2日目
酉水は目を覚ます。昨日と変わらず、病室のベッドの上で。
夢を見ていたような気がする。内容は覚えていない。
起きて早々、酉水は自身の体調の変化に気がついた。動くのはまだ億劫に感じるものの、昨日に比べると体の調子がいい。倦怠感はまだあれど、頭痛に関して言えばほとんど無いに等しい。意識の明瞭具合が昨日とはまるで違う。雲のような分厚いモヤからすりガラスの不透明さに変わった程度ではあるが。
ゆっくりと上体を起こしてみる。背骨がパキパキと音を立てたので思わず「いでで……」と声をもらす。一年ぶりに起き上がるのだから当たり前かと、背中をさすりながら思った。勝手にベッドから出るわけにもいかないだろうと悟り、とりあえずベッドの上で伸びをしてみたり、肩をぐるぐると回してみたり、布団の中の足を曲げたり伸ばしたりしていると、病室に足音が近付いてきていることに気がついた。酉水は反射的にドアの方を見つめた。
「おはよ、調子ど?」
病室の扉をガラガラと開けて入ってきたのは赤平医師であった。彼は、昨日と同じ白衣姿で、昨日と変わらぬ様子で、にこやかに酉水に声をかける。
「あ!ほむらくんおはよ〜、調子いいよ!なんか昨日より楽かも」
酉水はパッと明るく笑って、そう答えた。赤平医師は「いいじゃん」と片方の目を細めるようにして笑う。
「んじゃ、今日も点滴からな」
「は〜い!」
赤平医師に言われて酉水は腕を差しだす。昨日は自分の腕に針が刺さるところを見られなかったため、今日はその様子をじっと見つめた。
「いてっ」
針が皮膚を破る感覚は想像よりも痛くて、思わず声がもれた。それを聞いた赤平医師は小さく笑う。
「痛覚も正常に戻ってきたのかもな」
「そーゆーことぉ?びっくりした……」
「記憶の方はどうよ、なんか思い出した?」
「え?う〜〜〜ん……」
赤平医師にそう問われ、酉水は首を捻りながら左下を見つめた。確かに昨日より意識がはっきりしているため、記憶にかかった霧も少しだけ薄くなっているような感覚がする。よく考えて記憶を辿ろうとしてみる。何かが思い出せそうだ、何かが……
「…………名前、もしかして酉水は苗字だった?」
酉水は恐る恐る口にした。なんとなく、感覚でしかないがそんな気がしたのだ。見当違いなことを言ってしまってはいないかとドキドキしながら返答を待っていると、赤平医師は、おっ!と眉を上げ、「正解!」と明るく言った。酉水はホッと肩の力を抜く。
「んじゃ、名前は?」
続けて問われてドキリとする。そう、『酉水』が苗字であるのなら名前は別にあるはず、当たり前のことである。とはいえ、パッと浮かぶ何かがあるかと言われると頷くことはできない。酉水は「え〜〜〜っとねぇ、うんと、……」と首を捻って考えてみた。しかし、苗字を何度反芻してもその続きは出てこない。ならば、と次は人に名前を呼ばれるシチュエーションを思い浮かべてみた。もしかしたら、フルネームで自己紹介をすることよりも、家族や友人から名前を呼ばれることの方が多かったかもしれないし、そちらの方が想像しやすいかもしれないと思い至ったためである。とはいえ家族も友達も思い出せないので、本当にシチュエーションのみを想像しなくてはならないのが難しいところではあるのだが。酉水は目を閉じて、もう一度ゆっくりと考えてみる。
「…………はぐ、」
ふと頭に浮かんでそのまま口にしてみた言葉は、思っていたよりもずっと馴染みがよかった。伺うように赤平医師を見ると、彼は先程と同じような笑顔で酉水を見つめている。それを正解だと受け取った酉水は少しだけ眉をしかめた。
「え?本当にハグ?俺って外国人なの?」
酉水はまさか当たっていたとは思っておらず、『はぐ』を英語の『Hug』だと思い、いぶかしげに尋ねた。それを聞いた赤平医師は「おし~」と破顔する。
「はぐ『み』。教育の育って書いて、酉水育。戸籍は…日本のはずだなあ」
赤平医師は笑顔のまま言った。彼の犬歯が病室の照明に当たって、白く光る。
酉水はありゃ、と眉を下げ、「惜しかった〜」と言いながら笑った。『育』、言われてみればそうだったような気がした。昨日、苗字を聞いたときよりもずっとしっくりくるような感覚。ようやく名前を取り戻せたような心地がして、酉水は安堵感に溜息をつきながらベッドに倒れた。しかし、考えてみると少しひっかかることがあり、「ん?」と思いながらもう一度起き上がって赤平医師を見つめた。
「てかほむらくん知ってたなら教えてよ!」
眉間に皺を寄せて、遺憾を発した。赤平医師が酉水の名前を知っていたのにわざわざ酉水に考えさせたというところに、なんだか泳がされているような感じがして心外だったのである。酉水はわざとらしく頬を膨らませてみせたが、赤平医師はそれをまったくものともしていないような表情で答えた。
「自分で思い出した方がスッキリするだろ?」
