第7話 バレンタインの夜
夜の静けさが、部屋の隅々まで染み込んでいる。
R.E.M.の
Nightswimmingが流れる。
ピアノの旋律が空間を漂い、静かに消えていくストリングスが、かすかに息をする。
バレンタインデー。
俺には、当然チョコレートなど届かない。
代わりにスマホの画面に通知が一つ。
「お母さんからLINEギフトが届きました」
「コメダ珈琲1000円券」
……コメダ。
カツパンでも食えってことか?
いや、そんなことを考えても仕方がない。
俺はネイルを塗ることにした。
黒と赤、交互に。
ボトルの蓋を開けると、わずかにシンナーの匂いが立ち上る。
ゆっくりと筆を滑らせる。
黒、赤、黒、赤……
爪の先に色が乗るたび、まるで別の自分に変わっていく気がした。
なぜネイルなのか?
髪を染めるほどの勇気はないし、美容院には行きたくない。
コミュ障だから、美容師との会話が耐えられない。
でも、爪ならいい。
誰とも話さずに、ひとりで完成させられる。
ネイルを塗ることは、俺にとっての 「社会への小さな抵抗」 だった。
スーツを着たサラリーマンはできない。
でも俺はできる。
何の縛りもない、何者にもなれない俺だけの自由。
Nightswimming deserves a quiet night…
歌詞が耳を撫でる。
「夜泳ぎには、静かな夜がふさわしい」
俺の部屋は十分に静かだ。
この黒と赤のネイルが、俺にとっての夜泳ぎなのかもしれない。
乾いていくポリッシュを眺めながら、ふと考える。
この爪は、外に出たとき、どう見られるのだろう?
……いや、それ以前に、俺はこの爪を外で晒すことすらできない。
だから、俺はAmazonで買った 「礼装用の白い手袋」を持っている。
なぜ礼装用?
理由は簡単、普通の手袋より安かったから。
社会に適応できない俺が、社会のルールに適応するために、
「安さ」で手袋を選ぶという、この皮肉。
外に出るとき、俺の爪は白い布の下に隠される。
自分の反抗すら、自分で覆い隠してしまう。
それでも、このネイルを見るだけで、俺は幸福でいられる。
黒と赤、交互に並んだ爪。
俺の意志が、ここにだけは確かに刻まれている。
「Nightswimming remembers every night」
「夜泳ぎは、すべての夜を覚えている」
この夜のことを、俺は覚えているだろうか。
コメダ珈琲のLINEギフト。
黒と赤の爪。
白い手袋。
部屋に響くR.E.M.の旋律。
俺の夜泳ぎは、誰にも見られることなく、静かに終わる。
おなごもにげる変態王国 磯部 たつじ @kyouka29
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