ノウス 秋『One day』
寝起きの身体は、ひどく鈍かった。天井で、沈黙したランプがぼやけている。私は鼻から大きく息を吐いて、ゆっくりと三度まばたきした。重たい瞼の裏で、水分を失った目玉がゴロゴロ唸っている。渇いた口の中で、舌を身じろぎさせると、ちょっと咽せた。
ベッドの横のカーテンからは、嫌味なくらい新鮮な光が漏れていた。枕元の時計を見ると、九時五十九分五十八秒。素早く時計のボタンを押し、鳴る前にアラームを止める。
ベッドを出ると、自分の肉が地面に引っ張られるのを感じた。ここ二、三年、体重に異常は見られないのに気だるい。
カーテンがレーンを走る鋭い音とともに、部屋が明るくなる。日差しの温もりに目を瞑り、思いっきり伸びをした。張り詰めた弦を弾くみたいに、息を吐く。
目を開けると、窓の向こうの街が一望できた。坂の下では、街が生気なく広がっていた。カーキ色の蔦はレンガの外壁を覆い、気配の褪せた灰色の電信柱は、鳩やカラスの止まり木と化している。虚ろな顔色の貯水タンクが、ビルの屋上の際に立っている。そんな統一感のない建造物の数々は、それぞれ違う形の陰を落とし、この街を形成している。遠くで、船の汽笛が低く不安定な音色を奏でた。
ノウス南区の朝は、今日もうっすら汚く始まる。
棚の類が一切ない、のっぺりとした浴室でシャワーを浴びる。壁に飛び散った水滴が、どうしようもなく下へ滑り落ちていく。
鏡の前には、無数の線が付いた私の身体があった。硬く盛り上がった肩や腕、六つに割れた腹の上から、太ももにまで、傷跡は浅かったり深かったりしながら広がっている。赤みがかった焦茶の髪は、色のない頬にまとわりついている。寝過ぎたせいか、焦茶の瞳のまわりはほんのり赤い。うっすらと、目元にシワができた気がする。床に置いてあるボディソープを押し、手の中で泡をつくる。
右の乳房の下に、青紫のあざが花のように広がっていた。泡だらけの手で触ると、昨日より痛みがマシになっている気がした。痛みに慣れてきたのだろう。
体を拭いたタオルを、すでに満員に近い洗濯機に押し込む。青緑の半透明な液体洗剤を入れ、やたら良い匂いのする柔軟剤も少々垂らしたら、スイッチを押す。
「後で干すのがだるいな……」
愚痴をこぼしつつ、ベージュのブラトップを着て、それと似た色のパンツを履く。ゴゴゴゴと震え出す洗濯機の騒音を、小ぶりなドライヤーの駆動音で誤魔化したら、脱衣所を出た。
30平方メートルのワンルームには、リビングダイニングと寝室、キッチンが同居している。リビングはテレビとソファ、物干しスタンドが占領しており、その横では小ぶりなダイニングテーブルが、わずかばかりの椅子とともに置いてある。
ベッドに座り、黒いタンクトップとすっかり色落ちしたジーンズに着替えたら、そのままダイニングに向かう。テーブルの上にあった黒いリモコンを手に取り、スイッチを押す。骨格標本みたいな、がらんとした物干しスタンドの向こうで、テレビがつく。静かな部屋が簡単に賑やかになった。
私は、カウンターで仕切られたキッチンに入った。銀色の作業台には、食パンの入った袋が一つある。シンク横の食器網で逆さになっていたコップに水を注いで、一気に飲んだ。冷えた感触は喉を通り、平和的に臓物の形を知覚させた。
食パン一枚と、ハムとチーズを一緒にトースターに入れ、焼き上がるのを待つ。
テレビの方に目を向けると、生放送のバラエティ番組が健康について取り扱っていた。
『ところで、みなさん昨日の晩御飯は何食べたか覚えてますか?』
「何だったっけ……」
明るい声の司会者の投げかけに、何気なく記憶を手繰り寄せる。
しかし思い出せたのはせいぜい、事務所から他のエージェントの仕事を引き継いだこと、だけだった。スラスラと答えていく出演者の、その衣服の黒に、キッチンで首を傾げた自分の姿が反射している。
トースターが、チンッと鳴った。小麦の焼けた香りに、三分経ったらしいと知る。画面の向こうでは、記憶力を上げる方法が語られていた。三分できっちり焼けたハムチーズトーストに、私だけ取り残されてしまったような静けさが漂った。
ほぼ空っぽの冷蔵庫の中から、卵を取り出す。家に一つしかないフライパンに油を垂らし、火にかける。ガスの臭いが鼻と喉の間に触れた。油がフライパンの上を滑るようになったら、卵を割った。透明だった卵白が、はぜるような勢いで白く染まる。ベタついた指先を水で洗い流しながら、しばらく待つ。全体的に固まってきたら、フライ返しで持ち上げ、トーストの上に乗せた。
黒胡椒の容器を取って、その中がカラだと気づいた。前の仕事の怪我でここしばらく動けていなかったから、買い出しはしていない。
「あとで買いに行くか」と、諦めてその場でトーストをかじる。ハムの微かな塩味とチーズの酸味が、ドロッとした卵黄と共に口の中へ流れ込んだ。
