「Fragments」

mikuta

セレーノ 夏『Adventure』


 窓を開けて、新鮮な今日を取り込む。人が呼吸するように、部屋にも呼吸は必要だ。私はひんやりとした窓枠に手をかけて、頭を出した。夏になりかけの日差しは、ちょっと当たりが強い。しばらくするとつむじのあたりが、ヒリヒリと熱を帯びてきた。このヒリヒリは、日に日に増してる。それがなんだか、季節と文通してるみたいで楽しい。この、セレーノの町に来て初めての夏が、始まろうとしているのがわかる。

 カモメの鳴き声が、どこかで響いた。塩気をはらんだ爽やかな風が、私の頬に手を当てると、部屋に流れ込んでいく。その瞬間、かすかに柑橘類の香りがして、私は首を傾げた。

 いまの風、果樹園でも通ってきたのかな。

 ふと、下を向くと、誰かが慌ただしく騒いでる。きっと、下の階の窓から聞こえてるんだ、とわかった。小さな子供の笑い声と、困り果てた男のひとの声。柑橘類の匂いは、下の階でこぼれちゃったオレンジジュースらしい。

「お嬢様」と後ろの方で、モニカが声を投げてくる。飾り気はないけど冷たくもない、ちょっとハスキーな声だ。

「身を乗り出すと危険ですから、おやめください」

「はーい」と私は窓から離れた。

 右手でざらついた壁を撫でながら進むと、左手が椅子の背もたれにコツンと触れた。そのまま食卓につく。木目があたたかいテーブルに腕を置いていると、食器を置く硬い感触が響いた。

「今日の献立はなあに?」

 私が聞くと、モニカはテーブルの向こうから返す。

「クロワッサンと、レモンドレッシングのサラダです。ミルクでいいですか?」

「うん、ありがと」

 私は椅子に背中を預け、思いっきり腕を伸ばす。やわらかく、あっさりとした生地のパジャマが、両腕を撫でるようにずれ落ちた。

 飲み物を持ってきたモニカが椅子に座ると、朝食が始まった。モニカが飲むエスプレッソの匂いに、気持ちがホッと安らぐ。

「手前のお皿にクロワッサン、その左のボウルにサラダが。お皿の右横に、牛乳の入ったコップがあります。あとは、ボウルの左側にフォークがあります」

「ありがと」

 モニカの説明を受け、私はなめらかな皿の淵をなぞって、クロワッサンに触れた。薄くて軽いパイ生地の表面から、微かに熱が漏れている。先端をちぎると、バターの甘い香りが鼻先に触れた。一口、齧ってみると、表面が軽快な音を立てる。やわらかく弾力のある内側は、噛むたびにじゅわりと、コクのある風味を滲ませた。小麦の香りが鼻を抜ける。

「おいしいね」

 そう言うと、モニカは咀嚼し終えてから答える。

「そうですね、今回はいつもと違う店を開拓してみましたが、当たりでした」

「いいなあ、私も行きたい」と返し、私はフォークに触れた。ひやりと重たいフォークで、サラダを混ぜる。

「では、次の日曜の朝にでも行きましょう」

「うん、楽しみにしてる」

 食後は洗面所で歯を磨いたあと、モニカがくれたお気に入りの櫛で髪を整えて、高校の制服に着替える。三ヶ月前、初めて袖を通した制服は、すっかり半袖になっていた。綿素材のワイシャツは、風通しがよく、この町に満ちている潮風みたいに爽やかだ。プリーツスカートも同様、軽くて過ごしやすい。私は、キッチンにいるモニカに聞く。

「そういえば、今日って七月の何日だっけ?」

「十七日です」

「じゃあ、明日は何の日かわかる?」

 困惑混じりの沈黙の後、モニカは「さあ、分かりません」と答えた。

「ならいいの」

 モニカの返答に、お腹の底がふわふわと浮かぶような、くすぐったさを覚える。同時に、今にも走り出したくなるほどの焦りも感じた。

 明日は、モニカの誕生日だ。サプライズでお祝いしようと、二週間前から考えているけれど、何をどう渡すか一切決まらないまま、ここまで来てしまった。

 テレビの可愛い雑貨特集とか、便利グッズランキングとかをさりげなく見せたり、話題を振ったりしても、全くの無反応。思い切って「今いちばん欲しいものは?」と聞いても、「特にないですね」と返ってくる。

