯をし、掃除機をかけ、焦げた目玉焼きを焼いて、「シャワー使わせてもらいました」と、つやつやしたほっぺで言う。やけに文明慣れした狐だった。


しっぽと耳がまだ少し濡れていて、その表情はあどけなくて、なんだかもう京助は怒る気力もなくなり、逆に愉快になった。


できの悪いメイドをひとり雇ったと思えばいい。狐だけど。

今後の狐携帯生活をどうするかは、また後日考えることにしよう。

とにかく、そんな事より今日は大切なイベントがある。



「いいか、今日は彼女と初デートなんだ。絶対その奇妙な姿を見せるなよ。30メートルギリギリを常にキープすること」


「了解です、京助さん。つかず離れず見失わないようにします。人ごみに行くなら、ちゃんと変装しますから」


そう言うとカイはどこから見つけて来たのか昔京助が使っていた野球帽をかぶり、ジーンズの中にしっぽを器用に押し込み、普通の男の子の恰好をしてみせた。


「へえ、やればできるじゃん。それなら電車に乗っても平気だな。お前、電車乗れるのか?」


「お金さえ頂ければ。あ、子供料金で大丈夫です」


なんでおまえそんなに人間社会に精通してるんだ、と突っ込むと、妖狐は人間社会の事を学ぶのがステイタスなんですと、カイはにっこり笑った。


それよりもしっぽと耳を消す術を学べよと思ったが、可愛そうなので言わずに置いた。



テーブルを挟んで朝食を食べながら、京助は時間いっぱいカイの事を質問してみた。

耳をぴくぴくし、シリアルをぱくつきながら、カイは自分のことを何でも話した。


狐が妖力を持って100年生きて妖狐になり、普段は狐の姿で生活しながら更に修行して善狐になり、仙狐になり、1000年生きてついに天狐となる。

天狐は神であり、狐みんなの憧れだ。それを目指して精進する。


でも中には人を騙して快楽を得ようとする野狐やこになる妖狐もいるのだという。

人に成りすまして人の善良な魂を喰らい、善良な人の心を灰にしていく悪狐あっこなのだ、と。


シリアルを3杯もお代わりしながら、カイは熱く語った。


その様子はけっこう可愛いらしく、しだいに京助はこの半妖への嫌悪感や不信感が薄れていくのを感じていた。弟がいたら、こんな感じなのかもしれないと。


この子の親が、京助の魂の補充をしてくれる日もそんな遠くないという事だし、まあしばらくこの狐を飼ってみるのもいいかもしれないと、妙に楽天的な気持ちになっていた。


たぶんこの気楽さも、今日の楽しいイベントのせいだろう。


彼女の指定した自然公園で、彼女のお弁当を食べ、そして語り合い、その後は「ちょっとホテルで休憩しませんか」という言葉を自然に出せさえすれば、完璧だ。


などと妄想を膨らまし、頬を緩ませて着替えをしていると、カイが目を輝かせながら近づいてきた。


「京助さん、この服を着ませんか?」


手には、京助の着古した黒いTシャツが握られている。


真ん中に大きな髑髏スカルのイラストが入っている、某ロックバンドのロゴ入りTシャツだ。

着やすい事もあって週に一回はこれを着ているが、さすがに今日、髑髏を着る気にはなれない。


「あのな、デートにそれはないよ。でも気に入ったんならカイが着てもいいぞ。お前、服は他に持って無さそうだから」


その言葉の何に感化されたのか、カイは目を潤ませてニコッと笑い、オレはいいんです、ありがとうと、そのTシャツを元あった引き出しに片付けに行った。


   ***


時刻は10時。

緑地公園前駅で先に電車を降りた京助は、少し距離を置いて降りて来たカイの姿をチラッと確認した。

カイはすっかり耳と尻尾を隠し、どこにでもいる中学生くらいの少年にしか見えない。


ほっとして改札を抜け、今度はデートの約束をした山田雅やまだみやびの姿を探した。



「京助さん~」


雅はむっちりとした体を弾ませ、手を振りながらこっちに駆け寄ってきた。


身長は160前後だが、かなりごっつい。ぽっちゃりならば可愛らしが、それを通り過ごして、固太りのダイナマイトボディだ。


仕草も言葉もどこか荒っぽく、昔から華奢でシャイな女の子に片想いすることの多かった京助が、なぜこの1か月前に入社してきたばかりの雅に夢中になったのかは、自分でもよくわからない。