そのままキッチンで食事を済ませ、皿とコップ、フライパンを軽く洗う。
テレビでは、昔のドラマが再放送されていた。子役とその父親役の男が、大きなリビングでお笑いのようなやり取りをしている。そこへ母親役の女がやってきて、「チェリーパイができたわよ」と抑揚たっぷりに言う。画面越しのありふれた家庭の光景をよそに、皿に付いた卵黄を親指でこそぎ落としていく。
なんだか無性に喉が渇いてくる。これを洗い終えたら、水を飲もう。
洗濯機が電子音を上げるには、部屋の掃除機がけまで終わっていた。カゴに入った洗濯物を、リビングにある物干しスタンドにぶら下げていく。全て吊るし終えると、物干しスタンドはカバのように肉付きの良い感じになっていた。
時計を見ると、午前十一時半を過ぎていた。
「そろそろ行くか」
私は椅子にかけていた淡いベージュのアウターを羽織り、部屋を出る。廊下の途中に出っ張った棚から、使い古した折り畳み財布を持ち出す。中には紙幣と小銭、そして鳩の紋章が刻まれた金貨が三枚入っている。閉じた財布は、アウターの裏ポケットに忍ばせた。
靴箱の横にあるポールハンガーから、チェストバッグを引っ張って肩にかける。ハンガーのてっぺんに置かれた、丸みを帯びたバイクヘルメットが小刻みに揺れた。履いたスニーカーはキツ過ぎず、ゆる過ぎない。
外に出ると、金木犀のむっとする香りが、喉に焼き色をつけてきた。穏やかながら刺すような陽の光に、自分の顔がくしゃくしゃになっているのがわかる。薄目を開けると、木の先端の淡い緑色が手を振っていた。落ち着いた風が私の胸をすり抜けて、通路の奥へと駆けていく。
レンガの階段を降り玄関を出たところで、左から小さな気配がした。直後、「わんっ」とあざとい鳴き声が響く。
傍にある木の柵の向こうから、たんぽぽの綿毛みたいな丸い子犬がこちらを見ていた。
「お、ポチじゃ〜ん、元気かー?」
私は柵の前に屈んで、可愛らしい白毛玉を包むように撫でた。ふはふはの縮毛の奥で、かすかな温もりが灯っている。その温度の儚さに、私はそっと手を離していた。
柵の奥から、肉の少ない老人の足音がスカスカと聞こえてくる。
「ポチじゃなくてエリザベスよ、ティプシーさん」
シワの刻まれた声に顔をあげると、濃い紫のTシャツとサンダル姿の、老婆が歩いてきていた。
「ああ、大家さん、こんにちは」
大家は呆れた顔で、私の顔面を注視する。その視線に胸が痛くなり、私は目を逸らしたくなった。
「ティプシーさん、久々に見たと思ったら、お化粧もせずにどこに行くの?」
「買い物です、けど」
大家は鼻でため息をついて、子犬を抱き上げる。大家の訝しむような目つきに、湿気の高い日のような倦怠感を覚えた。
「家賃は払っているから問題はないけど。あなた、ずっとそんなふうに暮らしていく気なの?」
大家の文句に、心臓の下を素手で触られたような不快感が走る。
「まあ、一応考えてるので、大丈夫です」
「ならいいけど……」
「じゃあ、もう行きます」
私は間髪入れず会話を切り上げ、その場を立ち去った。
『あなた、ずっとそんなふうに暮らしていく気なの?』
大家の言葉が、耳と心臓にこびりついて、嫌に離れなかった。
長い坂を降り、港付近の商店街に足を踏み入れる。私の住むマンションがある、丘の上と異なり、空気に猥雑さが混じっている。
『南区商店街』という看板の下は、フィルムカメラを通したような、少し黄みた賑わいを見せていた。店と店の隙間に蔓延ったダクトの奥では、胡散臭さが夜を待っている。
脳内で次の行動を練っていたら、私のお腹がグゥ〜と不服そうに鳴いた。どうせ買い物はすぐ済むし、先にご飯を食べよう。
商店街を奥へ進みながら、店を物色していく。チェーンレストラン、ファストフード、カフェ、どれもしっくりこない。お腹は減っているのに、指針となる食べたいものが見つからず、次第に心の中の何かが空転しだす。周囲の喧騒が頭に響いてやかましい。街中なのに、だだっ広い砂漠で遭難しているみたいだ。スピーカーからは、最近流行っているらしいアイドルの曲が、永遠にリピートされている。
気がつくと、商店街を抜けて鉄道の高架下に来ていた。もうどこでもいい、次に目についた店に入ろう。そう腹を括った私は、結局三軒ほど見送った挙句、高架下の煉瓦造りのダイナーに入った。
「らっしゃい」
おじさん店主の気だるそうな声が、ラジオが吐く陽気なポップスと共に聞こえてくる。ベーコンの油の香りが、空っぽの胃をくすぐる。まるで秘密基地のような店内は、細長く奥まで続いていた。壁にかけられた舵や、均等に並んだ丸い窓は、船を彷彿とさせる。黒く艶やかなフローリングに、私は深い足音を刻んだ。
