カスタニエ 冬『Gilt』

 衝撃と共に、前輪が歪に浮かび上がる。よろめいて、道路脇に僕は停まった。原付のヘッドライトには、鋭いヒビが入っている。タイヤとボディについた真っ赤な跡に、自分の背中が強張るのがわかった。息ができなくなる。嫌だ、振り向きたくない。現実を認識したくない。そう思う自分とは裏腹に、身体は後ろを振り向く。

 小さくて儚げな真っ白い毛並みが、路面に赤と黄の液体をぶちまけて、痙攣していた。

 目を覚ますと、見知った天井だった。汗が体の輪郭をなぞり、ようやく「今、夢を見ていたんだ」と理解した。ベッドから起き上がり、すぐ横のカーテンを開ける。窓ガラスの結露越しに、くすんだ色の空がぼんやりと浮かんでいる。

 窓を開けると、乾燥した風が寝起きの熱い頬を冷ました。隣の屋根の向こう、何本も立っているレンガの煙突からは煙が昇っている。近所の陶器工房のものだろう。下を見ると、コートやマフラー姿の通行人たちが、それぞれ足音を鳴らしている。その様子に、ほっと息を吐いた。吐いた息は白くなって、鈍色の空に溶ける。鼻先がつん、と痛みを感じた直後、くしゃみが出た。

 窓を閉め、キッチンに立つ。お湯を沸かす間に、霧吹きに水を入れた。

 窓の向かいにある背の低い本棚、その上には、僕が作った小さな森がある。森、と言っても欠けた茶碗の中だけど。

 ずんぐりしたフォルムのガジュマルは、その短い葉を一生懸命広げている。カエルが傘にしていそうな、まん丸の葉を持つピレア・ペペロミオイデス。風船みたいに膨らんだ葉が、寄り合っているハオルチア。用意した霧吹きで、植物たちに水を与える。無音の部屋に、霧吹きの音が染み込んでいく。僕は葉と目線を合わせ、調子がどうか確認した。土の状態に、葉の色と角度、共に問題なさそうだ。その小さな愛おしさに、胸の辺りから笑みが込み上げた。

「みんな、今日も元気そうだね」

 葉に触れようとした指先が赤黒く染まっているように思えて、息が詰まった。自分の手を、窓の明かりに照らして見る。灰色の光に当たった指先は、冷たい白色をしている。

 キッチンで、カチッと音が鳴った。お湯が沸いたらしい。気を取り直して、紅茶の入った白い陶器のポットにお湯を注ぎ、待っている間にチーズを乗せたバゲットを焼く。

 お皿は、昨日の蚤の市で見つけた、深い青のものにしよう。食器棚を眺めていると、この町に来てもう三年経ったんだと実感する。蚤の市だけでなく、職人専門学校や、プロの職人たちが定期的に行うクラフトフェスもあるから、こういったものはついつい、増えてしまう。

 トースターがチンッと焼き上がりを知らせ、僕は朝食の作業に戻った。

 こうして、食卓にバゲットと紅茶を置き、腰掛けた椅子をそっと前に引いた。

「いただきます」

 手を合わせ、指先でつまむようにバゲットに触れる。指先を伝った熱に、ビクッと手がのけぞった。熱くないように、端を持ってバゲットをかじる。

 硬い耳が砕ける音で、耳が塞がれた。同時に、焼けた小麦の香ばしさが鼻を抜ける。熱々のチーズが上顎に引っ付いて、涙が出そうになった。自分でも何をどうしたかわからないまま、咀嚼し、飲み込む。バゲットが、寝ぼけている食道を押しのけて、身体の下へと下がっていく。右手でそれをなぞると、へその上あたりで手は止まった。

 ふと、僕の胸の中に、違和感が投げ込まれた。静寂が、小さな叫び声のように聞こえてくる。違和感は大きくなり、数呼吸もしないうちに、薄汚い後悔にも似た疑問になった。

 なんで、僕は生きてるんだろう。

 浮かんだ言葉は、真っ暗な心の奥底に、響きながら消えていく。喉に刺さった魚の小骨みたいな感情に、ため息をつくことしかできなかった。

 食後、諸々の身支度を終えてから、アパートを出た。乾燥した空気が、頬を切るように通り過ぎる。肩を縮こまらせ、ダッフルコートのポケットに手を突っ込んだ。

 駐輪場の前で、自分の原付の白い車体が見えた。血で染まる白い毛並みが、脳裏に浮かび上がる。唇を噛んで、僕は歩き出した。

 先週、僕は原付で野良猫を轢いてしまった。バイト帰りの、薄暗い夜道だった。警察や行政機関に連絡をしたところ、あの事故は自損事故扱いとなり、罰則が下されることはなかった。

