フルール 春『Dawn』

 何度も読んだ小説のページは、鉛のように重たかった。どうしても、ページが進まない。別に、話の内容がつまらないわけじゃなかった。ただ、日に焼けて黄ばみきったその紙を、一枚ずつ指先で捲るのが、憂鬱で仕方なかった。どうせ何度読んでも、結末は変わらない。全て、わかりきっていることだ。

 そんな重たい気分を振り解こうと、ベッドの上で何度か寝返りを打つ。真っ白いシーツに、険しいシワが増えていく。

 全体の半分に手が届かないあたりで、私はとうとう本を閉じた。吐き出した息が、窓から差し込む日差しと擦れあう。

 ベッドから起き上がり、部屋の対角線上にある本棚に、ボロボロになった背表紙を埋めた。

『大魔女リィラの軌跡』

 題名から目を逸らすと、差し込んだ夕陽に、窓辺のベッドのシワが露わになっていた。

 バタバタと、たくさんの影が光の中を過ぎった。飛び立った鳩の群れが、レンガ屋根の上を旋回する。同時に、低い鐘の音が窓ガラス越しにうっすらと聞こえてきた。町中にポツポツと見える教会の鐘楼が、他の建物に長い影を落としている。そのずっと奥では、この町を囲う山脈が灰色の岩壁を見せている。

 窓辺で下の方を見ると、向かいの花屋が閉まる頃だった。その横の道路を、赤い原付に乗った赤毛の少年が通り過ぎていく。道路を歩いていた長い黒髪の女が立ち止まり、夕陽の方へとゴツい一眼レフカメラを向けた。

 私はベッドに腰を下ろし、窓に頭を預ける。ご……と私のツノがガラスに当たった。厳しい冬の寒さにも耐えうるガラスの厚さが、ツノを通して伝わってくる。

 窓ガラスに、私の顔がうっすらと見える。細く白い髪と共に、鈍い灰色をしたツノが二つ、頭で渦を描いている。瞳はザクロのように赤く、どこか力がない。いつからか、ずっと変わらない自分の姿は、不気味なくらい健康に見える。飾り気のない白のネグリジェは、夕陽を受けてほのかに赤い。

 特にやることもないので、そのまま夜に沈んでいく街並みに焦点を合わせた。

 まだ雪が残る険しい山脈の向こうに、太陽が少しずつ隠れていく。淡い白の街灯が、宵の闇に道を作り出すと、建物にも明かりが灯りだした。窓に映った自分の顔が、はっきりとしてくる。

 部屋の奥で、ドアがノックされた。

「どうぞ」

 振り向かずにそういうと、ドアノブがガチャっと動いた。

「アルマ様」

 聞き慣れた声が私の名を呼ぶ。シルクがこすれあうような、静かな声だ。

「様はやめてよ、エーレ。立場上、大家の君の方が私より偉いんだから」

 振り向くと同時に部屋の電気がつく。ドアの前に、黒いローブを着た背の高い老婆が立っていた。鈍い銀の髪は、顎の辺りで切り揃えられている。シワの刻まれた目元には、深い緑の瞳が静かに輝いている。

「すみません、つい。でも、偉大なる魔女の始祖に対して、偉ぶれなんて無茶ですよ」

「死ねないだけで、私は偉大じゃない。偉いのはリィラの方だよ」

 エーレは否定も同意もせず、「そうですか」と柔らかい声で返す。

「それで、今日は私に何の用事?」

 私が聞くと、エーレはローブの袖から、細い杖を取り出して言う。月桂樹のモチーフが施された、滑らかな曲線が美しい杖だ。

「仕事が片付いたので、休憩がてら貴女とお茶でも、と思いまして」

 エーレが杖を指揮棒のように軽く振ると、壁際にあった椅子と机が勝手に動き出す。もう一振りすると、どこからともなくチェック柄のテーブルクロスが現れ、机の上に着地した。その上にティーポットとカップがそっと置かれ、気がつくと私の部屋は、お茶会の場となっていた。