右側はレジとカウンター席で、おそらく店主の初老が一人、メガネをくっとあげて、虚な瞳で新聞を読んでいる。左のボックス席には制服姿の男子が三人、荷物を広げていた。ここら辺の高校の校章の入った、カバンとブレザーが小さな山を作っている。
「くっそぉまた負けたあ!」
「そのソシャゲ、そんなにおもしろいのか」
「食べないならポテトもらうわ」
丸い窓から差し込んだ陽の光は、彼らをやわらかく包んでいる。
私は彼らの横を通り過ぎ、薄暗いカウンターの一番奥に座った。木のカウンターテーブルにはたくさんの傷があり、座った椅子のクッションは潰れている。テーブルナフキンの横に置いてあったメニューを、ペリペリと開いた。陳列されたメニュー名の横に、なにかしら一言が添えられている。
「なになに……最速提供のサンドイッチ、コスパ最強ハンバーガーセット……」
やる気の無い店主だと思ったが、意外とこだわりが強いのか。もう一度、店主の方を見たら、まだ仏頂面で新聞を眺めていた。視線は向けてこないが、ややこちらに向いた姿勢や、忙しなく動く靴のつま先から、こちらを意識しているのがわかった。
メニューに視線を戻すと、『おふくろの味チェリーパイ』というのが目に入った。自然と喉が動く。視線がこの文面に吸い込まれていく感じがする。でも同時に、これ以上近づいたらまずいような気もした。
店の上を電車が通った。ガタンガタ! と店が数秒揺れ、騒音によるある種の静寂が来店した。振動がフェードアウトして行ったのを見計らい、私は店主の方を向く。
「すみません、サンドイッチとチェリーパイをください」
店主はこちらを一瞥すると、返事の代わりに短いため息を吐いて立ち上がった。カウンターの向こうが賑やかになる。
「あ、水はセルフサービスだから」
じゅわわ、ぱちっ、とベーコンの焼ける音が響く中、店主は振り向かずにそう付け足した。
サンドイッチは、本当に速く来た。耳のない白いパンは三角形に両断され、間にはベーコンとレタス、チーズが挟まっている。一つ掴んで、かぶりつく。しっとり冷たいパンの、小麦の香りがツンと鼻に響いた。ベーコンの濃い油の風味と塩気は、シャキッとしたレタスでもカバーしきれないほど強い。サンドイッチは、あっという間に皿の上から消えた。お腹に手を当てると、得体の知れない虚空の中に沈んでいくサンドイッチの重さがあった。腹五分目くらいか、とナフキンで口を拭く。
それから程なくして、チェリーパイがやってきた。白い陶器皿に、赤い身がぎっちり詰まった三角のパイが乗っかっている。その上ではバニラアイスの大玉が、白い川を作っている。細かく弧を描いた耳は、少しこんがりしすぎなくらいだ。
フォークを刺しナイフの刃を当てると、真っ赤な中身が零れ出た。チェリーのショッキングな色とアイスの白が皿の中で混ざり、ピンクの水たまりができる。切り分けた先端でその水たまりを拭い、頬張った。
強い酸味と甘味に、脳を殴られたような衝撃を覚える。アイスのひんやりとした甘さがチェリーを緩和する。ビスケットぐらい固いパイ生地を歯で砕くと、小麦の香りが鼻に広がった。もう一口、頬張る。酸味がピリリと痛い。思っていた三倍は暴力的な味だ。半透明のコップに注いだ水を飲み、口の中を落ち着かせる。残りのチェリーパイも食べ切ると、すっかり満腹になっていた。チェリーパイの酸味が口の中で残って消えず、落ち着かない。
これを食べて、母親の顔を思い出すやつは一体この世に何人いるのだろうか。少なくとも私はそこにはいない。
じゃあ、どんなチェリーパイなら思い出せるかと考えてみたが、それはそれで出てこなかった。代わりに出てきたのは、小汚い路地裏で過ごした日々のカケラと、師匠が食わせてくれたチキンのチーズ焼きだった。
うっすらと、胸の奥でモヤが広がる。今朝のドラマを思い出した。
チェリーパイは、想像とはだいぶ違った。けど、そうだ、あれはフィクションだった。
頭の上では、古ぼけたシーリングファンが虚ろな様子で空転し続けている。それを見ていたら、返ってモヤついた気持ちが増した。
席を立ち、お会計を済ませて店を出た。日差しに、眼球が押し潰されるような痛みを感じた。真っ白な視界で、左から自転車の走行音がする。さっと後ろに下がり目を開けると、ちょうどお婆さんが自転車で前を過ぎっていった。
チリンチリンと、遠ざかる自転車のベルの無情さに、ため息が湧き上がってきた。
商店街のスーパーで胡椒を買ったら、鉄道の高架線沿いを進み駅に入った。硬質な足音たちに、電車のアナウンスが入り混じっている。しかし改札には通らず、手前の階段を降りて地下に向かった。旅行の広告が、傾斜に合わせて陳列されている。
『カスタニエ・秋のグルメ旅』。白い陶器の皿に、栗やくるみをはじめとした木の実が乗っかっている。目に優しそうな、穏やかな赤と黄のコントラストに、綺麗だな、と思った。