 腕組みして考えていると、ガシャン! とキッチンで何か硬いものが砕け散った。

「大丈夫!?」

 跳ね上がった心臓を抑えて、私はキッチンへ顔を出す。

「大丈夫です、ちょっと、マグカップを落としただけなので。危ないので、近づかないで」

 動揺して、言葉同士がうまくつながらないような声だった。見えない壁とぶつかったみたいに、私は固まる。

「時間もあるので、もう登校して下さい」

 モニカの言葉と勢いに流されるまま、私はアパートを出た。胸の奥に、何か張り付いているみたいで、私は唇を少し噛んだ。

 海の香りが、焦りで焼けそうな心の表面を撫でる。杖で地面を触る音と、ローファーが石畳を擦る音が、路地に淡々と響く。登りかけの太陽は、建物の隙間から顔を覗かせているらしい。一つ向こうの通りでは、大勢の人が行き交う雑踏が響いている。私の横を、ゴンドラの軋む音がのんびりとすれ違う。

 一体、どうしたらいいんだろう。私はモニカに何をできるんだろう。

ため息を吐きそうになっていると、さっぱりしたフルーツを思わせる、明るい声が私を呼んだ。

「おーい、アネット!」

「ジル?」

 声のする後ろの方を向く。

「おはよ、なんか元気ないじゃん、どうした?」

 足音を響かせてやってきたジルが、いつもの元気な声で聞く。

「おはよう、まあちょっとね」

 少し遅れて、疲れ果てた声がフェードインしてきた。

「待ってよ、ジル、急にっ、走らない、でっ」

「遅いぞー、リッサ」

 ジルが呆れたように言った。リッサと呼ばれた声の主は、息を切らして言い返す。

「私、運動は、苦手なん、だけどっ、ごほっ」

「おはよう、リッサ。大丈夫?」

 むせだすリッサに、私は聞く。

「うん、何とか、ありがとう」

 リッサが息を整えるまで待ってから、私たちは歩き出した。

「もう、なんで急に走り出すかな、ジルは犬なのかしら?」

 プリプリと怒るリッサに対し、ジルは飄々と言葉を返す。

「そういうリッサは、ナマケモノかしらん?」

「な、何ですって!」

「ふたりとも、遅刻しちゃうよ」

 三ヶ月も経つと、このふたりの痴話喧嘩もすっかり耳に馴染んだ。本気で怒っているようで、こういうやりとりを楽しんでいるような。話している時の呼吸とか間合いから、ふたりの親密さが滲み出ている。楽しげな会話に、私まで心がほどける。

 ふと、出かける直前の、モニカの声が脳裏をよぎった。

 今、どうしてるんだろう。カップの破片で手とか切ってないといいな。

 校門をくぐり、下駄箱にローファーを置いてからも、不安と焦りは胸の辺りに、張り付いたままだった。

 教室の雑踏は、聞き取れないくらいにはゴチャついているけど、耳障りではない。笑い声と愚痴、今日が始まる楽しさと気だるさの、狭間で漂っているみたいな空気だ。

「で、今朝はどうしたの、アネット。元気ないけど」

 席に着いたところで、前の席のジルが聞いてきた。

「何かあったの?」と、左からリッサが椅子を引いて近づく。

「あ、えっとね」

 私は、自分の胸に引っかかっていることを、ふたりに話した。

「プレゼント選びかぁ」

「迷っちゃうよね、しかもそんなに隙がない人なら、なおのこと」

 ふたりは、頭の中で何かを練るように唸りながら、口々に答える。

ジルが、何か思いついたように口を開いた。

「アネット、今日空いてる?」

 私は「うん」と頷く。

「なら、帰りに探しに行こうぜ。私らも手伝うから」

「いいの?」

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。思わず聞き返すと、ジルは笑って答えた。

「もちろん」

 そして横のリッサに「いいよな?」と声をかける。

「そうね。アネットとお出かけって、あんまりしてなかったし、よければ一緒に選ばせて」

「ありがとう、ふたりとも!」

 私は立ち上がり、ふたりの手を握った。

 こんなふうに、友達と放課後出かける約束をするなんて、初めてだ。

 心臓が高鳴って、時間の歩幅がいつもの半分くらいに狭くなる。ずっと、お腹の辺りがくすぐったくて、その後の授業中も何度か、笑いそうになった。

モニカには、スマホの音声操作アプリを使って、「帰りは友達と寄り道して帰ります」とメッセージを打っておいた。

 いよいよ終業のチャイムが鳴り、生徒たちの足音が、校内中に解き放たれる。床の木材を踏む軽やかな響きが、雑多に鳴っている。下駄箱で靴を履き替えながら、私たちは作戦を立てた。

