カタシロSS
@FuaDayo
1日目
男は目を覚ます。そこは病室のベッドの上にであった。と言っても、男本人はまだそのことを認識できていない。
夢を見ていたような気がする。内容は覚えていない。
意識は未だ朧げで、正直ほんとうに目が覚めているのかどうかを判断することも難しく、ましてや自分が置かれた状況などまだまともに知覚できる様子ではなかった。
ひどい頭痛と倦怠感が男の身を包んでいる。体を起こすどころか、手先を少し動かすことも難しい。横になっているだけだというのに息が上がる。手足は凍っているかのように冷たいのに、臓器は燃えているかのように熱い。体内が膿み、腫れているような感覚。ほんとうに自分は人の形を保てているのだろうか。誰か、と助けを乞いたいが声は出ない。
男が苦しみに耐えているとしばらくして、ばたばたと慌ただしい足音がだんだんと近づき、大袈裟な音を立てて部屋の扉が開かれ、息を切らした白衣姿の男が病室に入ってきた。その服装を見るに、医者であることが伺える。相当急いできたのか、彼の黒い髪が汗で額に張り付いている。医者はベッドの上の男が目を覚ましていることに気が付き、驚きの声を上げた。
「うわっ……!マジか、……はは……」
医者は小さく笑いながら、膝に手をついた。走ってきた疲れゆえか、それとも安堵か、はたまたそれ以外の何かの感情が医者の中にうずまいているのか、定かではない。しかしその笑みは少なくとも前向きな感情を表しているように見える。
「ちょっと悪い、診させて」
男に許可をとるというよりは放り投げるように声をかけて、医者は男の瞳にライトを当てたり、額や首元、胸部を触診する。その声かけや接触を経て、男を蝕んでいた苦痛は徐々に和らぎ、朧げだった意識は少しづつ覚醒していき、やっと医者の言っていることがはっきりと聞き取れるようになってきた。
「あー……気が付いたみたいだな」
そう言いながら医者は男の視界の中に覗き込むように入ってきた。このときはじめて、男は医者の姿を見、声を聞いた。その表情は安堵のようにも見えるし、何かを期待しているようにも見えた。男はゆっくりと口を開き、掠れた声で言った。
「……おはよ、だぁれ?」
男のその問いかけに医者は黙り込んだ。男には、その表情が一瞬歪んだように見えたが、それと同時に医者は男の視界から外れるように顔を上げてしまったので、男にはよくわからなかった。少し間をあけて、また医者は男の顔を覗き込む。
「ほむら。……赤平炎」
医者、もとい赤平医師は、男に言い聞かせるようにゆっくりと自分の名前を言った。
「ほむらくんね、カッケー名前。ここは、病院?」
「そ、病院。あんたは事故にあって、運ばれてきた。……覚えてますか?」
赤平医師にそう言われて逡巡すると、確かに何か恐ろしい出来事に巻き込まれていたような気がする。しかし、それがどんなものだったかほとんど思い出せない。どれだけ思い出そうとしても『気がする』の域を脱しない。
それだけではない。記憶をたどればたどるほど、抜け落ちた記憶の穴が極端に多いことに気がつく。ここが病院であることはわかる、目の前にいる黒髪の男がおそらく医者であることも。自分が使う言語にも異常は感じないし、相手に伝わっているように見える。ただ、自分が何者なのか、何をしていて、どうしてここにいるのか、そういうことがまったく思い出せない。社会的に一般常識レベルの記憶以外、つまり自分自身に関する記憶がすべて抜け落ちてしまっているようであった。
「覚え、てない。うわ、覚えてないわ。なにこれ気持ち悪……」
男は、自分の身に何が起きているのかまったくわからないこの状況に眉をしかめた。その様子を見ていた赤平医師は「まあそうなるわな」と小さく苦笑をこぼす。
「どこまで覚えてる……ってか、何を覚えてる?」
「えと……やばい、何も思い出せん」
「え?名前わかる?生年月日とか住所とか言える?」
「…………わかんない」
「あー、まじかあ。なるほどね」
赤平医師は持参していたバインダーを見て、カルテに何かを書き込みはじめた。
