日野球磨

Abracadabra


 蠅が。

 飛んでいた。


 ぶぅん、と。


 蠅にしては奇麗だった。

 しては、というのは。決して蠅のことを蔑んで繋いだ言葉ではない。

 ただ、なんとなく。蠅というのは醜くて、汚いものだと思っていた。けれどこうして近くで見てみると、意外にも奇麗なのだ。


 光沢のある羽が光を反射させる姿は、ネオンライトのように煌びやか。丸まったフォルムは幼虫の頃の幼さを残しているようで可愛らしく、赤い複眼は無花果のように熟れていて、1カラットのルビーのようにこちらを見ている。


 蠅が僕に語る。


 どうしてこちらを見つめてくるんだい? 

 羽音を声にして、八の字に飛び回りながらそう、語りかけてくるのだ。ミツバチダンスさながらの曲芸飛行に見惚れているのだよ、と返そうと思ったのだけれど。


 はて、どうして僕は蠅なんかを見つめているのだろう。


 と、急に頭が現実に戻ってしまった。


 ああ、最悪だ。

 私はつぶやいた。


 まったくもって、蠅が語りかけてくるなんてありえないし、そもそもあんな醜いものを奇麗だなんて、馬鹿馬鹿しい。


 ああ、蠅たたきはどこにやったのか。そもそもこの蠅は一体どころから侵入したんだ? まさか便器の中から這い出てきたわけでもあるまい。


 しかもなんだ、数がとても多いじゃないか。こりゃあどこかに卵を産み付けられてしまったに違いない。となれば今もなお、うじゃうじゃとウジ虫たちが私の家の中を這い回り、空を飛ぶのを夢見ていることだろう。


 そんな夢は断じて私が許さない。今すぐにでもウジ虫の温床を見つけ出し、一匹残らず踏みつぶしてやらなくてはと、私の胸の奥底からむかむかとしたものがこみあげてくる。


 だから私は振り返った。けれどそこで、振り返ったことで目にしてしまったものを見て、私は思い出した。


 ああ、そうだった。

 この蠅たちは、このウジ虫たちは、、と。


 死体。

 女の死体。

 私の母の死体。


 そうだ。

 私は母を殺したのだった。


 それに気づいたとたん、胸の中に渦巻いていたむかむかとしたものが冷めていき、体温までもが氷点下まで落ちていくような浮遊感を覚えた。


 どうして私は、母を殺してしまったのか。

 それは。確か、母が殴ってきたから――。


 私の母親は痴呆だった。

 始まりは確か、3年前だったか。

 お年玉の用意をしないとと言いながら、母は真夏におせち料理のカタログを開いていた。病院に行けば痴呆だと言われ、少々の薬と対症療法だけを聞かされて返された。


 仕事はやめた。定年には早いけれど、母のことを考えれば仕方のないことだった。なにせ父はもう他界していて、生憎と私はこの年になるまで独り身で、老人ホームを使えるようなたくわえなんてなかったから。


 だから私は、母の介護をした。


 一年。二年。三年。


 母は私の顔を忘れてしまった。

 父の名を叫びながら夜泣きをし、腹が空いたと朝方に大声を上げる。

 そのたびに駆け付けた私は、泥棒だのなんだのと叩かれて、追い払われた。けれど数分すれば、そのことすらけろりと忘れて、私が持ってきた食事に手を付け始めるのだ。


 そのたびに私は、自分の体にできた痣を撫でるのだ。

 母は生きていると、私はそう痣に言い聞かせて、痣の黒の中から覗く黒く汚れたヘドロのような何かに蓋をする。


 蓋をして、母のことを考える。


 母は優しい人だった。

 肉じゃがを作るのが得意だった。

 白米をよく焦がし、その言い訳におこげが好きだと言い張っていた。

 父に叱られた後、慰めにくれた飴の甘さを忘れたことはない。

 父が死んだ後も、私の学費を稼いでくれたのだ。


 だから、私は言う。

 あの人は生きているんだ、と。


 だから、私は殺してしまったんだ。

 殴られた拍子に、私は殴り返してしまった。


 ああ、そうだ。

 それで、母がベッドの外に倒れて。

 死んだんだ。


 あれから何日、経ったんだろう。


 腹が減った。空腹だ。

 のども乾いて、今にも死にそうだ。


 そうだ、冷蔵庫に何か食べ物はあったか。

 そう思い冷蔵庫を開けてみれば、作り置きの鍋が入っていた。

 中身は肉じゃがだ。


 食べる気にはなれなかった。

 だから水道から少しだけ水を拝借し、のどを潤してから、もう一度。私は母の前に座り込んだ。


 腹が減った。


 蠅が。

 飛んでいる。


 こうなってから一体何日が経ったのか、寝間着の表にもうじゃうじゃと湧き出したウジ虫たちは、死んだ母とは正反対に、生きている。


 まるで母が生きているようだ。

 母は死んでしまったけれど、母のシルエットは未だ無造作に動いているのだから。

 でも母は死んでしまっている。このウジ虫たちが、死んだ母親を食って、生きているだけだ。


 父蠅と母蠅から渡された卵が死肉の中で孵り、異臭と共に朽ちていく躯を食んで、彼らはウジ虫として生まれてくるのだ。そしてやがて彼らも親となり、死肉の中に次の世代を託す。


 まるで、母こそが彼らの親であるようだ。

 このウジ虫たちは、母無くしては生まれなかった。

 そして母無くしては、さらにその前の世代も居なかったことだろう。


 アダムとイブだって、土から作ってくださった神様が居なければ存在しなかったのだ。もしもその神様が偉大なる父であるのなら、母はこのウジ虫にとっての神であり、そして母なのだ。


 そうなると私は彼らの兄弟になるのだろうか。

 私もまた、母から生まれた存在なのだから。


 そして父が死んでからは、母に寄生しているも同然だった。いや、父が死ぬ前もあまり変わらなかったか。私は母に甘えて生きていた。母を食らっているこのウジ虫たちと何ら変わらない。私も母を食らって生きてきたのだ。


 ウジ虫は私で。


 私はウジ虫なのだ。


 そうでなければ、あれほど愛していた母を殺すはずがない。

 結局私は、母を食いつぶすために利用していたにすぎないのだ。最後の最後まで、枯れ木となってまで食らいつくすために、生かしておいてにすぎないのだ。


 そうでなければ。


 私が。


 私が、母を。


 殺すわけがないのだ。


 蠅が。

 飛んだ。


 一匹の蠅が、ぶぅんと。


 はそれを、奇麗だと思った。 

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