「そもそも、モニカさんって何が好きなんだ?」

 ジルの言葉に、私は左に首を傾げた。

「可愛いものが好き、かな。でも、自分には似合わないから、って遠慮しがち」

「アネットちゃんはどんなものを贈りたい?」

 リッサの問いに、私は「うーん」と下唇を尖らせる。モニカのことを頭の奥から掘り返す。

 朝、洗濯物を干すときに、鼻歌を歌っている。ここ最近は、いま世界で大ヒット中のアイドルMiaの曲が多い。料理の時も口ずさんで……。

「あ、料理」と、思わず口をついて出た。

「料理グッズを贈りたい、かも!」

 パチン、とジルが指を鳴らす音がする。

「いいじゃん、料理グッズ! となると、どこ観に行く?」

 リッサがスマホをスクロールしているのか、爪が画面と擦れ合う音が、不規則なリズムを刻んだ。

「芸術区の生活雑貨なら、ちょうど可愛いのもあると思う」

「よっしゃ、そこ行くか」

 校門を出た私たちは、いつもとは逆方向に歩き出した。リッサの声が、私を呼び止める。

「アネットちゃん、ちょっと手を握っていい?」

 私は頷いて、左に並んだリッサの方に顔を向ける。

「うん、けどなんで?」

「ここから先、行ったことないでしょ? 逸れないように、手とか繋いだほうがいいいのかな、って……あ、嫌だったら、大丈夫だから」

「ううん、ありがと。実は、ちょっぴりドキドキしてたから、嬉しい」

 私は首を振って、笑った。何もおかしさはなかったけれど、胸のうちから笑顔が湧き上がってきた。

「ジルも一緒に繋ぐ?」と、リッサが笑みを含んだ声を飛ばす。

「いや、暑いから遠慮しとく〜」

 軽い足取りで数歩先を歩くジルは、そう答えた。

 何度か橋を越えて、しばらく歩くと、日陰のある通りに入る。すると、空気が変わった。さっきまで太陽の下で遊んでいた陽気さが、急に落ち着き出した。それに、どこか懐かしい香りが、つんと鼻に触れた。熟したリンゴのような、重くて甘い香りだ。