あまりにもサラリと流されてしまって、酉水は少したじろぎながら「そ〜……かも?」と返すしかなかった。心の中では、もうちょっと申し訳なさそうにしてくれたっていいのに〜、と不満はあったが。
「さて」
話を変えるように、逸らすように、赤平医師は昨日と同じくパイプ椅子をベッド横に寄せてそれに腰かけた。
「もっとスッキリするために今日も話をしようぜ」
赤平医師のその言葉に、酉水は一瞬で笑顔になる。先程までの不満は、この言葉を聞いた途端どこかへ飛んでいってしまったようだ。
「しよしよ〜!今日は何の話する?」
そう言いながら酉水は体を赤平医師の方へ向け、ベッドの上であぐらをかく。対話をする準備が整った酉水を見て、赤平医師は改まった口調で言った。
「あんたは、『スワンプマン』っつー思考実験を知っているか、つまり、覚えているか?」
まっすぐに見つめてくるグリーンの瞳を見つめ返しながら、酉水は首を傾げた。知らないのか覚えていないのか定かではないが、少なくとも今この瞬間、その言葉に覚えはないようである。
「ん〜、わかんない。映画?ヒーロー的な」
言葉の響きだけで連想ゲームをして答えた酉水に、赤平医師は「あー」と少し納得したような相槌をこぼした。
「いそうだな、アイアンマンみてーな…サンドマンとかあるし」
「んね。それ系のやつかと思ったけど違うの?」
酉水の問いかけに首を横に振って否定をし、「この話はさ」と前置きをして赤平医師は説明を始めた。
フェーズ2 思考実験『スワンプマン』
ある男が、沼のそばで突然雷に打たれて死んでしまった。この落雷は偶然にも、沼の汚泥と化学反応を引きおこし、男の遺体は沼の汚泥そのものの物質となって溶け出した。その時、もうひとつ別の雷がすぐそばに落ちる。この落雷もまた偶然にも、沼の汚泥と化学反応を引きおこし、死んだ男それそのものとしか言いようのない、全く同じ人間が生み出された。この落雷から生まれた男がスワンプマン。このスワンプマンは、自分が雷に打たれたことすら知らない。原子レベルで死ぬ前の男と全く同じ構造をしてて、見かけだけでなく思考や記憶まで同じだ。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿で家に帰り、これまで通りの生活を続ける。
「つまり『ある男』がヒーローなら、スワンプマンもおなじくヒーローつうわけだ」
そこまで説明をして、赤平医師は先程の会話を引用してみせた。
「へ〜!おもろ!ほんとにそういう映画とかありそう!」
「なー」
目を爛々と光らせる酉水に赤平医師は同意する。
「まあ本題はこっからだ」
赤平医師は身を乗り出した。パイプ椅子が軋んで音を立てる。
「このスワンプマンは元の男と同じだと言えるだろうか?」
「ん……」
赤平医師からの問いかけに、酉水は昨日とは打って変わって長考した。首を傾げたり、天井を見上げたりして、じっくり時間をかけた後、悩ましげな表情のまま口を開く。
「言え〜〜……どうだろ……同じだとは思うんだけど〜って感じ」
「けど?」
随分と時間をかけた割には煮え切らない酉水の言葉じりを拾って赤平医師は尋ねる。酉水はそれを受けて、もう一度小さく唸った。
「多分同じなんだろうとは思うんだけど、そう言っちゃうとちょっとさみしー気もするんだよね」
酉水は自信なさげな様子で、赤平医師の反応を伺いながら言葉を探す。
「だってその人死んじゃったって知ってんの俺らだけじゃん?同じだよ〜生き返ったのと一緒だね!だからハッピ〜!って言うのはなんか……さ……」
酉水はモニョモニョとしりすぼみになりながら言った。
「……死んだことを知らない方がイイ?」
「う〜ん、自分は知らなくても、死んだことを覚えててくれる人がいた方がいい、って感じ……?」
酉水の答えを咀嚼して詳細を尋ねる赤平医師に、酉水は首をひねったまま答える。しかし、やはり思ったこと全てを言葉にできたわけではないのか、後ろに手をつきながらお手上げとでも言いたげな溜息をついた。
「ごめん、やっぱ説明下手だわ〜」
「いや、いーよ全然。そも論むずかしい話だしな」
そんな酉水の様子に赤平医師は苦笑をこぼしながら、慰めるように言った。酉水はその言葉に頷く。
「むずかしー。あんまし頭よくないのかも俺。やなこと気付いちゃったや」
「頭は……まあ、ウン。元気出せよ……」
「な〜んでほむらくんが諦めた感じ出してんの!?まだわかんねーじゃん、もしかしたら東大行ってたかもじゃん!!」
酉水はわかりやすく頬を膨らませてみせたが、赤平医師は「どーだか」と笑いながら肩をすくめるだけであった。酉水は「も〜」と不満げな声を上げたが、これ以上この話を広げても火傷をするのは自分であるような気がしたため、話を逸らすべく「だからね」と前置きをして、先程の続きへと話を戻した。
