3日目
酉水は目を覚ます。今日も昨日までと変わらず、病室のベッドの上で。
夢を見ていた気がする。内容は覚えていない。
身体を起こして伸びをした。体の調子は昨日よりさらに良く、少しづつ快調に向かっているのがありありと感じられた。頭痛や倦怠感もほとんど感じられず、解放感に心が踊った。この調子であれば、赤平医師の言うとおり、本当に三日で退院までこぎつけられそうな気がした。意識も随分とはっきりしているし、考えてみると、記憶もいろいろと戻ってきている気がする。昨日まではまだしっくりきていなかった自分の苗字も今ではちゃんと自分のものであるという感覚がするのであった。
しばらくすると、今日も軽い足取りで赤平医師が病室に入ってきた。
彼は酉水に「おはよ」と短く挨拶をすると、今日も酉水の腕に点滴を刺したり、モニター付きの機器をいじったりしている。その姿を見ながら、酉水は既視感を覚えた。昨日一昨日のものではない、もっと昔に知ったなにかしらの感覚、感情。違和感を感じているのは確かなのに、その根源は皆目見当もつかず、妙な懐かしさだけが心に巣食っているような……酉水は赤平医師の顔をじっと見つめたまま、とりあえず挨拶だけは返そうと口を開いた。
「…………おはよ」
「ん?どした、元気なさげ?」
「あ、んーん。元気よ、めっちゃ!」
いつもと違うその様子を案じてか、赤平医師が心配そうに顔を覗きこんできたため、酉水は慌てて訂正する。元気であることに嘘はない。ただちょっと、気になることがあるというだけである。酉水はもう一度、赤平医師の顔、身体、そのすべてをじっと見つめた。
「……ほむらくんってさ、似てる芸能人とかいる?」
ただただ見つめられ続けてきた赤平医師の顔に困惑の表情が浮かぶのとほぼ同時のタイミングで酉水は言った。予期せぬ質問に赤平医師は「え?」とこぼしたあと、考え込むような仕草をとってみせた。
「んー……新田真剣佑とか?」
冗談めかした笑顔と共に赤平医師は言った。細まったつり目まぶたの奥から緑色の瞳が覗いている。
「ん……?ちょっとその人わかんないや……俺が思い出してないだけ?」
酉水は首を傾げながらそこまで言って、ハッとして顔を上げた。
「待って、……もしかしてボケてる?」
呆れるような、唖然とするような表情で、疑うように赤平医師を見つめる酉水に対して、彼はおどけたような笑顔で続けた。
「あ~新田真剣佑しらねえ?てか覚えてねえのか。俳優なんだけどさ、超絶イケメンな所とかオレにそっくりだと思うぜ」
「絶対ツッコミ待ちだってのはわかる、悔しい、思い出せないの、今がいちばん悔しい……」
酉水は心底悔しそうに言った。両手で握りこぶしをつくり、今にも布団を叩き出しそうな勢いである。その様子を見た赤平医師は一言「草生える」とだけ呟いた。
「そういうのじゃなくてもっとこう、毎日顔見るくらいのさ、有名な人に似てたりとか……」
と、そこまで言った酉水は、はたと言葉を止めた。
そもそも、生じた既視感を『赤平医師に似た有名人を見たことがあるのではないか』と仮定して話を進めていたが、それはあくまで仮定であって、すべてが酉水の気のせいである可能性の方が高いのである。加えて、赤平医師自身が似ていると豪語する俳優すら名前を聞いても顔を思い出せないのであれば、これ以上話を掘り下げたところで答えを得られる可能性は低い。となれば、こんな話に赤平医師を付き合わせる道理はないと、そう思い至ったからであった。
「まぁいいや!ちょっと気になっただけだし」
酉水が話に区切りをつけると、赤平医師はスッと目を細めて「……ん」とだけ返した。その表情は、酉水がはじめてこの場所で赤平医師と話した日に見た含みのある笑顔とよく似ていた。悲しむようにも見えて、懐かしむようでもあって、どこか遠くを見るような、そんな目をしていた。そしてやはり、その表情は一瞬の隙に鳴りをひそめ、彼はいつも通りの笑顔に戻っているのであった。
酉水はそんな赤平医師の様子に気づいてはいるものの、わざわざ口を挟むことはせず、
「ごめんなー、変な話始めちゃって」
と謝罪のみを伝えた。赤平医師本人から何も言わないのであれば、知らないふりをしておく方がいいのだろうと判断したためであった。
「いーよ。何か思い出しかけてんなら、それについて喋ってた方が記憶と繋がってくかもしんねーだろ?」
そう言いながら、赤平医師は昨日までと同じようにパイプ椅子をベッド横にセッティングした。