気が付くと、脳内はいつも雅の事で満たされていた。

だが恋とはそう言うものなのだと、よく聞く。きっと理由なんてないのだ。


仕事中に、ふとした瞬間触れる指先、視線、吐息。

同じ部署ではないのに、なぜか雅と事ある毎に触れあう。

その度に過剰に分泌されていくアドレナリン。

日を追うごとに、まるで思春期のような、そわそわムズムズが膨れ上がっていくのを止められない。


ついに意を決して雅に告白したのが今週の月曜日だ。


雅は「うれしい! 私も京介さんが大好きよ」と言いながらムギュッとハグをしたあと、すぐさま今日のデートを予定してくれた。

丸山湖のそばの自然公園にいきましょう。お弁当を作っていくわ。二人だけの最高のランチにしましょう、と。



「お待たせ~!」


雅は満面の笑みで京助の腕に抱き付いてきた。


もしかしたら似合っていないんじゃないかと思うフリル付きピンクのワンピースと、乙女チックな白い帽子については触れず、京助は「ちっとも」と返す。


楽しい気分をぶち壊す言葉は禁物なのだ。


「さあ、どこに行こうか」と京助が言うと、雅は三白眼のつり目を細くして笑い、グローブのような手で京助を、森のある方へ引っ張って行った。


ああきっとこの力強さに惹かれたんだろうな、などと改めて思いながら素直に手を引かれて歩く。

駅からどんどん離れ、人通りも少なくなり、自然公園の中程の丸山湖に近づいていった。


エメラルドグリーンの水面がキラキラ光り、遊歩道にはベンチやテーブルもあって、ちょうどいい休憩スポットに差し掛かったのに、そこを通り過ぎてもまだ雅は足を止めない。


それどころかどんどん京助を掴む手に力が入り、歩く速度も速まっていく。



「ねえ、どんどん山の奥に行っちゃうよ。遊歩道も無くなっちゃうし、ここでちょっと休んで行かない? 雅ちゃん。ベンチもあるし……」


けれどすぐさま返ってきた声は、けっこう凄みの有る低い声だった。


「さっきから癪に障るガキがコソコソ追いかけてくるのよ。鬱陶しいからもう少し引き離すの」


――ガキ……。


その時ようやくカイの事を思い出し、京助は後ろを振り向いた。


あの激しい胸の痛みが無いという事は、ちゃんと付いてきてるという事だが、見つかってしまってはせっかくのデートが台無しだ。


振り返った先には木々の緑しかなかったが、雅には見えたのかもしれない。


「な、なんだろうね。僕には見えないけど……この辺の子かもしれないね」


額の汗をぬぐいながらそう言うと、雅が返した。


「クソ忌々しい。もう少し近づいて来たら喰ってやる」


喰ってやる。……喰ってやるって聞こえたけど、気のせいだろうか。


それとも雅はそういう冗談が好きなのだろうか。

京助はぐいぐい引かれるままに歩きながら、やや霞のかかった頭で考えた。


食うと言えば、雅は荷物を何も持っていない。昼の弁当はどうしたのだろう。


「ねえ、雅ちゃん、そう言えばお弁当を持ってないよね」


もう遊歩道からも逸れ、道なき道を進んで行く雅の歩みがふと止まった。


「あ、いや別にいいんだよ。気にしないで。お昼なんてどうでも……」


あわてて取り繕う京助の手首をグイッと血が止まるほど強くつかんだまま、彼女が振り向く。


その目は興奮したように血走り、虹彩はひどく不気味な金色だ。

赤い口紅を塗りたくった唇を大きく引き伸ばし、尖った犬歯を見せて雅は嗤った。


「お昼ごはんならあるじゃない。ここに」

みやびは不気味な形相のまま笑う。


「え?」


けれどすぐさま表情を凍り付かせたのは雅の方だった。


ガサリと音を立てた木立の間から、目にもとまらぬ速さで何かが飛び出し、雅の体めがけて体当たりしてきたのだ。


ギャッと人間とも思えない声を上げて雅は地面に弾き飛ばされた。

さっきまで雅が居たその場には、獣のように四肢を踏ん張って構え、精悍な顔つきで雅を睨むカイの姿があった。


「このガキ!」

「カイ!」

「京助さん、ねぇしっかり見て! 騙されちゃだめだ」


三人がほぼ同時に叫ぶ。


京助が事態を把握できずにいる間に、ズサっと体を起こした雅が同じく四つん這いの姿勢からカイに飛びかかり、大きな口でその喉元に喰らいついた。


カイがひと声あげる間もなく、雅はそのままその小柄な少年の体をブンと首を振るようにして力いっぱい投げ飛ばした。


カイの体はまるで綿を詰めた人形のように軽々と宙を舞い、手すりを超えて丸山湖の中にバシャりと落ちてすぐに見えなくなってしまった。


「あ」


「本当にもう。折角のデートが台無しだわ。行きましょう、京助さん」


何ごともなかったように雅はワンピースの裾をパンパンとはたいた。


口元に滴った赤い血をスッと手の甲で拭うと、ふたたび雅は京助の手首を掴んで引っ張る。


―――いったい今、何が起こったんだろう。何か大事なものを失くした気がする。


再び雅に掴まれて歩き出すが、その手首が今になってジンジン疼く。

自分は今、なぜ歩いているのだろうという疑問がチラチラと頭の隅に沸く。けれど思考がちゃんと戻って来ない。


ただ、胸が酷く苦しかった。心臓の痛み。そしてまともに呼吸ができない。

なぜだ。何かやっぱり―――忘れて来た?



“オレから離れちゃだめだ”


そう言った少年。―――そうだ、キツネの少年だ!