「えとね、とりま『この人が死んだこと知ってんの俺らだけなら、スワンプマン?がこの人と同じだよって言っちゃうと死んだこともなかったことになるくね?』てのと、『死んだってこと、誰にも気付いてもらえないのさみしくね?』って感じ。伝わる〜?」
身振り手振りも一生懸命使って、なんとか自分の意見をまとめた酉水は、赤平医師の反応を伺うように彼の顔を覗き込んだ。赤平医師は「伝わる伝わる」と頷く。
「酉水サンはスワンプマンがどうのつうより、男が死んじまって、その死を悼む状況にならねえことが気になるって感じなんだよな?」
「え!そう!それが言いたかったんだよ!ナイス〜!」
まさしく自分が言いたかったことをより簡潔にまとめあげてくれた赤平医師に、酉水は全力でサムズアップした。
「そう、だからね、同じだって思ってるし、言いたいんだけど、言っちゃうとな〜って感じなわけ」
酉水は胸の前で腕を組み、ウンウンと頷く。
「はは、東大はともかくとして面白い視点の話が聞けたわ」
茶化すように笑いながらそう言う赤平医師に、酉水は咎めるような笑顔を返したが、赤平医師はそれを気にとめていないように点滴パックを見上げた。
「っと…そろそろ点滴も終わるな」
そう呟いて立ち上がり、パイプ椅子を片付ける赤平医師を目で追いながら、酉水は哀しそうな顔で言った。
「え〜ほむらくんの話も聞きたかったなぁ。時間ならしょーがないけどさ……」
しょんぼり顔で項垂れる酉水の腕から針を外しながら、赤平医師は口を開いた。
「オレは、スワンプマンは元の男と同じだと思うぜ」
「ぜんぶ同じだから?」
赤平医師のつむじを見つめながら酉水は尋ねる。「そ」と短く答えて赤平医師は立ち上がった。
「オレは医者だからな。原子配列まで同じとありゃ同じと診断するしかないっつーワケ」
彼は誇らしげに胸を張って笑う。その笑顔をしばらく見つめて、酉水は少し顔を伏せた。
「そっか、そうだよね……でもやっぱ俺は、それじゃさみしいって思うよ」
所在なさげにしんみりした顔で笑う酉水を見かねたのか、赤平医師は優しい笑顔をたずさえて口を開いた。
「んじゃ、知ってるオレらで悼んでやろうぜ」
その言葉を聞いて、酉水はパッと顔を上げる。そうじゃん、そうすりゃいいんじゃん、と思い至り、ペカペカの笑顔で言った。
「そ〜しよ!」
そのまま両手を合わせてみせる。
「こういうときって南無阿弥陀仏でいいんだっけ?海外ならアーメンの方がいいかな?」
おどけるように言う酉水に、赤平医師は小さく声を出して笑った。そしてカルテや使用済みの器具を手に取って病室の扉を開ける。
「んじゃな、ゆっくり休めよ」
赤平医師は酉水にそう声をかけて、手をひらひらと振りながら部屋から出ていった。
「ありがと〜!ほむらくんもね。また明日、待ってるね」
酉水は閉まっていく扉に手を振る。
あーあ、また一人かぁ、と思う。昨日は気づけば眠ってしまっていたようだが、今日はなまじ意識がはっきりしている分、明日を待つ時間が長くなってしまうことを思うと憂鬱であった。だからと言ってあの気持ち悪い感覚に戻ってきてほしくはないが。
夢を見ているような感覚は抜けない。起こっていることの輪郭が掴めないような、他人事のような、そんな気がずっとするのである。それが、体調が優れないせいなのか、はたまた記憶がないせいなのかは、酉水にはわからない。今確実にこれだけは本当なのだろうと思えるのは、自分の名前が『酉水育』で間違いないということだけで、それ以外がすべて嘘だったのしても、やはりそうかと言ってしまいそうなくらいに現実味が薄かった。
酉水はベッドに寝転がる。ちょっと話しただけなのに、一人になった途端ドッと疲れが来てしまった。一年も眠っていたせいで体力が落ちてしまったのだろうか。酉水は長めの溜息をついて天井を見つめる。真っ白で汚れひとつない天井は、時間つぶしの相手にはなってくれそうもない。病室を出れば誰かがいるのだろうが、到底身体を起こす気にもならないほど疲れてしまっていて、やる瀬ない気持ちで酉水は布団の中に潜り込んだ。今寝てしまうと変な時間に目が覚めてしまうのではないかという危惧はあったが、それ以外の暇つぶしの方法はこの部屋には見つからないし、ここぞとばかりに顔をもたげてきた頭痛から逃げたいという気持ちもあったため、とりあえず目を閉じてみた。ぼんやりとした暗闇の中、部屋の時計の秒針がずれなく動く音が大きく聞こえる。ゆっくりと眠りに落ちていく感覚の中で、酉水は、そういえばこの部屋にナースコールを鳴らすボタンが無いことを思い出した。あればよかったのにな、そうすれば寂しくなっちゃっても誰か来てくれるだろうし、……。
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