旅行なんて、どう行ったらいいかわからない。仕事で遠出することは数度あったけど、観光って何すりゃいいんだろう。観光名所にワクワクしてる自分なんて、想像できない。
地下はカビと硫黄の匂いがする通路だった。黄ばんだ蛍光灯が、タイルで埋められた壁と床を浮かび上がらせている。天井では案内の看板が、うっすら光を放っている。左に行くと地下鉄南区駅、右に行くと地下商店街だ。なぜか硫黄臭い強風に、髪とシャツと、買い物袋をたなびかせ、右に曲がった。自分の足音が淡々と響く。地上よりも空気が悪いのは確かだが、気分的にはまだ、ここの方が息をしやすい。白いタイルだった壁がラクガキ混じりのシャッターになり、天井のパイプの本数が増える頃、そこはもう地下商店街だった。死んだようにのっぺりと光る非常口のサイン。配電盤からは無数の管が、植物の根のように壁と天井を這っている。壁や柱は落書きとステッカーに塗れているのに、人の気配だけはぴたりとない。
そんな商店街の中で、無音なのにやかましい店があった。カラフルかつ異様に盛り上がった外壁は、すべて個包装のお菓子の類だ。タバコと瓶のジュースや酒も置いてある。大量の商品の中に埋もれる形で、鳥の巣みたいな白髪頭がミリタリー雑誌の奥からのぞいていた。私は財布から鳩の金貨を二枚取り出し、カウンターに出す。
「おやっさん、“洗剤”を一箱頼むよ」
ぎょろっとした大きな両目が私を見る。真っ黒な瞳孔は小さく、細かい赤線が白目を縁取っている。
「“霧吹き”の方は?」
老人のビブラートのかかった声に、私は首を横に振る。
「今回は大丈夫」
店主は無言でカウンターの下に消えると、灰色の箱をドンっと取り出した。しっかりとした重量が、壁の商品たちを揺らす。私はその箱を素早く買い物袋に入れる。椅子に座り直した店主は、ニコッと笑みを浮かべた。顔の半分が引き攣っていて、黄色い歯が唇から溢れている。しかし目は、とても優しげだ。
「グッドラック、ティプシー」
店主は金貨を撫でるような手つきで回収し、そう言った。
「ありがと、また来るよ」
私も自然と笑みを返していた。
地下鉄の連絡路を歩きながら、何気なく振り返る。硫黄臭い風が吹いて、私の髪をふわっと蹴散らす。そういえば今、私はどんなふうに笑っていたんだろう。
帰宅すると、日はだいぶ傾いていた。荷物をダイニングテーブルに置いたら、すぐにカーテンを全て閉める。そしてシャワーを浴びたら、新しく出した黒いタンクトップと黒いコンバットパンツに着替える。髪は後ろでしっかりと結び、両手には使い捨ての青いゴム手袋をはめた。寝室で、ホルスターがついたサスペンダーを装着する。
続いて、ベッドの下からスーツケースを取り出し、ダイニングテーブルの上で開けた。
L字にくり抜かれたスポンジ生地に、隅々まで黒いハンドガンがすっぽり収まっている。その横には長方形の弾倉、真っ黒い筒のようなサプレッサー、折り畳まれたナイフが並んでいる。買い物袋の中から出した小箱を開けると、弾薬たちが行儀良く、その平べったい金色の尻を向けていた。弾薬を弾倉に込めていく度、金属の張り詰めた音がリビングを震わせた。カチャッ、カチャ、と仕事道具の準備は着実に進んでいく。半分引いた銃のスライドから、内部故障が起きていないのを確認したら、サプレッサーを取り付け、左腹のホルスターに仕舞った。折り畳まれたナイフは手の中で翻し、出した刃に光を這わせる。刃をしまい、ナイフはコンバットパンツのポケットに入れた。道具の準備が整ったら、キッチンでコップに水を入れた。それで口を潤したら、跳ねないようにそっと、シンクに吐き出す。
不意に込み上げてきたため息が、落ち着かない静けさの部屋に響いた。洗濯物で肥えた物干しスタンドが目に入った。帰ったら片付けなきゃ、という憂鬱が薄い膜を胸の裏で張る。しかし家のことを完璧にしてから仕事に行けるほど、私は勇敢じゃない。そんなことを思い出したら、憂鬱は霧散していた。ゴム手袋は捨て、指先まで黒いタクティカルグローブをはめる。
黒のMA-1を着て、廊下に出た。呼吸はゆっくりと、たっぷりと。鼻から吸って、口から吐く。肺が膨らんで、萎むたび、私の中では冷たいものが充していく。
それまで騒がしかった静けさが、ナイロンの糸を張ったように鋭く、ピン、と無になる。
最後に息を吐き切れば、一体の機械が廊下に立っていた。納戸から出した、黒いフルフェイスヘルメットを被る。姿見で目視の確認を済ませたら、全身にさっとドライヤーをかけた。
玄関を閉めると、風がジャケットの表面にぶつかって散り散りになった。真っ白な蛍光灯が、夜の闇に淡々と廊下を投影している。等間隔でライトを頭に反射させながら、今回の仕事内容を頭で再生する。