「ここは?」

 周囲の匂いを嗅ぎながら、周囲に顔を向ける。

「古書通り。だいたい、芸術区の端っこね」

 リッサの言葉に、甘い香りが古紙と結びついた。小さい頃、パパの書斎で嗅いだことがある。たしか古い童話を、お姉ちゃんが読み聞かせをしてくれたっけ。

 風が頬を掠めた。すると辺り一体から、ガラスを軽く突いたような音が響きだす。風と同じくらい軽やかで、水の中にいるみたいに涼しい。

「いい音」と思わず呟く。

「セレーノガラスで作られた風鈴よ。光を浴びて、石畳にいろんな色の模様が映ってる」

 言葉にならない気持ちが、ため息に近い声になって漏れた。風がそよぐたび、古紙の放つ甘い香りと、風鈴の音が道の輪郭をなぞって広がる。

 私たちは、さらに奥へと歩いた。

「あ、ここみたい」

 手を引いてくれていたリッサが、立ち止まる。風鈴の音が、遠くで聴こえる。

ジルが先にドアを開けて、入っていく。それに続いて、私とリッサも足を踏み入れた。

 古書通りとはまた違った、落ち着いた空気だ。こっちの方は、温かくて、のんびりしている。ベルの音とともに扉が閉まると、より一層、店の中の世界に包まれた。

「いらっしゃいませ」と、若い女性の声が店の奥から聞こえた。穏やかで、優しそうな声だ。

「こんちは」とジルが返す。

「こんにちは、お邪魔します」

 リッサに続いて、私も「こ、こんにちは」と返す。

「ごゆっくり」

 店員さんは、そっと微笑みを含んだ声で言った。

「さて、料理グッズといっても色々あるよな。包丁、お玉、カトラリー……」

 三人で棚の前に並ぶと、ジルが言う。私は「あ」と声を漏らした。

「そっか、歩きながら考えておけばよかった……」

 頭を抱えると、リッサが提案してくれた。

「なら、モニカさんが困ってそうなことってある?」

 私は唇を親指で押す。基本的に、困ってることの話も聞かないし、必要なものはぜんぶ自分で調達している。

 これまでのことを思い返しながら、ふと胸に寂しい影が落ちた。もっと、頼ってくれてもいいのに、そう思ったところで、嫌な想像が脳裏をよぎった。

 私って、頼りないのかも。今朝だって、マグカップが割れても、私は何もできなかったし。

 崖の淵に立っているような感覚が一瞬、足にまとわりつく。

「あの、なにかお困りですか?」

 落ち着いた足音と共に、店員さんの声が近づいてきた。

 急なことに戸惑っていると、ジルが答えた。

「ああ実は、この子が贈るプレゼントを選びに」

 私は、胸の前で拳を握る。

「……な、何を贈ればいいか、何なら役立つのか、わからなくて。あの、どうしたらいいんでしょうか」

「なるほど」と店員さんは呟く。

「プレゼントって、必ずしも役立つものじゃなくてもいいと思うんです。花束だって、良い匂いだし綺麗だけど、食べられないでしょう?」

 店員さんが紡ぐ言葉に、胸の中で絡まっていた何かが解かれた気がした。

「大事なのは、贈る相手への気持ちをどう伝えるか……なんて。すみません、カッコつけすぎましたね」

 照れくさそうに笑う店員さんに、ジルとリッサの口から「おお」と歓声が聞こえる。

 私は、首を横に振った。

「いいえ、助かりました。ありがとうございます、なんだかスッキリしました」

「ならよかった」と店員さんは笑う。

 贈る相手への気持ちを、どう伝えるか。

 今朝のモニカを、改めて思い起こす。マグカップが割れても、私は何もできなかった。私は、モニカにもっと、頼ってほしい。

 言葉にすると、なんか恥ずかしいし、自意識過剰かもしれないけど、きっとモニカは、私を大切にしてくれる。それはとっても嬉しいし、モニカの大切な気持ちも否定したくない。でも、私だって強いんだって、証明したい。