「あー、たしかに?でもあんまわかんなさそうだから、やっぱこの話は終わっていいわ」
「そ?」
「うん。今日もなんかお話してくれるん?」
「そ、今日も話をしようぜ」
パイプ椅子に腰を据えた赤平医師は咳払いをひとつして、口を開いた。
「あんたは、『二重思考』っつー思考能力を知っているか、つまり、覚えているか?」
「う〜ん?覚えてない、てか知らないと思う、たぶん」
「二重思考つーのはな、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する思考能力のことな」
フェーズ3 思想統制『二重思考』
二重思考とは、ジョージ・オーウェルが発表したディストピア小説『1984年』の中に登場する思想統制のことである。作中では『相反する2つの考えを同時に受け入れる』と説明されている。
例えば、1つの出来事を解明するために、2つの論理が展開されたとする。この理論は相反してて、片方が正しければ片方は間違っていることになる。俗にいう矛盾と呼ばれる状態である。
二重思考を使えば、この両方を意図して信じ切ることができる。仮に矛盾が生じたとしても、「矛盾を信じた」という事実を自分の中から消してまうことができる。
一言でいえば、『矛盾している事を同時に信じ、片方を信じているときは片方を忘れる』。
作中では、政治的矛盾を受け入れさせるために用いられており、『戦争は平和である』『自由は隷属である』といった、一見矛盾した思想を、思想統制を受けた人々は信じた。
たこれが二重思考のメカニズム」
赤平医師が、説明を終えたことを伝えるように締めくくると、酉水は頭を抱えた。
「え〜〜まって、むずかしい、ちょっと待って」
昨日、一昨日と打って変わって、随分と複雑な本日の話題を理解すべく、酉水は説明の咀嚼を試みたが、馴染みが浅い日本語の羅列が邪魔をして上手くいかないらしい。唸りながら首を捻る酉水に、赤平医師は「そうだな……」と前置きをして声をかけた。
「例えば……2+2は?」
ややこしかった説明から一変、小学生、なんなら未就学児にも答えられそうな問いを投げかけてきた赤平医師に、酉水はいぶかしげな表情を向ける。
「あれ、ばかにされてる……?そんなん、4だろ?」
「いや、5だな」
「何言ってんの??[#「??」は縦中横]」
さらに表情を歪める酉水に、赤平医師は笑いながら「そんな顔すんなって」と言った。
「小説の中で『2+2=5』っつう思考を信じさせる試みがあったんだよ。思想統制を受けた人間は、当然のように、その答えが4であるということを忘れて、問題の答えは5だと信じきることができた。今あんたは2+2=4であると信じてやまないだろ?
二重思考で2+2=5だと信じている人からしたら、4だっつわれるとさっきのあんたみたいな反応になるワケよ」
「え、違うことでも信じちゃうってこと?」
「そゆこと。『二重思考』という文字通り、思考を二重に持つ。ほんのわずかな疑いの感情すら湧くことはない」
赤平医師の説明を受けて、酉水は感心したように「へえ」と呟いた。ようやっと二重思考がどういったものなのか理解できたらしい。納得を体で表すように数度頷いて、何かに気づいたように顔を上げた。
「それ、おもしろいけど、不便なことも多くね?」
「お?例えば?」
問いかけるように述べられた酉水の私意に、赤平医師が食いつく。
「え、だって、それってもし嘘教えられてても信じちゃうんだろ?学校で『2+2は?』って聞かれて自信満々に『5!』って答えたらヤバいやつじゃん……?」
酉水は至極当然のことを説明しているようで逆に不安になったのか、問いかけるような語尾でそう言った。そして、まるで、堂々と間違った解答をしてしまったことのある誰かの肩をもつように「それはそれでおもろいけどね」と付け加えた。
「はは、確かに」
と赤平医師は笑う。
「でも全員が5だと信じてんなら、4って答えた方がヤバイ奴かもな」
「わ、そーなんのか。え〜〜〜なんか怖……」
「何が正しいかなんて、案外わかんねえモンかもな」
「うわ、じゃあ、もしこの二重思考ってのが本当にあったら、俺が『これが当たり!』って思ってるやつも、本当は嘘かもしんないってこと?」
「もしかしたらそうかもな~??そんであんたは、それが嘘だと気づけない」
「怖いこと言うなよぉ〜!」
子供に怪談話を聞かせるときのような表情や身振りで言う赤平医師に、酉水はしっかりと身震いをしてみせる。