ある男の顔写真が脳裏に浮かぶ。明るい赤茶色の短髪、左こめかみに傷、薄汚れたネズミのような人相だ。家族なし、逮捕歴は片手で数えられるほど。
目的は、ターゲットの抹殺と所持している現金の回収だ。場所は埠頭付近の安ホテル。私の前任が作った資料に不備がある可能性も捨てきれない。また、ターゲットが予想外の行動をとる可能性もあるため、予定はいくつか立てておいた。
今回の仕事のために考えたいくつかの計画が、同時にかつ高速で脳を流れていく。そしてそのシミュレーションは血管を伝って、全身の筋肉に浸透していった。
マンションを出たら、事務所指定のレンタカー屋に歩いた。がらんとしたその店で黒のスポーツバイクを借り、そのまま夜の街へ繰り出した。
夜のノウス南区は品のかけらもない。排気ガスの立ち込める大通りを走ると、バイクのボディをネオンの極彩色が滑っていく。エンジン音に負けない賑やかさが、道の両側で絶えず響いている。私は呼吸で心音の速度を抑えつつ、目的地へ向かった。
大通りを離れ、バイクを路地の隅に停めたら、さらに二ブロック奥の路地に入った。そのL字に曲がった路地は、先ほどの喧騒が嘘のように静かだった。数本もない街灯はかろうじて道を映し出し、突き当たりにある小汚いホテルの入り口は、いくらか電気が通っているだけの廃墟だ。
幸い、人は誰もいない。私はホテルの入り口がよく見えるよう、少し離れた建物同士の隙間に身を潜めた。
心音がくぐもったリズムを刻む。向かいの壁際で、蓋が付いたバスタブのようなゴミ箱が、カーキのその身にわずかな光を反射させている。
足音がした。やや大股で早歩き、二十代の男性らしい歩調だ。真っ黒な人影が、突き当たりの左から現れた。
明るい赤茶色の短髪、左こめかみに傷。薄汚れたネズミのような人相をした男だった。実際に見ると、心なしか写真より痩せている。
可能性は低いが、ダミーの可能性もある。私は慎重に、標的の男の様子を伺った。
標的は黒のアタッシュケースとコンビニの袋を持っていた。キョロキョロと周囲を気にしながら、足音を消している。荷物とは別に、歩き方がやや左に偏っているのは、ジーンズのウエストに銃でも忍ばせているからだろう。標的は、滞在しているはずのホテルには入らなかった。
ちょうど向かいのゴミ箱の蓋が、遠慮がちに軋んだ。標的は怯えながら、しきりに左右を確認する。そして持っていたコンビニの袋を、ゴミ箱の中に滑り込ませた。
ゆっくりと、私は銃を抜く。あとは流れるように引き金を四回、素早く引いた。低い呻き声が、くぐもった発砲音に混じる。
「くそっ、ああっ……」
地面に悪態を撒き散らす標的に近づき、落ちていたケースを拾い上げる。次いで倒れた標的の身体を足でひっくり返し、徐々に赤黒く染まっていくジーンズから銃を奪う。
「てめえ、組の刺客かッ!」
痛みの滲んだ鋭い声がこちらに向けられた。その皺だらけの額に、銃口を突きつける。
「ゴミ箱の前で何をしていた。何かの取引か」
標的は唇を噛んだ。すぐさまその肩を銃で撃ち抜く。
暴れ出すその頭を押さえつけ、同じことを訊いたが、返事はない。すると掠れた息で、標的がゴミ箱に向かって叫んだ。
「逃げろぉっ」
私は、弾丸をゴミ箱に撃ち込んだ。
標的が大きく目を見開いて、ひゅっと息を呑む。銃を構えつつ、ゴミ箱を開ける。錆びついた金具の擦れる音とともに、目がヒリつきそうな生臭さがヘルメットに侵入した。
そこにいたのはゴミ袋に囲まれて、全身を抱きかかえ震える子供だった。ひどく細い腕の奥から、涙の滲んだ青い瞳が輝いていた。
自分の顔が硬直するのがわかった。数秒、動けずにいると、子供が恐る恐る腕を解いた。雑に切られた短い髪は、雪みたいに白い色をしている。傷だらけの膝と薄汚いオーバーサイズのTシャツの間に、先ほど男が持っていたコンビニ袋が見えた。中からは菓子パンの包みが溢れている。
その子供の青い瞳が、街灯の光に照らされた。こぼれ落ちる涙のせいか、青い瞳は、よく晴れた空のように澄んでいた。
その純粋な視線に、異様な既視感を覚える。凪いだ水面に一滴、何かが滴り落ちたように、体内が熱くなり始める。心拍が上がるにつれ、呼吸も加速する。身体中の歯車が少しずつ噛み合わなくなり、思考の波形が乱れていく。ずっと見開かれている眼球が、涙を溜めていく。生ゴミの放つ臭いのせいか、はたまた乾燥のせいか。
私の目から、何か熱いものが頬に伝った。銃を構えたままの右腕が、ピクリともしない。引き金にかけた人差し指が、じっとりと気持ち悪い。
「にげ、ろ」