 赤いレンガの建物が並んだ通りに出る。クリスマスを過ぎた並木は、すっかり葉を落とし、通り一体の地面を黄色にしていた。横断歩道を渡り、道路にある中洲みたいなトラム乗り場へ向かう。

 乗り場は、がらんと空いていた。乗り場内のベンチに座って、トラムを待つ。乾燥した分厚いプラスチックのベンチに、自分のお尻が冷えていくのがわかった。風が顔を打ちつけると、向かいのホーム越しに見えた歩道で、黄色の絨毯が大きく舞い上がった。

 僕は許されたのだろうか。そんな薄暗い気持ちが、あれからずっと、心に棲みついている。

 トラムのベルが聞こえた。電車を細くしたような淡いベージュの車体が、軋みながらゆっくり止まる。ドアが開き、降りる人を待ってから乗り込んだ。

 車窓の近くに立つと、通りが見える。並木の根のあたりで、白いものが動いた気がした。

 心臓がドッ、と強く脈打つ。胸を抑え、目を逸らした。二駅分、ドアの上に流れている広告映像を眺め続け、トラムを降りた。

 少し通りを逸れて、僕のバイト先に到着した。淡い白の外壁に、深緑の庇(ひさし)がせり出ている。その下の古びた木製のドアからは、琥珀色の店明かりがこぼれている。庇の下に入ると、コーヒーの匂いが微かにした。緩いドアノブに手をかけ、中に入る。

「おはよう、エルモくん」と店長のジローさんが、カウンターの奥で静かに笑った。鈍い銀の髪は、後頭部で団子のように結われている。垂れ目の緑の瞳が、丸いメガネの奥で瞬きをした。

 僕は「おはようございます」と会釈し、カウンター脇の従業員室へ向かった。

 花を模した照明が、店内にやわかい光を添えている。カウンター席を通り過ぎて奥には、中庭が見える窓と座席がある。

「すみません」

 窓の横の座席から、若い女性の声がした。

「はい」と返事をして、注文をとりにいく。

 緑の光が、ダークブラウンのテーブルに反射している。コップに入った水は、庭の木漏れ日を受けて、不思議な模様を透過している。席には赤い長髪の女性と、白髪のショートヘアの若い女性が向かい合って座っていた。一瞬、ショートヘアのお客さんの髪色に胸が痛くなった。フラッシュバックしかけた映像を押し殺し、注文を取る。