 人の部屋で勝手にお茶会を始めようとは、言いたいことは色々と浮かんだが、私は黙って席についた。さっき自分で君の方が偉いなんて言った手前、文句は言えない。

 エーレは満足げに「ふふ」と笑みをこぼし、向かいに腰を下ろした。

 卓上のティーポットに、宙に浮いたヤカンから、とぷとぷ、とお湯が注がれる。湯気がやわらかく、照明の下で踊る。花畑の真ん中にいるような、いい香りが胸を満たした。

「これ、どこの?」

「“プリミエラ“という、近所の紅茶店の物です。このフルールの新たな観光資源として、こうしたフレーバーティーを開発、販売しているみたいですよ」

「へえ」

 紅茶の注がれたカップを持ち、光を当てる。一口すすると、角の取れたまろやかな酸味が舌を滑り、胃に落ちていく。その瞬間、胃のなかで花でも咲いたかのように、芳しい香りがした。

「春だね」と思わず呟く。エーレが、カップをソーサーに置いて言う。

「ええ、冬の妖精たちの帰宅も無事に済みましたし、もうじき春が来ます」

「居残った冬の妖精はいた?」

「今年は大丈夫です、みなさん帰られましたよ」

「よかった。あの子達が残ると、春が来ないからね」

「もしそうなったら、助けてくださいますか?」

 エーレの問いに、私は「ふっ」と鼻を鳴らした。

「どうだろう、ずっとここで寝てるかも」

「では起こしに来ますね」

「別に、好きにしてくれ」

 静かな時間が流れる。机の下で、エーレがきっちりと足を合わせる音がする。

「……そうだ。アルマさん、これからの予定はもう決まっていますか?」

 その言葉に、胸の奥で何かがつっかえた。うまく言葉にならない、煙みたいな悪感情は、じっとりと心臓に絡みついた。

「なーんにも無い。今後の終わらない人生、ぜんぶ真っ白さ」

 私は吐き捨てるように言った。

「でしたら、依頼したいお仕事があるのですが……」

「へえ、どんな?」

 エーレは、少し迷うように口を動かす。今まで何度か、魔女の仕事を引き受けたことはある。四季の運行を担う妖精が仕事をしないときとか、いたずら好きな妖精が大量発生したときとか。エーレの言い出しにくそうな素ぶりに、一体なにが来るのか、と私は思案する。

「魔法学校の、教師です」

 紅茶を飲もうとした手が、止まった。私はカップを置き、エーレに訊ねる。

「それってつまり、私にもう一度、魔法を教えろってこと?」

「はい」

 心臓に絡みついた悪感情が、重さを増す。俯くと、机の下は夜のように暗かった。私の白い足が、だらりと力なく床についている。吐いたため息が、静かな部屋に響き渡った。

 言葉が、出てこない。言語化するには大きすぎる鉛色の塊が、胸に濃い影を落としている。俯いたままの頭が、重たくて持ち上がらない。

「今日は、もう、お開きにしようか」

 浮かんできた言葉を強引に繋げて、どうにか捻り出す。

 エーレは、「わかりました」と言って立ち上がる。顔は見れない。

「そのお茶、差し上げます」

 杖で自分のカップだけ片付けると、エーレは部屋を出ていった。階段を降りていく足音が、ドアの向こうに消えていく。

 私はため息をつきながら、椅子にもたれた。屋根裏特有の高い天井は、上に行くほど重たい闇が広がっている。がらんとした静けさに、耳鳴りが聞こえ出す。

 落ち着かない気分をどうにかしようと、紅茶を口に含んだ。冷めた紅茶に、色褪せた花畑を思い浮かべた。窓の向こうを見ようとしたが、映っているのは、だらしなく椅子にもたれてティーカップを持つ、私の姿だけだった。

 きっと教師になれば、こんな日々にも少しは色がつく。妖精と共にあるための魔法やノウハウは十分あるし、人に物を教えるのだって、ブランクはあれどたぶん問題ない。

 でも、やりたいとは思えない。心にうまく力が入らない。多少、暮らしに色がついたところで、どうせ待っているのは、何度も読んだ本のように決まりきった結末だ。

 天井の梁から吊るされたライトは、ポツンと私の影を床に貼り付けている。私ひとりには広すぎるテーブルと、向かいの空いた椅子に、なんだかひどく虚しい気持ちになった。飲み干したカップを、ソーサーに置く。しばらく、椅子から起き上がる気にもなれなかった。