「雅ちゃん、ごめん、俺戻らなきゃ! カイが……」


そう言って雅の手を振り払った途端、目の前の女は振り返った。


けれどもはやそれは見知った事務員の女ではなく、耳元まで避けた口から赤い舌をはみ出し、目を血走らせて京介を見据える化け物だった。


頭には、今まで気が付かなかったが三角の大きな赤茶の耳が突き出している。


おののいて後ずさった京助の目に更に飛び込んだのは、長さ1メートルはあろうかと思える2本の太いしっぽだった。


憑き物が落ちたように頭がクリアになり、途端に全身を恐怖が貫いた。


飛び跳ねるようにその場から逃げ出した京助だが、すぐさま首根っこを引っ張られ、ものすごい力で地面に引き倒された。


「ちょうどお昼ですねぇ京助さん。全部とはいいません。半分だけいただきますよ」


目は固く閉じても、生暖かい吐息と、物騒な“いただきます宣言”はハッキリと感知できた。


―――ああもうここまでなのか。化け物の牙で喰われるのは痛いのかな、やっぱり……。


その様を想像し、恐怖で体を硬直させた瞬間。

サッと頭の上を湿気を帯びた風がよぎった。


同時に体の上から雅の気配が消え、そしてすぐさま足元で獣が格闘するうめき声が甲高く響いた。


まさか! と跳ね起きて目を凝らすと、赤茶色の巨大狐が何かを腹に巻き付けて七転八倒しもがいているところだった。


何度も回転し、激しく背を木々に打ち付けて喚き、金色だった目は白目になり牙の間から舌が力なく垂れ始めた。


腹に巻き付いたものは、ずぶ濡れのままのカイだった。


巨大狐が精彩を欠いたところでカイは足を踏ん張り、二本のしっぽをむんずとつかんで、ありったけの力で手すりのむこうに投げ飛ばした。


さっきやられたのと同じ方法で彼は、巨大狐みやびを湖の中に放り込んだのだ。


ザッバーンと大きな音と水しぶきが上がり、虹が弧を描いた。


そしてそのあとには、それまでと同じ、ごく普通の静寂が池とそれを囲む雑木林に戻ってきた。



京助はひとつ大きく呼吸をすると、ゆっくり立ち上がって、体中木の葉やひっかき傷だらけになっているカイのもとに近づいた。


巨大狐が消えた池の波紋を見下ろしていた少年の頭の薄茶の耳が、京助の気配にぴくりと動き、そしてこちらに顔を向ける。


その琥珀色の目が、酷く寂しそうに見えた。


「雅は、バケモノ狐だったのか?」

そう訊くとカイがひとつ頷く。


「あいつは野狐の中でも特にたちの悪い悪狐あっこで、隙の有る人の魂を喰らって自分の妖力にする。修行する気がないんだ。全部食べられると人間は廃人になっちゃって、とても危ないんだ」