標的の掠れた声にハッとして、「動くな」と声を上げた。子供が怯えた目でヒッと縮こまる。完全にイレギュラーだ。標的に仲間がいた場合、両者ともに始末する予定だった。しかし、これは、仲間なのか? いや、この男に親類縁者は存在しないはず。じゃあここら辺の孤児? それとも調べが甘かった? どちらにせよ、私の仕事の目撃者に変わりない。
殺す、という選択肢が脳裏にチラついている。でも、それを選ぼうとすると、体が震えて動かない。今まで二十年間、こんなことなかったのに。そう思うほど滴るものの質量は大きく、思考の鏡面は激しく波立つ。拮抗し合う命令に、脳が削れていく。喉が渇いたせいか、ひどい耳鳴りがしてきた。ゴミの臭いがカラッと晴れた四角い空の幻覚を伴って、頭を鈍らせていく。
私は銃口を、そのまま横に向けた。引き金を二回引いたはずが、銃声はよく聞こえなかった。
「いけ。どっか、行ってくれ」
自分の声もわからない。目の前の子供に、譫言(うわごと)みたいにそう言った。
子供はじっとこちらを警戒しながら、路地の奥の暗がりへと消えていった。
呼吸も荒いまま、地面に伸びた標的から、財布を取り出した。子供が受け取った物品のレシートはなかった。アタッシュケースの中の金は、きちんと揃っていた。あとは、事務所が用意したクリーナーに引き継げば、仕事は終わりだ。
レンタカー屋で、バイクのキーと一緒にもらっていた、使い捨て携帯に番号を打ち込む。
「サミット事務所で予約した者ですが、予定通りにお願いします」
『かしこまりました。“依頼品とお品物“、それから金貨を置いて、そのままお帰りください』
素早く通話が切れる。ケースを置いた私は、道の端に片付けた標的の胸ポケットへ、鳩の金貨を忍ばせた。
レンタカー屋にバイクと使い捨て携帯を返し、家に帰った。
水を飲み、シャワーを浴び、再び水を飲んだが、鼓動はずっと小走りのままだ。何をしても動悸がおさまらない。
気持ち的には全く食欲がないのに、身体の方がぐう、と音をあげた。
ソファに寝転んでそれを無視し続けていると、脳裏に懐かしい声が響いた。
「この仕事を続けるなら、食べれる時にきちんと三食とれ」
師匠の言葉だった。十年前に引退してから、一言も連絡を取り合っていないのに、克明に思い出された。
その言葉の端端で、喉がゴクリと動きそうな香りが咲いた。鉄板の上で爆ぜるソースと鶏肉の香り。師匠がよく連れていってくれた、あの店の料理だ。
身体が無性に、記憶の中の味を、匂いを、食感を、欲し出す。先ほどまで乖離していた空腹感が、統合されていく。
私は息を一つ吐いて、外へ出た。ベージュのアウターが夜風に揺れる。どこかで鳴いている鈴虫の声が、脳裏の喧騒を少し和ませた。ポールハンガーにかけていた丸いヘルメットを被りながら、マンションの駐車場に出向いた。
跨ったのは、レトロなシルエットをした黒い大型バイクだった。ハンドルから座席にかけて、燃料タンクが緩やかな弧を描いている。その下では、エンジンとパイプが年季の入った鈍い七色の光で街灯に応えている。
師匠が引退前に譲ってくれたものだ。キーを差し込んで、エンジンをかける。馬がいななくような音が響き、ヘッドライトがその白い瞳を見せる。
アクセルを回し、そのまま力強く走り出す。風を切って背の高い建物の合間を行くなか、先ほどの仕事のことを思い出した。
涙が出そうなゴミの臭いと、あの子供の瞳から感じた、カラッと晴れた青い空。
ノウスを循環するように繋がったバイパスに出ると、ガードレールの向こうで南区が遠ざかっていくのが見えた。金網の向こうで、埠頭の灯りが無骨に煌めいていた。
目的の店は、西区のメインストリートから少し外れた、閑静な場所にあった。青白い街灯がポツポツと、路地の輪郭を映している。近くのコインパーキングにバイクを停め、店の前に立つ。
階段が、地下の赤いドアに向かって伸びている。その上では、ピンクのネオンが『SHUGAR BABY』と、暗闇に店名を浮かび上がらせていた。クリスマスの飾りで見そうなガーランドライトが、階段を照らしている。一段降りるたび、静寂が重くなっていく。
赤いドアをグッと開ける。琥珀色の店灯りが漏れ、ベルの音がチリンと降ってきた。談笑と食器が奏る不揃いなリズムと、美味しいものの香りが凝縮した見えない煙が、アタシを包む。その香りに、この店のテーブルクロスが赤いチェックだったことを思い出した。
「いらっしゃい」とカウンターの奥から、渋い声が響いてきた。
見ると、眼帯をした背の高い男がこちらに笑いかけている。カウンターをL字に囲うように並んだ座席では、多くの客がそれぞれ食事をしていた。
「カウンター席へどうぞ」
他は満席らしく、私はその男の渋い声に従った。
装丁のしっかりしたメニューを開くと、再び懐かしさが込み上げてきた。十年ぶりに見たメニューは、ほとんど変わっていない。メニューだけじゃなく、艶やかテーブルの手触りも、椅子の綿の硬さも、記憶の中と等しい。