 肩と首の痛みで目覚めた。昨日はそのまま、椅子にもたれて眠っていたらしい。凝った首を回すと痛みは軽くなり、やがて何事もなかったかのように消えた。

 ベッドで寝直そうと、席を立つ。カーテンを閉めようとしたところで、下の通りの様子が見えた。開店した花屋の前を、またあの赤髪の少年が原付で通って行った。

 背後で、ドアがノックされた。

「アルマさん」と、エーレの声がくぐもって聞こえる。

「今夜、もしよかったら、一緒に食事に行きませんか」

 私は身動きを止めて、息を潜めた。返事をするのも、億劫だ。もう誰とも関わりたくない。

 数呼吸たった頃、ドアの下の隙間から、何かがするりと滑らかに入ってきた。足音が遠のいていく。

 気配が消えたのを見計らって、私は部屋に入ってきたそれを拾い上げた。

『今夜、19時。ビストロ“ラパン”でお待ちしています』

 メモの裏には、ここから店までの簡単な地図が描かれている。メモを机に置き、ベッドに腰を下ろす。淡々と光が差し込む窓を見て、つぶやいた。

「出て行こう」

 何もかも面倒だ。誰とも関わりたく無いなら、さっさとこうしておくべきだった。

 ドアの脇にあるクローゼットから、適当に服を引っ張り出す。エーレには悪いが、少しもらって行こう。私は黒い長袖のブラウスに、淡いグレーのワンピースを着た。ローファーを履き、椅子から立ち上がる。バケット帽を深めに被り、頭のツノを隠す。仕上げに、周囲からの認識を避ける魔法を自分でかけた。

 念には念を。もし魔女ではない一般人に、私のツノがバレでもしたら、騒ぎになってエーレに、ひいては魔女業界に迷惑がかかるかもしれない。魔法を使うのは疲れるから嫌なんだけど、しょうがない。

 振り返ると、午前のさっぱりした陽光が、部屋に漂う埃をキラキラと照らしている。荷物は、ここにきた時点で持っていなかったし、後でどうとでもできるからいいか。

 部屋のドアをそっと閉め、足音を立てないように木製の階段を慎重に降りた。

 ここに来て、五年か。退屈だと思っていたのに、過ぎてしまうと、やはりあっという間だ。

 建物を出ると、空気が思ったよりも冷たかった。もうじき三月も終わるとはいえ、標高が高いこの町は、まだ少し寒い。

 これから、どこに行こう。どこに行けばいいんだろう。そんなことを頭の隅でいじりながら、町を彷徨っていると、いつの間にか人ごみに囲まれていた。

「いらっしゃいませー、今ならこの食器がセットでお得だよう!」

「これ高すぎるわ、少し値切ってよ」

「このブローチいいね、いくらだ?」

 たくさんのテントが、道を作っている。その下に壺や食器、絵画やアクセサリーが雑多に陳列されている。そのどれも、色や質感、こまかい傷に、きちんと時間を吸ってきた相応の深みを宿していた。

 蚤の市が開かれている通りは、ぶつかりはしないものの人が多く、足音と話し声がしきりに飛び交っている。私はそんな中を、一人で進んで行った。誰も私に気づいている様子はない。認識阻害の魔法は、きちんとかかっているようだ。

 ほっとしつつも、胸の中で何かが引っかかる。ことん、とビー玉が床に落ちたような、悲しい響きが胸を小突いた。

 これでいい。と私は自分の胸元を握る。どうせ、何をどうしたって、最後には結局、ひとりになっているんだ。それが早いか、遅いか。たったそれだけの違いに過ぎない。

 蚤の市を抜けると、建物に囲まれた小さな公園に出た。蕾のついた木の下では、イーゼルに立てかけたキャンバスに、木組みのカラフルな街並みを描いている老人がいる。私は、公園の中央にあった小さな噴水の縁に、腰を下ろす。ちょぼちょぼと水面を打つ背後の音に、呼吸が整った。