 ふと、頭の中でパチっと何かが繋がる。今朝聞いた、硬いものが砕け散るあの音が、リフレインした。

「思いつきました、贈りたいもの!」

「よければ、聞かせてくださいますか?」

 そう微笑む店員さんの言葉は、陽だまりみたいに温かかった。

 私は、店員さんの説明を聞きながら、自分の手で触れたり、ジルやリッサ色を尋ねたりして、プレゼントを選んでいった。

 ベルが鳴り、ドアが閉じていく。私は店内の方にお辞儀をしてから、通りを歩き出した。さっきよりも重たくなったカバンが、なんだか愛おしい。

「選ぶの手伝ってくれて、ありがとう」

 横を歩くジルとリッサにお礼を言うと、ジルが返す。

「いいって、楽しかったし! それに、アネットと出かけてみたかったしさ」

「そうそう、私たち、こんなふうに出かけたことなかったもの」

 二人がそう思ってくれていたことに、頬がぽっと熱を帯びる。お腹の底が、またくすぐったくなった。

「そうだ」とジルが指を鳴らした。

「せっかくだし、お茶していこうぜ」

「賛成、アネットはどう?」

「うん! 私も、行きたい」

 ジルに連れられて、三人で路地を歩く。橋の下の水路を、ゴンドラが通る。オールが水面を揺らし、船体が唄うように軋んだ。

 話し声と足音が、三人ぶん。迷路みたいな、石畳の小道に響く。人とすれ違う時、必ず挨拶も交わされた。ちょっと戸惑いはあったけど、私も便乗して挨拶を返した。

「あらお嬢ちゃんたち、散歩かい?」と、声が降ってくる。気さくな女の人の声だ。

「まあね、お茶できる場所探してるの! いい場所知らない?」

 ジルは、大きな声で返す。

「なら、この先の船着場に“ピエトラ”っていうバールがあるわ、よければ行ってみて!」

「ありがとう!」

 私とリッサもお礼を言い、再び歩き出す。

「あの、バールって、なに?」

「喫茶店のことね、セレーノではバールって呼ぶの。他にも、レストランはリストランテ、デザートはドルチェだったりね」

 私の問いに、リッサが答えた。

 私のいたノウスの町では、どれも聞き馴染みのない言葉だ。

「同じ大陸なのに、私のいたところと名前が変わるんだ。面白いね!」

 私は、ふと気になったことを口にした。

「ところで、さっきオススメしてくれた人、ふたりの知り合いだったの?」

「いいえ、知らない人」

「まあ、会ってなくても知り合いみたいなもんっしょ、この町じゃ」

 当然のように答えるふたりに、少し驚いた。

「そうなんだ」

 けど、同時に納得もする。まだ春と夏しか知らないけど、この町の穏やかな天気とか、のんびりした空気が、そのまま人に馴染んでいるみたいだ。

 歩いていると、次第に海の香りが強くなっていく。びゅうっ、と風が髪をさらった。

 海の香りが肺を満たす。深くて、複雑で、得体の知れない神秘的な風味だ。辺りは、たくさんの話し声と足音で賑わっている。雑踏の中でもわかるほど、ゴンドラの軋む音も増えた。

「ここが船着場かな?」

「だな。ピエトラもすぐそこだ」

「人多いわね、ここ。アネット、もう少しくっついて歩きましょう」

 逸れないように三人でくっついて、人混みの中を進む。

「あった」と先頭のジルが言う。

 隣のリッサが、軽く息を呑んだのがわかった。

「どうしたの?」

「ううん、ちょっと素敵な店構えだったから、つい感動しちゃって」

「へえ、どんな感じ?」

「そうね……渋くて、でも小綺麗で、イケおじって感じのお店」

「イケおじ……」

 頭の中に、空白が生まれた。

「なんの話してんのさ、早く入ろうぜ?」

 呆れた声のジルが、ドアを開けた。

 店内は、コーヒー豆の匂い一色だ。蒸気で動く機械でもあるのか、奥の方からプシューッと大きな駆動音が響く。私はつい跳ね上がった肩を、ホッと息をついて降ろした。お客さんの囁く声と、ラジオの音声が、店内を満たしている。匂いや音は違うけど、古本通りに近い空気の重さだ。時間を重ねた場所の重さ。この安心感は、肌寒くなってコートを着たときみたいな、そんな感じがする。

「いらっしゃい、窓際の席にどうぞ」

 タバコが似合いそうな声の男の人に案内されて、私たちは席についた。

「リッサが言ってたこと、ちょっとわかるかも」と私が言う。

「そうよね、イケおじでしょ?」

 リッサの声がいつもより、ぱっと明るくなる。

「さっきの店主が? この店が?」

 ジルは呆れ気味だ。

「どっちもね。でも店主さんはワイルド系! 銃とか似合いそう」

「あと、タバコとか?」

「そう! さすがねアネット」

「相手すんな、アネット。そこの枯れ専はほっといてなんか頼もう」

「ひどいわ、私も選ぶ!」

 何があるのか、それがどんなものなのかジルとリッサに聞きながら、注文を決めていった。

「あいよ、いちごのグラニータと、アイスティー、ジンジャーエールな」

 先ほどの、タバコが似合いそうな店主さんに注文を頼み、改めて息をつく。

「たくさん歩いたわ……」

 隣に座っているリッサが、絞り出すように言った。私も頷く。

「だね……」

 ふくらはぎのあたりが、溶けてるのかと思うほど脱力しきっている。このまま、座っているふかふかのソファに沈み込んでしまいそうだ。窓から、穏やかな潮風が入り込んで、左頬に触れた。