「久しぶりだ、十年くらいかな」
眼帯の男が、そっと微笑んで言った。顔に刻まれたしわが、温い印象を与えてくる。燻した銀のような色の髪は、こめかみのあたりでカーブしている。シュッとした頬には僅かに白い線が一筋、浮かんでいた。
「覚えてたんだ」
私は驚きを笑顔に変換して返す。
「ああ、ジョンとよく一緒に来ていただろう」
師匠のことをそんなふうに呼ぶ人間を見たのは、数えるくらいだ。
「まえ頼んでたやつって、頼める?」
そう聞くと、男は軽く頷いた。
「もちろん。飲み物は?」
「じゃあ、炭酸水で」
「承った」
男は背後のドアの奥に、さっと引っ込んだ。姿勢には一切のブレもなく、足音もしなかった。無駄のない動作にしっかりした重心、おそらく元軍人か何かだろう。
ふと、頭の片隅で分析している自分に気がつき、呆れ笑いが奥歯に滲んだ。これも、師匠に教わったことの一つだ。油断してはならない、いかなる時も、相手をよく見て、正体を看破しろ。いつの間に、こんな染み付いていたんだろう。
よく冷えていそうなグラスに、氷がつぎつぎ積み上げられていく。透明な液体が、グラスをとぽとぽ叩く。たくさんの泡が一斉に弾ける音は、波が寄せて返す浜の音にも似ていた。最後にグラスの淵へ、レモンの鮮やかな黄色が添えられ、「どうぞ」と私の前に出される。
「ありがとう」
グラスを持ち、少し口に含む。その瞬間、爽やかな海辺の情景が目の前を駆けた。炭酸が舌の上で軽快に弾けていくたび、柑橘系のさっぱりした風味が咲き、鼻を抜ける。
「セレーノで喫茶店やってる友人が、いいレモンを送ってくれたんだ」
男の添えた言葉に「どおりで」と笑った。
店の奥から、ジュワジュワという音が近づいてきた。
「お待たせしました、チキンのチーズ焼きです」
背後から少し若い男の声がし、振り向く。鼻の形が眼帯の男と似ているが、こちらは全体的にやや丸い体型をしている。
「ごゆっくり」
眼鏡の男は安心したように微笑むと、店の奥へ歩いていった。
「さ、召し上がれ」
男に促され、私はフォークとナイフを持つ。
「いただきます」
鉄板の上には大きな鶏肉が一枚、豪快に乗っかっている。さらにその上からは、狐色に焼き目のついたチーズがたっぷりかかっており、ソースとともに鉄板の上で激しい音を立てる。
これだよこれ、と内心で呟く。
ナイフは肉を沈むように通り過ぎ、カリカリの皮面に到達した。一口頬張ると、チーズの濃厚なコクにソースの甘しょっぱさが絡んだ。肉は歯で簡単にほどけるほど柔らかく、皮の香ばしさがパリパリと音を立てて香る。
飲み込むと、体の底からホッとした気分になった。長いこと無くしていたものを、やっと取り戻したような安心感だ。
それから、料理はあっという間になくなった。
「ここ、いい店だね。故郷みたい」
思わずそう口にする。
「ありがとう」と男は静かに微笑んだ。
私は、ふと自分の唇に触れた。故郷みたい、そう放った自分の口の、その感触が妙に残っている。喉が、乾いた気がした。
故郷、みたい。私の故郷って、どこだっけ。
まばたきした瞬間、琥珀色だった視界が、あのカラッと晴れた青い空に切り替わった。黒々とした高い建物に、空は四角く切り取られている。
ジャリ、と口の中が鳴った。周囲の賑やかさが、街の喧騒と混じり合う。料理の匂いが、生ごみの臭いへと置き換えられていく。滑らかなテーブルだったはずの、コンクリートに項垂れる。
「おい、どうした」
男の心配そうな声が、黒い影と共に降ってきた。私は、息を切らして、顔をあげる。
そこにいたのは、カウンターで琥珀色の光を受けている眼帯の男だった。
「いやあ、ちょっと、昔のこと思い出してた」
つっかえながら答え、炭酸の残りを一気に煽った。炭酸が、喉を焼くような勢いで爆ぜていく。思い出した、あの子供の目。
あれは、私だったんだ。私だった者の、瞳だった。
だから殺せなかった。仕事の完璧さよりも、私情を、しかも自分でも忘れていたほど昔の、本当にどうでもいいようなことを優先したんだ。
動揺が一層強く、ぶり返してきた。頭の中を、何故、が真っ黒に埋めていく。感情を全て、その何故がひっくり返していく。
「じゃあ、もういくわ」
財布から代金の紙幣を置いて、椅子を離れた。
「ティプシー」
店主の呼ぶ声に、立ち止まった。静かで、よく通る声だった。
「また、いつでも来なさい」
少し、返事に迷った。こういうとき、どう返せばいいかわからない。嬉しいのか、苦しいのか、今はそれすらも定かじゃない。
「……うん、ありがと」
私はそう言い残して、店を出ていた。
バイクのエンジンを入れ、ふと違和感に気がついた。バイクのいななきが、どこか弱々しい。力強さみたいなものが、丸く小さくなったというか。