 空を見ると、わた雲がまばらに飛んでいた。

 私が老いなくなって、一体どれだけの時が過ぎたのだろう。ボーッと、そんなことを思う。

 どこか、何か縁がある場所でも思い出せたら、と記憶をめくっていくが、そんな場所はなかった。思い出せるのは、この町に着くまでの数年と、これまでしてきた魔法の研究。あとは、リィラのことぐらいか。

 ふと、屋根の向こうの稜線が視界に入った。魔女が被る帽子のような形をした、不思議な尖り方の山。

「そうだ」

 たしか、あの山の麓のあたりって、エーレから聞いたな。

 私は立ち上がり、山に向かって歩き始めた。

 どうせここを出ていくなら、最後くらい、あのこのところに行ってもいいだろう。

 そこは、町外れの小高い丘にあった。芽吹き始めた木々のトンネルを潜っていく。歩きながら、心臓の鼓動が速くなるのがわかった。変わり果てた彼女の姿を見て、自分がどんな気持ちになるのか、想像がつかない。

 トンネルを抜け、開けた場所に出る。傾きかけた日差しに、目を細めた。

 町を一望できるその中央に、風化した墓標が立っていた。元々は四角だったのだろうが、今は溶けかけの板チョコのようになっている。刻まれている文字も、うっすらとしか読めない。

「ずいぶん、丸くなったね、リィラ」

 私は、少し迷って、墓標の横に座った。鋭い山脈の麓を、木組みの建物がパステルカラーに彩っている。そんな町の中央を、運河が右から左へ横断している。その奥に、真っ白い塔をいくつもくっつけたような城が見えた。フルール城だ。

「狭いようで、こんなに広かったんだ、この町」

 風が、私の髪を大きく撫でた。

「アルマ」と、リィラの声が脳裏に蘇る。懐かしくてあたたかい、大好きだった声。

「私、フルールに残ることにした。ここに定住して、弟子を育てていきたい」

「そっか」と私は答えた。気まずい沈黙が、風と共に流れる。真っ赤な夕焼けを背にして、彼女はまっすぐ私を見た。たなびく金髪の間から、若葉色の視線が私を捉える。

「ごめんなさい、アルマ」

「なんで謝るの? 君が決めたことでしょ」

 私は、そっぽを向いた。心臓がぐっと沈んだ気がした。

「そうじゃ、なくて……」

 その先の言葉は、とうとう聞けなかった。私はすぐにフルールを出て、旅を続けた。以来ずっと、連絡を取り合うこともなく、時が経っていった。それから数十年後、彼女の訃報を知った。報せを受けたときにはすでに、彼女が死んでから、二十年が過ぎていた。

 記憶と共に、怒りにも似たやるせない気持ちが、静かに湧き上がってくる。

 遠くの方で、鐘の荘厳な音色が響いた。頬を、穏やかな風が拭う。オレンジ色に染まる空で、わた雲が羊の群れのように、のんびりとした行進を続けている。あたたかな陽光が、フルールを包み込んでいる。

 私は目を閉じて、胸いっぱいに息を吸った。鳥の鳴き声が、風の囁きに混じって聞こえる。

 気がつくと、口元が緩んでいた。思わず、口元に手を当てる。

「私、けっこう、楽しかったんだ」

 いつだって、最後にはひとりになっている。それは今でも変わらない。でも、それは全部、辛いだけの日々だったか?

 さっきから、リィラとの記憶があふれて止まらない。笑いあったことも、泣きあったことも、後悔したことも、こんなにも、覚えている。覚えているから悲しいのに、なんでこんなにも、あたたかいのだろう。

 町の風景が、視界を滑っていく。ひしめき合う屋根の中で、ひときわ目立つ建物が目に入った。周囲より頭一つ飛び抜けた塔が、三階建ての大きな館にくっついている。私が間借りしていた建物で、エーレの家だ。

「あ」と声が漏れる。

 もし、今夜の食事を、何も言わずに蹴ったら、エーレはどう思うんだろう。

 あのとき目を背けたリィラの顔は、どんなだった? あの先の言葉は、なんだった? 