「お伺いします」

 僕がペンと用紙を取り出すと、赤毛の女性がメニューを指さして続ける。

「ケーキセットの、タルトタタンと、ブレンドのホットを二つお願いします」

「かしこまりました。砂糖やミルクはお付けしますか?」

 ふたりはお互いに目を見合って、頷く。

「お願いします」

「かしこまりました、少々お待ちください」

 だめだ、仕事にまで持ち込んで、何をやっているんだ僕は。色のない布に墨をぶちまけたみたいに、重たい悪感情が胸を染めていく。

 カウンターに戻り、ケーキの準備をする。

「なに、そんな顔して、どうしたの。あのお客さん、エルモくんの元カノだった?」

 カウンター裏の小さな冷蔵庫を開けると、ジローさんの、伸びやかな声が降ってきた。

「違いますよ。ちょっと、前の、こと思い出して」

「ああ」と何か察したらしいジローさんは、サイフォンをいじる。

「気にすることはないと思うけどね、飛び出してきたのは猫だったし、信号もスピードも守ってたんでしょ?」

「そうですけど」

 ジローさんは、呆れたように短く息を吐いた。

「ああ、そうだ。明後日、休みにするから、よろしくね」

「え、急ですね」

「うん、妻が珍しく休みとれてさ。だからデート」

「そう、ですか」

 墨みたいな黒い感情が、再び胸を重くした。何もしないより、何かしていた方が、気が紛れる。まいったな。

 一瞬、沈黙があったのち、ジローさんが口を開いた。

「……だから、エルモくんにはちょっとお使いを頼みたい。僕の知り合いの陶器工房を掃除するの、手伝ってあげてよ。たしか、もう大学なかったでしょ?」

「いいんですか?」と聞いて、もしやさっき顔に……と口に手を当てた。

「本当は、休んでほしいけどね。まあ、気が紛れる方がいいこともあるし、それに」

 ジローさんはそう言いかけて、鼻で笑った。

「いや、なんでもない。会えばわかるかも」

「なんですかそれ」

 立ち上がると、ティーカップが二つカウンターに置かれた。深緑に、暖色の点描が施されたデザインだ。揺蕩う湯気が、照明のオレンジに染まっている。

「ほら、コーヒーできたから、運んで」

 緑の瞳が、メガネ越しにウィンクする。その柔らかな圧に、僕は「……はい」とお盆を用意した。

 ジローさんに言われ、僕はその日、北地区のとある工房へと向かった。自然が多く残る北地区は、ゆったりした時間が流れるこの町の中でも、長閑なエリアだ。

 トラムを降りると、草と土の湿った匂いが鼻先にふれた。分厚い雲が、視界をうっすら灰色に染めている、僕の住む南地区とは、雰囲気が少し違う。土を押し固めた道路は、わずかに傾斜を作りながら、山の方へと伸びている。道に並んだ建物は、黄土色の素朴なレンガを用いた一軒家ばかりだ。

 コートのポケットからスマホを出し、地図アプリを見ながら、目的の工房に歩き出した。

 ジローさんの説明では、その知り合いの名前は、ジョンと言うらしい。携帯電話も持たないほどの厭世家で、彼の作品が市場に出回ることはほぼない。かろうじて、お世話になっているうちの店に卸しているのだとか。

 アプリに従って10分ほど歩いた場所に、それはあった。煙突が伸びた、戸建ての建物。レンガの屋根には、苔が生えている。御伽噺の、魔女が住んでいそうな家だ。その手前に広がる庭で、薪を割るカーキ色のツナギ姿があった。

 僕が立ち止まった瞬間、その男性の背中がピタ、と止まる。庭に生えている大きな柳の木が、静かに揺れた。

「あの、こんにちは。ジローさんのお使いで来た、エルモなんですが」

 男性は左手に持っていた斧を置いて、立ち上がる。振り返り、こちらに歩いてきた。

「エルモ・リスキか」

 淡々と、上から降ってきたその男性の声に、思わず固唾を飲む。僕よりずっと背が高く、見上げる形となった。心臓の鼓動が、にわかに速まる。

「は、はい。あなたが、ジョンさんですか?」

「そうだ」

 白髪混じりの黒髪は、無造作に分けられている。険しい目つきで、頬や口に生えた無精髭がより、頬の影を強くしている。なんというか、冷たい黒曜石みたいな雰囲気だ。

「入ってくれ」

 そう言うと、ジョンはまた庭の方へと歩き出した。ふと、彼の右袖に目が行った。袖の先には何もなく、ただ芝の緑色が見えている。

「お、お邪魔します」

 数歩後をついていき、僕は恐る恐る彼の工房に足を踏み入れた。

 外観とは裏腹に、中は無骨な部屋だった。乾燥した粘土の汚れが目立つ作業台を中心に、電動ろくろや、汽車の先頭みたいなものが並んでいる。壁際では、木製の素朴な棚の横で、窯が艶のない灰色の管を天井に伸ばしている。粘土の汚れからか、全体的に色がない。

「ジローから、何か聞いているか」

 ジョンの声に、思わず背筋が伸びる。

「えっと、掃除の手伝い、としか」

「そうか」とだけ言い、ジョンは棚を漁り出した。

 あの人がなんでここに僕を送ったのか、嫌な予想が脳裏をよぎる。ジローさん、思う存分この怖そうな人からいびられて来なさい、なんて思ってたんじゃなかろうか。

「エプロン、これでいいか?」

 いつの間に目の前にいたジョンは、紺色のエプロンを差し出していた。

「あ、ありがとうございます」

 内心とてつもなくビビったが、どうにか平静を装って、エプロンを受け取った。

「じゃあ、それ着たら、作業台の掃除を頼む。俺は窯とか、ろくろとか、複雑なのをするから」

「は、はい!」

 エプロンを着て、僕は作業台の掃除に取り掛かった。乾いた粘土は古い皮膚のように、ボロボロと剥がれていく。まるで、作業台が脱皮しているみたいだ。

 この町の陶工たちはクリスマスを過ぎて大晦日になるまでの今の時期、自分たちの工房を丁寧に掃除するのだと、文化史の授業で習ったのを、頭の片隅に思い出した。窯を丹念に掃除しているジョンに、こっそりと目をむける。