「普通に喋れてっし、ここが病院だっつーことも解ってるし、めちゃくちゃ悲惨って感じではなさそうだけど」
赤平医師は「MTBIとか一過性全健忘とかと似た感じだと思うわ」と付け加えたが、男にはその単語に馴染みが一切なかったため、彼の言ったことがよくわからなかった。とはいえ言い方を聞くに、とりあえず『最悪ではない』のだろうということが伺えて、男は少し安心する。
「よくわかんないけど、なんとかなるってこと?」
「おう、なんとかしてやんよ」
「たのもし〜」
男はヘラヘラと笑った。
目が覚めたら知らない場所に記憶もなく放り出されていたため、自覚は無くとも多少不安だったようで、今ようやっと安心感を得たことによってはじめて、その不安を自覚した。
赤平炎と名乗るこの医者の言葉を頼りに状況を整理すると、つまり男は事故に合い、この病院に運ばれ処置を受け、先程目が覚めると自分に関する記憶を喪失してしまっていたと、そういうことらしい。冷静に考えてみるとなかなかに奇怪な状態に身を置いてしまったことがわかり、男は「てか事故って!」と吹き出してしまった。
「ヤバいちょっとおもろい俺が事故ってんの」
「いや全然おもろないって」
すかさず冷静にツッコまれて、男は口を噤んだ。ここは病院で相手は医者であることを考慮すると、事故に巻き込まれたことに対して笑うのは確かに不謹慎だったか……と自重し、伺うように医者に目線をやる。その表情はまるで、これから叱られることがわかっている子供のようだった。赤平医師はそもそも強く咎める気もなかったが、その顔を見てこれ以上それに関してつつく気もなくし、仕方ないなとでもいうような溜息をついた。
「あんなースガイサン、あースガイサンってあんたの名前ね」
赤平医師はそう言いながら空中に指で字を書いた。『
「めずらしー名前してんねぇ、俺」
「だよな。オレも、あんたがはじめて」
男もとい酉水が他人ごとのように呟いたのを赤平医師が拾う。それに対して「やっぱそうだよね」と返しながら、酉水は、珍しい苗字だってことかわかんのに、なんで自分の名前だってことはわかんねーのかなあ、と思った。その悲観が表情に出ていたのか否か、赤平医師は名前の話題を別のものにすり替えた。
「そう、酉水サン。あんた一年ずっと眠ったままだったんだわ」
「…………一年!?[#「!?」は縦中横]まじ!?[#「!?」は縦中横]俺、寝すぎじゃん」
それは、これまで聞いた諸々すべてが吹き飛んでしまうほど衝撃的な情報だった。酉水は驚きのあまり数回目をぱちぱちさせて、「もう寝坊とかいうレベルでもねーじゃん……」と嘆き、自嘲を零した。一年かあ、とひとりごちて、じゃあいつの間にか一歳歳とっちゃったってことかあ、元が何歳だったのか覚えてないけど、と思った。そしてハッとして赤平医師を見つめる。
「じゃあ、その間ずっとほむらくんが看ててくれたってこと?ありがとね♡」
「…………ウン」
人なつこい顔で笑いながらお礼を言った酉水に対して、赤平医師は少し間を空け、含みのある笑顔を見せた。酉水は、あれ?と思う。自分が何か変なことを言ってしまったのだろうかと勘ぐる。しかし次の瞬間には彼は明るい笑顔に戻っており、よく通る声で言葉を紡いでいく。気のせいだったのだろうか。
「感謝しろよな~、15[#「15」は縦中横]時間だぜ?あんたの施術時間。ゾンビ映画よろしくスプラッタな状態の酉水サンを綺麗に治したのはこの赤平先生ってワケよ」
ふふん、と胸を張ってドヤ顔をしてみせる赤平医師に
「ヨッ!あかひらセンセ〜!ほんとありがとね、おかげでちょ〜元気!」
と酉水はおどけたように返した。
『ちょ〜元気』は正直にいうと見栄を張っていた。話しているうちにマシになったとはいえ、先程までの頭痛や倦怠感が完全になくなったと言えば嘘になる。しかしこれは酉水が嘘をつこうと思って言ったわけではなく、その不調を担当医である赤平医師に伝えなければならないという考えが酉水になかっただけであった。きっと酉水はあまり病院に慣れていないのだろう。そのことに気付いているのか否か、赤平医師は目を細めて笑いかけながら「おうよ」と答えた。