 浮かび上がった疑問は、心の中の真っ暗な場所に溶けて消える。

 もう、誰にも分からない。教えてもらえない。

 拳を握り締め、立ち上がる。少し強い風が、背中に触れた。

「またね」

 リィラの墓標に静かに声をかけ、私は歩き出した。

 エーレは、店先のランタンの下で待っていた。黒いハイネックに、グレーのチェスターコートを羽織っている。深緑の瞳は、陽が暮れた空に向けられている。胸元の小さなブローチが、瞳と同じ色に輝いている。

「ごめん、遅くなった」

 声をかけるとエーレは少し驚いて、こちらを向く。口を開きかけたエーレに、私は素早く右手を挙げた。

「あ、先に言っておくけど、ご飯で私を買収するつもりなら諦めなよ」

 エーレは「ふふっ」と手を口元に寄せて笑う。

「大丈夫ですよ、今回は個人的なお誘いです」

「さ、いきましょう」と、エーレが店のドアを開けた。

 うさぎのステンドグラスがはめ込まれた、ドアを抜ける。煉瓦と白い漆喰の壁に、素朴な木の梁と柱が編まれている。天井から吊るされた橙色のランプが、店内を満遍なく照らしている。客席は多くないが、それなりに人で埋まっていた。

「いらっしゃい、あらエーレさん」

 大きな声が聞こえた。大量のビールジョッキを両手に抱えた初老の女が、愛想のいい笑顔を向けている。

「こんばんは、おかみさん。ふたりで」

 エーレは親指と人差し指を立てて見せた。

「はーい、いちばん奥の席にどうぞ」

 私とエーレは、案内された奥の席に座った。太い柱のおかげで、店内でもあまり目立たない場所のようだ。

「ここの人は、なんとなく事情を察してくれているので、帽子は脱いでも大丈夫ですよ」

 賑やかな話し声の中で、エーレが言う。

「なんとなく、って大丈夫なの?」

「たぶん、コスプレか何かだと思ってくれるでしょう」

「本当に大丈夫? それ」

 エーレの言うことを信じ、不安ながらもとりあえず帽子を脱いだ。

「これ、メニューとお水ね」

 後からやってきた初老の女は、私と目が合うと一瞬の間のあと、ウィンクして見せた。

「ね、大丈夫だったでしょう?」

 カウンターの方に歩いていく彼女の背中を見て、エーレが言ってくる。

「あー、うん、そうだね」

 もう何も言わないでおこう。私はこっそり、ツノにだけ認識を甘くさせる魔法を施した。

 二人がけの机に、メニューを広げる。ワインをはじめとした地酒の類に、スープとサラダ、あとはこの町の名産である、川魚やジビエの料理が名前を連ねている。

「どれがおすすめ?」

 私が聞くと、エーレは少し迷って、「これですね」と指をさした。

「じゃあ、それで」

「いいんですか? 足りないと思いますが」

「いや、最近はほとんど固形物を摂ってなかったから、たぶん急にがっつり食べると……」

「不死身も、案外不便ですね」

 そう呟いたエーレに、私は乾いた笑いを返した。

 料理を注文したら、私たちは雑談に興じる。

「今日、どこか行かれてたんですか?」

「ああ、うん、リィラのところ」

「そうでしたか」

「いいところだよね、あそこ。景色が良くて、静かで。ちょっと羨ましくなった」

 エーレは水を口に含んで、頷いた。

「私も、あんな場所で眠りたいものです」

「エーレは無理でしょ。一応、偉い人なんだし、みんなが放ってくれない」

「一応じゃなくて、ちゃんと、ですよ。ていうか、リィラ様は偉い人どころか、偉人じゃないですか?」

「それもそっか」

 それから、エーレの仕事の話になった。後継者問題やら、引退したいやら、その他諸々の愚痴を聞いた。いつになく饒舌に悩みを吐き出す彼女を見て、少し微笑ましくなった。

「お待たせ、オニオングラタンスープ、二つね」

 ぽってりとした白いボウル皿に、こんがりと焼けたチーズが蓋をしている。ふつふつと立ち上る湯気からは、微かにハーブとニンニクの香りがする。その香ばしさに、胃のあたりがむずむずしだす。これは、と思った瞬間、私のお腹が鳴いた。