 怖そうだけど、律儀な人なんだ。

 ぎろり、と鋭い視線がこちらに向きかけ、僕は慌てて机拭きに戻った。

 さっきからこのひと、視線や足音に敏感すぎじゃないか。

 事前情報にあった、厭世家という言葉が浮かび上がる。それにしては普通に喋れてるし、いい人そうだけど。

 そう思ってもう一度、ジョンの方を見ると、今度はバッチリ目が合った。

「何か」とジョンが呟くように聞いた。

「い、いいえ、すみません!」

 僕は一層、掃除に励んだ。

 どれくらい時間が経ったのか、気がつくとお腹がなっていた。

 ジョンが、パキパキとどこかの関節を鳴らして立ち上がる。

「昼飯にしよう」

「え、でもまだ」と言いかけるが、ジョンは首を横に振る。

「どんな時でも、食事と睡眠と風呂は欠かしてはいけない。着いてきなさい」

 僕は、ジョンに案内されて、工房の奥のドアから、母屋に入った。

 エプロンと靴を脱いで、フローリングの床を歩く。白い漆喰の壁に、古い材木の骨組みが浮き出ている。暖炉の前には、テーブルと椅子がある。

「そこにかけて待っていてくれ」

 ジョンはキッチンへと消えていった。

「はい」と僕は言われた通り、椅子に座る。

 テーブルには、陶器の一輪挿しが置いてあった。深緑の地肌に、オレンジや黄色の点描で、大小様々な帯が描かれている。しかし、何の花も飾られていない。窓から差し込む灰色の光が、テーブルに一輪挿しの影を伸ばしている。

 なぜか、一輪挿しに目が行く。特別変わったデザインなわけではない、普遍的なものに見えるのに、たしかな存在感がある。この一輪挿しだけでもう、静かに葉を落としていく枝が、生けられているようだ。窓の向こうで、木々のざわめきが、聞こえた気がした。自分の胸の奥の何かに触れられているような、奇妙な感覚に、一輪挿しから目が離せなくなる。

 キッチンから、擦るような足音がしてくる。

「サンドイッチだ」

 そう言って、ジョンはテーブルに二つの皿を置いた。

「いえ、ありがとうございます」

 ふと、店長から預かっていたものを思い出し、僕は自分のカバンを漁る。

「あの、これ、店長から渡すようにって、言われてて、すみません」

 コーヒーの入った茶色の包みを差し出すと、ジョンは一瞬、嬉しそうに口角を上げた。

「淹れてこよう」

「あ、僕、やりますよ」

 僕が立ち上がると、ジョンは足を止め、少し振り返って「大丈夫」と言った。

 程なくして、コーヒーの穏やかな香ばしさが香ってきた。テーブルの一輪挿しと同じ模様のマグカップが、サンドイッチの横に置かれる。

 並んでわかったが、サンドイッチの皿も、マグカップも、一輪挿しと同じ雰囲気を持っている。それに、店にも似たデザインのティーカップがあった。もしかしなくても、これはジョンの作品なのだろう。

「さ、食べよう」

 ジョンは座って、そう言った。

「いただきます」と手を合わせ、サンドイッチを齧る。みずみずしいトマトとレタスが、喉を潤した。野菜に隠れていたベーコンの旨みが、噛むたびに溢れてくる。ソースのピリッとした辛さが味を締め、チーズのまろやかさがコクを出している。