「ふたりとも、もっと運動したほうがいいな」

「ジルが元気すぎるだけよ」

「ま、将来のナンバーワン・ゴンドリエーレだからな。そこら辺のとは、格が違うのよ」

「ゴンドリエーレ……ってことはジル、ゴンドラ漕ぐの?」

「まあね。つってもまだ、親父の手伝い程度だけど」

 照れ笑いを含んだ声のジルに、私は姿勢を前にした。

「すごいなあ、今度乗りたい! 私こっちに来て、まだ一度も乗ったことないの」

「お、いいぜ! アネットならタダで乗せてやる。あでも、リッサは金払えよ」

「なんでよ」とリッサは気だるそうに突っ込んだ。

 でも、ちゃっかり人数に入れているところには、ジルってリッサのこと大好きなんだなって思う。

「そいえば、アネットって、なんでこの町に来たんだ? 十五歳で親元を離れて……ってすごくね?」

「言われてみれば気になるかも、セレーノで何かしたいとか?」

 頭の奥まで潜るまでもなく、答えはすっと出てきた。

「この町に来たかったのは、モニカの影響なの。小さい頃は、この目のせいで、あんまり外に出してもらえなくて。でも、お姉ちゃんの友達だったモニカが、私の家庭教師になってから、外にはいろんなものがあるって、教えてくれたんだ」

 窓から触れる、太陽の温もりも、風の音や匂いも、時間の移ろいも、そこにある人々の営みも。モニカがいたから、知ろうと思えた。

「だから、今回のプレゼントは、その恩返しでもあるの。と言っても、簡単に返せるものじゃないけどね。ありがとうって、伝えたいんだ」

「そっか」とジルは温かい声で言う。

「なら、なおさら、一緒に選べてよかったわ」

 隣のリッサも、同じくらいの温度で答えた。

「ありがとうね、本当に」

 沈黙が、三人の間に落ちた。それがなんだか、返っておかしくて、三人同時に笑い出した。

「はい、お待ち……ってどうした? なんか面白いことでもあったか?」

 笑い合っていると、店主さんが飲み物を持ってやって来た。

 涙を拭いながら、私は答える。

「なんでも、ちょっと照れ臭くって」

「そうそう、友情を深め合っていたのさ」

「そのセリフが恥ずかしいわ」

「ああ、そうか、まあなんにせよ、ごゆっくり」

 店主さんは、困惑しながらも笑って、テーブルを去っていった。

「はい、アネットはグラニータだったよね」

「うん、ありがと」

 横のリッサが、グラスを置いてくれる。グラスに触れると、透き通った冷たさが、指先を湿らせる。グラスの縁をなぞってストローを見つけ、口に含んだ。

 あれ、なかなか吸えない。頑張って吸おうと、肩やお腹、唇に力が入るも、息が先に切れた。向かい側から、くすくすと笑い声が聞こえた。

「え、やだ、そんな変な顔してた?」

「ははっ、いやごめん、可愛くて! グラニータはみんなそうなるから、気にすんな」

「最初はストローでかき混ぜて、それから飲むといいわよ」

「えぇ、さきに言ってよ……」

 ふたりの言う通り、ストローを回しながら、おとなしく待つことにした。

 ふと、何か小さなものが、窓ガラスに当たった。ぽつ、ぽつ、と音は次第に大きくなる。それからあっという間に、雨が通りを濡らし出した。風が水気を吸って、どこか落ち着いた気配を帯びる。

「どうしよ、傘なんて持ってないよ」

 窓に顔を向けて、私は眉を八の字に曲げる。ジルが呑気に言った。

「大丈夫っしょ、止むまで待てばいいよ」

「そうね、きっと通り雨だもの」

 伸びをしながら、リッサもそう言った。店内は変わらず、コーヒーの香りの中を、話し声たちがささやかに泳いでいる。私は背もたれに体を預けた。

「そっか、そうだね」

 雨音が、外の喧騒をかき消す。さっきまで張っていた意識の糸が、のんびりした空気の波に解けていく。グラニータを啜ると、ひんやりした甘酸っぱさに、ため息が出た。

 それから雨が止むまで、私たちはプレゼントをどう渡すかについて、話を咲かせた。

 帰宅して、モニカに「ただいま」を言ったら、すぐお風呂に入った。グラニータはシャーベットを飲んでるみたいで美味しかったけど、雨もあってか、身体がちょっと冷えてしまった。