「っふふ」

 向かいで、エーレが吹き出す。お盆を持った店員の女は「ごゆっくり」と微笑んで、戻っていった。ツボに入ったらしいエーレに呆れて、私は短いため息をつく。

「早く食べよう」

「そうですね」

 スプーンを手に取り、表面のチーズをかき分ける。白い湯気がどっと溢れ出し、その奥から飴色のスープがのぞく。それをすくって、入念に息を吹きかけてから、ゆっくりと口へ運んだ。

 やけどしそうな熱と共に、玉ねぎの濃厚なコクと甘味が、口いっぱいに広がる。飲み込むと、自分の食道の輪郭を感じた。胃の底から、温もりが全身に広がる。その温度に、自分の身体がちゃんと生きているのだと、強く自覚した。

 静かにスープを啜るエーレに、私はふと思う。

「エーレは、それだけじゃ足りなくないの? 私に気を遣わなくてもいいよ」

 スプーンを置いたエーレは、「いいえ」と首を振る。

「もうあまり、食べられないんですよ」

「そっか」

 どこか残念そうに笑うエーレに、私はそう返すことしかできなかった。

 エーレの骨ばった手首や指が、視界に入る。まるで、長い時をかけて水や風に削られてきたような、きちんと時間の中を歩んできたものの面影がある。今朝、蚤の市で見かけたアンティークと似ている。

 私は皿の底に沈んでいたバゲットをスプーンで崩し、頬張った。

 スプーンを持つ私の手は、いつから変わっていないかさえ、わからない。淡々とスープを飲む目の前のエーレに、私は忘れかけていたことを思い出した。

 そうだった。私は結局、ひとりになるんだ。飲み込んだスープのコクが、少し苦い。

「はいお待たせ、シュークルート二人前ね」

 平皿が二つ、ドン、とテーブルに置かれる。もくもくと湧き上がる湯気の向こうで、剣の柄ほどもある太いソーセージが、茹でじゃが芋や分厚いベーコンと一緒に盛り付けられている。机の脇に置かれた小鉢には、マスタードが添えられている。

 よりにもよって、肉がこれでもかというほど出てきてしまった。注文をエーレに任せすぎたらしい。無言でエーレを見ると、申し訳なさそうに下を向いていた。

「お願いします、流石にスープだけじゃ、お店に悪いかなって……」

 少食の自覚があるなら、どうにかなったのでは? そう思ったが、来てしまったものは仕方がない。私はため息をつき、自分の胃にのみ、強化の魔法をかけた。

 はち切れそうなほどお腹いっぱいになって店を出ると、夜の静かな冷え込みに、息が白くなっていた。肩に、重たい衣服の感触が乗ってくる。私の肩に、ベージュのコートがかけられている。ホッとするような温もりと着心地に、エーレの方を振り向いた。

「寒いでしょう」

 横のエーレは、杖を自分のコートに仕舞いながら言う。

「寒くても私は死なないよ」

 私がそう言って歩き出すと、エーレはいつもの柔らかい声音で返した。

「死ななくても、寒いでしょう」

 思わず足が止まる。鼓動が早足になるのが分かった。次第に、消化しきれないモヤつきが、心臓のあたりをくすぐった。数秒の沈黙のあと、私は息を吐いて振り返る。

「ずるい女」

「よく言われます」

 そんなエーレの澄ました笑みは、私の中に灯った悔しさに薪をくべた。

「散歩でもしませんか」というエーレの誘いに乗り、私たちは夜のフルールの町を歩きだす。

 橙色の街灯が、石畳の路面をひっそりと照らしている。木組の建物の外壁から漏れる光は、触れなくても温かい。街明かりに染まる教会の鐘楼が、屋根の向こうで見え隠れしている。