「でもまあ、とにかく寝こけてた時間が長えんだ、元気つっても立って歩いたりとかは難しいかもな。記憶も無いみたいだし、三日くらいは入院してもらう」
ペラペラとカルテをめくりながら赤平医師は言う。
「あ〜〜そっかぁ、う〜ん…………」
それを聞いた酉水は悩むような声を出した。しかし、そもそも一年も寝ておいて今さら三日を渋る理由はないし、あったとしてもそれを覚えてはいないのだから別に大丈夫か、今はまだ動けないが三日のうちにすっかりよくなって動き回れるようになるかもしれないし、こうして赤平医師が病室に来てくれるのであれば暇に押しつぶされることもないだろう、という結論を出した。
「ほむらくんいてくれるならいっか。よろしくお願いしま〜す♡」
「軽…」
屈託のない笑顔とともに軽快な口調で言う酉水に対して、赤平医師は辟易さを感じさせるような口調で呟いた。
「ま、いいや。とりあえず点滴な」
「は〜い!」
赤平医師は頭の後ろをガシガシと掻きながら点滴を要求し、速やかに酉水の腕に針を刺して点滴のチューブを繋いだ。そしてベットのそばに置かれた機械を忙しなく触ったりしている。医学的な知識を持つ人間であれば、それらは間違いなく、軽傷患者向けのものではなく重篤な患者を治療するための処置だと理解できるだろうが、その手の知識があまりないのだろう酉水は、お医者さんっていろいろ扱わなきゃで大変なんだな、と呑気な気持ちでそれを眺めていた。
処置があらかた終わったのだろうか、赤平医師は「よし」と短く言って、腰に両手を当てて酉水を見た。
「点滴してる時間、ちょっと話でもしねえ?」
「した〜い!」
「ははっ、元気なぁ。……記憶っつうのは案外単純なとこもあってさ、会話してると海馬が刺激されてふと思い出したりするもんよ。要はとっかかりが大事なワケ」
「なるほどね〜?詳しい話はわかんないけど、ほむらくんとお話はした〜い!」
赤平医師はやわらかく微笑み、「ひとつ話題がある」と言いながら、病室の脇に置いてあったパイプ椅子をベッド横に運び、浅く腰かけた。
「あんたは『マリーの部屋』っつー知識論法を知っているか、つまり、覚えているか?」
酉水はひとしきり考えてみたが、思い出せなかった。失われてしまった記憶の中には存在したのだろうか、それすらもわからない。
「……う〜ん、わかんないや。なぁに?それ」
「んじゃ、まずは説明するな」
そう前置きをして、医者は『マリーの部屋』という思考実験についての説明を始めた。
フェーズ1 哲学的思考実験『マリーの部屋』
聡明な科学者であるマリーという女性はどういう理由か、生まれた時からすべてが白黒の部屋で過ごしており、色を見たことがない。マリーはこの部屋で白黒の本を見て学び、白黒のコンピュータを通じて外の世界とつながっている。そしてマリーは、視覚の神経生理学において完璧な知識を持っている。彼女は人間がどうやって色を見るのか、色とはどのように見えるのかということを、知識として完璧に知っていることになる。たとえば熟したトマトや晴れた空を見るときに感じる色彩についての情報を物理的、神経生理学的に捉えることができるのである。
ではこのマリーが部屋の外に出る、あるいは部屋にあるコンピュータがカラーになったときに何が起こるだろうか。彼女は何か新しい知識を得るのだろうか。
端的に説明をして、赤平医師は酉水に問いかけた。
「じゃあ、酉水サン。色について完璧に知っている彼女は、色のある世界を見て、何か新しい知識を手に入れたと言えるだろうか?」
「ん〜っと、」
酉水は医者の説明を咀嚼し飲み下したあと、少し考え、口を開いた。
「言えるんじゃね?って思うんだけど」
「ほーん、なんでよ?」
「え〜、だって実際に見たわけじゃないんでしょ?こう見えるよ〜てのだけ知ってて。じゃあほんとに色見たら新しい知識ってやつ、じゃね?違うかな?」
「いーや、違うとか違わないとか、そういうんじゃないけどさ」
赤平医師は苦笑をこぼす。
「酉水サンは実際に見ないとわかんねえ、って思う?」