行きは元気だったのに、と思って師匠の姿が脳裏をよぎる。これをもらったのは十年ぐらい前だが、それ以前からすでに師匠が乗っていた。
寂しい納得感が、胸に落ちる。
「そっか……お前も、もう歳なんだよな」
ハンドルの付け根をそっと撫でると、トルク音が少し上擦った気がした。
バイパスの街灯をすぎるたび、先ほど身体の中を駆け巡っていた動揺が、少しずつため息へ変わっていった。小さい歯車が一つ抜けてしまったみたいに、思考に力が入らない。
家の中に一歩入った瞬間、疲れがどっと吹き出した。重たい足取りで靴を脱ぎ、リビングのソファに全体重を預ける。チーズがもたれたのか、さっきから鳩尾(みずおち)の辺りが、妙に熱い。
ソファの横では洗濯物が、物干しスタンドにそのままだったが、片付ける気にはとてもなれなかった。ただ茫然と、そのカバのようなシルエットを見つめることしかできなかった。
キッチンでコップ一杯に水を汲み、ソファでテレビの白い光を浴びた。胸がざわついて、眠る気にもなれないまま、町が夜の底に沈んでいくのをカーテン越しに感じた。
いつの間にか、テレビは白黒の映画を映し出している。確かに起きていたのに、一切の記憶が定着していない。何を放送していたかさえ、思い出せなかった。
しかしまだ眠れず、私は映画を見続けた。古い恋愛映画だ。カスタニエで撮影された橋のダンスシーンは、映画に疎い私でも知っている。
「そういえば、師匠が好きだったな、これ」
映画の端々から、師匠に拾われた当時の記憶が香った。映画好きな師匠は、仕事の合間にしょっちゅうレンタルショップに行っては、映画を大量に借りて、休みはずっと筋トレと映画。私は呆れて、外でトレーニングしていた。
懐かしさに笑みが溢れつつ、ふと空虚な気持ちになった。
私、そういえば趣味とかないな。仕事と、そのための技術の維持、道具の点検。あとは何気なくテレビをつけるくらいで、音楽も聴かないし本も読まない。師匠のバイクで走るのは好きだけど、ツーリングに出るほどじゃない。金が貯まっているのも、この生活の結果でしかない。
無性に、長いため息がつきたくなった。テレビの明かりがほの暗く映し出す部屋は、どうしよもないくらい無機質だ。
カーテンの隙間から、嫌なくらい新鮮な光が差し込んでいる。私は、窓辺に立った。
ベランダに出ると、少し冷えた風が肺を満たした。どこからか、街路樹がカサカサと揺れる音がした。太陽はまだ出ていない。小鳥が数羽、青とオレンジのグラデーションを横切った。坂の下の街並みは、埠頭の方まで青く、眠っているように静かだ。街灯が道路沿いに、ポツポツと白く点っている。
胃もたれは治っていたが、寝不足のせいか身体が異様に重たかった。重力に引っ張られる力が、前より増している気がする。
若い頃とは違う、そんな実感が、あらゆる覚えとともに、鋭い残酷さを突きつけていた。
感傷的になって仕事でしょうもないミスをしたり、チーズに胃もたれしたり、徹夜がしんどくなったり。フェンスに寄りかかって、項垂れる。呼吸がため息にすり替わった。
『あなた、ずっとそんなふうに暮らしていく気なの?』
大家の言葉を思い出してしまい、「あぁー」と声だけ漏れた。最悪なタイミングで勃発したフラッシュバックに、言葉がうまく出なかった。
この仕事において生涯現役とは、任務で死ぬことだ。このままいったら、私も間違いなくそうなる。そもそも、殺し屋なんてやりたくて目指したものじゃなかった。師匠に拾われて、言われるがまま鍛え、ただ死なないために必死で努力した。
小鳥の囀りが、鮮明に聞こえる。原付の軽いエンジン音が響く。新聞配達員が、近くの道路を走っていったらしい。朝が、着々と進行を続けていく。
今はどうだろう。時間も金も、人よりある。しかし人生の意義とか、やりがいとか、そういうのは全くない。仕事の引退も長く見積もって八、いや五年くらいだろう。
視界に映り込んだベランダの真下の景色に、背筋がちょっと震えた。
後ずさった途端、真っ赤な光が目を焼いた。強烈な熱に、太陽が出たのだと知った。
「これから、どうしよう」
朝日が何もかも消し炭にした視界で、そうつぶやく。仕事を辞めても、したいこととか思い浮かばない。だいたい、生きることに死にたくない以外の理由あるのか。
から回った思考は、ついにあくびしか出さなくなった。
とりあえず、寝よう。ベランダから退散し、つけっぱなしだったテレビを消す。カーテンもしっかり閉め、なるべく部屋を真っ暗にしたら、頭まで布団を被った。
明日は夕方ぐらいに起きて、さっきの映画をレンタルショップで借りてこよう。
ひとまず、それだけでいいか。
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