半分喰うとは、そう言う事だったのかと、京助は妙に納得した。


「俺に隙があったから引っかかっちゃったんだな」


京助は認めてつぶやいたが痛手は無く、逆に何か気持ちが晴れたような清々しさがあった。


同時にこの半妖が傍に居てくれたことに、改めて感謝した。


「とりあえず帰ろうか。そのまんまじゃ風邪ひくぞ」


そう言ってカイの濡れた耳を軽く引っ張ったが、カイは憂いた顔のままだ。

そして辛そうな表情で京助を見上げて来た。


「オレも、もう帰らなきゃ。目的は果たしたから」


「え? 目的って……。なに」


「今の野狐が京助さんを狙ってるって気づいたから、オレ、昨日からあんなウソついて傍に居たんだ。本当は車にはねられたとか、京助さんの魂を半分盗ったとか、嘘なんだ。妖狐って言うのは本当だけど、それ以外は全部嘘で……。距離が離れると胸が痛むのも、オレがかけた術で……。それも、本当にゴメン」


京助は、また視線をそらしてしょんぼりした少年を、奇妙な気持ちで見下ろした。


「うーんと、よく分からないんだけどさ。じゃあなんでそんなウソまでついて俺の傍に来て、こんな危険な目に遭ってまで俺を助けたんだ? カイは」


「だって、それは……。やっぱり京助さんは、忘れちゃったんだね。5年前の秋の日の事」


「5年前?」


「人間の捨てた鉄くずの中にハマって動けなかったオレを助けて、頭撫でて去って行ったじゃない。顔はよく見てなかったけど、あの髑髏の黒いTシャツを着た、背の高い男の人だったって事は覚えてたんだ。


ずっと気持ちの中にその時の事があったんだけど、顔を覚えてないからどうしようもなくて……。でも、つい一か月前に、あの近くで、あの同じTシャツを着てる男の人をを見かけたんだ。オレ、すごくうれしかった。

本当はそっと、マンションを出入りする姿を眺めてるだけにしようって思ってたんだけど、あの野狐と一緒にいるところを見かけて、何とかしなきゃって思ったんだ。あの頃はまだただの子狐だったから何もお礼が出来なかったけど、今ならできる!って」


「……それでわざわざ嘘までついて……? いや、そのカイの気持ちはすごく嬉しいんだけどさ、そもそも俺、5年前に子ぎつねを助けた記憶が全く無いんだけど」


「忘れてるだけです。大きな丸いふたを開けて、助けてくれました」


「あ! もしかして洗濯機の中から拾った犬!?」


「そう洗濯機! でも狐です」


「そうかあの時の……。でも、残念ながらそいつは俺じゃないよ。カイを助けたのは三郎って言う俺の友達さ。今思い出したんだけど、そう言えば大学時代に洗濯機にハマった茶色い子犬を助けたって言ってたことがあった。