「うん、思うかも。聞いたこととか読んだものとか写真とかを信じてないとかじゃなくてね!やっぱ実際見るのとは違うんじゃね〜?て思うな」
「ふーん、なるほどなあ。じゃ、観光名所とかも実際に自分で行きてえタイプ?」
「せっかくならね!……でも話に聞くだけでも楽しかった、気がする……」
「お、早速ちょっと思い出してんじゃん?」
酉水ははにかんで見せた
「ほむらくんはどう思うの?この、マリーの部屋?だっけ」
「オレ?んー…俺は、新しい知識を手に入れたとは思えないかな」
酉水からの問いかけに、赤平医師は即答した。酉水は赤平医師が自分の意見を話してくれたことがうれしくなり、「お!そうなんだ。なんでなんで?」と食いついて、さらに質問を重ねて詳細を聞き出そうとする。
「マリーの色に対しての知識が完璧ならさ、それはもう見たことあるのとなんら変わんねえと思う。色を見た事で感じた事とか、思う事があるなら……それはもう知識っつうかなんつうか……どちらかといえばエモ?みたいな?感情が動いたってだけなんじゃね?」
「あ〜!たしかにね!そか、言われてみたらたしかに〜てなるわ」
「ま、さっきも言ったけど正解とか不正解とかはねえのよ」
赤平医師は酉水を擁護するように言う。
「オレはあんたの考えが知りたかっただけ」
「なんか照れる〜。俺もほむらくんのお話聞けてうれしいよ」
酉水はまたはにかんで笑ってみせて、続けて言う。
「あんまし理由とかまとめるの上手じゃなかったかも、俺。ごめんね」
「や、オレも昔はそうだったよ」
あ、またその目、と酉水は思った。少し含みを感じる赤平医師のその笑顔。先程も不思議に思ったし、思い返してみると最初に酉水が「誰?」と尋ねたときも同じような表情をしていた気がする。酉水を見ていることは確かなのにどこか遠くを見ているようなグリーンの瞳は、酉水に違和感をもたらす。しかし、またもや瞬きの間に彼の笑顔は明るいものへと戻っている。酉水には、それも含めてこの一連の流れが果てしない不協和のように感じられた。
だが酉水は、それについて言及しようとはしなかった。そんな気持ちすらまったく湧かなかった。自分が言ったことやしたことが不快にさせてたら申し訳ないな、とか、嫌なことがあって悩んだりしているのなら話聞くのにな、とか、そんなふうに思っていた。
「ってと、点滴終わったな。そろそろ他の外来診てくっかー」
赤平医師はそう言って立ち上がった。パイプ椅子が軋んで音を立てる。慣れた手つきで酉水の腕から針を抜き、てきぱきと片付けていく赤平医師に、酉水は抗議の声を上げた。
「え〜〜!もう行っちゃうの?さみしーんだけど」
拗ねたような顔をする酉水に、赤平医師は片方の眉だけ下げて笑いかける。
「悪いな、オレ名医だからさ。人気者なワケよ」
「そっかぁ……ならしょーがないね。気をつけてね」
「酉水サンもな、ゆっくり休めよ。また明日、様子見に来るわ」
赤平医師は手をひらひらと振りながら病室の扉を開ける。
「うん!ありがとね。また明日〜!」
酉水がそう声をかけるが早いか、病室の扉が閉まる。ベッドに寝たまま動けない酉水には、その音だけが聞こえる。ひとりきりになった部屋の中で、酉水は自分の置かれた状況を再度反芻して考えることにした。
よくわからんねえことになっちゃったな、と思う。自分の今までの暮らしはこれっぽっちも思い出せないけど、さすがにこんな状況に陥ってしまうのははじめてだろう。……はじめてであってほしい。
まだ夢を見ているみたいだ、と思う。あまりにも現実味が無さすぎて。はっと目が覚めて、実は事故も入院も記憶喪失もすべて夢でしたとなってしまう方が現実的な気さえする。随分と突飛な夢を見ているな、と笑ってしまいたいが……医者が部屋を出ていってひとりになった途端、再度顔を出してきたこの頭痛や倦怠感が幻であるとは考えにくい。脳が肥大していくかのような感覚と熱にうなされながら、もう思考すらまともにできず、ベッドの上で苦しみを享受しているうちに、酉水はいつの間にか眠りに落ちていた。
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