「美味しいです」

「そうか」

 ジョンは持っているマグカップで口元を隠して、そう返した。

「俺が、怖いか」

 いきなり飛んできた質問に、僕はコーヒーを咽せた。

「い、いやそんな」と言い淀んでいると、ジョンは首を横に振る。

「いいんだ。むしろ、あんまりグイグイ来られるのは嫌だから、助かる」

「は、はあ」

 なんて答えればいいかわからないまま、僕はとりあえず返事をした。

 コーヒーを飲んでいると、どこからか、猫の鳴き声が響いた。

「帰ってきたな」

 ジョンが呟くと、鈴の音がリビングに近づいてくる。

 僕はマグカップを置いて、両手を机の上で重ねた。胸の上に何かが乗っかったような、息苦しさを覚える。

 やってきたのは、三毛猫だった。三毛猫は僕を一瞥すると、すぐにジョンの方へと歩いていく。

「おかえり、ずいぶん遠出したんだな」

 ジョンは立ち上がって、三毛猫をだき抱える。三毛猫は、ニャウニャウと何か鳴きながら、ジョンの頬を舐めた。

「猫が、苦手だったか」

 ジョンにそう聞かれ、僕は口をぱくつかせた。

「いや、苦手、というか……」

 言えない。言えるわけがない。猫を飼っている人には、特に。

「大丈夫だ、ジローから、ざっくりと話は聞いてる。この子は、工房には入ってこないから」

「はい、すみません」

 食後、僕は一足先に掃除を再開した。

 窓の下に、小さな流し台がある。そこの粘土汚れを、プラスチックのヘラでこそぎ落とす。静かな工房に、粘土を擦る音が淡々と響く。自分の胸の中で、炎のように叫び散らす無数の感情を感じながら、僕はひたすら掃除に徹した。

 耳の裏が熱い。自分の吐瀉物を、自分で片付けてるみたいな、惨めったらしさと苛立たしさに、息ができなくなる。

 あのとき、もっと上手く避けられていれば、痛みを恐れず転んでいれば。自分をこんなふうに嫌ってばかりいる最近の自分のことも、嫌いだ。

 鏡のように綺麗になった流し台に、自分の顔が映っていた。赤茶色の髪が、瞳の面積が小さい目にかかっている。頬には、青白い影が入っている。久々に見た自分の顔は、死人みたいだった。

 工房の掃除を終え、僕はジョンに駅まで送ってもらった。夜に沈みかけている街は、深い藍色だ。街灯と家の明かりが、石畳の道に影を作り始める。遠くの稜線は、オレンジ色に縁取られて、燃えているみたいだ。

 駅に着いたところで、「今日は助かった」とジョンが茶封筒を差し出す。

「いいんですか」

 ジョンは無言で頷き、茶封筒をそっと突き出す。

「ありがとうございます」

 僕は両手で受け取り、カバンにしまった。

「その、君が抱えてることについて、だけど」とジョンは徐に口をひらいた。

「贖罪っていうのは、ほとんど個人の問題だと思うんだ。誰に許されたか、法的に許されたか、けれどそれを受け取り、意識を手放すのは自分自身だ」

 どこか遠くで、鳥の甲高い鳴き声がこだまする。

「そして、手放さないことも、手放すことも、簡単に善悪で分けられることではない。どうするかは君次第だが、どうすべきかを他人に委ねすぎると、きっと苦しいままだろう」

 よく冷えた風が、山の木々を揺らす。静かな歌みたいなざわめきは、この駅前の数秒の沈黙を、そっと包んだ。

 あの一輪挿しを見たときの心の感触が、はっきりと蘇る。どこまでも無音で、痛々しいくらい一途で、涙が出るほど切実な感情。きっとこれは、祈りだ。

 ジョンは、「語りすぎたな、すまない」とバツが悪そうに言う。

 僕はハッと我にかえり、首を横に振った。

「いえ、ありがとうございます。なんか、ちょっとだけ気が楽になりました」

 ジョンは目を細めて、「そうか」と笑った。

 トラムに乗り、南地区に戻る。僕は車窓を眺めながら、自分の胸に手を当てた。

 相変わらず、まだ申し訳なさはあるし、罪悪感は燻ってる。けど不思議と、前のような息苦しさは伴わない。

 建物が増えはじめ、西陽が街明かりに変わっていく。最寄りに降りると、すっかり夜になっていた。

 乗り場から出て、並木通りを歩く。すると、木の根っこのあたりで、何か白いものが動いた。

 立ち止まって見ると、白猫だった。その真っ青な瞳と目が合う。沈黙が流れる。

 僕が一歩踏み出すと、猫は素早く、通りの奥へと逃げていった。

「ああ」と、僕は思わず苦笑した。

 まあ、仕方がない。帰って、ご飯にしよう。

 歩き出すと、並木の間から月が見えた。あの白い毛並みのような月の光に、僕は「忘れないよ」と呟く。

 街明かりに白く染まった息は、風の輪郭をなぞって消えた。

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