「覚えてますか、この公園」

 エーレが指差したのは、木々に囲まれた小さな緑地だった。太い枝を伸ばす木の下に、ブランコがある。

「私が小さい頃、貴女と最初に会った場所です」

 そう言われ、頭の中の記憶を掘り返してみたが、全く思い出せなかった。

「ごめん、覚えてないや」

「だと思いました。五年前、私に初めましてって言いましたからね」

「ごめんって」

 エーレはイタズラっぽく笑って、ブランコの方を眺めた。

「私、いつもいじけて、ひとりあそこに座ってたんです。いじめられてたわけじゃないんですが、自分の努力を、家柄とか才能とか言われるのが、気に食わなくって」

「そこで私の登場ってわけか」

 エーレは笑って頷く。

「またあそこでいじけてた私に、ふらっと現れた貴女がこう言ったんです。『そんなつまらないことで不貞腐れる暇があるなら、魔法の勉強しなよ』って。私すっごく悔しくて、気がついたら、この町の魔女長になってました」

「聞いてもぜんぜん思い出せないや」

 まあ、以前の私なら言いそうなことではあるけど。

「だから、貴女には恩返しがしたかったんですよ。五年前のあの日、ボロボロになって現れた貴女をみて」

「お礼参りじゃなくて?」

「しませんよ、そんなこと。というかできません」

 エーレは少し俯いて続ける。

「せめて、貴女のそばにいて、その苦しみを癒せれば……と、そう思ったんですが、ごめんなさい。きちんとあなたに寄り添えられてるか、まだ自信がありません」

 その言葉に、なぜかリィラのことが脳裏を過ぎった。

 あのとき聞けなかった言葉の続きは、謝罪のわけは、もしかしたら、そんな感じだったのだろうか。

 私は、空を見上げた。街明かりでもかき消せない星たちが、点々と輝いている。

 いつか、世界はあの星々と、私だけになってしまうのかもしれない。誰ひとり例外なく、私以外の全員、先にいなくなる。スープで温まっていた身体が、冷えてきた。息は吐いたそばから白くなり、やがて空の闇の中へ、溶けて消えていく。

 今日は楽しかった。エーレとたくさん話せたし、ご飯もあたたかくて、美味しかったし、久々にひとりじゃないって思えた。

 だからこそ、これからが、とても怖い。終わらない命の中で、私はあと何回、この浮き沈みを経験しなくちゃいけないんだろう。あと何回、希望と絶望を味合わなくちゃいけないんだろう。

「疲れたなあ」

 ため息まじりに、星に向かってつぶやいた。

「そうですね。もう帰りましょうか」

 あっさりとエーレは言葉を返す。胸に、ビー玉代の影がことんと落ちた。

 私とエーレは、帰路についた。話すことがなくなったみたいに、お互い黙ったまま、薄暗い路地を歩いていった。

 屋根裏の電気をつける気力もなく、私はベッドに倒れ込む。青白い静けさが、薄明かりを取り込む窓辺に染み込んでいる。

「疲れた」とつぶやいてみる。

 この疲労感をどうすればいいか、私にはわからない。ましてや、誰かに聞けるものでもない。ため息ばかりが胸に降り積り、息を吸うのだって面倒になってくる。

 窓に顔だけ向けると、まあるい月と目が合った。私は起き上がり、窓を開ける。

 冷えた夜風が、カーテンを大きく揺らした。ふいに、花の匂いが香る。顔を上げると、月と街明かりにかき消されながらも、ちらほらと星が瞬いていた。

 そういえば、リィラはこんなふうに夜空を見るのが好きだった。よく、宿の部屋から、こうして一緒に夜空を見上げた。もう星の数は、かなり減ってしまっているが。

 一緒に見上げた夜空の数を数えていると、度々、リィラが一人で夜空を見ていたことを思い出した。

「そうか」と思わずこぼす。

 彼女が一人で見ているのは、大抵悩んでいた時だった。彼女の背中は、寂しそうだけど、近づいちゃいけない気がして、私は寝たふりをしていた。

 あの時、君はこんな気持ちだったのかな。誰にもいえないけど、どうしようもない苦しみが、胸にあったのかな。

 浮かんだ言葉は、どこに向かえばいいかわからずに、私の胸の中を彷徨う。しばらく外を見たあと、クローゼットを開け、中から箒を取り出した。

 久々に飛んだ空は、少し怖かった。やはりしばらく乗っていないと、勘が鈍るらしい。大曲がりしたり、度々バランスを崩したりしながらも、私は落ち着けそうな場所を探した。

「ここならいいか」

 なんとかいい場所に辿り着き、地面に降りる。

 そこは、町の外れにある高台の公園だった。崩れてバラバラになった石垣が、かつてはあった要塞の気配を暗闇に残している。風が低く響きながら、山の上から押し寄せては、町の方へ消えていく。