あいつも同じロックバンドのファンで、あのライブ限定のTシャツ、毎日のように着てたしな」


「京助さんじゃ……無かったんですね」


カイは水を滴らせながら、辛そうな顔をした。


「なんか、ごめんな。助け損で」


カイは大きく首を横に振り、こちらこそ、出しゃばってごめんなさいと小さく頭を下げた。


そのまま、とぼとぼと森の方に歩いて行く。


―――このまま狐に戻るのだろうか。



「……ありがとな。妖狐の父さんと母さんによろしくな」


少し感傷的になってかけた言葉に、カイはちょっとだけ振り返り、「それも嘘。オレの親は早くに亡くなりました」とだけ言って、もう一度頭を下げた。


耳もしっぽも濡れたまま、肩を落とした少年の姿は、やがてゆっくり森の木立の中に消えて行った。


―――山に帰って、狐に戻って、そしてカイは一人で暮らすのか。


掃除も洗濯も、嬉々としてやっていたカイの姿が再び思い出された。

おいしそうに食べていたシリアルも、もう森では食べられないのだろうな……。



とたんにさっきと同じ、心臓をギュッと掴まれる様な痛みが走った。

呼吸は出来るが、胸に風穴があいてしまったように空しく、どうにも気持ちが落ち着かない。


「カイ! ちょっと待て。術が消えていない! 戻ってこい!」


大声で森に向かって叫ぶと、小さな薄茶の小柄な狐が、そろりと木の葉の間から顔を出した。


「お前がいないと、なんか苦しいんだ。術が消えていない」


もう一度京助が叫ぶと、狐はそんなはずはないと、首を横に振る。


「お前の森での予定がないんなら、また俺んちに来い。掃除洗濯し放題だし、テレビも見放題だし、シリアルだって食い放題だぞ。ただし、狐の姿じゃだめだ。あのアパートはペット厳禁だから!」


「ほんと!? 居てもいいの?」


くるりと飛び跳ねて狐は再び少年の姿に戻り、目を潤ませて京助の元に駆け寄ってきた。


しっかり抱き止めて、三角の耳ごと頭をワシワシと強く撫でてやったあと、京助は言った。


「ああ、本当だ。でも、まずは森の中からさっき着てた服を取って来い。素っ裸で尻からしっぽ生やした少年を連れてたら、俺は家に帰る前に逮捕されちまう」


  ***


―――あれから1年後。


カイは上手に目玉焼きを焼けるようになった。


それ以外の料理はよく失敗するが、嬉々として家事をこなし、シリアルをうまそうに食べる表情は、こちらをも元気にしてくれる。


おしゃべりも大好きで、毎日森に遊びに行っては、そこで出会った生き物の話をしてくれる。


“犬や猫を飼うと、婚期が遅れるんですよね”


今朝の情報番組でアナウンサーが言った言葉を思い出しながら、京助は、満員電車に揺られていた。


じゃあ、妖狐を飼うとどうなんだろうと、ちょっと考えてみて、可笑しくて笑ってみる。


きっと誰にも分からないだろう。


妖狐の寿命が50年から500年だと聞いて少し腰が引けたが、ペットレス症候群になる事だけはなさそうだし、カイが森へ帰りたいと言い出したら、自由に帰ればいいと、気楽に考えることにした。


その時はまた少し、胸が痛むかもしれないが。


京助はいつものように出社し、いつものようにタイムカードを押した。


そしてチラリと覗いた総務のデスクに、いつもと同じようにみやびが座っているのを見つけ、ため息を吐く。


「ああ、おはようございます、京助さん」


ニコリと笑うその顔は、ますます血色がよく、生気がみなぎっている。


窓際に座るひょろっとした新人が、熱いまなざしでこちらを見ている。

雅は新たなターゲットを試食中らしい。なかなか懲りない悪狐だ。


―――半分だけにしとけよ


目だけでそう語り、京助は歩き出した。


窓の外は晴天。

人間界に紛れ込んで暮らす妖狐たちも、すこぶる元気。


今日も忙しいが、平和な一日になりそうな予感がした。



(了)

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