 浴室に、自分の大きなため息が響く。浴槽に浸した身体は、ほぐれた毛糸みたいに力が入らない。

「楽しかったな、今日」

 お湯から顔だけ出して、そう呟く。自分でもわかるくらい、口も声も綻んでいた。

 さて、あとはプレゼントをどうやって渡すか。

 さっき、ピエトラで話し合った時に出た案は、ちょっと難しそうだ。ジルは結局、最後までふざけてたし、リッサのは恋愛ドラマみたいで恥ずかしすぎる。

 ふと、雑貨屋のお姉さんが言っていた言葉を思い出した。

 そうだ、大切なのは、伝えたい気持ち。両手でお湯をすくい、顔にかける。

「よし」

 私は意を決して、浴室を出た。髪を乾かす手は、いつもよりぎこちない。表情が、中途半端なところで静止している気がして、落ち着かない。胸の辺りがソワソワする。

「今日は、どうでしたか?」

 トマトパスタをフォークに巻いていると、モニカが聞いてきた。心臓が、トクッと動く。

「え、ど、どうって? な、何が……」

 聞き返すと、モニカはやや困惑が滲む声で返す。

「お友達と出かけたのでは?」

「あ、そっち! うん、楽しかったよ。ピエトラっていう、バールに行ったの」

「芸術区のとこですか。あそこ、いいですよね。雰囲気がかっこよくて」

 モニカが持つピエトラの印象は、かっこいい、なんだ。ちょっとわかるかも。

「そうだね、今度、一緒に行こうよ。まだこっちに来て、二人で観光とかしてないでしょ?」

「いいですね、行きましょうか。夏のセレーノは、お祭りもたくさんありますし」

「うん! あ、今日遊んだ友達も、そのうち誘っていい?」

「もちろん」

 食後、モニカがお風呂に入っている間に、私はプレゼントをカバンから取り出した。

 いつも、日付が変わる前に私に寝るよう促してくるから、直接渡して、のんびり話すなら、このタイミングしかない。

 両手に収まったビニールの包み越しに、箱の重さが伝わってくる。耳の裏で、自分の鼓動が聞こえる。プレゼントをダイニングテーブルにおいたら、席に座った。ため息をつくと、鼓動と時計の音が、より強く聞こえた気がした。背後のドアの向こうから、シャワーの音が響いている。窓辺では、夜風がカーテンを揺らしているらしい。気恥ずかしくて落ち着かない胸を、そっと撫で下ろす。時計の音に耳を傾けていると、次第に意識がぼーっとしてきた。あくびをして、姿勢を整えるが、足に溜まった疲れが全身に回って、眠気を加速させる。

 背後で開いたドアの音で、一気に目が冴えた。思わず飛び上がる。

「な、何か?」とモニカが困惑気味に聞く。

 私はプレゼントの包みを持つと、モニカの方を向いた。

「あ、あのね、実は、渡したいものがあって」

 立ち上がると、モニカも近づいた。

「お、お誕生日、おめでとう。まだ早いかもだけど」

 正面を向けず、斜め下を向いてしまう。プレゼントが軽くなる。モニカは一瞬、沈黙してから「ありがとうございます」と、気の抜けた声で言った。

「開けても、いいですか」

 私は無言で頷く。リボンが解かれていく音が、しんとしたリビングに響く。

「今朝、私ね、思ったんだ。モニカの役に立ちたいなって、もらってばっかりは、嫌だなって」

 沈黙に耐えきれず、私の口が走り出す。

「だから、その気持ちも込めて、落としても割れないマグカップに、してみまし、た……」

 コップが置かれたのか、ことん、という音がテーブルを鳴らした。

 モニカの足音がこちらに向いた、と思った途端、温もりと重さと、シャンプーの香りが私を包んだ。

「ありがとう、アネット」

 モニカが囁いた声は、ちょっと泣きそうだった。ちゃんと名前で呼んでくれたの、初めて会ったころ以来だ。モニカが呼んでくれた名前が、胸の奥底まで響いて、明かりを灯す。

「こちらこそ、いつもありがと、モニカ」

 私は、モニカの背に手を回して、抱きしめ返した。

 そのあと、マグカップにホットミルクを入れて、ふたりでちょっと夜更かしをした。

 雨の残り香がする風は、ほんのり冷たくて、熱った頬にはちょうどよかった。

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