第2話
部屋を出た瞬間、門田は玲から手を離した。鍵を閉めるためだと思ったが、人目を気にしたからだとすぐにわかった。
玲の不満を他所に、門田は少し足を引きずりながら、独自のリズムで玲の少し前を歩いていく。その姿はやはり愛おしい。切なくなるのは何故だろうと考える。うまく言語化できなくてもどかしい。
苛立ちついでに手を繋がなければ帰らないと言ってやろうかとも思ったが、共犯者のよしみで飲み込んでやった。
今から門田は玲のために真摯に彼を好いてくれた少女に別れを告げに行く。玲のため、しかし、自分のため。そう仕向けたのは玲で、決めたのは彼だ。二人で一人の少女の恋心を殺す。だから共犯者だ。
「おれ、最低だ」
門田が独言のように呟いた。耐えきれなくなった。門田は優しい男だから。玲はそう思いながら黙っていた。それに比べて自分はなんて冷酷なのだろう。相手に対して憐憫の念は微塵もない。何故なら――、
「僕の彰悟を横取りしたのがいけなかったんだよ」
「いつおれがお前のになったんだよ」
「彰悟が、僕がいなくなったと思って絶望したときから」
「なんだよそれ。怖いって」
「事実だから怖いんだろ」
「認めたくないって思ったのは、認めたことと同じなんかな?」
玲は門田を上げる。門田も振り向いて玲を見る。
自分よりもずっと大きいのに、ずっといたいけで、儚く見える。
「彰悟がいないと、ひとりぼっちになるのは、僕だって同じだよ」
玲は自分の声が震えているのに気づく。声だけではない。脚も、肩も、全身が震えている。
門田に抱きしめられたとき、安堵できた自分に、心から安堵した。実際に触れられて、彼さえ拒絶してしまったら、彼にさえ恐怖心を感じてしまったら、と心の隅で恐れていた。女性化してから、周りの見る目が気持ち悪くなった。自分に向けられる他人からの好意や欲望や好奇心が嫌でたまらなかった。しかし、門田においてはそうならなかった。
「僕には、彰悟しかいない」
涙が勝手に落ちていた。震えるほどの感情の昂りがそこに凝縮されて、落ちていった。
「女の子になって、なにもかも変わっちゃったんだ」
言いながら、何かに近づいたと気づく。ああ、そうかと玲は思う。
僕たちはあって当前だったものを失った。あるべきはずだった現在と未来。あったはずの過去。
門田にとってバスケは単なるクラブ活動ではなかった。口にすることはなかったが、彼は自分の人生をかけていた。実際に可能な限り彼はバスケに勤しんでいた。才能も努力しなければ拓くことはないのだ。
バスケが好きだという気持ちを原動力に努力に基づいた彼の実力は、抜きん出たものになっていた。常に他者より上にある者のプレッシャーもあっただろう。それも制して常にトップ選手として活躍してきた。高校生になって三年生を差し置いてスタメンに選ばれ時も一悶着あったようだが、彼は愚痴も弱音も一切漏らすことはなかった。そして彼は優しい。だから、全てを失った時に、これでよかったなどと口にした。肩の荷が下りたのは確かかもしれない。下ろさざるを得なかったとしても。好きなこととはいえ、それにまつわるしがらみがあり、それらから解放されたのも事実だろう。でも、本当は失いたくなかったはずだ。彼の悲しみは計り知れない。玲以外の他人には。
「彰悟もそうでしょ。バスケ」
門田は答えない。溢れるものを堪えるように唇を強く結び、玲を見ている。感情が昂り身体を支配する時、震えてしまうのだと、この時知った。
不本意だが家まで送ってもらい、家族の目を避け、裏庭の勝手口に回り、門田に自転車を貸すことにした。
家に着いたら連絡するようにいうと、彼は短く「ん。」と頷いた。その柔らかな声に玲は思わずキュンとしてしまう。門田から玲に対するぎこちなさがなくなった。ゆるさに甘みが加わり、玲の中のなにかをくすぐってくる。端的に言えば可愛がりたい。自分よりも大きくて力もはるかに強いであろう門田を、抱きしめて頭を撫で回してやりたい。愛しさが溢れんばかりに湧いてくる。
「世界中の女子が敵になっても、僕は彰悟の味方だからね」
「言ってみたかっただけだろ、そのセリフ」
「バレた?」
「おれも言ってみたいもん」
「言ってみてよ」
「日本中にいる玲のファンを敵に回すのに?」
「彰悟の敵は僕の敵。許さない」
「ハハッ。つよ」
互いに声を潜めて笑い合う。
「ねぇ、彰悟。なんか、今無性に彰悟とキスしたい。しよ」
「いや、おれまだ相田さんと別れてねぇし」
「なんで。どうせ別れるのに」
「別れてからじゃないと嫌だ」
「えー。したい」
「おれだってしたいよ。けど、おれら後からいくらでもできるじゃん」
「え。ムリ。なに? 彰悟かっこよすぎ。キュンキュンして息忘れそう」
「……なんか、あれ思い出した。幸せが誰かの不幸で成り立ってるとかいうやつ。……そうじゃない幸せもいくらでもあるはずなのに」
「じゃあ、彼女と別れるのやめて付き合い続ければいいよ」
玲の言葉に門田は瞠目する。
「僕のことは忘れて、付き合い続ければいい」
「レイはそれでいいのかよ」
門田が縋るような目で玲を見る。
「彰悟にそれができるなら」
玲にはわかっている。だからこそ冷静に言葉を発する。
「僕以上にわかりあえる人間が他にいると思う?」
ほとんど反射のように門田は首を横に振る。
「でしょ? 彰悟が僕を忘れるなんてできるわけないよね」
「レイはどうなんだよ」
「わかってるくせに」
玲は門田の頬を両手で挟む。
「相手の痛みを自分の痛みにしちゃうんだね。彰悟は優しいから」
「優しいって言わねぇだろ、それ」
「僕は言うよ。僕 、彰悟が僕を選ぶことで相手の子が悲しんでもなんとも思わない。だって、僕、彰悟以外いらないし、どうだっていいもん」
「……」
「彰悟の気持ちだから尊重してあげる。だから、戻ってきたら彰悟からキスしろよ」
「……ん。」
玲が手を離すと、門田はゆっくりと踵を返して自転車を押して、玲の家の敷地から出ていった。
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