 低い石垣の上に腰掛け、町を眺めた。風のせいで潤んだ視界に、街明かりがうっすらと滲んでいる。月には薄雲がかかっており、さながらすりガラス越しに光る電球のようだった。

 ひとりになって、こうして夜風にあたれば、少しは気が楽になると思ったのに、どうにも心は晴れそうにない。

「どうしたらいいんだろ」

 さっきから、無気力と困惑が同時に押し寄せて、息が詰まる。

 本当は、わかっている。生きていくしかないことくらい。でもこんなんじゃ、未来に希望だって持てない。明日に期待できるほど、私に元気は残っていない。

 ため息をついた。もう何回、ため息をついたのだろう。

 朽ち果てた要塞の中、私の影がぽっかりと落ちている。電気の普及で明るくなった世界の空は、かえって真っ暗に見える。ずっと遠くまで、低く響き渡る風の声に、私はひとりなんだと思い知らされる。

 目と鼻の奥で、熱いものが滲んだ。目尻から溢れたその熱が、風に触れて輪郭を表す。言葉にならない、どうしようもない声が込み上げてきて、呼吸が乱れる。嗚咽が石垣に響いた。それを風がさらい、ここではないどこかへ運んでいく。

 ズタズタになった胸の中が元で、死ねたらよかった。でも、そんなことはできない。できたらとっくに死ねている。心が傷ついても、失血死はできない。

 足元の石垣で、何かが微かに発光した。触れた踵が、その光から微細な魔力を感じる。よく見てみると、それは、マリーゴールドの花を表す刻印だった。その意匠に、リィラの姿が思い浮かんだ。

「ねえアルマ、それは何を彫ってるの?」

 私が手にしている小石とナイフに、横で釣りをしていたリィラが指をさした。山中の河原は、風が冷たくて気持ちが良い。

「これは刻印。物に魔法を込めるための模様だよ。邪気払いやお守りになる」

「へえ、すごい」とリィラは目を輝かせて、花の模様が刻まれた石を見ている。

「やってみる? 刻印」

「うん、やってみたい」

 迷わずそういったリィラに、なんだか胸の中が慌ただしく、よろこびはじめる。慣れない手つきで危なっかしくも、一生懸命に模様を作る彼女の横顔は、かけがえのない宝物のように思えた。

 暗闇に光る刻印に触れ、つぶやく。

「そうか、これ、私がリィラに教えたやつだ」

 これが刻まれたのはたぶん百年くらい前だから、年代的にリィラのものではない。それでも、リィラの息吹は、確かに残っている。私は立ち上がり、町を見た。小さな灯たちが、深い夜の闇の中で寄り集まって、町を形作っている。

 そういえば、町って今こんなに明るいんだ。

 擦り切れて色褪せた記憶の景色と、目の前の光景を重ねる。かつて空にあった星々が、地上にごっそり落ちてきたみたいだ。

 その様子に、胸の奥から息が込み上げて、「ふ」と鼻を鳴らした。降ってわいた可笑しさは、次第に大きくなり、ぎこちない笑い声と、咽せる音が石垣に反響する。

 世界はここまで変わっているのに、私は全く変わらない。どれだけ尽くしても、愛しても、私以外の全ては痕跡しか残さない。これからも、私は全てに置いていかれる。

 それはつまり、私が覚えている限り、みんなは生き続けるということで、私は誰の中にもいない、ということでもある。

「やっぱり、すべて分かりきったことじゃないか」

 私は脱力するように、ため息をついた。かじかむ指で、こぼれた涙を拭う。一瞬、指先は熱を帯びたが、またすぐに冷たくなった。

 町の上に広がる空は、なにも映し出さない。ただ底抜けに暗いまま、いくつかの星だけが、小さく浮かんでいた。

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「Fragments」 mikuta @mikutan007

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