言語の恣意性について――それは「記号」か「本質」か?

むっしゅたそ

言語は恣意的か? 本質的か?

 言語が恣意的かどうかを答えたら、ほとんどの人は恣意的だと答えるはずだ。それは外国語の存在を皆知っているからである。日本語ではりんご、と呼ぶものが、海外ではアップルになっていたりして、そこに共通的な音としての規則性はまったくないように思われる。

 これは昔から哲学や言語学の世界で取り扱われてきた話題で、言語が恣意的であるとするソシュール派と、必然性を持つとするウィトゲンシュタイン派の対立があった。もちろん今はソシュールが優勢で、言語はどうやら恣意的なのではなかろうかという結論が確からしいのだが、この立場のことを「唯名論」といって、ウイリアム=オッカムの立場もこれだ。言葉はあくまで恣意的な記号であり、「りんご」という言葉は「りんごそのもの」とは何ら関係がないとする立場である。


 しかし「ブーバ/キキ効果」というものがある。抽象的な絵を二つ見せて、どちらがブーバでどちらがキキでしょう? と聞いて統計を取る実験である。すると面白いことに、ブーバと呼ばれやすい絵と、キキと呼ばれやすい絵には有意差があった。興味がある人はすぐにできるのでやってみてほしい(もっとも私はブーバとキキを逆に答えてしまったマイノリティなのだが)。

 こうなってくると話は別だ。まったく別の共同体の人間が、ブーバというイメージとキキというイメージを、それぞれがあらかじめ持っていたということになるからだ。そうなってくると、音によってイメージは、文化が違ってもある程度一貫性はあるのではないかということになるからだ。そうなると僅かながらウィトゲンシュタインが正しい可能性が出てくるわけだ。

 確かにヴェーダ哲学では、根源となる言葉は「あ」であり、それは日本の真言・天台でも「あ」である。「阿字本不生あじほんぷしょう」という考え方の基盤である。

 これは人工的に哲学用に作られた言語のサンスクリット語のあかさたな表からくるものとされている。人間の口から、どの音を発するかに規則性を持たせて表を作っているのだ。日本人はそれを輸入したから、あかさたな表が今も使われている(赤ん坊があああと泣くのは必然なのだ)。

 英語のABCDEFG~は論理的規則性など全くなくて、あれはただの覚え唄に近い(だから当然赤ん坊はエイエイエイとは泣かない)。それに比べてサンスクリット語・日本語は、言葉の本質を哲学しやすい言語ともいえる。

 実際に、 日本語は漢字が表意文字で、ひらがなが表音文字の中の音節文字ということになっている。私の恩師は、西周にしあまねが中国から二字熟語を輸入しまくったことによって、もともと日本にあった美しいやまとことばを破壊しつくされていっていることに憤慨していたが、やまとことばには、実は1音1音ずつ意味があるのだ。たとえば「そら」や「はか」などの言葉は、そ+ら、や、は+か、の熟語なのである。でも今の日本語からはその、1文字ずつに意味が決まった構造は撤去されてしまったように感じられる。

 ではブーバ/キキ効果の延長線のようなことをやって、もっとも人間が、意味と近い音を持った言語を使えたら面白いじゃないか、そうも考えてみた。

 すると、言語の恣意性や必然性なんかより、ずーっと致命的なバグが浮き彫りになってくるのだ。

 例えば音素にはそれぞれ意味の傾向があったとして、「どの民族」の「誰」に、その音素基準を持っていくか、という話になる。きっとそれに選ばれる天才は半端なく耳が良いのだろうが、もしそれをしてしまうと、その人に耳が近いマイノリティが優遇されて、そうではない(ブーバ/キキ効果ですらマイノリティだったような)私のような人間は人間としての格を一段階落とされる未来が、どうしても見えてしまう。要するにこの考え方は、人種主義レイシズムに繋がる危険性があるのだ。


 だから私は、事実がどちらであったにしろ、言語は恣意的だというソシュールの立場をこれからも取り続けることにすることにしようと、自分の中の決着は一応つけているのだ。

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言語の恣意性について――それは「記号」か「本質」か? むっしゅたそ @mussyutaso

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