「……まぁでもみんな一緒に間違えてんなら逆に正解?になる?……わかんなくなってきた」
酉水は言葉にしながらもう一度考えてみたが、結局よくわからなかった。思想統制を受けたことも、矛盾が生じたことも感知できないのであれば、何が真実で何が嘘なのか、自分が信じるものははたして自ら『信じる』と決めたものなのか。ぐるぐると考えてみるが、納得がいくような答えは出ない。酉水は、(まあ俺って頭よくないっぽいし、考えるだけ無駄なんかもな〜)と思考を放棄しようとした。ちょうどその時、
「んじゃ改めて」
と赤平医師が口を開く。酉水はふと赤平医師の顔を見つめる。
「2+2=?」
口元にはいつもの笑顔を浮かべているものの、その眼差しは至って真剣なものであったため、酉水は少し尻込みするような気持ちで、その問いの答えを出した。
「…………4、だわ。俺ん中では」
恐る恐る答える。赤平医師はそれを聞いてフッと笑い、
「じゃあそうなんだろうな、あんたの中では」
と、酉水の言い回しを真似るように言った。酉水は眉間に皺を寄せる。せっかく考えるのを止めようとしたところだったというのに、また元の思考に引っぱり戻されたような気分になった。不満を表すため、「もー!」と唸りながらベッドに倒れ、
「こんな話聞いちゃったら、いろいろ疑ってかかっちゃいそうでヤなんだけど!」
と天井に向かって叫んだ。そしてため息をつく。
「この話だけ忘れたい……もっかい記憶なくなんねーかな……」
「よーし待ってろ、今記憶なくしてやるからな」
泣きごとのように呟いた酉水の言葉を聞き拾い、赤平医師は椅子から立ち上がって拳を握る。パイプ椅子がガタンと音を立てたことでそれを察知した酉水は慌てて体を起こし、、肩をぐるぐると回しながら近づいてくる赤平医師に制止の声を投げつけた。
「やめろよ絶対シャレになんねーじゃん!冗談、冗談だから!ステイ!」
後は拳を振り下ろすだけ、というすんでのところで、なんとか止まってくれた赤平医師の顔を、焦りから未だバクバクと早打つ心臓を落ち着けながら酉水は見つめた。その表情やこのやりとりが面白かったのか、赤平医師は「だはは!」と大声で笑った。酉水は呆れたように、
「笑いごとじゃねーんだけど……」
と呟く。
でも、と酉水は思った。なんだか懐かしいような、あたたかいような気持ちになったのであった。気心が知れた友人と会話しているような、そんな気持ち。楽しくって、自然と笑顔になってしまうような。もしかしたら事故以前、友人と似たようなやりとりをしたことがあるのかもしれない。とはいえ、もしそうだとしても、そのやりとりも友人の顔も未だ思い出せていないのではあるが。
「お、点滴も終わったな」
赤平医師の言葉にハッと現実に引き戻される。今日の酉水は比較的、考えの濁流に流されがちである。酉水はそれを、記憶が戻りつつあるからだろうかと推察した。そして、せっかくこうして赤平医師と話せるタイミングであるのに、思考に時間を取られるのはもったいないという気持ちになった。一人で考え込むじかんなど、どうせあとで嫌というほどあるのに。
「時間経つのはやすぎ、もう行くん?」
手早く点滴を外す赤平医師に、酉水は声をかける。
「他の外来も診なきゃなんねえからな」
赤平医師はノールックでそう答えた。酉水は少しだけ落胆して「そっかあ」と寂しげに呟く。
「よし、体の調子はずいぶん良いな?」
「うん、めちゃいい」
「OK。そんじゃあ、あとは記憶さえ戻れば明日にでも退院できそうだ」
「そっか、記憶が戻ったら……なんかこのまま喋ってたら忘れてたってことも忘れそうだわ。普通に喋れるしさぁ。ちょっと怖ぇよ」
普段は見せない深刻そうな表情を携えて、酉水は言った。実際、赤平医師の言葉を聞くまで、自分が記憶を失っていることもすっかり忘れて会話に没頭していた。そのことを自覚し、ほんの少しの恐怖を覚える。自分が当たり前に思っておこなっていたことが実は奇異なことで、自分はそれに気づけない……それが、先程の二重思考の話と重なるようで、さらにゾッとした。
そんな酉水の心境を知ってか知らずか、赤平医師は頼りがいのある笑顔で口を開いた。
「心配すんなって。ちゃんと元通りになっから」
「……へへ、そうだよな」
酉水はその言葉にホッとして、肩の力を抜く。
「まあすぐすぐ戻んなくてもリハビリ重ねてれば……あー、ウチにはリハビリ科とかねえからさ、そん時は別の病院に紹介状書くけど」
「え、じゃあほむらくんと会えるの明日がラスト?」
「ん?まあ、そうなんのかな」
「えー!さみしーんだけど」
酉水はショックを受けて声を荒らげる。
「……いつでも会えんよ」
赤平医師はそう言って笑った。その目はまっすぐ酉水を見つめているというのに、まるで、違う誰かに言葉を投げかけているようであった。
昨日はこの顔しなかったのにな、今日は二回目だ、と酉水は思った。一昨日と今日にどのような共通点があったのかはわからない。赤平医師がこの表情をする前に話していた内容に共通することなどない気がした。だが、酉水は唯一知っていた。この表情をしたあと、赤平医師はすぐにいつも通りの笑顔になって、この表情を隠してしまうということを。だったら、と酉水は思う。だったら、自分ができる最大の気遣いは、何にも気づいていない顔で、話題を逸らすことだと。
「そだよな。なあ、明日LINE教えろよ〜」
酉水はニーッと笑ってそう言った。拒否権を与えないような笑みであった。赤平医師もそれに続いてニパッと笑い、白い犬歯を見せながら、「いいぜ」と答えた。酉水はそれがうれしくて、ベッドの上で上体を左右に揺らした。
「んじゃ行くわ、ゆっくり休めよ」
カルテをまとめた赤平医師は手をひらひらと振りながら病室の扉を開ける。
「おつかれ〜ありがとね。明日、約束忘れんなよ」
酉水の念押しに、赤平医師はサムズアップを返した。そして扉は閉まる。
ひとりになった病室で、酉水は息をついた。頭が重い。たくさん考えごとをしたからだろうか。物事を難しく考えるのはどうやら苦手な質のようである。たった数十分でこれなら、学生時代とかダメダメだったかもな、と酉水は思った。ほむらくんのいうとおり東大は無理だろうな~、と。
とはいえ、娯楽のないこの部屋の中では、自分の頭の中が唯一の遊び場となってしまうことに変わりはない。どうやって暇をつぶそうかと頭を捻って、そして思いついた。この部屋から出てみればいい、と。幸い今日は倦怠感もないため、歩くくらいなら一切の支障もなさそうである。病室の外になら誰かしらいるだろう。それが病院の職員であるなら仕事の邪魔にならない程度に、患者であれば治療の邪魔にならない程度に、相手をしてもらえばきっと楽しいだろうと思い至ったのである。
ならばさっそく、とベッドから降りてみることにした。スリッパなどは見当たらなかったので、裸足のまま。冷たい床の温度を感じる足に体重を乗せて立ち上がってみた。少しふらつきはしたものの、何とか歩く程度の筋力は残っていたようで、大きな難もなく扉にたどりつく。そして酉水は意気揚々と扉を開けた。
──静寂。人の気配なない。左右のどちらを見ても長く薄暗い廊下が続くのみで、突き当りは認識できない。見える範囲に人影はなく、また、ナースセンターのような場所も見当たらない。ただ、この病室のものと同じ色形をした扉が沈黙したまま並んでいるだけであった。
「そんなことあるぅ?」
見込みがあまりにも大幅に外れてしまったことに対しての率直な感想が零れた。その声は廊下の奥に広がる暗がりに反響する。酉水はそれを聞いてそっと扉を閉めた。さすがに、怖くなってしまった。幽霊のたぐいを信じることも怖がることもないが、病院の廊下、しかも人気が一切ないとなると、異様な雰囲気を醸し出していて、そこに単身で飛び込んでいくのは気が引けてしまった。体調の万全というわけではないし。出鼻をくじかれてしまって、酉水はすごすごとベッドに戻った。
ベッドの上で、冷えてしまった足を手で包んであたためながら、酉水はしょんぼりしていた。怖気づいてしまった自分への不甲斐なさだったり、誰もいなかったことへの寂しさだったりが、心の中でぐるぐると渦巻いて悲しくなってしまったのである。
すっかり落ち込んでしまった酉水はベッドに横になった。やはり睡眠のみが手っ取り早く時間を超えられる唯一の方法なのだと自分を納得させて、目を閉じる。明日には退院できるかもしれないとのことだったのもあるため、早めに寝て備えておくのも大切なのかもしれない、と思いながら、想定より早く訪れた睡魔に身をゆだねる。
眠りに落ちていくさなかに浮かんだ考えや疑問は、取りこぼされたかのように思考の彼方へと消えていった。
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